成忠の陰謀
永祚二年(九九〇)一月五日、一条帝の元服の儀が執り行われた。その二十日後、二十五日に道隆の長女定子が入内し女御となった。定子十四歳、一条帝十一歳のことだった。
その日の深夜、道隆の妻貴子の父、高階成忠は外道の陰陽師天久・地久とともに、薄暗い自邸の奥の部屋に籠もっていた。定子の行く末を占うためである。定子が女御になったことで自分にもいくらかの恩恵があると考えていた成忠は、定子が中宮になって皇子を生み、その皇子が春宮になればさらに上を目指せるとも思っていた。
一条帝の春宮時代、その学識が広く深いことを見込まれ、春宮博士として一条に身近に仕えていた成忠は、一条が帝として立った際に従四位上から従三位に叙され、高階氏として初めて公卿に列した。しかし成忠はそれに満足することはなかった。
「天久、地久、儂はこの程度の身分で終わる男ではないぞ。元はと言えば高階氏は天武帝の血を引く家柄、藤原なんぞに劣るものではない。その儂には大臣こそが相応しい。儂はその地位を手に入れねばならん。じゃがそのためには定子所生の皇子が必要じゃ。今宵お前たちと共にそのための修法をおこなう。心してやるのじゃ。
もしも卦に定子の将来を妨げるような者が現れたなら、その者は咒殺する。かまわん。咒殺しても誰にもわかりはせん。今流行りの疫病のせいと思われるに決まっておる。」
この年六十八歳になった成忠は痩身ではあったが、体力・気力ともにまだまだ衰えは見えない。壇に牛頭天王を祀り、左右に天久と地久を従えて修法を行う成忠の姿は威厳に満ちてさえいた。
三人は声をそろえて牛頭天王の真言を唱え始めた。
―オン・ゴズ・デイバ・ショウガン・ズイキ・エンミョウ・ソワカ
―オン・ゴズ・デイバ・ショウガン・ズイキ・エンミョウ・ソワカ
ところが、修法が始まって一刻ばかり経った時のことだった。突然地久が大きな叫び声をあげると血の泡を吹いて倒れた。成忠は修法を中断して地久の傍に駆け寄ったが、地久はすでにこと切れていた。見回すと、部屋は濃い藍色に覆われている。
「天久、何事じゃ!何が起きたのじゃ!」
成忠は大声を上げた。しかし天久の姿はどこにも見えない。
「天久!どこだ、どこにいる!」
とその時、牛頭天王が口を開いた。
「成忠、お前の野望は成就せぬ。」
成忠が振り向くと、牛頭天王は全身真っ青に染まり、怒りの形相で成忠を睨んでいた。
「お前は天にも地にも障りのある身。お前の血筋が王家に入ることさえ憚られる。その上、お前が人臣を極めようとはもってのほか。」
成忠は即座に降魔の印を結び、牛頭天王に咒を送った。瞬間、牛頭天王は藍色の粉になって弾けた。
「ふん、口ほどにもない奴。儂の咒で消え失せおったわ。」
成忠が結んでいた印を解くと、後ろから声が聞こえた。振り向くと全身真っ青な武者が立っていた。牛頭天王は厨子の中に、元の姿のまま静かに鎮座している。
「成忠、お前に俺は殺せぬ。お前の子供だましのような修法が俺に通じると思うな。
俺とお前とは浅からぬ縁がある。命を取ろうとは言わぬ。また定子には定子の前世からの定めというものがある。その定めに介入するな。お前の未熟な修法で前世からの因縁を変えることなどできぬ。二度と定子に関わるな。出世したければ、お前自身の力で奪い取れ。」
成忠は切れ長の眼を大きく見開き、空中に右手で九字を描くと、渾身の気合を込めて青武者に咒を投げつけた。青武者の身体は微かに揺れただけだったが、青武者の後ろに立てられていた襖が大きな音ともに裂けて飛び散った。
「やめろ、無駄だ。」
青武者は後ろを振り返りもせず、落ち着いた声で言った。
「成忠、聞け。お前さえ余計なことをしなければ、今後俺がお前の前に現れることなどない。勝手に生きるがよい。
俺はこの世を、天が望む形に戻すため現れた。そのためにはある男を世に出さねばならぬ。その男を守らねばならぬ。邪魔をするな。
教えておこう。定子は皇子を授かる。だがその皇子は帝にはなれぬ。俺が許さぬ。定子がその定めを受け入れるなら、定子は幸せな一生をまっとうできるだろう。俺が定子を護ってやろう。だが受け入れねば、可哀そうだが定子は魔道に堕ちる。後生はない。お前が定子に手を貸せばお前も同じだ。構えて定子に係わってはならぬ。」
話し終えると青武者の姿は次第に薄くなり、空中に吸いこまれるように消えた。一瞬藍色の粉末が空中に拡がり、それも風に流れて消えた。
突然天井から大きな音を立てて何かが落ちてきた。我に返った成忠は恐る恐る落ちているものに近づいた。天久の死体だった。全身が雑巾のように捩れ、丸まっていた。見上げると、天井には天久の血がべっとりと着いており、そこから血が滴っている。
成忠の頭の中に青武者の声が聞こえた。
―その二人は俺が護っている男を咒詛した。太政大臣頼忠を咒殺した復讐を頼まれたようだ。だが、頼忠は咒殺されたのではない。病死だ。俺は二人に咒詛をやめるよう忠告した。しかし二人は咒詛をやめなかった。ゆえに俺が二人を殺した。お前もそうなりたくなければ俺の言葉に従え。
青武者の声が消えたあと、成忠は急に恐ろしくなった。膝が震えだした。抑えても抑えても震えが止まらなかった。それでも出世を諦められない成忠は道隆の邸に向かった。
成忠は一人で酒を飲んでいた道隆の前に座ると軽く会釈をした。道隆は定子入内の祝宴を終え、屋敷に戻ってさらに一人で祝いの盃を傾けていたのだった。
「道隆殿、祝い酒ですかな。」
道隆も会釈を返し、家人に酒肴の支度を言いつけた。邸を訪れることなどこれまでほとんどなかった義父が何ゆえ今日に限ってと、道隆は嫌な心持ちがした。定子の入内に対するお祝いだけに訪れたとはとても思えない。成忠の全身から何とも言えない生臭い嫌な臭いが漂っている。
成忠は出された酒を一息で飲み干すと盃を置き、目の奥に焼き付いた天久の死体の残像を消すかのように、両手で顔をつるりと一つ撫でた。膝に置いた手が微かに震えている。成忠は声の震えを抑えて小声で話し始めた。
「実は道隆殿、ちと嫌な話しなのだが聞いてくださるかな。」
―やはり酒が不味くなる話か。なぜこのようなめでたい日に・・・
酒好きな道隆は毎晩酒を飲んでいたが、定子が入内した今宵は、また格別な思いで飲んでいたのだ。
「今宵でなければいけませぬか。親父殿、今日は特にめでたき日。できれば不吉な話しを耳にするのは避けたいものです。」
成忠は目を細め、唇の端を少し曲げた。
「さようか。ではやめておこう。道隆殿の将来に関わることなんじゃが・・・」
そう言って成忠は立ち上がった。こう言えば道隆の関心を引けると、成忠には分かっていた。案の定、道隆は慌てて成忠を止めた。
「親父殿、そう言われてはこのままお帰しするわけにはまいりませぬ。私の将来がいかがいたしましたか。私を陥れようという輩でも現れましたか。」
道隆は自分の急速な昇進に妬みを抱いている公卿が多いことを知っていた。特に、かつては道隆の上司だった公卿たちは、道隆にたちまちのうちに先を越され、やり場のない怒りに出仕さえ拒否するありさまだった。道隆のあまりに露骨な昇進に、怒りの声が宮中に充満していた。
成忠はしぶしぶのように再び座りなおすと、道隆の酌を受けた。手はまだ小刻みに震えている。
「親父殿は学問のみならず、修法にも長けておられます。何があっても、親父殿がその修法で私を護ってくれるものと信じております。まあ、とにかくお話しを承りましょう。」
成忠は脇にあった火鉢を引き寄せ、手をかざしながら話し始めた。
寒気を感じるのは一月の夜の寒さのせいばかりではなかった。
一方、成忠のこの無作法な振舞いに、道隆は微かに眉を顰めた。
「確かなことはわからん。ただ道隆殿の御子に好ましからぬ卦が出た。」
成忠はそこで一旦言葉を切ると再び盃を手に取り、気持ちを落ち着か
せようと、ゆっくりと盃に口を近づけた。
定子を入内させ、外戚となって栄華の階段を上るつもりだった道隆は、長男伊周、次男隆家、そして長女定子の三人、とりわけ入内させた定子の行く末が気懸りだった。
「何、親父殿、よからぬ卦とはいかなること。まさか定子に係わることでは・・・子ができぬとか・・・」
成忠は口の前で盃を止めると、道隆を上目遣いに見た。青武者が言っていた話を持ち出せば、道隆を容易く手の内に取り込めるとの計算があった。
「いや、そのような卦は出てはおらん。しかし女御様の子が天の中央に立つという卦が出んのじゃ。」
鷹揚な性格の持ち主である道隆もさすがに狼狽した。
「では定子は皇女しか生めぬと、皇子は生めぬと・・・」
成忠は唇を歪めて無理に笑顔を作った。
「そうではない。皇子をお生みになるとでた。じゃがその皇子は争いに巻き込まれる。卦がそう示しておる。その皇子が帝の位に就くことを阻もうとする者が現れるようじゃ。それが誰かはまだわからんが、その者を除きさえすれば卦が変わるじゃろう。道隆殿の周りにそのような者はおらんか。兄弟でも出世のためにはそのような企みを抱かぬとも限らんからな。」
道隆は八つ違いの道兼、十三違いの道長の、二人の弟の顔を思い浮かべた。道長は欲のない性格だが、道兼はやや狷介で冷たいところがある。しかし兄弟の仲は悪くない。自分を裏切るようなことをするとは道隆には思えなかった。
「確かに父上が摂政におなりになって以来私の昇進も早まり、私を妬む者もおりましょう。腹違いの弟たちの中にも妬んでいる者がいるやもしれませぬ。しかし弟達の中に実際にそのような企てをする者がいるとは考えられませぬ。あの者たちの将来は私の手に握られています。私を支える以外にあの者たちが出世する道はありませぬ。父上の目も光っています。しかし弟たちでないとすれば・・・
親父殿、それが誰かお分かりになりますか。分かればお教え下さい。腰抜け公卿どもの中に私に逆らえるものなどいないとは思いますが、危険な芽は早めに除くが上策。」
それを聞いて、成忠は道隆の顔を覗き込むようにして言った。
「そのとおりじゃ。卦によれば危険な輩は確かに現れる。じゃが心配はいらん。女御様は私がお守りして進ぜよう。但し条件がある。わが高階氏は元はと言えば天武帝に繋がる家柄。じゃが今では中流貴族に成り下がっておる。私はそれが悔しくてならん。先祖にも顔向けができん。そこで女御様をお守りする代わりに私を参議にしてもらいたい。そのように兼家殿に推挙してほしいのじゃ。
私は道隆殿の妻貴子の父。また私にはそれなりの学識もある。それは貴子を見ればわかるはずじゃ。貴子の学問教養はすべて私が仕込んだものゆえな。春宮博士を勤めた私を参議にしても恥をかかせるようなことにはならんじゃろう。いや、むしろ参議になって当然・・と思うがな。」
成忠は道隆の返事を待つかのようにいったん言葉を切った。道隆は、人望がなく気位のみ高い成忠を朝廷に参加させることに気が進まなかった。しかし定子の将来も心配である。また修法に長けた成忠に恩を売っておくのも悪くはないと考えた。
「わかりました。父上には必ず伝えましょう。ただ、今すぐというわけには参りませぬ。秋の叙官の定めか、あるいは来年の定めの折にはそうなるよう計らいましょう。」
この言葉を聞いた成忠は満足そうに頷いた。
「これで私も先祖に少しは顔向けができそうじゃ。女御様のことは私に任せればよい。必ず私が守って進ぜよう。
誰が邪魔をしているのかもわかり次第道隆殿にお知らせしよう。二人が力を合わせれば誰も邪魔はできん・・じゃろう。」
こう言うと成忠は瓶子に残っていた酒を飲みほし、帰って行った。
残された道隆は不機嫌な顔をしながら黙って酒を飲み続けた。
―どうも俺はあの親父殿が苦手だ。天武帝の末裔か、帝の末裔など掃いて捨てるほどいる。それにしてもあの親父殿が参議か、父上が何と言うかな。何を言うか!と怒鳴られるであろうな。まあ、所詮無理な話だ。参議にして朝廷に出仕させるわけにはいくまい。それにしても面白くない。済時と朝光を呼んで飲み直すとするか。
三人は朝まで飲み続け、家人が様子を見に行ったときには酔いつぶれ、烏帽子も外れた姿でだらしなく眠っていた。
同じ年の五月五日、兼家は関白に就任した。しかし三日後の八日、病のため関白を辞して出家した。長男道隆がその職を、藤原氏の長者の地位と共に引き継いだ。
六月晦日、兼家は病の床に伏していた二条邸に道隆を呼んだ。やつれはてた兼家はすでに起き上がることもできず、床の中で道隆を迎えた。
「道隆、来たか。もそっと近くに寄れ。
俺はもう永くない。いや、何も言うな。俺には分かる。それでお前に言い残しておきたいことがある。
お前も知ってのとおり、俺は兄の兼通とは生涯不仲だった。そのため、あいつが俺を差し置いて関白に就いて以来、長く不遇だった。大きく遠回りをさせられた。だが運よく俺はあいつより長く生きた。俺が長生きしたからこそお前も摂政になれた。よく聞け、長生きは大事なことだ。酒を控えろ。毎晩正体不明になるほど飲んではならぬ。自分の命を自分で縮めるようなことをしてはならぬ。お前の醜態に眉を顰めている者も多いと聞いている。
それからもうひとつ。幸いなことにお前たち兄弟は俺たちと違って仲が良い。道長は例の花山帝譲位の際にお前を支えると言っておった。道兼もそのはずだ。俺たち兄弟のようなことになってはならぬ。くれぐれも言っておく。弟たちには相応の官位を与え、一家の繁栄を図れ。そうすれば伊周の代になっても支えてくれよう。
俺が言いたかったのはこのふたつだ。きっと忘れるな。」
二日後の永祚二年(九九〇)七月二日、兼家はこの世を去った。六十二歳だった。若い頃には出世頭だった兼家が権力の座にいたのはわずか四年にすぎなかった。
翌正暦二年(九九一)七月二十二日、成忠は道隆の推挙により従二位に叙せられた。だが昨年の正月に現れた青武者のことが成忠の心から離れなかった。あれ以来折に触れて青武者の正体を調べていたが、全く判らない。まして青武者が護っている者が誰なのか見当もつかない。しかし道隆は約束を守り、参議にはなれなかったものの、自分を従二位に推挙してくれた。自分もそれ相応の働きをしなければならない。
成忠は従二位に昇進した翌日の夜更け、天久・地久の弟弟子雲久・海久の二人を自邸に呼んだ。雲久・海久の咒力は兄弟子二人に勝るとの評判が高かった。
「雲久、海久、天久と地久はここで青武者に殺されたのじゃ。儂にしても大切な修法を妨げられた。仇討ちじゃ。青武者を咒殺する。だが青武者が誰かわからんでは話にならん。まずは青武者の正体を探るのじゃ。
あいつはおそらくこの世の者ではない。儂が咒を送った時、間違いなく咒はあいつの身体に当たった。ところが咒はそのままあいつの身体を通り抜けよった。あいつは誰かの念、あるいは死霊が凝り固まってできたものじゃろう。じゃが通り抜けるとき、あいつの身体は確かにゆらりと揺れた。儂一人ではできんかもしれんが、お前たちと三人でならあいつを斃すことができよう。
手掛かりは儂の血筋じゃ。あいつは定子の生む皇子を帝にはせんとほざきおった。儂の血が王家に入ることが許せんとも言いおった。
雲久、海久、儂の血筋を遡れ。儂の先祖で帝に怨みを抱くとすればおそらく長屋王様じゃ。長屋王様は時の帝、聖武帝の命で自殺させられたからな。死後、長屋王様は聖武帝に祟ったと言われておる。間違いなかろう。長屋王様の血筋が王家に入ることを快く思わん奴を探せ。そいつが青武者の正体に違いない。」
成忠が牛頭天王の正面に座り、左手に雲久、右手に海久が座った。護摩壇に火を入れると印を結んで真言を唱え、護摩をくべた。祈祷の声が心の集中とともに次第に大きくなっていった。部屋には護摩の煙が満ちた。
雲久と海久の念が時を遡った。
二人は天平元年(七二九)二月の平城の都に辿りついた。そこは長屋王が幽閉されていた二条大路にある長屋王の邸の一室である。長屋王は文机の前に座り、文机の上には白く濁った液体の入った粗末な土器が一つ置いてあった。王の後ろには武装した武者が二人座っている。俯いた二人の目から涙が零れている。
長屋王は後ろを振り返ると二人に言葉をかけた。
「泣くな。私は帝に仕える者として、せねばならぬことをした。悔いはない。ただ藤原の陰謀を帝にお分かりいただけなかったことだけが心残りだ。しかし私がいなくなっても帝をお守りする者は必ず現れよう。武智麻呂、房前、宇合、麻呂の四人にも、今は恨みなどない。
私は帝の命により、この毒を飲んで死ぬ。私の死を確かめたのち、戻って四人に伝えよ。長屋王は心安らかに死んでいった、とな。」
長屋王は文机の上の器を手に取り、口をつけた。
長屋王の意識が器に向かった瞬間、雲久と海久は長屋王の心の中に入った。
心の中は明るく穏やかに静まり返っていた。とても恨みを抱いて死にゆく者とは思えなかった。時が経つにつれて長屋王の心は次第に光を失い、小さくなってきた。王は死に向かっていた。二人は長屋王の心から抜け出した。
雲久と海久の念は長い時を越えて、再び自身の身体に戻ってきた。二人は同時に目を開いた。
「成忠様、長屋王様は心静かにお亡くなりになりました。王家への恨み心をこの世に残したとは思えませぬ。」
長い時間を遡った二人は疲労のため肩で息をしており、物を言うのも辛そうだった。頬の肉も少し削げたように見える。
成忠は腕組みをして考え込んだ。
―長屋王様は怨みを抱いていなかった・・・儂の血筋が王家に入ることを阻もうとする者・・・高階の家に怨みを持つ者・・・わからん。
成忠は腕組みを解き、目を開けると、雲久と海久の顔を交互に見て言った。
「青武者は儂に、守っている男がいると言った。こうなったらそいつを咒詛する。そいつさえいなくなれば、青武者がこの世に存在する意味がなくなる。儂の望みはかなう。」
雲久と海久は互いに顔を見合わせ、やがて雲久が口を開いた。
「成忠様、咒詛すると申されても相手がわかりませぬ。闇雲に咒を送れば都中に災いが生じましょう。」
成忠は狡そうな笑みを浮かべて言った。
「災いじゃと・・・都は今や災いだらけじゃ。流行り病で人がバタバタ死んでおる。それに闇雲にではない。道隆の身近にいる兄弟たちから順に試してみるのじゃ。兄弟でなければ従兄弟、叔父、甥とな。死ぬほどの咒を送るのではない。病を引き起こす程度のものじゃ。さすれば青武者はそいつを守るために何かするはずじゃ。それで相手がわかる。わかったところで、三人掛かりで強烈な咒を送り、そいつを咒殺する。どうじゃ。
まず手始めに道兼じゃ。道兼には小狡いところがある。野心も持っておる。父親の兼家が長男ではなかったにもかかわらず権力を握れたのじゃから、自分も、と思っておるに相違ない。」
成忠は再び牛頭天王の前に座ったが、それを雲久が止めた。
「お待ちください、成忠様。この修法に成忠様が加わってはなりませぬ。道隆様ご兄弟には安倍晴明を初め、何人もの修法者がついております。万にひとつでも道隆様のご兄弟に咒を送っているのが成忠様であることを知られれば、成忠様は重い罪に問われましょう。
咒を送ることは厳しく禁じられております。確かにそれは建前で、ゆえに私どものような外道の修法者が毎日公卿方に呼ばれているのですが、しかしながら相手が道隆様のご兄弟となれば、きっと見逃してはくれませぬ。軽くても流罪、場合によっては死罪を。その上道隆様も官位を解かれることに。そうなればこれまでの努力はすべて水泡と帰しましょう。
ここは私どもにお任せください。修法の場も選ばねば。成忠様とかかわりのある場所で行うことはできませぬ。私たちの後ろ盾である成忠様の名が表に出ることは避けねばなりませぬ。また先程の、時を遡った旅ゆえに、私どもも疲れております。今夜のところはこれまでにしとうございます。」
雲久は頭を下げた。死罪という言葉を聞き成忠は動揺したが、それを抑えて二人に言った。
「うむ、それもそうじゃ。日を改めるとするか。では修法はお前たちだけで行え。じゃが何かわかったら必ず儂に伝えるのじゃ。」
成忠の邸を出ると、雲久と海久は六波羅にある六道珍皇寺の裏手の小さな御堂へ向かった。二人の塒である。六道珍皇寺門前の六道の辻には冥界への入り口があり、そこには度々亡者が現れると都では信じられている。陽が落ちると人が訪れることは滅多にない。
二人は堂に入る前に辺りを見回し、人の気配がないことを確かめるとすばやく中に滑り込んだ。板造りの粗末な狭い堂の中には、牛に乗った帝釈天の像が一体と、古びた金剛界・胎蔵界の二つの曼荼羅が祀られており、他には何もない。
雲久は帝釈天の後ろに回り、掛けてあった二つの曼荼羅を上にたくし上げた。そこには人が一人やっと通り抜けられるほどの穴が開いていた。雲久はその穴の中に入った。海久も後に続いて入った。そこは二人が身を寄せて横になれるほどの、堂の半分ほどの広さの隠し部屋だった。外からは薪や芝を蓄えておく納屋に見える。
海久が内側から曼荼羅を掛け直したことを確認すると、雲久は油に火を灯し、二人は向き合って座った。空が白み始めていることが軒の隙間から見える。
雲久が口を開いた。
「海久、お前、先程の話をどう思う。摂関家に咒を送るなどあまりに剣呑な話しだとは思わぬか。ましてあの家には晴明がついている。我らが咒を送っていることに気づかぬはずがない。咒を送っているところにあの晴明からいきなり返されれば、我らでも対処は難しい。いくら金を積まれても負け戦はやりたくない。そうは思わぬか。そう思って俺は今夜の修法をやめさせたのだ。」
海久は俯き、黙って雲久の言葉を聞いていたが、話し終えると上目遣いに雲久を見た。
「兄者、私はそうは思いませぬ。我らとてすでに時空を越えられるほどの修法者。それに晴明ももう歳、七十を越えているとか。我らの咒がそうやすやすと返されるとは思えませぬ。たとえ返されても、我らがそれに気づかぬはずがありませぬ。それにこの度の我らの目的は殺すことではなく、いや、青武者とやらが護っている男は殺すことになりましょうが、今回はその男を探すためのもの。
流行り病がこれほど蔓延しているのです。我らが咒を送っていることに、たとえ晴明でも気付きはしないでしょう。
もし兄者がこの度の修法を降りるというなら止めはいたしませぬ。けれど私はやる。私一人でもやります。晴明がどれほどの力を持っているのか、知るにはよい機会です。いずれは晴明と闘わねばならぬ我ら。晴明に代わって我らが修法者の頂点に立つためには、晴明の力を知るこの機会を逃すわけにはまいりませぬ。」
雲久は腕組みをして考え込んだ。海久は雲久をじっと見つめながら言葉を待った。雲久が口を開いた。
「もししくじれば命を落すかも知れぬ修法。それでもやるか。」
海久は雲久の目をじっと見つめたまま答えた。
「落とせば落した時のこと。死ぬのは一度、死霊となって甦ってやりましょうぞ。それにここで命を落すほどの我らなら、とても修法者の頂点になど立てませぬ。このまま生きながらえたとて仕方がありませぬ。」
その言葉を聞き、雲久も心を決めた。
「わかった。お前の覚悟を知ったからには俺も心を決めた。すぐに取り掛かろう。やるとなれば早い方がよい。だが一人一人は面倒だ。兄弟四人にまとめて咒を送ってやろう。お前は道兼と道義、俺が道綱と道長を受け持とう。
実は成忠から話しを聞いたとき、すぐに頭に浮かんだ場所がある。鳥辺山の山中だ。焼き場に行く道から少し外れた林の中に洞穴がある。木々に覆われていて、近くに行かねばそこに洞穴があるなど誰も気づかぬ。俺は時折そこに籠もって修行をしている。この度の修法にはもってこいの場所だ。今からそこに行こう。ついて来い。」
二人は病を掌る羅刹天の像を初め、修法に必要な法具や香、四人の名を記した乳木などを袋に詰めて鳥辺山に向かった。
二人が鳥辺山に着いたときにはすでに夜が明け、林の中で鳥が騒いでいた。山には死体を焼いた臭いや腐臭が染みつき、また多くの野犬や野良猫、鴉などが、捨てられた死体をむさぼり食っている。二人が近づくと一瞬牙を剥くがすぐに尻尾を巻いて逃げ、通り過ぎると再び戻ってきて死体を食い始める。
洞穴に着いた二人は羅刹天の像を奥に安置し、その前に護摩壇を据えた。その後、近くを流れる小川で身を浄め、修法を開始した。
二人は護摩壇に乳木を投げ入れ、羅刹天の真言を低く唱え始めた。
―オン・ジリチエイ・ソワカ
―オン・ジリチエイ・ソワカ
木々の上で羽を休めていた数百羽の鴉たちが急に枝から飛び立ち、ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた。野犬たちも食事を中断し、顔を上げて鼻を引くひくと動かし、不安そうに辺りを見廻している。
―オン・ジリチエイ・ソワカ
―オン・ジリチエイ・ソワカ
咒を乗せた二人の声は洞穴から流れ出し、ザワザワと地を這って都へ向かった。
翌七月二十四日の昼過ぎ、道隆の邸東三条邸に、兄弟五人と道隆の長男伊周が集まっていた。七月十四日に道隆が内大臣を辞し、その職を弟道兼に譲ることになった内々の祝いの宴である。また伊周が権中納言になることが内定した祝いの宴でもあった。
摂政と内大臣を兼任していた道隆は、内大臣を辞したことで太政官の職制から離れ、完全に太政大臣の上に立ったことになる。内大臣の職にあったときには、摂政の身でありながら上位に左右大臣がいるため窮屈に感じていたが、それからも解放され、道隆はのびのびとした気分を楽しんでいた。
「おい道兼、これでお前も大臣だ。おそらく九月には任大臣の宣旨が出る。それまで失態のないように勤めろ。折角俺が摂政の権限で大臣にしてやったのに、お前にその資格がないと帝がお考えになれば俺も庇ってやれぬ。まあ、要領の良いお前のことだ、そんな心配は無用と思うがな。」
道兼は上機嫌で酒をあおると道隆に顔を向けた。
「兄上のおかげで私もやっと大臣になることができそうです。しかし私ももう三十一、そろそろ、とは思っていました。
兄上もいずれは関白。そして私はいずれ太政大臣。あ、これは言ってはならぬことでした。ともかく兄上のために汗を流して働きましょう。」
道兼は軽く頭を下げると、伊周の方に向き直った。
「伊周殿も権中納言になられるとか。叔父の道長と肩を並べられましたな。お父上のためにせいぜいお働きなさい。私と伊周殿が力を合わせてお父上を支えれば、一門の安泰間違いなし。」
道隆に似て美しい顔立ちの伊周は、その顔にわずかに笑みを浮かべ、道兼に小さく会釈をした。
道兼は立ち上がって末席に座っていた伊周の傍に行き、酌をすると道長の方を振り返った。
「おい道長、お前はとうとう伊周殿に追いつかれてしまったな。ぼんやり日々を過ごしているからだ。兄上や俺のように高い志を持て。いくら朝議が面白くないといっても、朝議の場で欠伸を押し殺しているようでは仕方あるまい。末っ子だとて少しは考えろ。お前はいざというときにはくそ度胸があるのだから。」
突然名を呼ばれた道長は苦笑いをしながら道兼に答えた。
「道兼の兄上と伊周殿がいれば道隆の兄上はご安心でしょう。道綱殿も道義殿もおいでになることだし。私は詩を作ったり書を書いたりしていられればよいのです。政はどうも苦手です。そちらは兄上たちにお任せします。」
そう言いながらも、伊周が長兄道隆の息子なのでいずれは自分を越えるとは思っていたが、こんなに早く自分と肩を並べることになるとは道長は思っていなかった。内心では道隆の露骨なやり方を苦々しく思っていた。道長は手酌で酒を注ぐと、それを一気に飲み干した。
とその時、急に風が吹き始め、庭の萩の枝が大きく揺れた。同時に生臭い臭いが部屋の中に流れ込んできた。道隆は右手で鼻を押さえて伊周に言った。
「おい伊周、障子を閉めろ。臭くてたまらん。おおかた誰かが門前に行き倒れの死体でも捨てたのだろう。誰かに片づけさせろ。」
伊周は鼻を押さえながら立ち上がった。その時突然、伊周の横に座っていた道兼が伊周の膳の上に倒れ込んだ。他の三人の兄弟も同時に、それぞれの膳の上に倒れ込んだ。
道隆は慌てて手に持った盃を置いて立ち上がろうとしたが、すぐに鼻と口を押えて顔を背けた。
「伊周、触れるな!流行り病かもしれぬ。人を呼べ。この者たちをすぐに邸から連れ出せ。」
四人に激しい嘔吐が始まった。道隆と伊周は急いで部屋を出た。
四人は道隆の郎党たちに抱えられるようにして車宿に置かれていた牛車に乗り込み、大急ぎでそれぞれの邸に帰って行った。
道長が牛車に乗り込むと、朦朧とした頭の中に野太い男の声が聞こえた。
―道長、安心しろ。大丈夫だ。すぐによくなる。
牛車が総門を出ると、邸内にいた時に比べ、少し気分が良くなった。道長は横になったまま、胸の辺りが吐瀉物で汚れた直衣を脱ぎ、牛車の外に投げ捨てた。直衣は牛車の後を追って来ている風に巻かれて空に舞い上がった。
再び声が聞こえた。
―道長、これは咒だ。お前たち兄弟に咒が送られている。だが心配はいらぬ。死に至るほどの咒ではない。
道長はやっとの思いで半身を起し、辺りを見回したが誰もいない。
「誰だ。どこにいる。姿を現せ。」
掠れた声で道長は尋ねた。
―お前の心の中だ。俺はお前の敵ではない。咒を送っている者たちはわかっている。奴らを欺くために、お前は三日間邸に籠もれ。その間、お前の周りで何が起こっても、決して邸から出てはならぬ。俺がお前を護ってやるが、もしお前に何事もなかったことがわかれば、あの者どもはさらに強い咒を送ってくる。返すのはたやすいが、それでもお前が無傷でいられるという保証はない。
道長は苦しい息の中でさらに尋ねた。
「お前が俺の敵でないとは信じられぬ。勝手に俺の心の中に入り込んだからには、何か目的があるはずだ。言え。」
少し間をおいて道長の頭の中にまた声が響いた。
―安倍晴明・吉平親子を邸に呼べ。あの者たちなら俺がお前の敵であるか否かの見極めがつくだろう。だが晴明親子を邸に呼んでも、二人にお前を護るための修法は決してさせてはならぬ。咒を送っている者たちのことは俺に任せるのだ。
土御門邸に戻った道長はすぐに晴明に使いをだした。晴明は兼家一門と関係が深かったが、道長とはとりわけ深い繋がりを持っている。
康保三年(九六六)、道長が誕生した際、晴明は師である陰陽師賀茂保憲とともに道長の父兼家に呼ばれ、兼家の妻時姫の邸にいた。兼家と時姫の間にできた三番目の男子ということで、長男道隆のときほどの賑々(にぎにぎ)しい祝い事は行われなかったが、それでも邪鬼払いや延命祈願の祈祷が行われた。その祈祷に保憲の弟子として加わっていたのだ。
乳母に抱かれて部屋に入ってきた赤子を見た晴明は目を見張った。赤子の全身から強い気が発散されていたのだ。
晴明は保憲に小声で言った。
「保憲様、あの御子から・・・」
保憲は目で晴明を制すと、他の誰にも聞こえぬように同じく小声で答えた。
「晴明、お前にもわかるか。あの赤子は並みの子ではないな。生まれたばかりであれほど強い気を放つなど信じられぬ。だが邪気は感じられぬ。物の怪が憑いているとは思えぬ。だがこのことは兼家様初め、誰にも話してはならぬぞ。この国の根幹を揺るがすことになりかねぬ。」
この日以来、晴明は道長の成長を見守り、時に応じて陰陽道を駆使して道長を護ってきていたのだった。
土御門邸に到着した晴明・吉平親子は、すぐに道長が伏せている北の対に向かった。道長は床の上に起き上がって二人に話しかけた。
「来てくれたか、晴明、吉平。そなたたちを呼んだのはほかでもない。私は今日、道隆殿の邸での内々の宴に招かれていた。ところが突然風が吹いてきたかと思うと急に気分が悪くなり、意識がなくなって膳の上に倒れてしまった。朦朧としたまま牛車に乗り込むと、頭の中に声が聞こえた。これは咒詛のせいだ、とな。そして私の身の安全のため、三日間邸に籠もるようにと言った。しかしこの声の主が私の味方であるとは限らぬ。もしかすると私を咒詛した者たちの策略かもしれぬ。そのように言うと、声はそなたたち親子を邸に呼べと言った。そなたたちなら自分が私の味方か敵かがわかると言うのだ。何か心当たりはあるか。」
晴明は暫く考えたのち、振り返って後ろに控えている吉平に声をかけた。
「吉平、そなた、心当たりがあるか。」
吉平は頭を下げたまま答えた。
「父上、これと言って心当たりはございませぬが、ひとつだけ、かつて花山帝がご出家された折、我らの邸の前をお通りになりました。その時父上は、花山帝は死霊に支配されているとお話しになりました。もう五年も前のことになりますゆえ、お忘れかもしれませぬが。
もちろん、その死霊がこの度の声の主であるとは限りませぬ。また道長様のお味方であるのか敵であるのかもわかりませぬ。」
晴明は道長に顔を戻した。
「お話しはいたしませんでしたが、当時確かにそのようなことがございました。またこの吉平が花山帝に夢解きを命じられました折、吉平は花山帝の夢の中で全身真っ青な武者に会っております。
この青武者が死霊であるか否か、また声の主であるか否かもわかりませぬが、人の心の中や夢の中に自在に現れることができるほどの力を持った死霊などなかなかおりませぬ。すべてこの青武者の仕業と考えるべきなのかもしれませぬ。しかしながら、敵味方がはっきりしない今、まずは道長様をお守りするため、このお邸に結界を巡らせましょう。」
晴明の言葉を聞くと、道長は慌てて晴明を制した。
「晴明、待て。声は私に、そなたたちを呼んでも何もさせてはならぬと言った。敵であることが明らかならともかく、まだ今のところ敵と決まったわけではない。花山帝を譲位させたことは一門にとって喜ばしいことだった。声の主が青武者なら、声は味方かも知れぬ。
そなたたちは暫く私の邸に留まれ。私に咒が送られてきても今は何もしてはならぬ。咒が何の目的で送られているのかを探れ。そなたたちなら、咒を返すのは私に危険が及んでからでも遅くはないだろう。」
晴明と吉平親子は北の対に続く北東の渡殿に祭壇を設え、咒が届くのを待った。最初の夜が最も危険だと考えた晴明は、夜に入ると祭壇の前で気を殺し、心を虚ろにして座り続けた。子の刻から丑の刻に入った頃(午前一時頃)、晴明の身体に咒によって生まれる微かな震えが届いた。
晴明の心の中に声が聞こえた。
―晴明、それで良い。そのまま気配を消しておくのだ。お前は道長が特別な存在だと知っている。俺も知っている。道長は守らねばならぬ。今道長に咒を送っている者は二人だ。この程度の咒ならばお前一人でも阻めよう。だがお前はその力を使ってはならぬ。使えば道長にさらなる危険が及ぶ。二人の力を見極めるのだ。二人は今、本気で咒を送っているわけではない。しかしお前ならその咒を測り、二人の本当の力を知ることができよう。それを吉平に伝えるのがお前の役目だ。真の闘いはまだまだ先。また真の敵はこの二人ではない。今のお前では敵わぬ。だがその時、この世を食い尽そうとする邪鬼が現れる。そうした邪鬼どもは吉平に相手をしてもらわねばならぬ。
晴明は心を虚ろにしたまま尋ねた。
―あなた様はどなたなのです。私は吉平が花山帝の夢の中で会ったという青武者様ではないかと考えております。花山帝を譲位させたお方でございましょう。そのお方が道長様をどうなさるおつもりなのでしょう。
再び声が聞こえた。
―そうだ。俺が青武者だ。花山帝を譲位させたのも俺だ。俺は天道を正しく導かねばならぬ。道長はそのために必要な男だ。ゆえに俺は道長を護っている。俺とともに道長を護り、この世を正しい世に戻そうとする者を待っている。俺と同じほどに強大な力を持つ怨霊が現れる前に、この世の歪みを防ぐ志を持つ者を目覚めさせねばならぬ。お前はお前の持っている修法を受け継ぐべき者に伝えよ。俺はこれから道長に咒を送っている者に咒を送る。お前も見ておれ。道長に俺のことを話してはならぬ。道長には、咒が送られてきたのでそれを泰山府君の像に封じ込めた、とでも伝えよ。
道長が生まれた時に発していた気の源がこの声の主であったことを、晴明はしっかりと感じ取っていた。同時に晴明の心の中から何かがふっと抜け出ていくのを感じた。
晴明は座り続けた。今は青武者に対する疑惑は全くなくなっている。心をさらに開いて祭壇の前に座り続けた。
寅の二の刻(午前四時頃)を過ぎようとした時、晴明の頭の中に青武者の声が聞こえた。
―雲久、海久、俺が分かるか。俺は天久と地久を殺した青武者だ。お前たちの目的がこの俺の咒殺であることはわかっている。成忠の野望にお前たちの野望を重ね、この国を支配しようなどもってのほか。だが俺がいる限りお前たちの野望は成就せぬ。どうだ、俺を斃してみよ。
暫く沈黙が続いた。それでも雲久と海久の動揺が強く伝わってくる。晴明は次に何が起こるか、緊張しながら待った。やがて雲久の荒々しい声が聞こえてきた。
―青武者、いよいよ現れたな。我らは荼吉尼天のご加護を受けた陰陽師。どこの死に損ないかは知らぬが、我ら二人を相手にして勝てると思っているのか。
落ち着いた青武者の声が響く。
―ふふ、荼吉尼とは外院の天神。内院、それも如来院に護られた俺を斃すことができるのか。試してみよ。
晴明の頭の中が熱してきた。頭の中心から外に向かって強い力が加わり始めた。頭が割れそうなほどの痛みが始まった。だが晴明は心を虚ろにしたまま耐えた。温度はますます上昇し、痛みも激しくなる。それでも心を閉じた瞬間に、自分がここにいることを二人に気づかれることを知っていた晴明は、なだれ込む痛みや熱さを心の中から消し続けた。
突然青武者の声が聞こえた。同時に熱さも痛みも消えた。
―雲久、海久、もうよいだろう。無駄なことだ。お前たちに俺が斃せぬことは判ったはずだ。だがお前たちは青武者を斃せなかったと成忠には言えまい。俺が現れたことなど言わずともよい。こう言うのだ。青武者が護っている男が誰かは分からなかったが、道隆一門の繁栄のためには朝廷を道隆の身内で固めることが必要だということがわかった、とな。成忠もこれを聞けばお前たちを責めることはないはずだ。但しこれを成忠に告げるのは三日後だ。三日待て。成忠はお前たちが三日にわたって修法をしていたと思うだろう。
三日後、雲久・海久の報告を聞いた成忠は、青武者の正体がわからぬうちは道隆に報告のしようがないと考え、二人に青武者が護っている男の探索をさらに続けるよう命じた。
永祚二年(九九〇)秋、中宮冊立の宣旨を受けた定子は十月二十二日、内裏に入った。道隆は中宮大夫に弟の道長、権大夫には腹違いの弟道綱をつけた。幼い一条帝と定子は、姉と弟のように仲睦まじく過ごした。定子は道隆の開放的な性格を受け継いだのか、帝の前でも屈託なく笑い、一条帝や女房たちの間に笑顔が絶えることはなかった。
穏やかな日々は四年ほど続いたが、正暦五年(九九四)に入ると、前年九州から始まった疫病が都を襲った。死体は都中の大路や小路、空き地などに投げ捨てられ、都中に異臭が漂い、堀川には数えきれないほどの死体が浮いた。
道隆はこれを鎮めるため、臨時の仁王会や読経、大赦を行なったが、疫病の勢いが衰える兆しはなかった。
八月も二十日を過ぎ、道隆は伊周を東三条邸に呼んだ。
「伊周、これまで様々な修法を試みたが、何をやってもこの流行り病は治まらぬ。そこで親父殿に卦を見させた。何者かの祟りかと思うてな。親父殿は菅原道真公の祟りだと言っている。」
二十一歳になった伊周は朝廷内で切れ者として知られ、すでに正三位権大納言に昇進して道隆の右腕として働いていた。
「しかし父上、道真公には昨年正一位左大臣を追贈し、鎮撫のための法要も行ったではありませぬか。」
道隆は扇で口元を隠すと声をひそめた。
「そうなのだ。親父殿のあの口ぶりは何かを隠している。どうにも歯切れが悪かった。しかしそれは今はどうでもよい。肝心なのはその卦の中身だ。
卦には疫病を鎮めるためには朝廷を俺の身内で固めればよいと出たそうだ。俺の身内で朝廷を固めることによって地道を落ち着かせれば、天道もその良い影響を受けて治まると言っていた。良い卦が出た。これでお前も大臣になれる。」
八月二十八日、伊周は叔父の道長ら三人を飛び越えて内大臣に昇進した。上席の右大臣には道隆の弟道兼が当てられた。
これを知った道長は苦笑いを浮かべた。
「あの気位の高い伊周が内大臣か。いよいよもって増長するぞ。兄上にも一言言っておかねばならぬな。」
翌二十九日、道長は東三条邸に道隆を訪ねた。
「道長か、何をしに来た。伊周に越えられたことへの不満でも言いに来たか。」
道隆は道長が苦情を言いに来たと思い身構えていた。道長は微笑を浮かべて道隆と向き合った。
「いいえ兄上、不満などありませぬ。私は今のままで十分満足しています。これも父上と兄上のおかげです。ただ兄上は父上と違い、帝の義理の父にすぎませぬ。血の繋がりができたとは言えませぬ。身内をあまり急いで昇進させると、他の公卿たちから不満が出ましょう。時を見て、あまり目立たぬように昇進させることが伊周殿のためにもなると思いますが。」
道隆は道長が不満を述べに来たのではないことを知り、安堵の表情を浮かべた。
「いや道長、これにはわけがある。俺は闇雲に伊周を昇進させたわけではない。もちろん俺の後継として経験を積ませようという親心もあるが、それ以上に重要な理由があるのだ。
実は、近年の流行り病は菅原道真公の祟り、という噂がある。道真公の祟りによって地道に狂いが生じ、そのため疫病が蔓延しているというのだ。ある修法者にこの疫病を鎮める方法を尋ねたところ、俺の身内で朝廷を固めれば地道が治まるとのことだった。俺にとって一番の身内はやはり伊周だ。それでもまさか今、道兼をも越えさせるわけにはいかぬ。それでお前には悪いことをしたが、道兼を右大臣に、そして伊周を内大臣に据えた。
これは疫病を治めるためにやむを得ずしたことなのだ。気を悪くせず、お前もあいつを支えてやってくれ。」
道長は曖昧な笑顔を浮かべて道隆に小さく会釈をした。しかし内心では、道隆の言葉に納得したわけではなかった。都合のいい言い訳としか思えなかった。このことが朝廷に悪い影響を及ぼさねば良いが、と思いながら道長は邸に戻って行った。
同じ日の宵、行成は前日に行われた伊周の大臣就任の饗宴について日記をしたためていた。進行役は祖父保光だった。どのような儀式であっても、常に記録を正確に記しておくよう保光から厳しく言われていた行成は、宴が進行している間も懐紙に覚書を書き留めておく習慣がついていた。邸に戻ったあと、それを見ながら細かく正確に記録していくのである。
昨夜の疲れがたまっていたのか、行成はいつの間にか文机にうつ伏して眠ってしまった。
微かに声が聞こえた。
「行成、俺だ、青武者だ。」
行成は顔を上げて後ろを振り返った。薄闇の中に青武者がいた。
「行成、いよいよ道長の時代が始まる。心して道長を支えよ。
今、俺にはお前と晴明親子がついている。そしてあと二人。まだ先の話だが、あと二人加わる。総勢五人。五人そろえば怨霊と闘うには十分だ。」
灯された燭台の火がゆらりと揺れた。
「青武者様、晴明というのはあの陰陽師の・・・」
青武者は燭台の炎にチラリと視線を向けた。
「そうだ。だが今の晴明は怨霊との戦いには参加できぬ。持っている陰陽道の修法のすべてを吉平らに伝えることが今の晴明の役目だ。」
行成はさらに尋ねた。
「この度、道隆様のご嫡男伊周様が内大臣におなりです。道長様は今では伊周様よりご身分は下。二人の兄君に、さらに甥御様までもが道長様の上に立っておられます。それでも道長様の時代が来るとはとても・・・」
青武者は鋭い視線を行成に向けた。
「お前は知らぬがよい。これからの一年でお前にもわかるようになるだろう。道隆にも道兼にも、無論のこと伊周にも、天道を正す力はない。
お前と道長との関係も一年もすれば深くなる。お前はこれから一生道長とともに生きることになる。そして道長がこの世での役割を終えるまで、お前の役目も終わることはない。」
十月に入っても、伊周の大臣就任の祝いの宴は連夜にわたって行われた。あまり酒が好きではない伊周は公務を理由に早々に奥に引き下がったが、元来酒好きな道隆は、伊周の代わりとばかりに深夜にまで及ぶ宴に付き合っていた。祝いの席ということでその場にいた公卿たちの勧める盃をすべて受け、毎晩酔いつぶれるまで飲み続けた。道隆・伊周親子のこれからのさらなる権勢を考えてか、日頃あまり親交の深くない公卿たちや官僚たち、家人や郎党、さらには都の町人までもが東三条邸を訪れた。
十月も二十日を過ぎた頃、道隆は妻の貴子に身体の不調を訴えた。
「連夜の宴で、さすがに俺も疲れた。朝から水を飲み続けているせいか、身体が重くてならぬ。だがいくら飲んでもすぐに水が欲しくなる。とはいっても伊周の昇進を祝う席だ、出ぬわけにもいかぬ。何とかうまく断る方法はないものかな。」
貴子は常日頃から道隆の大酒を気に掛けており、連夜の泥酔に健康を案じていた。
「もうほどほどになさりませ。近頃は殿のやりようを快く思っておられぬ方々まで訪れてきております。気持ちだけで良いとでも仰せになられてお断りなさりませ。このままでは殿のお体がもちませぬ。」
道隆は貴子の言葉に頷いたが、夕方になると体調は回復し、祝いの客が訪れると、嬉々としてその相手をつとめた。宴は十一月まで途切れることなく続いた。そして十一月十三日、道隆は倒れた。
翌正暦六年(九九四)正月、病のために叙位や除目の朝議に参加できなかった道隆は、自邸の東三条邸の母屋の床の中にいた。横になっていた道隆は、終日朦朧とした意識の中で、荒涼とした景色の中を彷徨っていた。
―ここはどこだ。何ゆえ俺はこのようなところを歩いているのだ。
道隆は草木一本生えていない、岩山の間に続く谷間を歩いていた。空は濃い赤紫に染まり、辺りに聳え立つ岩山は地獄の炎に焼かれたかのように赤茶けた肌をさらしていた。小石に足を取られてひどく歩きづらい。何度も転びそうになるが、それでも道隆はとぼとぼと歩き続けた。
―俺はどこに向かって歩いているのだ。いつまでたっても景色が変わらぬ。
腰をおろして休もうとしても、道隆の意思に反して足が前へ前へと出て行き、休むこともできない。
―俺は地獄に向かっているのかもしれぬ。死ぬ前に御仏のお導きを求めなかったせいなのか。だが倒れた時にはそのような時間はなかった。俺のせいではない。仏ならそれくらいわかるはずだ。
道隆は声を振り絞って叫んだ。
「おーい、誰かおらんか。」
声は木霊となって何度も岩山に響いた。
とその時、道隆の声が合図ででもあったかのように突然空が暗くなり、辺りは闇に覆われた。
―なんだ、何が起こったのだ。
道隆は前方に目を凝らした。闇の向こうにぼんやりと人影が見えた。自分の意思では立ち止ることのできない道隆は、不安を感じながらも、その人影に向かって近づいて行くしかなかった。
低い声が聞こえた。
「止まれ。」
道隆の意思に関わりなく突然足が止まった。再び声が聞こえた。
「道隆、お前をここへ呼んだのはこの俺だ。お前と少し話がしたいと思うてな。お前の邸を訪れてもよかったのだが、先のないお前に、お前が住んでいる世界とはまた違った世界を見せてやろうと思ったのだ。
ここはお前の心の中にある幻の世界だ。だが幻とはいえ、こうして確かに存在している。ここでお前を殺せばお前は現世でも死ぬ。人は死ぬと、ここからあちらの世に旅立つ。お前が住む世とあの世を繋いでいるのはこの、心の中にある幻の世界だ。お前たちはここを魂と呼んでいる。これがお前の魂の世界だ。
人は誰でも心の中にこうした世界を持っている。人それぞれ景色は違っているがな。死が近づくと、ここは次第に小さくしぼんでいく。そして死に至った時、大きさも重さも持たぬ小さな粒となって天に昇る。
お前の心の中のこの場所も縮んできている。そうだ、お前は間もなく死ぬ。」
穏やかな声で話しながら、声の主が近づいてきた。やがて道隆の前にその姿が現れた。全身真っ青な武者だった。青武者が現れると、辺りは藍色に輝き始めた。
「俺が死ぬだと。俺は酒の飲み過ぎで疲れているだけだ。少し休めばすぐによくなる。そもそもお前は何者だ。俺の夢の中に現れて何を勝手なことを言っている。不吉なことを言うな。」
青武者は道隆の目を見たまま岩山を指さした。
「周りを見ろ。山が小さくなってきていることに気づかぬか。お前の身体も縮んできている。」
道隆は辺りを見回した。先程までは天にも届きそうに聳え立っていた岩山が、今は半分ほどの高さにまで小さくなっていた。また青武者の身体が少しずつ大きくなってきているように感じた。それは自分の身体が縮んでいるためだと道隆は気づいた。
「これは夢だ。俺が死ぬなど・・・お前は人の夢を操る夢師に違いない。何が目的でこのような事をしている。誰に頼まれた。わが一門の栄華を妬む者の仕業か。」
青武者はさらに一歩、道隆に近づいた。
「道隆、お前はもう分かっているはずだ。お前の身体は酒毒に蝕まれている。もう元には戻らぬ。連夜の祝宴がお前の命にとどめを刺した。だが身の周りを整理するくらいの時間は与えてやろう。それ以上のことをしてはならぬ。お前が何かを企んでもそれはかなわぬ。俺が許さぬ。」
そう言うと青武者の姿は薄れ、辺りは再び闇に包まれた。
道隆は夢から覚めた。若い頃、父兼家や弟道兼から青武者について話を聞いていたことを思い出した道隆は、死の恐怖と不安に襲われた。青武者の話を信じるしかなかった。
翌二月の二十二日、衰えぬ疫病を鎮めるため改元され、長徳元年となった。三月に入り、度々危篤に陥った道隆は、長男伊周に関白職を代行させるよう帝に奏上した。これに対して一条帝は三月八日、関白が病の間は宣旨などをまず関白に見せ、次に内大臣伊周に見せるようにとの勅命を、頭中将藤原斉信を通じて伊周に伝えた。関白ではなく、関白代行ですらなかった。伊周は約束が違うとして拒否した。一条帝はこれを聞き、すべて関白道隆の意のままに行うように、との指示をあらためて斉信に伝えた。そして道隆の同意を受け、道隆が病の間はすべての書類を最初に見る内覧の職に伊周を就けるという勅命が出されることになった。
翌三月九日の朝、東三条邸に伊周、高階成忠、成忠の息子の左少弁高階信順が集まった。
「お爺様、信順殿、これでは私が関白になることが約束されたことにはなりませぬ。〝病の間″ということであれば、もし父上がお亡くなりにでもなれば、私の内覧の地位はまた白紙に戻ってしまいます。〝病の間″ではなく〝病のゆえ、かえて″であれば、何があっても私は内覧の地位に留まれます。またそのまま関白の地位に就くことにもなりましょう。
私は関白道隆殿の嫡男です。中宮様の兄でもあります。帝は何ゆえ私を内覧にするという勅命をお出しにならないのか、どうにも納得がいきませぬ。」
激昂する伊周を、成忠は腕組みをしてじっと見ていたが、信順をチラリと見て口を開いた。信順は目を閉じ、黙って聞いている。
「じゃがな伊周殿、帝のご意思とあれば我らにはどうすることもできん。それにこの勅命はお父上の道隆殿も了承しておられるとのことじゃ。頭中将が道隆殿を訪ねて確かめておる。それを覆すなど無理なことじゃ。それをあえて主張すれば帝の覚えも悪くなりかねん。ここは一旦引き下がり、道隆殿の病状を見ながら次の手を考えるのが上策だと思うがな。」
それまで口を挟むことなく、黙って話しを聞いていた信順が口を開いた。
「父上、しかしやって見る価値はありそうですぞ。帝がご意思をお変えにならなくても今と何も変わらず、もしお変えになられれば伊周殿の関白就任は決まったようなもの。
勅命が出る前にこちらから上表文を提出いたしましょう。勅命が出てしまえば、それこそもう打つ手はありませぬ。私にお任せいただけませぬか。あまり時間もありませぬゆえ。」
信順は墨と紙を借りると、その場で上表文をしたためた。そこには伊周が道隆の嫡男であり内覧の職に就く権利と資格があることが述べられており、さらに伊周を関白に就けることが政を進めるうえで最も優れた選択であることまでもが記されていた。
「伊周殿、父上、いかがですか。伊周殿を関白に推挙すれば、帝も簡単には結論をお出しにはなれない。次の手を打つ時間を稼げましょう。すぐに私がこの上表文を内裏に届けましょう。」
信順は上表文を箱に収め、それを手にして東三条邸を出た。
一方内裏では、一条帝の生母である東三条院詮子が早朝から御所に入り、帝と話しあっていた。正暦二年(九九一)二月に円融上皇が崩御し、詮子はその年九月に出家して皇太后を返上し、東三条院と名のっていた。
「伊周が帝の勅命に従わぬと聞きました。無礼です。許してはなりませぬ。この話しを伝え聞いた参議実資がただちに土御門邸にわたくしを訪ねてきました。実資は、勅命に従わぬなど古今に例がないと激しく憤っていました。実資は気難しいところもありますが、言うことは道理にかなっています。病の間だけならばともかく、あのように、帝に対する礼儀作法をもわきまえぬ若輩者を内覧に据えてはなりませぬ。帝のご権威にも傷がつきます。伊周の申し出を決してお許しになってはなりませぬ。
そもそも摂政・関白の地位の移譲は、伊尹どののご兄弟が順に関白にお就きになられた先例に従うべきでありましょう。そのようにせねば他の公卿たちの同意は得られませぬ。一気に世代交代をすれば職を辞さねばならなくなる公卿が大勢出ます。世に不満が満ちることになりましょう。」
一条帝も伊周が勅命に従わなかったことに、少なからず不快感を抱いていた。中宮である定子の兄ということで多少の遠慮もあり、また同時に親しみも持っていたが、十六歳になった一条帝には帝としての自覚も芽生え始めていた。
「はい東三条院様、私もそのように考えています。最近、伊周の朝廷での振る舞いには目に余るものがあると聞いています。他の公卿たちの意見を聞かず、独断で朝議を進めているようです。下の者たちの意見を聞いてこその正しい政。それゆえ朝議では下の者から意見を述べる習わしができています。
斉信に道隆の考えを確かめに行かせたとき、道隆は伊周を内覧の職に就かせたいと申し述べたそうです。しかし私がそれを許しませんでした。病の間だけならば内覧を許すが、道隆にかえての就任を望むなら他の者に内覧を申し付ける、と伝えると、道隆は病の間のみの就任を渋々ながらも認めました。私は伊周の道隆にかえての内覧就任を認めるつもりはありませぬ。」
ちょうどその時、蔵人頭源俊賢が上表文を手に、信順の参上を伝えた。一条帝は昼御座に出座し、東孫廂にいた信順に会った。信順は伊周の内覧就任をあらためて帝に要請した。しかし帝は聞き入れず、〝病の間″と書かれた勅命を正式な文書にすることを俊賢に指示した。俊賢は勅命の下書きを大外記中原致時に手渡し、急ぎ正式文書を作成するようとの指示を出した。
下書きを受け取った致時が文書を作成するため外記庁に戻ると、そこには信順が致時を待ち受けていた。信順は致時の事務机の脇に座り、致時を手招きして言った。
「致時、悪いようにはせぬ。勅命の内容を少し書き換えてはくれぬか。いや、勅命の内容を変えるほどの変更ではない。ほんの二文字か三文字だ。頼まれてはくれぬか。」
致時は自分の直属の上司に当たる信順の申し出に、不審な顔をして尋ねた。
「いかなるご変更でございましょうか。私は俊賢様から直々に命を受けております。俊賢様は、一字一句間違いのないように写せ、と仰せでございました。何かご心配なことがおありなのかとお見受けしたほどでございます。いかに信順様のご依頼でも、この度ばかりはお引き受けはできかねるかと・・・」
信順は顔の前で手を振りながら笑顔を浮かべた。しかしその目は致時を睨んでいるのかと思わせるほどに鋭く光っていた。
「何も気にすることはない。俊賢様はあのように細かい性格のお方だ。いろいろご心配をなさっておられるのだろう。
正式な勅命の中で一字や二字間違っていたことなど、これまでもあった。写す中で直した方がよいと思い、そなたの判断で直したこともあったであろう。この度もその程度のことだ。とにかく私の話を聞いてくれ。」
〝病の間″を〝病のゆえ、かえて″と書き換え、それをそのまま自分が伊周に届ければ、それはそのまま正式な勅命になると考えていた信順は、致時にその書き換えの重要性を覚られるわけにはいかなかった。
「いや実はな、そなたも知っているように、関白道隆様が病でお倒れになられたゆえ、内大臣伊周様が内覧に就任することが決まった。だが道隆様の御容態がはかばかしくない。そこで朝廷では伊周様を臨時の内覧とするか、常任の内覧とするかについて話し合われた。しかし結論が出なかった。もちろん道隆様の病が回復すれば再び道隆様が内覧に復帰されればよいのだが、どうも難しいようだ。
内覧と言えば帝のお側にいて、帝に代わって諸事を進めねばならぬお立場。それが臨時では政に支障が出かねぬ。公卿方は道隆様に気をお配りになって〝病の間″とされたのだが、実は本当は〝病のゆえ、かえて″としたいご意向。そこで私が公卿方の意を汲んでここに来たというわけだ。」
致時の頭の中に俊賢の生真面目な顔が浮かんだ。一方、目の前の信順は視線を致時から曖昧に逸らしたままだった。
「信順様、ご意向は分かりました。しかしながらこの件につきましては私の一存では決めかねます。もう一度俊賢様に確かめてまいります。」
致時は信順に背を向けて外記庁を出ると、俊賢に再び面会を申し出た。下書きに何か不備でもあったのかと思った俊賢は、帝の前を退くと急いで致時に会った。
「致時、いかがした。何か勅命に不適切ところでもあったか。」
この勅命だけは何にせよ急ぎ発せねばならないと考えていた俊賢は早口で尋ねた。致時は辺りに人がいないことを確かめたのち話し始めた。
「俊賢様、実は先程外記庁に戻りますと、そこに左少弁高階信順様がおられました。信順様は俊賢様よりお預かりいたしました文を少し書き換えてほしいとお申し出になりました。それは俊賢様を初めとする公卿の方々のご意向であるともお話しになりました。
私は俊賢様から間違いなく写すようにと仰せつかっておりましたゆえ、俊賢様のお心の内を確かめるべく参上いたしました。」
俊賢の目が細く鋭く光った。
―信順がそのようなことを・・・伊周様のご指示か・・・
俊賢はそう考えたが、それは口に出せることではなかった。感情を抑え、できる限りの穏やかな声で致時に言った。
「致時、私の心は先程そなたに申し述べた通りだ。一言一句変えてはならぬ。私の言葉は帝のお言葉と心得よ。」
致時が退出したあとも俊賢は一条帝の許に戻らず、そこに座って考え続けた。俊賢は一条帝の傍に常に付き従っているため、帝の伊周への親愛の情も分かってはいたが、それでも勅命に逆らうなど伊周の強引なやり方に反発を感じていた。
―伊周様は他の公卿たちの反感をお感じにはなっておられぬ。公卿たちは関白道隆様のご威光のゆえに従っているだけなのだ。伊周様には経験も実績もまだまだ足りぬ。帝もそれはお分かりになられておられる。だから替えて内覧にはお就かせにならなかった。だがこのままでは伊周様は何かおかしなことを起こしかねぬ。起きねばよいが・・・
ひと月後の四月十日夜、道隆が没した。翌十一日、東三条邸の西の対に、再び伊周、成忠、信順の三人が集まった。
伊周は不安と焦燥を隠せず、膳の上げ下げについてさえ家人に当たるありさまだった。それを宥めるかのように成忠が口を開いた。
「伊周殿、そんなに焦っても仕方なかろう。落ち着きなされ。内覧職をまだ解かれたわけではなかろうが。関白宣旨の可能性があるのは伊周殿と道兼殿しかおらん。それに伊周殿は臨時とはいえ、いまだ内覧の職にあるのじゃから、関白就任の宣旨が出るに決まっておる。今は待つしかなかろう。」
そう言いながらも、成忠の心の内にはやはり不安があった。すんなりと伊周を関白に就任させるつもりなら、道隆が病の時にすでに常任の内覧になっているはずだった。しかしそれを言うわけにはいかない。伊周の焦りをさらに煽るようなものだ。
伊周は右手の指の爪を噛みながら、左の手に持った檜扇の開閉を繰り返した。扇の骨の擦れる音がザラザラと部屋に響いた。その音を耳障りに感じた信順が口を開いた。
「伊周殿、ひとつ考えがあります。誠に恐れ多いことですが、中宮様のお力をお借りになってはいかがでしょう。御仲睦まじい帝と中宮様です。帝も中宮様のお言葉ならばお聞き入れになるやも知れませぬ。」
信順は、さすがに中宮定子の力を借りることを伊周が認めるとは思っていなかった。しかし伊周は扇で膝を一つ叩くと、顔を輝かせた。
「それはよい。」
同時に成忠も口を開いた。
「それはならぬ。」
伊周は成忠の言葉を聞くと、厳しい視線を向けて成忠に問うた。
「何ゆえです。中宮様は私の妹、私のためならば帝を説得してくれましょう。私が関白になれば中宮様の後ろ盾としても盤石。皇子をお生みになれば、その皇子は春宮にもなれましょう。すべてがめでたく収まります。何ゆえ反対をするのです。」
成忠は永祚二年(九九〇)の正月に現れた青武者を思い出していた。道隆にも、もちろん伊周にも話してはいなかったが、成忠は青武者の言葉を忘れたわけではなかった。青武者は、定子は皇子を生むがその皇子は帝にはなれぬ、と言っていた。無理にも帝にしようとすれば定子は魔道に堕ちるとも言っていた。成忠は定子を巻き込む気にはなれなかった。天久と地久の無惨な姿が脳裏に鮮明に浮かんだ。
成忠は体が震えそうになるのをこらえながら言った。
「伊周殿、中宮様を表向きのことに巻き込んではならん。まだご懐妊の兆しも見えんうちに、お二人の仲に罅が入るかもしれんようなことをしてはならんぞ。立太子の話など、皇子がご誕生になられたのちのことじゃ。何かほかに良い手立てがあるはずじゃ。」
しかし伊周は引く様子を見せなかった。
「どのような手立てがあるのです。今、関白職は空席です。道兼殿に関白宣旨が出されれば、それこそもう手立てはありませぬ。
時間がない。中宮様のお力をお借りします。」
伊周は成忠の制止を振り切り、宿下がりをしていた定子の許へ向かった。あとに残された成忠は不安げに人差指で膝を叩き続けた。それを見た信順が声をかけた。
「父上、何か心配事がおありなのではございませぬか。お顔の色がすぐれませぬが・・・」
成忠は迷った。信順に青武者の話をすれば、青武者が話した定子の将来に触れないわけにはいかない。しかし定子の力になれるのは信順をはじめとする息子たちしかいないとも思う。伊周の兄弟では幼すぎる。また道隆の兄弟は定子の味方とは限らない。将来、官位を巡って、むしろ敵にまわる可能性が高い。
成忠は信順にある程度話しをしておく必要を感じた。
「心配事、いや不安、そうじゃ、儂は不安なのじゃ。
お前は青武者の噂を聞いたことがあるか。儂は道隆からちらりと聞いたことがある。道兼からもな。二人は、青武者は兼家殿の守護神だと言っておった。じゃが儂はそうは思えん。あいつは恐ろしい怨霊じゃ。何か魂胆があって兼家殿に近づいたに決まっておる。
実は儂の前にも現れたことがあるのじゃ。もう五年になる、青武者が現れてからな。その時儂は二人の陰陽師と修法を行っておった。定子の入内直後のことじゃ。儂は定子が早く皇子を生み、その皇子が春宮になるようにと祈祷をしておった。その時に青武者が現れた。二人の陰陽師は殺された。闘う間もなくじゃ。本当にあっという間じゃった。車に轢かれて潰れた犬のような無惨な死に様じゃった。今でも二人の血塗れの骸が目に焼き付いておる。忘れられん。
その青武者が儂にこう言ったのじゃ。定子は皇子を生む。だがその皇子は帝にはなれん。俺がさせん、とな。儂はその時、青武者が定子に害をなすと感じた。それで儂は青武者を咒殺しようと考えたのじゃ。それで殺された陰陽師の弟弟子にあたる二人の陰陽師を呼び、青武者の正体を調べさせた。二人は安倍晴明に迫るほどの修法者じゃ。じゃがそれでもいまだに正体はわからん。
今でも二人は青武者の正体を探っておる。僧形で時折儂の邸を訪れる二人がその陰陽師じゃ。二人は何としても青武者を斃すと息巻いておる。二人と青武者の間に何かあったのかもしれん、儂には何も言わんがな。
それにしても、あの二人でさえいまだ正体が掴めんほどの怨霊じゃ。並大抵の力ではあるまい。あの日以来儂の前には現れんが、定子が伊周のために動き始めれば、定子に害をなそうとまた現れるかもしれん。今現れれば儂の力ではどうにもならん。それで儂はお前の考えに反対したのじゃ。」
信順は驚き、大きく目を見開いた。
「では父上、あの噂は本当だったのですか。兼家殿や道隆殿に幸運が巡ってきたのは青武者がついているからだという噂が宮中で密かに囁かれておりました。けれども父上のお話しによれば、青武者はお二人の守護神ではなく、中宮様を害すために現れたと・・・
しかし、しかし父上、もしそうなら青武者は直接中宮様に憑りつけばよいのではありませぬか。何も二人の昇進の手助けをする必要などないと思われますが。」
成忠はじっと信順を見つめた。やがて大きく一つ息をすると、諦めたような口調で再び話し始めた。
「信順、青武者は重大なことをもう一つ儂に告げた。
実は青武者は、ある男を世に出さねばならんとも言ったのじゃ。儂はこの言葉と兼家・道隆親子の出世には関係があると思うた。それで二人の陰陽師が死んだ夜、道隆を訪ねたのじゃ。道隆の兄弟の中にその男がいるのではないかと思うてな。じゃが分からなんだ。
あるいは伊周の兄弟かもしれん。伊周の七人の兄弟の内の誰かを世に出すために、兼家・道隆親子の出世の手助けをしたとも考えられるからな。そう考える方が筋が通るようにも思える。
じゃがいずれにせよ、定子が表向きのことに口を出すようになると定子の身が危ないのじゃ。」
信順は片膝を立て、その姿勢のまま成忠に言った。
「父上、すぐに中宮様の許に行き、伊周殿を止めてまいりましょう。」
成忠は手を上げて信順を制した。
「もうよい。お前も伊周の性格は知っておるじゃろう。なまじ止めれば、躍起となって自分の主張を通そうとするに決まっておる。
今すぐにはどうというわけでもなかろう。放っておけ。」
翌四月十二日、中宮定子は東三条邸から急ぎ内裏に戻った。定子の父道隆の死から二日後のことで、内裏は死穢に触れた。公卿たちは定子の非常識を陰で囁き合ったが、定子はそれを意に介す様子もなく一条帝の許に向かった。
帝の周りにいた蔵人たちに席を外すように伝えると、定子は一条帝の傍らに歩み寄り、腰をおろした。両手を膝の上に揃え、笑みをたたえた定子は、一条帝に顔を向けて口を開いた。
「只今戻りました。父道隆どのの触穢にも係らず帝から度々参内を促すお文をいただき、嬉しく思いました。わたくしもまた帝にお願いしたきことがあり、急ぎ参上をいたしました。」
一条帝も笑顔を絶やさずに定子と向き合った。
「道隆の件は心から悔みを言う。力を落さぬように。
そなたがいつ戻ってくるのか、心待ちにしていた。思いのほか早く戻ったので安堵した。触穢など祓をすればすむことだ。気に病むことはない。これほど早いとは思っていなかったが、それでもそなたが戻ってくることは誰もが知っていた。すでに大祓の準備に入っていることだろう。
ところで今願いと言ったが、どのような願いなのだ。」
一条帝はあまりに早い定子の参内と人払いに、少なからぬ不安を感じていた。
「お願いというのは他でもありませぬ。伊周どのの関白就任の件でございます。このお願いのため人払いをいたしました。
道隆どのも伊周どのの関白就任を願っておりました。また帝も臨時とはいえ伊周どのを・・・」
一条帝は定子の言葉を遮った。
「定子、その件はまだ何も決めてはおらぬ。関白の地位がいつまでも空席というわけにはいかぬゆえ、早く決めねばならぬと思ってはいるが、まだ結論に至っているわけではない。今の段階で伊周を排除しているわけでもない。当然有力な候補の一人だ。だがまだ決めるのは早い。様々な事情を考慮せねばならぬ。
そなたの気持ちもわかるが、公卿たちの思いも汲み取る必要がある。臣たちが納得をする決定をすることが、帝たる私の役割なのだ。聡明な中宮ゆえそれは分かってくれよう。」
帝からそう言われ、定子は口を閉ざすしかなかった。
一条帝は定子が戻る一刻ほど前の、詮子との話し合いを思い出していた。詮子は伊周の関白就任には断固として反対し、伊尹の兄弟の先例から、道兼を強く推していたのだ。生母であり、また国母として多くの臣から慕われていた詮子の意見は、一条帝には無視できないものだった。
一条帝の心は揺れていた。伊周には中宮定子の兄として親しみを感じているが、同時に伊周は多くの公卿たちの反感をかっている。また臨時の内覧に就任してからも、ほとんど実績を残していない。
一方道兼は情に薄く陰謀好きと言われ、様々な策を弄するため、やはり他の公卿たちからの人望は薄い。ただ、公卿たちの間には世代交代を嫌う気持ちが強く、伊周より道兼を支持する声が多かった。
一条帝は決めかねていた。もやもやとした鬱屈を心に抱いていた一条帝は定子の肩に手を置き、二人はそのまま床に横たわった。
内裏から土御門邸に戻った詮子は道長と向かい合っていた。幼いころから度胸もあり、また才にも優れていた五つ違いの弟道長を、詮子は兄弟の中で最も愛していた。そして常々、ゆくゆくは道長の後ろ盾になろうと考えてもいた。またそのせいか、幼いころから道長も詮子を慕っていた。定子の入内にともなって詮子が内裏を出たあと、道長の邸である土御門邸に入ったのはそうした事情があったからだった。
「道長どの、そなたはどのように考えているのですか。もちろん道隆どのの後継の件です。わたくしは伊尹どののご兄弟の例に従い、道兼どのが受け継ぐべきと考えています。いいえ、伊周に受け継がせるべきではないと考えています。関白に就くには二十二歳という若さ、若すぎます。それよりなにより、帝への非礼といい、伊周はまだその器には達しておりませぬ。
わたくしはそなたが関白を継ぐべきと、本当は心の内では思っています。とはいえ、そなたが今道兼どのを越えるわけにはいきません。秩序を乱せば世が乱れましょう。けれども道兼どのが継げば、次は必ずそなたが継ぐことになります。わたくしはそれを望んでいます。」
道長はその言葉にはにかむような笑みを浮かべた。それでも、きっぱりとした口調で詮子に答えた。
「東三条院様もお気づきでしたか。伊周には人心を掌握する力はありません。伊周が関白になれば、公卿たちは理由をつけて出仕を拒むことさえいたしましょう。それゆえおそらく、伊周は周りを気心の知れた者で固めることでしょう。そうなれば帝の思いは臣には届かず、臣の心が帝に達することもなくなります。美しい政の伝統が失われてしまいます。
私も伊周の関白就任には反対です。内覧職においても、伊周は何一つ実績を上げておりませぬ。
しかし東三条院様、私は摂関への望みなど持ち合わせてはおりません。私より上席の方々がおられます。私は今のままで良いと思っています。その時に誰かその地位に相応しい者が現れれば、その者が継げばよいと思っています。伊周がその地位に相応しい者となれば、その時には伊周でもよいでしょう。ただもちろん、兼家殿の息子として生まれてきた以上、そうした者が現れなければ、という覚悟だけは常に持っています。」
詮子はにっこりとほほ笑んだ。
「それはよい。その覚悟だけは忘れぬように。
この度の流行り病で多くの人が亡くなっています。公卿たちの間にも病は忍び寄ってきているようです。そなたも気を付けるように。
わたくしはこれからもう一度御所に行き、帝と話し合って来るつもりです。」
道長の覚悟を胸に、詮子は再び御所に向かった。
長徳元年(九九五)四月二十七日、右大臣道兼に関白宣旨が下った。
席次からいってもそれは自然な成り行きであったが、伊周の落胆は半端なものではなかった。伊周は荒れに荒れた。
「何ゆえ俺ではないのだ!」
辺りにあるものを、伊周は手当たり次第に床に投げつけた。壺、文箱、硯、扇などの破片が床に散った。伊周はさらにそれを踏みつけ、毀した。
そこに成忠が現れた。
「伊周殿、なにをしておる。この散らかり様は何じゃ。少しは落ち着きなされ。物に当たったところで何も変わりはせん。」
伊周は成忠を睨みつけた。
「お爺、お爺は私に関白宣旨はこの伊周に下ると言ったではないか。なのに何だ、道兼殿にさらわれたぞ。もうこれで私はおしまいだ。私はもう関白にはなれぬ。」
肩で息をしている伊周を横目で見ながら、散らかった破片を脇に寄せて成忠は床に腰をおろした。
「何を言っておるのじゃ、伊周殿。まだ次があるじゃろう。もっとも、このままでいくと道兼殿のあとは道長殿。じゃがこの二人がおらなんだら伊周殿、次は必ず伊周殿じゃ。ここは一つこの爺に任せてはくれんか。」
仁王立ちになってじっと成忠を睨みつけていた伊周の顔がふっと緩んだ。
「お爺、何か良い考えでもあるのか。聞かせてくれ。」
成忠は顔を歪めながらも、無理に笑顔を作った。
「余計なことは知らん方がよい。爺に任せるのじゃ。」
成忠は、今回の関白宣旨は東三条院詮子の意に沿ったものと考えていた。詮子が生きている限り伊周が関白に就任することはできないとも感じていた。
深夜、成忠は顔を頭巾で隠し、六道珍皇寺の裏手にある雲久と海久の塒へと向かった。堂の近くまで来ると辺りに人影がないことを確かめ、成忠は堂の中に入った。
正面に祀られている曼荼羅に近づき、脇の板壁を小さく三度叩くと、さらに一度強く叩いた。やがて人の動く気配とともに曼荼羅がたくし上げられ、海久が顔をのぞかせた。成忠は曼荼羅をくぐって隠し部屋に入った。
成忠は二人の前に座り、頭巾を取った。
「雲久、海久、青武者の正体はまだわからんか。
まあ、よい。実はお前たちの耳にはまだ届いてはおらんじゃろうが、今日道兼に関白宣旨が下った。このままでは伊周の関白就任の目はなくなるかもしれん。次はおそらく道兼の息子、あるいは道長が継ぐことになるじゃろう。で俺は考えた。もし道兼と道長がおらなんだらどうじゃろう、とな。そうじゃ、そうなれば伊周の関白就任は間違いなかろう。
そこで雲久、海久、しばらくの間青武者探しはやめろ。お前たちは道兼と道長を咒詛するのじゃ。殺してもかまわん。いや殺せ。流行り病に見せて咒殺せい。お前たちなら造作もないことじゃろう。
すぐにかかれ。二人を殺せば褒美は意のままじゃ。二人をうまく除くことができれば、晴明との修法較べの場を仕立ててやることも考えてやろう。どうじゃ。」
雲久と海久は互いに顔を見合わせた。晴明との修法較べは二人の長年の念願である。道兼と道長の咒殺は二人にとってたやすいことに思えた。
雲久が口を開いた。
「我ら兄弟にとって、晴明との修法較べは悲願ともいえるもの。晴明に代わって修法者の頂点に立つことは、兄弟子天久様・地久様の望んでおられたことでもございます。しかしながら我らは外道の陰陽師。晴明と闘うことは、どれほど望んでもなかなか叶えられることではありませぬ。もし成忠様にそうした場をお作りいただけるのであれば、我ら兄弟、成忠様のために全力を尽くしましょう。
なに、修法者でもない道兼と道長の咒殺など、我らにとってはたやすきこと。すぐに成忠様のお心に添う結果が得られましょう。ただちに準備に入り、明朝から始めることにいたします。まずはすでに宣旨を受けた道兼、続いて道長の順で行いましょう。」