学年主任、武田千秋の焦り
【体育館・宿直室】
東洋高校は、北校舎の裏にある古ぼけた階段を上ると山に囲われたグラウンドがあり、隣接するように体育館が建てられているのだが、この体育館、少し変わった造りをしている。バスケ部やバレー部などが活動するフリースペースは二階になっており、一階は全て部室や宿直室などのクラブハウスとなっているのだ。
そしてその宿直室の中で泊まりの生徒たちの監視役を務めていた英語教諭、武田千秋は焦っていた。
部屋にある時計の針は午前五時を指している。こんな時間になっても生徒たちはまだ作業を続けているのか、視聴覚室の明かりは点けられたままだ。本来なら武田は職務を全うするため校内を巡回しなければならないのだが、ついさっき仮眠から目覚めいざ部屋を出ようとすると、それは不可能になっていた。
つまり、何と驚くことに扉にあるはずのドアノブがなくなっていたのだ。
おそらくはドライバーか何かで解体されたのだろうが、宿直室に唯一の扉はただの平らな鉄板になってしまっていたのだ。これでは外に出られない。
それならば窓から外に出てやろうとカーテンを開き窓の鍵を開けようとしたのだが、なぜだろうか、これが全く動かない。指に力をこめてみるが、接着剤でも流し込んであるかのように鍵はびくともしないのだ。
いつでも外に出られると思っていた部屋から出られない。その事実にさすがの武田も焦りを感じた。教師生活三十五年、今年で五十七になった武田はこれまで数々の危機に出くわしあらゆる困難に立ち向かってきた。そのどれもが苦難の連続であり、しかしそれらを解決してきたからこそ、経験を積んできたからこそ武田は学年主任という責任ある役職を任されている。だから教師としての経験値ではどんな先生にも後れを取らないと思っていたのだが、そんな武田も宿直室に閉じ込められるなどという事態は初めてだった。
武田は携帯電話を持っていないために、部屋に備え付けてある固定電話から職員室に連絡を試みたのだが、電源を切ってあるのか繋がらない。仕方なく生徒らの代表である神崎真司の携帯にもかけてみるが、こちらも繋がらない。
この異様な状況にいよいよ慌てる。もしこれが生徒たちによるタチの悪い悪戯なら笑ってゲンコツを落とすだけで許してやるのだが、もし不審者や強盗の仕業なら生徒の身の安全に関わる。とはいえ何の確証もなく警察に連絡するのも躊躇われる。もし本当に強盗の類なら、武田がこうして閉じ込められただけというのは不自然だ。やはり十中八九、これは生徒らの仕業なのだろう。
とはいえ出られない現状に変わりはない。さてどうしたものかともう一度カーテンを開き、明るみを増し始めた外の景色に目をやってみる。うっすらと青色に染まり始める空と共に視界に入る二つの校舎。武田が何とはなしに南校舎の辺りを眺めていると、先ほどは気付かなかった異常が目に飛び込んできた。
「あれは……!」
武田は大きく目を見開いた。
南校舎の一階から、煙が上がっている。
火事だ。そう思った時には先に体が動いていた。申し訳程度に置かれていたパイプ椅子を手に取り、躊躇なくそれを窓ガラスに叩き付けた。派手な音を立ててガラスが砕け散り破片を周囲にまき散らす。そうしてできた出口から武田は外に飛び出すと、校舎へと続く階段を走り抜けた。
火事、生徒たちは気付いているのか? 時刻はまだ朝の五時、眠っている者がいても何ら不思議ではない。もし火の手に気付かず煙に巻かれようものなら――そんなことは絶対にあってはならない。
そんな使命感のようなものに武田は突き動かされていたのだが、校舎に近付くにつれさらにとんでもない衝撃が全身を駆け抜けた。
銃声が聞こえたのだ。
二〇〇七年、アメリカの高校で起きた銃乱射事件が武田の脳裏をよぎる。まさか、法治国家である日本でそんなことが?
より一層スピードを上げて走る武田はもうそれ以上何も考えなかった。今は一刻も早く生徒らの無事を確かめなければ。教師としての誇りにかけて自分の目の届くところで生徒は絶対に死なせない。
そして銃声と白煙が充満する南校舎に飛び込んだ武田が見たのは、信じられない光景だった。




