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”存在”の夢

 八月八日、一条帝は宿下がりをしていた定子を内裏に呼んだ。一の皇子敦康を生んだ定子がまた皇子を生むのではないかと期待をしている一条帝は、毎日定子の許を訪れ大切に扱っていた。

 「定子、子は順調に育っているようだな。何よりのことだ。そなたも身体をいたわり、無事に元気な子を生むのだ。

 この度もきっと皇子みこであろう。そなたの顔を見ていると、そのような気がする。」

 定子はにっこりと笑った。懐妊したことで定子の表情に安らぎめいたものが戻っていた。

 「それは分かりませぬ。でもわたくしも皇子を生みとうございます。二人の皇子を生み、次は皇女ひめみこ。皇女がいれば周りも賑やかで華やいだものになりましょう。そしてまた皇子。」

 一条帝の顔にも笑顔がはじけた。

 「三人の皇子に一人の皇女。それはよい。四人の子が周りを駆け回っている姿を早く見たいものだ。だが誰を春宮とうぐうに立てるか、迷いはせぬかな。」

 この言葉を聞いた定子の表情に陰が射した。突然笑顔が消え、両手をそろえて膝の上に置き、少し俯いた姿勢で一条帝に話しかけた。

 「帝、それについてお願いがございます。春宮にはやはり敦康どのを・・・わたくしの生涯のお願いでございます。」

 一条帝の顔からも笑顔が消えた。

 「その話はせぬ約束であろう。」

 「このお話しをお持ちだしになられたのは帝でございましょう。

 敦康どのはすでに親王宣下も終り、春宮に立つ資格をお持ちでございます。せめてわたくしにお約束だけでも・・・お約束がいただけぬなら、わたくしは敦康どのとともに出家をいたします。」

 一条帝は憮然とした表情で定子を見た。

 「何ゆえ敦康にそれほどこだわるのだ。敦康にはまだ強い後ろ盾もない。道隆は死に、伊周は復位していないではないか。道長が気を配ってくれてはいるが、まだ後ろ盾になると決まったわけではない。すべてはこれからのことだ。」

 「道長どのは帝への遠慮のゆえ、敦康どのを大切にしておられるにすぎませぬ。彰子さまに皇子がお生まれになられれば、道長どののお振る舞いはたちまちにして変わりましょう。」

 一条帝は立ち上がった。定子はすがるように一条帝を見上げた。

 「今はそのようなことを考えず、身体をいたわることだ。」

 一条帝は部屋を出て行った。あとに残された定子は俯いたままじっと座っていた。

 ―帝は敦康どのを生んだ時のわたくしの屈辱など、何も感じてはおられぬ。朝廷はすべてわたくしに背を向け、わたくしの出産より彰子の入内の宴を選んだ。わたくしはあの辱めを忘れることはできぬ。ああ、あの彰子が入内さえしなければ・・・敦康どのが帝に立つ以外、あの屈辱を晴らす術はない。

定子の心の中に再び憎悪と怨念が燃え上がった。それは一旦鎮まっていただけに、より大きな歪みとなって定子の心をむしばんだ。

 八月二十七日、定子は内裏を離れ、生昌なりまさの邸に戻った。


 十二月十五日夜、空には満月が浮かんでいる。定子に陣痛が始まった。湯や布を用意した女房や、産婆役の女房が脇に控えた。別室では数人の僧が安産の祈祷を始めた。

  夜明け前、嵐山に架かった月の左右に一筋の雲が現れた。葬列を暗示する歩障雲ほしょううんである。内裏ではあちこちで公卿たちが囁き合った。

「歩障雲が現れたとか。何か不吉なことが起こるぞ。」

 「恐ろしや、恐ろしや。あれは不祥雲ふしょううんとも言ってな、世に災いをもたらすしるしじゃ。」

 「出家したにも係らず二度までも子をはらむなど・・・天の祟りじゃ。この度の御子はおそらく・・・」

 「だから言わぬことではない。出家した女を内裏に入れるからじゃ。御仏がそのようなことをお許しになるはずがないわ。」

 「不吉だ。月は皇后様の象徴。もしや皇后様の身に・・・葬儀の支度をせねばならぬ。」

 「帝もこれでお分りになられたじゃろう。元はと言えば帝が軽率じゃったゆえじゃ。我らにまで災いが降りかからねばよいが・・・」

 一方、生昌邸でも歩障雲出現により、僧や女房たちの間に不安と動揺が広がっていた。物の怪退散・安産祈願の僧たちを率いていた天台僧隆円てんだいそうりゅうえんは僧たちに語りかけた。隆円は定子の同腹の弟である。のちには延暦寺の権大僧都ごんのだいそうずにまで昇った。

 「我ら僧はこうしたときのために祈っている。さらに心を籠めて祈れば、必ずや御仏のご加護があろう。皇后様も今、一心に物の怪どもと闘っておられる。我らも皇后様のために、さらにいっそう心を籠めてお祈りをいたそうぞ。」

 しかし僧や女房たちの動揺は収まらなかった。

 昼過ぎ、定子は皇女を生んだ。だが後産が下りなかった。子を生むことで力を使い切った定子はただ横たわっていることしかできなかった。目を開けることすら辛い。出血のせいか水のせいか、太腿辺りがぬるぬるして気持ちが悪い。しかしそうしたことも次第にどうでもよくなり、やがて眠ってしまった。

 定子はまばゆい光の中を歩いている。長く歩いた気がするが体は軽い。光の向こうに、何やら見たこともないものがふわふわと浮かんでいる。全体が少し黒ずんで見える。それは見るたびに形を変える。丸く見えたり捻じれたり、突然消えて一瞬のうちに違う場所に現れたりもする。だが見るたびにそれは少しずつ小さくなっていた。

 背後に声が聞こえた。

 「定子、あれはお前の魂だ。」

 そこには右手に宝剣を持った巨大な天神が立っていた。

 「あなたさまは・・・」

 「お前が私を呼んだ。羅刹らせつだ。」

 「それではわたくしに皇子をお授け下さった・・・」

 「そうではない。お前が男子を生むことは前世から定められていた。お前の願いが聞き届けられたわけではない。」

 「え、それではなにゆえここに・・・」

 「お前の命は尽きようとしている。だがお前は心の中に強い怨みと憎しみを抱いている。お前の心が歪むほどの憎悪と怨念だ。このままではお前は天には昇れぬ。悔いよ。天に祈るのだ。憎悪と怨念が心の中から消えてしまうまで祈るのだ。

 心に歪みが生まれる前のお前は天にも愛されていた。そのお前を取り戻せ。」

 定子の顔に突然憤怒の表情が現れた。

 「羅刹、そなたまでもがわたくしをたばかるか。あの屈辱、あの孤独、そなたには分からぬ。そなたに祈ればすべて叶うと言うは嘘であったか。許さぬ。何もかも、何もかも許さぬ。天になど行きとうもない。わたくしは死してもこの世に残り、この世のすべてを滅ぼし尽くそうぞ。」

 宙に浮かんだ定子の魂は急激にその光を失い、ドロドロとした醜い塊となって腐臭を放ち始めた。

 夕刻、定子は目覚めた。悪寒がした。奇妙な現実感を伴って夢が蘇えった。

 ―命など尽きてもかまわぬ。早く尽きよ。もう誰にも祈らぬ。きっと、きっと蘇える。何より憎いは道長と彰子。彰子に子は生ませぬ。怨霊となって彰子にたたろうぞ。

 翌早朝、一人の女房が定子の様子を見に行ったとき、定子はすでに冷たくなっていた。目を剥き、歯を食いしばり、握りしめた両手を胸の前で交差させたその姿に人々は恐れ慄き、密かに仏罰だと囁き合った。

 翌年八月、父道長と行成の勧めに従い、彰子は敦康を引き取った。彰子は、母代わりとして、敦康を大切に育てようと心に決めていた。


 寛弘二年(一〇〇五)九月九日夕刻、内裏で催された重陽の節会せちえから早めに戻った晴明は、部屋から庭の紅葉を眺めていた。

 八十五歳になった晴明は自分の寿命がもう間もなく尽きようとしていることを知っていた。しかし淋しさはなかった。吉平や雲久・海久に自らの修法のすべてを伝えきったという満足感の方が大きかった。また死後もなお青武者とともに働けることを楽しみにする気持ちもあった。たとえそれがどんなに厳しい闘いになるとしても、恐ろしいと感じることはなかった。

 ―別れの時が近づいていることを、そろそろあの三人に伝えねばならぬな。明朝にでも呼んで話しをするとしよう。怨霊の蘇りについても話しておくべきかもしれぬ。それにしても随分と長い間青武者様のお顔を見ていない気がする。生きているうちにもう一度お会いしたいものだ。

 「ふふ、俺はいつもお前の傍にいる。」

 紅葉したかえでの樹の下に、ぼんやりと藍色の影が現れた。影は次第に濃くなり、青武者の姿になった。

 晴明は笑顔を浮かべ、青武者に頭を下げた。

 「青武者様、おいででしたか。お知らせくだされば酒肴しゅこうの用意でもさせましたものを。黙って独り言を聞いているなどお人が悪い。」

 「ふふ、俺は人ではない。酒も飲まぬぞ。」

 「存じております。戯言ざれごとでございます。けれど昔は随分とお召しあがりになられたのでは。」

 「そうだな、昔のことだ。遥か昔のな。」

 青武者は懐かしむように空を見上げた。

 「ところで晴明、伝え終えたようだな。」

 「使いこなすにはこれからもまだ修行を積まねばなりませぬが、伝え得るものはすべて伝えました。多少は青武者様のお役に立ちましょう。」

 「そのようだ。」

 青武者は部屋に上がり、晴明の前に座った。笑顔が消えた。

 「晴明、今宵、お前にすべてを伝えておこう。心して聞け。

 今からちょうど三年ののち、この世を滅ぼすため、ある怨霊が甦る。定子だ。」

 晴明はその名を聞いても驚かなかった。しかし寂しそうな表情を浮かべた。

 「やはり皇后様でしたか。伊周これちか様が起こされた事件。またそれが原因となったご出家。そのため皇后様は朝廷からひどい仕打ちをお受けになられたとお聞きしています。しかしそれだけで・・・」

 青武者は西の空を見上げた。大きな雲が一つ西の空に流れ、沈んでいく太陽を隠した。辺りは淡い藍色に染まった。

 「大きな間違いが生じた。定子は彰子が入内したことで、一条が自分を見捨てたと思ったのだ。

 二人は子供の頃から姉弟のように睦まじく暮らしてきた。それだけに見捨てられたという思いは定子に大きな衝撃を与えた。そしてそうさせたのは道長だと考えた。さらに道長が公卿たちをそそのかし、自分に屈辱を与えたとも感じていた。だが二人にそうした思いはなかった。」

 「それでは皇后様の単なる思い違いだと・・・」

 陽が沈み、東の空に三日月が昇った。傍らに明るく輝く星が見えた。青武者は晴明の問いには答えなかった。

 「そこで定子は敦康の立太子を一条に願い出た。御息所みやすんどころとなり、またいずれ国母こくもとなれば、道長や公卿たちを見返せると考えたからだ。だが一条はこれを認めなかった。認められるはずもなかった。

 一条は聡明な帝だ。当時一条はまだ二十歳を過ぎたばかり。敦康のほかに子が生まれる可能性は高い。何人かの子の中から、帝に最も相応しい者を春宮に立てる考えだった。だが定子はそうは思わなかった。一条には敦康を帝にするつもりがないと思い込んだのだ。定子は周りの者たちすべてが自分をおとしめ辱める敵だと考え始めた。

 定子は孤独の中に引き込もり、心に憎悪と怨念を育てていった。」

 晴明は、ふうと一つ息を吐いた。

 「青武者様は皇后様がそうなるとご存知だったのでは・・・」

 青武者は晴明に視線を戻した。

 「知っていた。俺が仕向けたと言ってもよい。だが俺が何もせずとも、定子は別な道を通ってやはり怨霊になる。定子は怨霊になる道を選んでしまった。出家をすれば定子は救われた。出家をして一条や敦康との縁を切り、心穏やかに死を迎えれば、定子の魂は白洞に吸い込まれただろう。だが定子の魂は強すぎた。定子は黒洞の主に見込まれたのだ。そして三年後、定子と魑魅魍魎たちはこの世を支配するために蘇る。それを阻止するため、俺はこの世に遣わされた。」

 「白洞・・・黒洞の主・・・遣わされた・・・はて、どなた様に。」

 「この世とあちらの世のすべてをべる存在だ。どこにもおらず、そしてどこにでもいる。形はない。目にも見えぬ。ゆえに名もない。だが俺たちの間では〝存在〟と呼ばれている。」

 晴明は穏やかな表情で青武者を見ていた。いつの間にか、三日月は天頂近くまで昇っていた。晴明が静かに口を開いた。

 「よく分かりませぬ。死ねば分かるのでしょうかな。

 ところで青武者様、私は死後どうなるのでございましょう。」 

 青武者も静かに答えた。

 「魂が天の穴に吸い込まれる。あとはすべて〝存在〟に任せればよい。蘇えらねばならぬ時が来れば蘇える。そう定められている。

 定子が怨霊となって甦った時、俺は定子と闘わねばならぬ。定子は、あちらの世の背後にある闇、黒洞と呼ばれているが、その力を身に着けて蘇える。白洞に力を与えられている俺とはほぼ互角だ。そして定子の力に引きずられ、道隆も蘇える。二人を同時に相手にすれば俺は斃される。ゆえに以前話したように、道隆の相手はお前がすることになる。闘う力は穴の中で〝存在〟から与えられよう。そのほかの物の怪や邪鬼どもは吉平と雲久・海久の兄弟に任せる。あの三人で十分だ。もし定子に敗れれば、俺達は未来永劫天の穴には戻れぬ。

 次に会うのはお前の蘇りの日となろう。」

 青武者は藍色の玉となって夜空に消えた。

 翌朝、晴明は吉平、雲久、海久の三人を呼びよせた。晴明は青武者との話と、自分が間もなく死ぬことを告げた。だが皇后の怨霊と聞いて三人がひるむことを恐れ、定子の名は出さなかった。三人は涙を流し、晴明亡きあとも修行に励むことを誓った。

 半月後の九月二十六日、晴明は自邸で静かに息を引き取った。


 寛弘五年(一〇〇八)、七月も半ばを過ぎた。涼しい風が吹き始め、土御門邸の庭の木々も色づき、ようやく秋めいてきた。九月に出産が予定されている彰子の安産祈願に奉仕する僧や陰陽師が決まり、二十日には伴僧を率いた五人の高僧が土御門邸に入った。安倍吉平は推挙された陰陽師を率いるよう命じられた。

 吉平は道長に願い出た。

 「左大臣様、私を外してはくださいませぬか。」

 道長は吉平の顔を覗き込むようにして尋ねた。

 「何ゆえだ。そなたは晴明とともに長く私に仕えてきた陰陽師。そなた抜きの修法は考えられぬ。そのわけを述べてみよ。」

 頭ごなしに怒鳴りつけられると思っていた吉平は、道長の穏やかな口調に、道長は自分が一員から外れたいとする理由を知っているのではないかと感じた。

 「左大臣様、私は中宮様への安産の祈祷をご辞退するつもりで申し上げているのではござりませぬ。あの者たちとは別に、別な場所にて修法を行いたいと存じます。」

 道長は黙っている。吉平は続けた。

 「三年前、父晴明が亡くなりました。そして亡くなる直前、父は私にこのように言い残しました。

 三年後、中宮様は御子をお生みになられる。しかしその時、この世を滅ぼそうとする邪悪な怨霊が現れる。私は青武者様とともにその怨霊と闘うために蘇えることとなる。そなたは二人の弟子、これは今私に仕えてくれている雲久・海久という兄弟の修法者でございますが、その二人を伴い青武者様と私に従うのだ、と。

 父晴明は間もなく蘇ります。しかし私が陰陽師の一員として左大臣様のお邸に入れば、その一員として働かねばなりませぬ。私の代りに雲久と海久をお付けいたします。二人の修法の力は私と同じ、あるいは私以上。父晴明が見込んで弟子にした者たちでございます。この二人を陰陽師の末席にお加えください。この者たちならば何かのときには自由に動けましょう。

 父からは、左大臣様は青武者様をすでにご存知である、と聞いております。この願い、是非お聞き届けをお願いいたします。」

 吉平は両手をつき、頭を深く下げた。道長の顔が強張った。

 「怨霊・・・やはりそうであったか。中宮様のご懐妊が判明した折青武者殿が現れ、同じ話をしていた。しかし青武者殿と晴明、それにそなたら三人のわずか五人で怨霊を降伏ごうぶくできるのか。」

 彰子を案じる道長の声が微かに震えている。

 「そのための蘇りにございます。」

 道長はじっと吉平を見た。

 「分かった。そなたの思うようにいたせ。雲久と海久とやらは陰陽師の一員に加えるよう、私が話しをしておこう。また、もし必要とあらば、邸内に修法の場を用意させるが。」

 「邪悪なものは北から現れるとされております。北の対をお借りできれば・・・」


 九月八日深夜、吉平は北の対に入った。雲久と海久は他の陰陽師たちとともに、彰子が横たわる寝殿の西廂にしびさしにいる。寝殿を巡る渡殿わたどの簀子すのこでは、公卿や殿上人、女房たちがのんびりとうたた寝をしたり、楽器を爪弾いたりしていた。しかし北の対の天井には、すでに蘇った邪鬼がざわざわとひしめいている。その姿は生皮を剥がれた、長い二本の牙を持った小形の猿に似ていた。吉平が考えた通り、邪鬼は北の方角から出現していた。その数は、時の経過とともに、徐々に増えていった。

 吉平は部屋の北にタカミムスビの神とカミムスビの神の二神を祀り、桑の弓とよもぎの矢をとり出した。その間にも邪鬼は次々に現れ、東西の渡殿の屋根を伝って寝殿に向い始めた。だが、それを阻止しようと吉平が桑の弓を取り上げたその時、部屋の中央にぼんやりと透明な影が現れ、邪鬼は一瞬のうちに弾けて消えた。影はゆらゆらと揺れながら、次第にはっきりとした姿を形作った。晴明だった。

 「吉平、ついに始まった。この闘いは三日の内にすべて決する。だがその前に、そなたにこの闘いの真実を伝えておかねばならぬ。

 蘇える怨霊は皇后定子様だ。元の関白道隆様も皇后様とともに蘇える。皇后様と闘うは青武者様。道隆様の相手は私だ。そなたは物の怪どもを天の裂け目に送り返すのだ。邪鬼どもは雲久と海久が祓ってくれよう。さらに、皇后様は闇天神と呼ばれる暗黒神を率いておられる。だがこの闇天神は青武者様がお呼びになった白天神様がお相手をする。

 雲久と海久には、二人がこの邸に入った日、青武者様がその役割を伝えている。何も案ずることはない。私がそなたに伝えた修法のすべてを存分に振うのだ。」

 話している晴明の後ろに藍色の影が浮かんだ。青武者が現れた。

 「吉平、邪鬼の次は物の怪だ。邪鬼は雲久と海久に任せろ。

 晴明、定子から放たれる波動が次第に強くなっている。道隆ももうそこまで来ているようだ。白天神はすでに蘇えった。俺達も行かねばならぬ。」 

 青武者と晴明が消えた。再び邪鬼が現れた。二本の牙の生えた、唇のない口からぬめぬめとした濃い緑色の粘液を滴らせ、灰緑色の肌をした二尺ばかりの大きさの邪鬼が、天井の北の隅から一つ、二つと飛び出してくる。強い腐臭を放っていた。邪鬼は北の対の天井に取り付いた。

 吉平はタカミムスビの神とカミムスビの神に祝詞のりとを捧げた。捧げ終えると二神の前に持国天を祀った。懐からセーマン・ドーマンの咒符を取出し、前に広げるとその手前に桑の弓を置いた。続いて吉平は両手を捧げるように高く上げ、深く一礼した。その後三歩下がって持国天印を結び、真言を唱えた。

 ―オン・ヂリタラシタラ・ララ・ハラマダノウ・ソワカ

 寝殿の西廂にいた雲久と海久は、すでに邪鬼の出現に気づいていた。二人は寝殿の周りに結界を張った。

 「兄者、これでひとまず邪鬼どもは中には入れませぬが、いずれ破られましょう。外に出て奴らをたおしましょうぞ。」

 雲久は海久をとめた。

 「ならぬ。今ここを離れれば邪鬼が現れたことに皆が気づき、大きな混乱を引き起こす。それにまだ大した数ではない。物の怪が現れ、陰陽師たちが邪鬼に気づいたときに動こう。

 陰陽師たちの祈祷も、必死であれば多少の役には立つかもしれぬ。」

 翌九日夕刻、日が沈むと、昼には姿を隠していた邪鬼が再び現れた。その数は一気に増えていた。北の対の天井は邪鬼に埋め尽くされた。やがて邪鬼は東西の渡殿わたどのの屋根を伝って、わさわさと寝殿に向かい始めた。しかし渡殿を渡り切ったところで結界に阻まれ、邪鬼の動きが止まった。中に入れない邪鬼たちは結界の手前で牙を剥いた。後から後から押し寄せる邪鬼に結界がたわんだ。邪鬼の身体から滴る粘液が結界に垂れた。

 結界が突然大きく撓んだ。雲久と海久は寝殿の北廂に走った。

 北の対の天井近くの中空に亀裂が走った。タカミムスビの神とカミムスビの神に祝詞を捧げていた吉平は祝詞を中断し、立ち上がって後ろに下がった。亀裂から物の怪が現れた。人の形をした、褐色の、影のような物の怪だった。物の怪の動きに合わせて部屋が呼吸を始めた。部屋全体がよじれた。吉平は両足を踏みしめ、持国天印を結び真言を唱えると、〝気〟もろとも印契いんげいを物の怪に叩きつけた。物の怪は大きな叫び声を上げ、一気に部屋いっぱいに広がった。

 寝殿内の母屋もやに横たわる彰子が苦しそうに小さくうめいた。それに気づいた女房が彰子の傍らに駆け寄った。

 「中宮さま、いかがなさいました。もしや・・・」

 「いいえ、大事はありませぬ。御子が生まれる徴かと思いましたが、もう収まりました。」

 雲久と海久は北廂に着くと役小角えんのおづぬの秘印を結び、指先にふっと息を吹きかけるとその指を邪鬼に向けた。指先から小さな稲妻が飛んだ。光を当てられた邪鬼は弾けて千切れ、体の欠片かけらが四方に飛び散った。欠片はべたっと床に落ちて潰れた。だが潰れなかった欠片は灰緑色のぬるぬるとした体液を流しながら、床を這って北の対に戻っていく。二人は途切れることなくやってくる邪鬼を次々に斃した。

 物の怪が吉平を包み込んだ。ぶよぶよとした弾性を持った、半透明の、蒟蒻こんにゃくのような物の怪の内部に吉平は閉じ込められた。手足を動かそうとしても強い弾力によって押し戻される。印が結べない。声も出せない。物の怪は口や鼻、耳、尻の穴からじわじわと吉平の体内に入ってくる。息が詰まった。

 吉平は不浄消滅の明王、烏枢沙摩明王うすさまみょうおうを観想し、真言を念じた。

 ―オン・シュリ・マリ・ママリ・マリ・シュリ・ソワカ

 ―オン・シュリ・マリ・ママリ・マリ・シュリ・ソワカ

 吉平の身体が高熱を帯びた。物の怪は溶けて消えた。

 彰子は汗をかいていた。部屋の温度が少し高くなったような気がする。時折陣痛めいた痛みを感じるが、痛みは続かない。それより、しばしば襲ってくる、締め付けられるような頭痛のほうが辛かった。

 頭痛は夜が更けるにつれて激しくなった。思わずうめいてしまう。その度に女房が陣痛かと駆け寄ってくる。呻き声を出しては見苦しいと思い、我慢を重ねていたが、思わず出てしまう。

 「中宮さま、いよいよでございますか。」

 「いいえ、まだそのような気配はありませぬ。その時になればそなたたちを呼びますゆえ、下がって休みなさい。わたくしも少し眠りますゆえ。」

 北廂は邪鬼の死骸で溢れている。それでも邪鬼は次々に押し寄せてくる。結界を背にした雲久と海久に疲労の色が見え始めた。

 「海久、大丈夫か。足元が悪くなってきた。奴らに取り付かれぬよう気をつけろ。」

 そう言った途端、雲久が足を滑らせた。指先から放たれていた稲妻が消えた。邪鬼が一斉に雲久に取り付いた。それを見た海久が一瞬怯ひるんだ。指先の光が邪鬼から外れた。邪鬼は海久にも跳びかかった。床に二つの邪鬼の山ができた。 

 物の怪から解放された吉平は床に座り込み、大きく息を吸った。だが辺りを見回すと、ぬるぬるとした緑色の粘液を滴らせた水母くらげ状の、五寸ほどの物体が部屋の中央に集まり、二尺ほどの高さの山になっていた。そこから暗灰色に濁った半透明の邪気がゆらゆらと立ち昇っている。吉平は急いで立ち上がり、神前のへいを手に取ると、晴明から伝えられたタカミムスビの神とカミムスビの神の『金剛羂索こんごうけんざく・結びの咒文』を唱えた。

 ―東方元気木徳咒詛来神とうほうげんきぼくとくじゅそらいじん、南方元気火徳咒詛来神、西方元気金徳ごんとく咒詛来神、北方元気水徳咒詛来神、中央元気土徳咒詛来神。

 ―おん・ばだろしあ。木縛るはがね、火縛る鋼、金縛る鋼、水縛る鋼、土縛る鋼。天には二神の彩雲あやぐも、地には不動の火炎。来たりて我に従いたまえ。

 邪気は空中で固まった。水母の山も動きを止めた。吉平は山に向けて幣を振り下ろした。山は邪気とともに中空の亀裂に吸い込まれて消えた。だがうす汚れた緑の物体は次々に北の対に入ってきた。部屋のあちこちに山を作り、邪気を立ち上げた。邪気は部屋に満ち、物の怪となった。再び二神の咒文を唱えようとした時、吉平は再び物の怪に捕えられた。

 大勢の邪鬼に抑え込まれた雲久と海久は、邪鬼に食い破られないよう如意輪観音の真言を唱え、全身を鋼のように硬くした。

 雲久が海久に念を送った。

 ―海久、大丈夫か。済まない。俺のせいで・・・

 海久が念を返してきた。

 ―兄者、私は大丈夫です。しかしこのままではいずれ・・・こうなれば晴明様から伝えられた日天・月天がってんの法を用いるしかありませぬ。今から私が月天の法を修します。兄者は日天の法で私を脇から支えてください。

 ―わかった。三つ数える。数え終えたら同時に始める。いいか。一つ、二つ・・・

 三つ数える前に、風に煽られた凧のように邪鬼が消え失せた。藍色の夜空が微かに白んでいた。跳ね起きた雲久と海久は北の対に向かった。

 吉平の身体が突然自由になった。物の怪は消えていた。雲久と海久が走り込んできた。

 「吉平殿、ご無事でしたか。我らは危ういところでした。」

 「おお、雲久、海久。無事で何よりだ。私もやっと難を逃れた。しかし今宵は夜が明けたゆえ何とか切り抜けられたが、このままでは邪鬼も物の怪も斃せぬ。私は父から伝えられた修法を用いる間もなく物の怪にからめ取られた。いや、最初の物の怪はあちらに送り返すことができたが、続いてまた物の怪が現れたのだ。」

 雲久と海久は顔を見合わせた。

 「吉平殿、我らは多くの邪鬼を斃しましたが、邪鬼の身体の一部が吉平殿のおられた北の対に向いました。お気づきでしたか。」

 吉平は目を見開き、二人の顔を見た。

 「あっ、それだ。それが一つになり、物の怪として蘇えったのだ。あれは邪鬼だったのか。ならば邪鬼を完全に祓わなければ物の怪を滅ぼし尽くすことはできぬ。」

 二人は吉平に頭を下げ、雲久が詫びの言葉を口にした。

 「お許しください。私たちが最初から晴明様にお伝えいただいた修法を用いておれば、吉平殿は危ない目に合わずにすんだはず。心のどこかに、邪鬼ならば我らの修法で調伏できるという驕りがありました。申し訳ありませぬ。それで物の怪はどれほどの数、蘇えったのでしょう。」

 吉平の顔に笑顔が戻った。

 「分からぬ。邪鬼の山はいくつもあった。だが目にした物の怪は二つだ。ただ私の修法が蘇りに間に合わぬ。何か手立てを考えねばならぬ。方法さえ見つかれば私一人で何とか天に送り返せるのだが。」

 雲久は海久に顔を向けた。

 「海久、そなた、一人で邪鬼を食い止められるか。」

 雲久の心を察した海久は言った。

 「兄者、あれほどの数の邪鬼どもを私一人で食い止めることはできませぬ。兄者ならできましょう。私は吉平殿に従って北の対に行き、物の怪と闘います。そのあとすぐに北廂に戻りましょう。」

 雲久は何か言いたそうな表情を浮かべたが、結局海久の言葉を受け入れた。

 九月十日。太陽が西の空に沈んだ。東からわずかに欠けた月が昇った。北の空に大きな黒い満月が現れた。南の空にも同じ月が浮かんだ。虚無の穴、幻月げんげつだった。

 北廂では結界を背にした雲久が指先から光を放ち、現れる邪鬼を次々に斃した。しかしこの方法では邪鬼を完全には祓えないことは雲久には分かっていた。千切れた邪鬼の身体の一部が北の対に戻って行く。雲久は焦った。

 ―このままではいずれ邪鬼に殺される。海久を行かせるのではなかった。一人では日天・月天の法も使えぬ。常にともに行動するようにと晴明様が言っておられたのはこのことだったのか。何か手立てはないか。何か・・・ 

 雲久は覚悟を決めた。

 ―きりがない。邪鬼はあとまわしだ。まずは物の怪を・・・

 光線で邪鬼を退けながら、雲久は北の対に走った。

 北の対には熱気が溢れていた。海久は部屋の中央に北向きに座り、烏枢沙摩明王の印を結んで真言を唱え続けた。

 ―オン・シュリ・マリ・ママリ・マリ・シュリ・ソワカ

 ―オン・シュリ・マリ・ママリ・マリ・シュリ・ソワカ

 次々に現れる物の怪が海久を取り込んでは溶けて邪気となった。だが邪気は、吉平の振り下ろすへいに当たらぬ限り、冷えると再び物の怪となって復活する。吉平は北の対の南面に座り、『金剛羂索・結びの咒文』を唱えていた。

 ―東方元気木徳咒詛来神、南方元気火徳咒詛来神、西方元気金徳咒詛来神、北方元気水徳咒詛来神、中央元気土徳咒詛来神。

 ―おん・ばだろしあ。木縛る鋼、火縛る鋼、金縛る鋼、水縛る鋼、土縛る鋼。天には二神の彩雲、地には不動の火炎・・・

 唱え終えると幣を物の怪に向けて強く振った。物の怪は凍り付き、中空に現れた亀裂の奥深くに飛び去った。

 寝殿内では邪鬼の出現を知った僧が、必死の形相ぎょうそうで五大明王の降魔ごうまの真言を唱えていた。陰陽師は咒詞じゅしを唱えながら米をいた。

 結界に綻びが現れた。数体の邪鬼が寝殿に入った。邪鬼は天井に取り付き、牙を剥いて大きく吼えた。憑坐よりましの目が裏返った。

 彰子の陣痛が始まった。

 北の幻月の中心に漆黒の十字が現れた。南の幻月の中心にも銀の十字が現れた。二つの十字は天空に飛び出し、巨大な天女の姿となった。闇天神と白天神である。闇天神は紅の羽衣を纏い、頭頂の着邏ちゃくらには千の花弁を持つ朱の蓮華れんげ眉間みけんの着邏には二枚の花弁を持つ灰色の、さらに胸の着邏には十二の花弁を持つ青の蓮華が飾られている。一方、白天神は藍色の羽衣を纏い、頭頂の着邏には千の花弁を持つ金の蓮華、眉間の着邏には二枚の花弁を持つ紫の、胸の着邏には十二の花弁を持つ白の蓮華が飾られていた。

 二人の天女は向き合ってゆっくりと舞を舞い始めた。天女の上にはそれぞれ五つの雲が棚引いている。紅を纏った天女の上には朱・青・灰・紅・黄の五色、藍を纏った天女の上には赤・藍・白・紫・金の五色である。五色の雲は舞に合わせて揺れた。

 北の対に走り込んだ雲久は海久の脇に並んで座り、烏枢沙摩明王うすさまみょうおうの真言を唱えた。物の怪はすぐさま雲久を取り込んだ。北の対には物の怪の激しい息遣いが響き、生臭い匂いが満ちている。部屋がよじれ、天井が落ち、柱がきしんだ。咒文を唱えていた吉平の上に御簾みすが落ちた。吉平は思わず幣を取り落した。物の怪の力が一気に増した。取り込まれている雲久・海久の顔が苦しげにゆがんだ。吉平は急いで幣を拾いあげ、『金剛羂索・結びの咒文』を唱えながら空中に五芒星ごぼうせいを描き、物の怪にぶつけた。物の怪は一瞬のうちに溶解して亀裂に吸い込まれた。解放された雲久と海久は二度、三度と大きく息を吸った。

 陣痛が定期的に訪れ始めた。母屋内の温度が上がる度に陣痛は激しく、強くなる。下がれば弱くなった。室温がめまぐるしく変化した。女房を呼ぶが、僧や陰陽師の声にかき消される。彰子は産床の中でじっと耐えた。女房たちは恐怖に怯え、几帳の陰に身を寄せてうずくまっている。その様子を見た道長は女房たちを叱りつけ、僧や陰陽師に、さらに励め、と大声で怒鳴った。

 一体の邪鬼が、また憑坐よりましに憑りついた。憑坐は目を吊り上げ、意味の分からない言葉を大声でののしりながら辺りを走り回った。調度品が引き倒され、供物の膳が蹴られて飛んだ。数人の控えの僧が憑坐に飛びかかり、抑え付けた。憑坐は気を失った。

 二人の天女の上に棚引く五色の雲が激しく光を放ち始めた。天女は優雅にゆったりと舞を舞いながら、時折両手を鋭く突き出す。五色の光の粒が互いに相手の雲に向って飛んだ。光と光がぶつかり、火花を散らした。夜空に十色の光が入り乱れた。 

 闇天神が両手を胸の着邏ちゃくらの前で交差させた。宙に漂う光の粒が腕の交点に流れ込んだ。闇天神は両手をそろえると右から左に大きく円を描き、胸の前で手を合わせて祈りの形を作った。合わせた両手をそのまま天に突上げ、白天神に向って一気に振り下ろした。指の先から金色に輝く光が大きな波動とともにほとばしり、白天神を襲った。よけ損ねた白天神の舞が乱れた。白天神の雲の光が一瞬弱まった。その隙をついて闇天神が白天神の頭上に舞い上がった。白天神の動きが鈍った。

 吉平と雲久・海久は物の怪を次々に消していった。雲久が北廂を離れたため、戻ってくる邪鬼は少なくなっていた。三人は北の対に出現した物の怪をすべて天に帰し、北廂に走った。

 南北の二つの影が縮み始めた。見る見るうちに小さくなり、点となって夜空の奥に消えた。やがてそこから光が流れ出てきた。北からは紅、南からは藍色に輝く無数の光の粒だった。粒は一本の光の帯となり、南北の空で波のようにうねった。時折光がはじけて火の粉のように飛ぶ。二本の帯が先端から順に消えた。空に穿うがたれた、目に見えない穴に入っていったかのようだ。しかし辺りが闇に包まれたかと思うと、思いもかけないところから再び現れた。

 紅の帯が天の北極へ飛んだ。紅の帯が巨大な像に変った。裳唐衣姿もからぎぬすがたの定子だった。生前同様美しかったが、表情は冷たく、険のある目をしている。着衣はすべて紅色、後ろには墨色の束帯を身に着けた道隆がいた。道隆の両脇には闇の十二神将が控えていた。

 吉平を寝殿内に向かわせ、雲久と海久は北廂に留まった。雲久は寝殿東の渡殿、海久は西の渡殿に分かれて陣取った。邪鬼が二人に取り付いた。

 「光を使ってはならぬぞ、海久。また物の怪が甦る。

 始めるぞ。お前が月天がってんの法。俺は日天の法でお前を支える。

三つ数える。数え終わったら同時に始める。いいな。

 一つ、二つ、三つ!」

 月天の印を結んだ海久が真言を唱え始めた。

 ―オン・センダラヤ・ソワカ

 同時に雲久も日天の印を結び、真言を唱えた。

 ―オン・アニチア・ソワカ

 邪鬼は二人から飛び離れ、首を振り、天に向かって大きくえた。

海久は印を結んだまま、左手の伸ばした人差指と中指を邪鬼に向け、払いのけるように腕を左右にゆっくりと振った。邪鬼は飛び退すさって渡殿の天井に取り付いた。

 邪鬼が海久に無数の咒を送った。咒は海久の額に向けて飛んだ。その時、雲久が日天の印を邪鬼に向けた。邪鬼の咒が開かれた雲久のたなごころに集まり、邪鬼に返された。邪鬼の動きが止まった。海久は立ち上がると大声で月天の真言を唱え、印を結んだ腕を強く左右に払った。

 ―オン・センダラヤ・ソワカ!

 辺りの邪鬼が一瞬にしてはらわれた。

寝殿の中に入った邪鬼は勢いを増し、吉平が張った母屋の周りの結界を次々に破った。それでも吉平は彰子と道長の周りに結界を張り続けた。邪鬼を潰せば物の怪が甦る。それだけは避けたかった。だがこのままではいずれ結界はすべて破られる。意を決した吉平は結界の外に出た。邪鬼が吉平に向って一斉に牙を剥いた。

 冷ややかな微笑を浮かべた定子は藍色の光の帯に声をかけた。

 「青武者とやら、姿を現すがよい。わたくしの邪魔をすることは許さぬ。闘ったとてそなたはわたくしには勝てぬ。見よ、白天神も闇天神に頭頂の着邏ちゃくらを抑えられた。これで白天神は白洞からの力を受け取ることはできぬ。そなたは白天神を見殺しにするか。」

 藍色の帯が天の南極に吸い込まれたかと思うと、そこに青武者が現れた。後ろに晴明を従えている。

 「定子、闇の世界へ帰れ。俺はお前と闘いたくはない。」

 「そなたがわたくしの先祖ゆえ・・・ふふっ、闇の世界に転生てんしょうしたわたくしに血脈けちみゃくなどと。ここに控える道隆すら、すでに親ではない。わたくしの手駒にすぎぬ。そなたもわたくしの前にひれ伏し、黒洞の王とわたくしのために働くがよい。

 そなたはわたくしが転生した闇の世界を知っているか。」

 「黒洞。白洞とはまったく異なった闇の世界だと聞く。」

 「存在それ自体がこの世に害をもたらす邪鬼の魂のみが吸い込まれる暗黒の世界。魂は長い時を経て腐り果て、重さのみが残る。形はなく、ただ重さのみ。そして魂を吸い込むたびに黒洞の重さは増す。今では新しい邪鬼の魂さえ一瞬のうちに潰れるほど。

 黒洞の中心には王が君臨する。辺りの重さを取り込み、今では白洞を圧し潰せるほどの重さになっている。わたくしはその王に見込まれ、王を伝ってこの世に蘇った。この世に強い怨みを持ち、さらに白洞の戦士に対抗できる力を持つ者のみが甦りを許される。

 黒洞の王は白洞の王である〝存在〟をたおし、この世も、そして白洞も、〝存在〟に代わって支配する。わたくしも同じ思い。そうなるまでは戻らぬ。そなたこそ〝存在〟のもとに帰るがよい。」

 定子が青武者を指さした。指の先から波が現れた。青武者は天頂に向かって飛んだ。飛びながら闇天神に向けて藍色の光を放った。闇天神の五色の光が弾けた。その隙に白天神が反転し、闇天神の頭上に舞い上がった。それを見た道隆が白天神に漆黒の光の玉を放った。晴明が光の玉に強い波動を送った。玉は砕け散り、黒い炎となって空の彼方に飛び去った。闇の十二神将が剣を抜いた。

 吉平は結界の外に出て空中に五芒星を描き続けた。邪鬼は五芒星に近づけず、それでも牙を剥いて吉平に吼えかかった。口から濃緑色の粘液が滴り、床全体に広がった。床は暗緑色にぬめった。

 ―二人が来るまでの我慢だ。間もなくだ。

 次第に腕がしびれてきた。だが少しでも腕が下がると邪鬼が近づいてくる。

 彰子の陣痛は激しさを増した。周囲の異常な混乱の中で、彰子はいきみ続けた。息が上がりそうだった。

 「中宮様、もう少しでございます。もっとお腹にお力をお入れにならなければ・・・」

 産婆役の女房が彰子の手を取って励ました。

 道長は几帳きちょうの陰に立ち、大声で願文がんもんを読み上げた。御簾の裏で、一人の憑坐よりましが邪鬼に取り付かれて目を剥いた。僧たちは必死に読経を続けた。頭の上から陰陽師が撒く米粒がばらばらと降りかかった。

 雲久と海久は邪鬼を祓い続けた。月天の真言を叫ぶ海久の喉が潰れ、時折吐く唾に血が混じった。雲久は送られてくる咒を返し続けた。

 「海久、もう少しだ。邪鬼からの咒が弱まっている。もうすぐ夜が明ける。それまでの我慢だ。」

 「分かっています。晴明様との修行に較べれば、これくらい何でもありませぬ。」

 夜明けの時刻になった。しかし東の空に朝日は見えない。時折光が稲妻のように闇の空に弾けるばかりだった。

 「海久、代わろう。今なら代われる。咒はほとんど送られて来ない。邪鬼はひるんでいる。」

 海久は床に倒れ込んだ。しかし倒れた姿勢で、雲久に代わって日天の印を結び真言を唱えた。

 ―オン・アニチア・ソワカ!

 雲久も印を結び、一段と声を張り上げて真言を唱えながら、腕を強く左右に払い続けた。

 ―オン・センダラヤ・ソワカ!

 数刻後、邪鬼がすべて消えた。海久は立ち上がることができなかった。雲久は海久にかまわず、寝殿の中に走り込んだ。

 吉平は腕を上げ続けることができなくなった。それでも両袖を口にくわえて腕を持ち上げ、五芒星を描き続けた。雲久が吉平の傍に駆け寄った。それを見た吉平の腕が床に落ちた。その瞬間、一体の邪鬼が吉平に向って跳んだ。雲久が吉平と邪鬼の間に身体を滑り込ませた。邪鬼の鋭い牙が雲久の胸に突き立った。吉平が必死の思いで五芒星を掌に描き、それを邪鬼に押し付けた。邪鬼は白煙を立てながら、鋭い叫び声とともに消えた。

 「雲久!大丈夫か!」

 「吉平殿、日天の法を。私が月天の法を修しますゆえ。」

 吉平は両足を床に投げ出し、柱にもたれた姿勢で日天の法を修した。雲久は腰を下ろしたまま月天の印を結んだ。真言を唱えると、よろけながらも立ち上がり、力強く印を左右に振った。腕を振る度に、胸から血がどくどくと激しく流れ落ちた。

 寝殿にいた邪鬼はすべて消え失せた。それを見た雲久は床に崩れ落ちた。吉平が這い寄った時、雲久の息はすでに絶えていた。吉平は雲久を強く抱きしめた。涙があふれた。吉平は雲久を抱き上げ、寝殿の外に出た。

 闇天神は逃れようと何度も反転した。だが白天神は優雅に舞いながら移動し、闇天神の頭上から外れない。闇天神の胸の着邏から青い光が流れ出た。光は闇天神の頭上に昇り、青い雲の中に入った。雲が輝きだし、一気に膨張して白天神に向って飛んだ。雲が白天神を包み込んだ。闇天神は再び宙返りを試みた。しかし雲をまとったまま、白天神は闇天神の頭上から離れなかった。青い雲が音もなく炸裂した。雲は真っ白な光となって飛び去った。あとに白天神がいた。胸の着邏から純白の光が溢れ、頭上の白色の雲が消えていた。

 陣痛は激しさを増した。腰から下が捩じ切れそうに痛む。そのうちどこが痛むのかさえ分からなくなった。声が出そうになるが、彰子は産衣の袖を握りしめて必死に耐えた。それでも時折呻き声を漏らしてしまう。僧たちが不動明王に捧げる経文や、陰陽師たちの祭文も耳に入らない。几帳で仕切られた狭い場所で、女房たちは邪鬼が消えたことにも気づかず、ひしめき合って大声で経文を唱えた。

 青武者は定子と向き合っていた。どちらもじっと動かない。時折青武者の目から藍色の光が放たれ、定子の目からは紅の光が放射される。バチバチと音を立てて二つの光がぶつかる。無数の小さな稲妻が現れ、一瞬のうちに消える。

 青武者が背の胡籙やなぐいから矢を一本取り出し、弓につがえて定子の胸に向けて放った。定子は唐衣の袖で身体の前を覆った。矢は袖に当たり、粉々に砕けて飛び散った。

 定子の胸から揺らぎが放射された。羽音に似たブーンという重く低い音が辺りに溢れた。空間が海面うなものようにうねった。揺らぎが青武者を捉えた。身体が藍色の粉になってふわりと浮いた。揺らぎが去り、元の姿に戻った。青武者の胸から震えが飛ばされた。震えは定子の胸の中にもぐりこんだ。ズンと鈍い音がした。定子の身体が何倍にも膨張した。しかし飛び散ることなく元に戻った。

 道隆は腰の剣を抜いた。晴明は周囲に結界を築いた。道隆が宙を飛んで切りつけた。結界が切り裂かれ、蒸気となって消えた。晴明は飛天を呼び、その背に乗って天頂に飛んだ。道隆が追った。晴明は天頂で再び道隆と向き合った。二人の周囲を闇の十二神将が囲んだ。十二神将の間には漆黒の結界が張られている。

 道隆は抜身の剣を構えて晴明に近づいた。晴明は穏やかな表情で北辰妙見菩薩の印を結び、神咒しんしゅを唱えた。

 ―ボチテイ・トソダ・アジャビダ・ウドタ・グギタ・ハラチタ・ヤビジャタ・ウドタ・クラチタ・ギマタ・ソワカ

 晴明の背後に北極星が現れた。

 闇天神の顔に焦りの表情が浮かんだ。舞も乱れている。残った四つの雲もその輝きを失い始めている。白天神の舞が序の舞から急の舞へと移った。白天神の眉間みけん着邏ちゃくらから紫の光が溢れだした。白天神は舞を舞いながら目を見開き、闇天神の頭頂の着邏を睨んだ。紫の光が真っ直ぐに着邏に向かった。灰・紅・黄の三色の雲が闇天神の頭頂の着邏を覆った。光が雲に刺さった。紫の光が三つの雲の中で広がった。雲の動きが一瞬止まった。大きな爆発が起こった。灰・紅・黄の三色の雲は紫の光とともに飛び散った。

 序の舞に戻った白天神が闇天神に念を送った。

 ―闇天神さま、終りにいたしましょう。もうあなたさまには朱の雲しか残されておりませぬ。着邏を守る術はなくなりました。頭頂の着邏が閉ざされればあなたさまは黒洞には戻れず、未来永劫さ迷い続けることとなりましょう。

 闇天神は舞を止め、笑みを浮かべて白天神を見上げた。朱の雲がゆっくりと闇天神に近づき、頭頂の着邏に吸い込まれていった。闇天神の身体が朱に染まった。やがて、次第に闇天神の姿は薄れ、中空に溶けて消えた。闘い終えた白天神は天の南極に向かった。

 道隆はさらに晴明に近づいた。闇の十二神将の囲みも徐々に狭められた。神咒により光を増した北極星が晴明の頭頂から体内に入った。晴明の身体が白く輝き、眉間から道隆の目に向けて光が放射された。道隆は剣で光をさえぎった。

 「道隆殿、道隆殿に結界を切り裂かせ天頂へ飛んだのは、道隆殿と十二神将をここへおびき寄せるため。囚われているのは私ではなく道隆殿。」

 晴明は北斗総印ほくとそういんを結び、真言を唱えた。

 ―オン・サッタ・ジノウヤ・バンジャビジャヤ・ゼンホダマソラ・ビノウラキサン・バンバト・ソワカ。天の聖星現れたまえ。

 貪狼星とんろうしょう巨門星こもんしょう禄存星ろくぞんしょう文曲星もんごくしょう廉貞星れんじょうしょう武曲星むごくしょう破軍星はぐんしょうの七つの星からなる北斗七星が晴明の頭上に現れた。貪狼星は、巨門星はうし、禄存星はとらいぬ、文曲星はとり、廉貞星はたつさる、武曲星はひつじ、破軍星はうまを支配する星である。

 七つの星から闇の十二神将に銀の光が放たれた。貪狼星からの光は子をその本源とするヴィカラ、巨門星からは丑のショウトラと亥のクビラ、禄存星からは寅のシンダラと戌のヴァサラ、文曲星からは卯のマコラと酉のマキラ、廉貞星からは辰のハイラと申のアンテイラ、武曲星からは巳のインダラと未のアニラ、破軍星からの光は午を本源とするサンテイラに当たった。光は羂索の糸となり、闇の十二神将を縛った。闇の十二神将は動きを封じられた。道隆は北の空に飛ぼうとしたが結界に阻まれ、結界の外に出ることはできなかった。

 「道隆殿、その結界は黒洞の王の力により出現したもの。自らの重さにより潰れ、中に取り込んだ何物をも圧し潰すのです。闇の十二神将の動きが封じられた今、道隆殿にこの結界は破れませぬ。破ることができるのは白洞の王と、天の北極で白洞と黒洞の重さの均衡を保つ北辰妙見菩薩様のみ。」

 道隆の顔にゆがんだ笑いが現れた。

 「それでは晴明、この結界が俺とお前の墓場というわけか。」

 晴明は穏やかな笑顔を浮かべた。

 「先程北極星が私の体内に入ったことをご覧にはなりませんでしたか。北極星は北辰妙見菩薩様が持つ宝珠ほうじゅの一つ。私は北辰妙見菩薩様のお力を授けられております。」

 結界がじわじわと狭まっていた。

 「ではこの十二神将も北辰妙見菩薩により降伏ごうぶくされたか。」

 晴明が結界から出た。

 「十二神将は十二の干支えとをそれぞれその本源としています。そして十二の干支はすべて北斗七星の支配下にあります。干支の動きを封じれば十二神将は動けませぬ。」

 結界はさらに狭まった。結界がキーンという高い金属音を立て始めた。結界の周囲の空間がギシギシときしんだ。北斗七星が震えた。道隆の身体が潰れ始めた。内側へ内側へと、めり込むように潰れた。十二神将の身体も潰れ始めた。結界はなお縮み続けた。丸薬ほどの大きさになり、米粒ほどの大きさになったかと思うと、ズンという音ともに消えた。あとに小さな揺らぎが現れたが、やがてそれも消えた。北極星が晴明から抜け出し、北辰妙見菩薩の姿に変成へんじょうして天頂に去った。晴明は天の南極に吸い込まれて消えた。

 破水が始まった。彰子は苦痛のあまり思わず腰をひねってしまう。その度に産婆役の女房が声をかける。

 「中宮さま、お腰をひねってはなりませぬ。真っ直ぐになさいませ。御子が出られませぬ。さあ、もう少しでございます。もう一度、もう一度お力をお入れになられて。」

 両足が左右に裂かれるような、腰の骨がはずれるような痛みの中で、彰子は懸命にいきんだ。腹の中で膨れ上がっていた硬い塊が破水とともに下腹部に降りていく。

 定子と青武者は黙って向き合っていた。天の北極から紅の光の粒子が静かに流れ出し、定子の両のこめかみに入り込んだ。青武者のこめかみには藍色の光の粒子が吸い込まれた。定子の眉間から紅の波動が、青武者の眉間からは藍色の波動が放射された。二つの波動がぶつかった。衝撃波が四方に伝わった。膨張しようとする力と収縮しようとする力が同時に現れ、闇がもだえた。定子と青武者の姿がよじれ、激しく震えた。二人の身体がばらばらに弾ける寸前、衝撃波が通り過ぎ、揺れが収まり、静けさが戻った。

 定子は左右のたなごころを身体の前で向き合わせた。両の掌の間に丸い紅の炎が現れた。炎は定子の前方に飛び、憤怒の形相をした魔訶迦羅大黒神まかきゃらだいこくしんの姿に変った。紅に染まっていた魔訶迦羅大黒神の身体が見る見る黒く変色した。両肩から紅蓮ぐれんの炎が立ち昇った。炎が獲物に跳びかかる獅子のように伸びて青武者を襲った。青武者は剣を抜いて炎を切り裂いた。切られた炎は宙に留まり、燃え尽きて消えた。魔訶迦羅大黒神の肩の上の炎が一気に大きくなった。

 青武者は少し後ろに下がると、手に持った剣を天頂に突き上げた。剣先から銀色の光が放射された。天頂から純白の光の玉が降りてくると中空に止まった。光は青武者の前方で大勢至菩薩だいせいしぼさつに変成した。左の手には金の蓮華、右手には宝瓶ほうへいを携えている。

 炎が大勢至菩薩に伸びた。菩薩は蓮華を炎に向けた。炎は蓮華に吸い込まれた。魔訶迦羅大黒神の全身から炎が噴き出した。大黒神が両手を大勢至菩薩に向けて伸ばした。全身の炎が巨大な塊となって両腕に集まった。その時、大勢至菩薩が右手に持った宝瓶を魔訶迦羅大黒神の頭上に投げた。宝瓶が大黒神の頭上で反転し、中の香水こうずいが注がれた。魔訶迦羅大黒神の身体に香水が流れた。炎が消えた。魔訶迦羅大黒神は天を仰いで大きく口を開けた。全身から白い蒸気が立ち昇り、身体がドロドロと溶け始めた。 

 魔訶迦羅大黒神は闇に溶けて消えた。大勢至菩薩は定子に目をやることもなく、青武者の前で両手を合わせ、一礼して天頂に昇っていった。

 定子は黒洞に念を送った。

 ―王よ、黒洞の王よ。わたくしに力を。〝存在〟を斃す先兵であるわたくしに力を。

 天の北極に米粒ほどの小さな黒点が現れた。黒点はゆっくりと膨張を始め、やがて北天を覆うほどの大きな黒い珠となって定子を呑み込んだ。膨張の圧力で闇が潰れ始めた。無数の魂が闇の隙間から飛び出してきては圧し潰された。潰れる瞬間に、魂は一瞬四方に光を放った。魂からほとばしる声なき悲鳴が宙を満たした。

 圧力が青武者に到達した。青武者の身体が潰れ始めた。体表が裂け、身体の内部にめり込んだ。突然青武者の身体の裂け目から金色の光が射し始めた。光の出現とともに黒色の珠の膨張が止まった。青武者が金色に輝き始めた。青武者の身体が急速に膨張して金色こんじきの丸い珠となり、黒い珠と同じ大きさにまで膨らんだ。

 二つの珠の表面に巨大な稲妻が現れ、相手の珠に飛んだ。稲妻がぶつかる寸前、珠の一部が消え、稲妻は珠をかすめて闇の彼方に飛び去った。二つの珠が激しくぶつかり合い、ひしゃげ、押し合った。黒い珠が金色の珠の半分ほどを包み込んだかと思うと、次には金色の珠が黒い珠を吸い込む。離れて再び激しくぶつかる。その度に全天に稲妻が飛ぶ。闇が捩れ、きしみ、無数の魂が闇に押し出されては潰れた。

 二つの珠が少し離れて動きを止めた。黒い珠に数本の突起が現れた。突起が金色の珠に向って触手のように伸び始めた。荒れ狂う波が波打ち際の岩にかぶさるように、触手が金色の珠に襲いかかった。その時金色の珠の前半分が消え失せ、黒い珠の前に円形の壁ができた。壁の中心に濃い藍色の穴が開いた。穴に向って激しい風が吹き込み始めた。周囲の闇が藍色の穴に流れ込んだ。闇もろとも吸い込まれた魂の悲鳴が長く尾を引く。黒い珠の触手が風にあおられ、穴になびいた。黒い珠が少しずつ穴に吸い込まれ始めた。黒い珠は穴の縁に触手をからめて耐えた。それでも珠全体が次第に穴に吸い込まれていく。黒い珠が触手を支点にして裏返った。黒い珠が藍色の穴に落ち込んだ。縁に掛けた触手が穴の奥に徐々に伸びていく。藍色の穴から紅の顔が現れた。定子だった。顔が穴の外に飛び出そうとした瞬間、縁に掛けられた触手が外れた。定子は濃い藍色の穴の奥に落ちていった。辺りに静寂が戻った。金色の珠はゆっくりと反転し、自らの藍色の穴の中に落ち始めた。金色の珠が消える寸前、闇の中に巨大な金色の大日如来が出現した。結んだ法界定印ほっかいじょういんの掌の上に青武者が立っていた。辺りに光が溢れ、やがて、すべて光の中に溶けて消えた。

 「中宮さま、御子が見えてまいりました。お力を抜いてはなりませぬ!中宮さま!中宮さま!もう一息でございます!」

 下腹部のぬるりとした感触とともに、彰子は男児を出産した。敦成親王あつひらしんのうの誕生である。後産も無事に終えた。

 男児出産の報を聞いた道長は喜びに顔を輝かし、周囲にいる人々と手を取り合った。僧は五大明王に、陰陽師たちもそれぞれの神に感謝の祈りを捧げた。太陽が天高く昇っていた。


 一刻ほどのち、雲久の遺骸を背負った海久と吉平は、吉平の邸に向っていた。二人の目からは時折涙が零れたが、その顔は爽やかだった。

 「吉平殿、晴れ晴れとした良い天気でございますな。このような日にお生まれになられた皇子様はきっと強い運の元にご成長なさることでしょう。」

 吉平は二度三度と深く頷いたが、表情は曇っていた。

 「そうだな。きっとそうであろう。しかしそれにしても、雲久が命を落さねば心の底から喜べたものを・・・私にもう少し力がありさえしたなら・・・」

 海久は吉平に顔を向けた。

 「いいえ、吉平殿。兄は満足しております。こうして兄を背負っておりますと、兄の魂が喜んでいるのが伝わってくるのです。晴明様のお言いつけどおりに働き、また晴明様の元に行くことができるのです。かつて晴明様のお命を奪おうとした我ら兄弟を導き、陰陽師の本道に戻して下さったのは晴明様でございます。晴明様とともに命を賭して働く、これほどの喜びはありませぬ。」

 吉平は涙声になった。

 「そう言ってくれると、きっと父上も喜ぶことであろう。

 海久、これからも私とともに修行に励もうぞ。」

 海久は立ち止った。

 「吉平殿、そのことですが、私は兄の弔いを済ませたのち、また山に戻ろうと考えております。都に私のような者はもう必要ありませぬ。また、私がかつて高階成忠に仕えて多くの人を咒殺したことも、世に知られれば吉平殿のご評判に傷がつきましょう。

 人として許されぬ修法をひそかに我ら兄弟に依頼してきた公卿たちは多くおります。その者たちにとって、私はそのことを知っている危険な存在。必ず吉平殿もろとも排除しようとすることでしょう。

 私は晴明様のお志を受け継ぎ、兄の魂とともに修行の生活に戻ろうと考えています。」

 数日後、雲久の弔いを終えた海久は一人、吉野に向かった。吉平は海久が山の中に消えるまでその後姿を見つめていた。


 三年後の寛弘八年(一〇〇八)五月二十七日、行成は内裏に入った。二十三日に一条帝が病に倒れたとの報せを受けていたが、行成自身も体調を崩していたためこの日の参内となった。

 二十五日には一旦回復に向かった一条帝だったが、行成は胸騒ぎがしてならなかった。五月の初め、敦康親王邸に怪異があったと聞いていたからだった。

 一条帝は行成を傍近くに呼んだ。表情は暗かった。

 「行成、譲位の時が来たようだ。」

 行成は顔を上げて一条帝を見た。一条帝は静かに言葉を続けた。

 「譲位するにあたり、かねてから心を悩ましてきたことに結論を出さねばならぬ。そなたは一の皇子いちのみこをどのように処遇すべきと考える。最後の下問と心得て答えよ。」 

 長保三年(一〇〇一)二月に敦康親王家の別当に就任して以来、不運な星の元に生れてきた敦康のために、行成は身を粉にして働いていた。そのため一条帝は、最後には行成は敦康を春宮とうぐうに推すものと考えていた。

 行成は答えた。その表情には固い決意が見えた。

 「文徳帝もんとくのみかどの御世、清和帝は文徳帝の四の皇子しのみこでございました。そして文徳帝には、一の皇子惟喬親王これたかしんのう様を春宮に、というお考えがおありでございました。しかし四の皇子が時の太政大臣良房様の御孫であったため、惟喬親王様は春宮にお立ちになることができませんでした。今、左大臣道長様が良房様のお立場でございます。

 帝としてお立ちになるために必要なことは、お生まれの順序でも、恐れながら帝のご寵愛でもござりませぬ。外戚がいせきとなられるお方の力こそが、帝が世を治める力の源となりましょう。

 また光孝帝のように老齢になられてからご即位をなさった帝もいらっしゃれば、一方、恒貞親王つねさだしんのうの例のように廃太子とされた春宮もおいでになります。皇位は天の思し召しでございます。

 さらに、皇后定子様の外戚がいせき高階氏には斎宮恬子さいぐうやすこ様の一件もございます。そのお血筋のご即位は神への畏れがございましょう。」

 この時、敦成親王あつひらしんのうの立太子が決まった。半月後の六月十三日、一条帝は春宮居貞親王いやさだしんのうに譲位し、敦成親王が春宮に立った。翌十四日、一条帝の病は重篤となり、十九日に出家、二十二日に崩御した。二十五年にわたる一条朝が終わった。


 二十年の歳月が流れた。

 万寿四年(一〇二七)十二月四日巳の刻(午前十時頃)、法成寺ほうじょうじ阿弥陀堂で九体の阿弥陀仏に見守られ、大勢の僧が読経を続ける中、道長は六十二年の生涯を終えた。三人の娘が太皇太后、皇太后、中宮に立つほどの、権勢を極めた生涯だった。手には阿弥陀如来の極楽浄土への導きの糸が結ばれていた。

 同じ頃、数日前から少し体調を崩していた行成は床の中で横になっていた。だが自分でもさほどの病ではないと思っていた行成は、道長危篤の知らせを受け、床を離れた。渡殿に出ると、遣水やりみずに反射して陽光がきらきらと輝いている。

 ―道長様の時代もこれまでか。昇殿を許されて以来四十年、道長様の家臣とまで言われながらも、ともに歩んできた。本来なら俺が道長様の立場であったはずだが、これも定めか。気がつけば俺ももう五十半ば。これからはただ書の道に精進したいものだ。

 便意を催した行成は厠へと向かった。真冬の冷たい風が一陣、庭から吹き上げ、全身がぶるっと震えた。その瞬間、視野が細かく揺れた。夜が落ちてきたかのように視界が暗くなり、身体が崩れ落ちた。横たわった行成はピクリとも動かなくなった。

 ―どうしたのだ。身体が動かぬ。目が見えぬ。

 行成は頬に床の冷たさを感じていた。しかし身体を動かそうとしても動かない。誰かを呼ぼうとしても声が出ない。次第に意識が遠のいていった。その時、闇の中にぼんやりと白い光のたまが見えた。珠の中から青武者が現れた。青武者の左側には白天神が、右には晴明と雲久がいた。青武者の声が聞こえた。

 「行成、長い間ご苦労だった。先程道長が死んだ。これですべて終わった。お前の役目も終りだ。」

 行成は青武者に尋ねた。

 「私は青武者様のお役に立てたのでしょうか。」

 晴明が一歩進み出ると口を開いた。

 「行成様がいなければ、敦康親王を春宮にという一条帝のお心が変わることはありませんでした。また道長様をここまで導くことも。行成様のお働きのお蔭です。」

 青武者と雲久が笑顔で頷いた。行成の顔がかげった。

 「しかし、私は心の奥底では道長様をねたんでおりました。いえ、憎んでさえいたのです。祖父伊尹これただ、父義孝の死により、私が権勢の頂点に立つ可能性がなくなったとはいえ、本来ならば、という気持ちが心の中にくすぶり続けておりました。道長様がおごり高ぶるようになったのは、私が道長様に、道長様は神仏に選ばれたお方です、と密かに囁いてからのことでした。こうすれば道長様はきっと道を踏み外し、神仏のご加護を受けられなくなると考えたのです。」

 青武者は笑みを絶やさず言った。

 「知っている。些細なことだ。

 お前もすでにこちらの世に来ているのだから教えてやろう。別に道長でなくともよかったのだ。お前でも伊周これちかでもよかった。道長が選ばれた理由はただ一つ。道長には若い頃、権勢への欲がなかったことだ。そのため世の中を公平に見ることができた。お前の意見も聞いた。定子との闘いのあとの道長には用はなかった。

 俺はお前に、定子との闘いは恬子やすこの血筋を引く高階氏の子を帝にせぬため、と言った。しかし本当は、それは偽りだ。

 白天神、お前が話してやれ。」

 白天神が行成の前に立った。

 「こちらの世には、白洞と黒洞という二つの世界が存在しています。どちらもここに転生した魂の粒が集まり、長い時を経て生まれたものです。白洞は光と誕生の世界。また黒洞は闇と破壊の世界。辺りにある何もかもを吸い込み、すべてを重さだけの存在にします。ゆえに黒洞に存在するのは重さだけ。そしてある重さになると反転して膨張を始め、白洞をさえ吸い込もうとします。そのため、黒洞がある大きさになる度に白洞は黒洞を呑み込み、ともに小さな粒ほどの大きさに還元されます。その時に白洞と黒洞の闘いが起こるのです。けれどもその闘いによって、こうして均衡が保たれるのです。

 黒洞は自らの中には何もないため現世の怨霊を引き寄せ、白洞は〝存在〟に選ばれた魂が闘います。定子は現世の怨霊として引き寄せられ、黒天神は黒洞に落ちた白天神が変成へんじょうしたもの。

 今、わたくしは‶存在〟と言いました。〝存在〟は白洞と黒洞の両方を支配しています。そして黒洞の王は、黒洞に吸い寄せられた邪悪な魂が集まって意識を持つようになったものなのです。とはいえ、いずれにしても、白洞も黒洞も〝存在〟が生みだしたもの。すべては〝存在〟の夢と伝えられています。」

 行成は静かな口調で尋ねた。

 「それでは現世というものも・・・」 

 「はい、〝存在〟の夢なのです。白洞も黒洞も、現世と呼ばれるものもすべて〝存在〟の夢。そして白洞と黒洞は二つのようで一つ。同じものが二つに見えているにすぎませぬ。わたくしたちの知りえぬところで、白洞と黒洞は一つのものとして存在しているのです。そして現世は、白洞と黒洞が闘いの中で生みだした幻と言えましょう。」

 行成は再び尋ねた。

 「しかし、もし黒洞が白洞を呑み込むことになったら・・・」

 白天神はにっこりとほほ笑んだ。

 「分かりませぬ。わたくしたちには知りえぬ新しい世界が誕生するのかもしれませぬ。」

 白天神を見つめる行成の肩を青武者が抱いた。

 「行成、行こう。〝存在〟の夢はまだまだ続く。もし〝存在〟が目覚めれば、おそらく俺たちは消え失せるのだろうが、それはそれでよいではないか。」

 青武者と白天神、それに晴明と雲久は、行成とともに光の珠の中に入っていった。珠はやがて闇に溶けて消えた。

 闇の十二神将が消えた辺りに微かな揺らぎが生まれた。揺らぎは周囲の闇を吸い込み、小さな黒い粒が誕生した。




                      (完)




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