京介と佐倉、決着
まさかと思いながら恐る恐る振り返ると、そこには想像通り、さながら幽鬼の如く佇む京介の姿があった。
「勝ち逃げするなよ。勝負はまだ、終わってねえぞ」
化け物、まさにそれを体現したかのような様相で京介は言った。
「……ずいぶん丈夫な体なんですね。しつこい男は嫌われますよ?」
「けっこうだ、嫌われるのには慣れてる」
京介は不敵に笑いながらナイフを拾い上げると、切っ先を真っ直ぐ佐倉の喉元に向けて構えた。
佐倉は無表情を装いながらも、内心でひどく動揺した。さっきの回し蹴りは確実に背骨の中心に食い込んだはずだ。こと近接攻撃に限れば極真空手の黒帯を持っている佐倉の攻撃は決して軽くはない。手を抜いたつもりもない。人間は背骨に強い衝撃を受けると神経が麻痺し、普通は動けなくなる。それなのに、 目の前の男はどうしてナイフを構えて立っている?
だがそんな心情を無表情で覆い隠し、佐倉も再びナイフを構える。
「……いいですよ、だったら動かなくなるまで何度でも床に転がせてあげますよ!」
言い終わるや否や、佐倉は一瞬で京介に詰め寄ると横なぎにナイフを振るった。受け止めた京介のナイフを弾き、二回、三回と連続して斬撃を加えていく。
それらの攻撃を紙一重で受け止めていく京介に先ほどまでの力強さはない。やはりさっきの蹴りが効いているのだろう。立ち上がりこそしたものの、ナイフを振るう力さえ残っていないのだ。佐倉のナイフも躱してはいるが、それも何とか捌いているといった様子だ。
だがどうしてだろうか。立ち上がった京介を見たとき、胸を刺すような痛みがまるで嘘のように消えたのだ。真冬の敵となった京介を倒すことは間違っていないはずなのに、それでも京介が起き上がったとき、ほっとしている自分がいたのだ。そんな正体の分からない感情が自分の中にあることが佐倉を苛立たせた。
「何で、何であなたが真冬先輩の邪魔をするんですか!?」
気が付けば佐倉は叫んでいた。己の全てをぶつけるように、正しさを問うように。
佐倉のナイフを受け止めながら、京介は答えた。
「真冬のやり方は間違ってる。それくらいお前も分かってるだろ。誰かが止めてやらないといけない。お前がやらないのなら、それは俺の役目だ!」
佐倉の攻撃を弾きとばし、体を回転させながらの強烈な上段蹴りが放たれる。それを寸でのところで屈んで躱し、後ろに飛び退いて距離をとった。
「真冬先輩が間違ってるだなんて、そんなこと!」
「本当にそう思うなら、なぜ俺に止めを刺さなかった!?」
「……!!」
佐倉の手が、止まった。同じく攻撃の手を止めて肩を上下させる京介。だが言葉の刃は止まらない。
「さっき俺が倒れた時、お前は俺を殺せたはずだ。本当に真冬は間違ってないと思うなら、お前は俺を殺すべきだった。迷ってるんじゃないのか? 真冬が正しいのかどうか、自分がどうすればいいのか!」
「うるさい!!」
京介の言葉を遮り、佐倉は無茶苦茶にナイフを振り回した。技も虚実も何もない、ただ振り回すだけの攻撃。そんなものが京介に当たるはずもなく、足でのステップと上体のスウェーのみで斬撃の全てを躱されていく。ナイフで受け止めることすらしない。
迷っている、確かにその通りかもしれない。京介に言われるまでもない。本当は分かりきったことだったのだ。佐倉にとって憧れの存在、氷堂真冬。彼女のやり方が間違っていることくらい、ずっと一緒にいた自分が他の誰よりも知っている。彼女を止めなければいけないのだということも。
でも、言えるわけがないじゃないか。そんなことをすれば自分は真冬に捨てられる。真冬は簡単に人を切り捨てることができる人間だ。真冬に意見すれば、きっと自分も切り捨てられる。真冬にとって、佐倉美鈴とはその程度の存在だ。私はそれが、怖い。
いっそ嫌われるくらいならば、一緒にいられなくなるのなら――
私は悪でいい、正しくなくていい!
「何にも知らないくせに、知ったようなことを言うなああああ!!」
佐倉は両の手で柄を握りしめ、渾身の力で以ってナイフを突き出した。それまでの殺意のない倒すための一撃ではなく、文字通り、殺すための一撃を。
しかしそれに対し、京介は唯一の武器を廊下の隅に投げ捨てた。無手のまま左手をだらりと下げて、右手を前に伸ばし腰を落とす。
素手となった京介を前に一瞬躊躇いを覚えるが、突き出したナイフはもう止まらない。
そして――
鋭く尖った切っ先が腹を抉る寸前、突き出された右手が佐倉のナイフを払い、京介がまるで柳のようにゆらりと動いた。たったそれだけの動作で佐倉の全身全霊をかけた一撃は誰もいない空間を貫き、狙いの遥かを通り抜ける。
そして伸びきった佐倉の腕を掴まれたかと思った瞬間、視界がぐるりと回転し、直後とんでもない衝撃が佐倉を襲った。
「……ぁッ!!」
腕をとられ、投げ飛ばされたと気付いたのは、床に叩き付けられた後だった。背中を中心に呼吸すらままならない激痛が駆け巡り、起き上がるどころか指一本動かすことができない。背骨に強い衝撃を受けると動けなくなるということを、まさか自身で証明することになるとは思わなかった。
京介は廊下の中央で倒れたままの佐倉に歩み寄り、悲しそうにこちらを見た。
口を動かし何かを言おうとする京介に、だが佐倉が先に口を開いた。たったそれだけのことに、ひどく頭が痛む。
「……早くとどめを、刺してくださいよ。今は、動けませんけど、ここで私を殺しておかないと、またあなたを、殺しにいきますよ」
佐倉の言葉に一層悲しそうな顔をする京介。
「お前がまた動けるようになる前に真冬を止める。それでこの戦いも終わりだ。だから俺は、お前を殺さない」
京介は佐倉を見下ろしながら吐き捨てるように言った。その瞳に佐倉のような迷いはない。ただひたすらに己の道を突き進もうとする、強い双眸。だが佐倉を犠牲にし踏み越えていくことに対して自責の念を抱いている、そんな眼だ。
そんな京介に、佐倉はつい笑みをこぼした。この西条京介という男を、何となく嫌いきれない気持ちが分かった気がする。
「京介先輩、お願いがあります」
口を開いた佐倉の言葉に、京介は怪訝そうに首を傾げた。こういうことは言ったもの勝ちだ。返事を待たずに言葉の先を続ける。
「真冬先輩を、止めてあげてください。私じゃダメなんです。あなたじゃないと、京介先輩じゃないと、ダメなんですよ。きっと真冬先輩もあなたが来るのを待ってます」
佐倉は自分に為せなかったことを、心の奥深くに隠して見ないようにしていた本当の気持ちを、京介に託した。このままでは勝つにしろ負けるにしろ、首謀者である真冬はただでは済まない。だが京介ならば、まだ止められるかもしれない。それが楽観に過ぎるものだということはわかっているが、それでも声を大にして言いたいのだ。京介ならばと。
当の本人は何も言わずに俯くと、傍らに転がったままだったベレッタを拾い上げた。そしてグリップから空になったマガジンを抜き取り、ホルスターから新たな弾倉を取り出した。
本当に残弾が尽きていた佐倉とは違い、京介にはまだ予備の弾倉が残っていたらしい。
どこまでも佐倉と対等に戦ってくれたこの男に、また笑みがこぼれる。それを使えばもっと楽に勝てていただろうに。
やがて京介は倒れたままの佐倉の横で立ち、
「後は任せろ」
そう一言だけ言い残し、三階へと続く階段を駆け上がっていった。
足音が離れていくのを意識の隅で感じながら、笑顔と共に涙がこぼれた。




