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よみがえる業平

 ときの異常は天元三年(九八〇)五月二十八日に始まった。しかしそれはまだ小さく、異常に気づいた者は誰もいなかった。軽い眩暈めまいや、視覚と聴覚の微妙なズレを時に感じるにすぎなかった。

 やがて都中の人々が体の変調を訴え始めた。公卿たちはまた疫病が流行する兆しかと恐れたが、事態はそれ以上悪くなることはなく、季節は夏から秋、冬へと移っていった。

 翌天元四年、刻のズレは次第に大きくなっていった。 

冬に入って間もない十月初め、四条河原において陰陽寮大属おんみょうりょうおおさかんに対する棒叩きの刑が執行された。大属はその後都から追放された。刻をしゅによって故意に遅らせた罪である。太陽や月の進行と刻の流れが一致しないため、内裏での様々な儀式や節会せちえにも大きな支障がでていたのである。

 時計は陰陽寮に厳重に管理されている。そのため陰陽頭おんみょうのかみは誰かが咒を送って刻を遅らせたと考えた。そして後ろ盾がないためなかなか出世ができず、世の中への恨み言をしばしば口にしていた大属に疑いの目を向けた。大属はその罪を否定し、またその証拠も出てこなかった。しかし拷問ともいえる調べの中で、結局大属は罪を認めた。

 同じ年の大晦日、黒ずんだ弁柄色べんがらいろの太陽が昇った。辺りは昼間でも薄暗く、都の人々は災厄のしるしではないかと恐れた。

 その夜、空の穴とも見紛う真黒な月が昇ると、都がきしみ始めた。大気が歪み、夜空がみしみしと音を立てた。人々は、嵐にもまれて軋む舟が頭の中に入り込んだかと思うほどの激しい耳鳴りと、大岩に挟まれたかのような頭痛に転げまわって苦しんだ。とりわけ都の中心部、朱雀大路すざくおおぢ周辺には、耳から血を流し、叩かれた紙風船のように頭が潰れて死んでいる者や、狂い死にをする者が大勢いた。なかでも子供たちは石臼で挽かれたように全身がひしゃげ、首や手足がじ切れた姿で息絶えていた。朱雀大路には、犬や猫はもちろんのこと、牛や馬までもが頭を潰されて倒れていた。

 追放された大属のたたりという噂が都に流れた。内裏での新年を迎える祈祷きとうは中断され、怨霊を鎮める祈祷に切り替えられた。しかし祈祷を行う僧の中にも、読経のさなか息絶える者が続出した。

 長く凄惨な夜が明け、正月の朝が来た。太陽が昇ると同時に大気の軋みが消えた。それまでのたうち廻っていた人々の痛みは跡形もなく消えていた。

 あちこちに転がる、人や動物たちの無惨な死骸だけが、悪夢のような一夜を物語っていた。


 天元五年(九八二)二月二十五日深夜、人通りの絶えた朱雀大路を整然と北に進む一行があった。一行は三条大路を右に曲がり、大宮大路に入るとさらに北に向かった。

 束帯そくたいを身に着け、矢を数本入れた胡籙やなぐいを背に、左手には弓を抱え、太刀たちを腰にした正装の武者が一行を騎馬で先導している。中央には八人の屈強な男たちが担う葱華輦そうかれんが、薄闇の中に、そこだけ白く浮き上がるように見えている。脇には武装した武士が数人、周囲に気を配りながら従っていた。

 一行は一条大路に突き当たるとそのまま大路を横切り、内裏の北にある大きな屋敷の東側に構えられた総門の前に止まった。その日の昼、十一歳になった藤原行成ふじわらのゆきなりが元服を行った桃園邸の門前である。桃園邸の名はかつてその辺り一帯が桃園であったことに由来し、現在は行成の母方の祖父、源保光みなもとのやすみつの邸となっている。

 騎馬武者は門の正面に馬を停め、両腕を門に向って突き出すと、ゆっくりとその腕を左右に開いた。腕の動きとともに大きな門が音もなく左右に開いた。

 一行は再び動き出すと邸の南庭に入った。灯りは全て消えており、邸の住人は寝静まっている。夜空には薄い雲を通して銀色ににじむ細い月が見えた。

 騎馬武者は馬を降りると、庭の中央に据えられた葱華輦そうかれんの脇に歩み寄り、声をかけた。

 「恬子やすこ、着きましたぞ。」

 葱華輦の脇の垂布があげられ、中から裳唐衣姿もからぎぬすがたの女が降り立った。小袿こうちぎは柳、表着うわぎには桜、そして順に淡い樺桜かばざくらの見事なかさねの色目である。裳は禁色きんじき地摺ぢずりであった。艶やかな黒髪をすそより一尺ばかりも長く引いている。女は武者の後ろに従い、二人は寝殿の南簀子みなみすのこに付けられたきざはしに向かった。従者たちは葱華輦の周りにひざまづいて二人を見送っている。

 武者は階の前で立ち止まると振り返って女の手を取り、ならんで階を昇った。昇り終えると武者は再び女の前に立ち、西の対に向かって歩き始めた。やがて二人は西の対の暗闇の中に消えた。


 元服げんぷくを終えた行成は、その時の緊張の名残と、今日から大人の仲間入りをしたという興奮で、床に就いたあともなかなか寝付けなかった。何度も寝返りを繰り返しながら、それでも元服を終えた嬉しさに、ついにやりとしてしまう。

 祖父の保光に与えられた行成という名も気に入っていた。元服の儀のあとのうたげで、口の悪い叔父たちは、「〝ゆきなり″いい名だ。逆さに読むと〝なりゆき″となるところがなんともいえぬ。お前は運が良ければ成り行きで関白になるやもしれぬ。」などと言って行成をからかったが、「行いを慎み、大きな男に成り行け。」と言って付けてくれた保光の思いを知っていた行成は、その名を誇らしく思っていた。

 行成の父方の祖父は一条の摂政せっしょうと呼ばれた藤原伊尹ふじわらのこれただである。しかし伊尹は行成誕生の年に病で亡くなっていた。父義孝もその二年後に疫病えきびょうかかって死んだ。そのため、行成は父の顔も祖父の顔も覚えていない。生きていれば元服を喜んでくれただろうとは思うが、その気持ちに実感はなかった。存命ならば自分の元服の儀にもっと多くの公卿くぎょう殿上人てんじょうびとが集まり、さらに晴れ晴れしいものになっただろうに、と思う気持ちの方が強かった。自分は九条藤原の本流であるという自負がそう感じさせる。醍醐帝だいごのみかどの孫ではあっても、臣に下って源姓を名乗っている保光には、もうそれほどの力はなかった。

 いつの間にか眠ってしまっていた行成は夢を見ていた。斎宮群行さいぐうぐんこうの夢である。

行成は深い森の中に建てられた、神社に似た小さな建物の中にいる。頓宮とんぐうと呼ばれる、斎宮が群行の途中で宿泊する建物であったが、十一歳になったばかりの行成はその名をまだ知らない。

 扉は閉まっており、内部は夜明け前の空のような濃い藍色に染まっている。

 行成は扉を背にして座っている。しかし行成には頓宮の中にいる自分の姿も、外の景色も見えている。

 森は濃い藍色のなかに沈んでいる。

 真黒な月と明るく輝く月が、二つ並んで木立の上に見えている。

 真黒な月は細かく震えている。

 数人の従者を従えた群行の列が神社の前に止まった。

 葱華輦そうかれんの垂布があがる。

 裳唐衣姿もからぎぬすがた斎宮さいぐうが降り立つ。

 束帯を身に着けた正装の武者が斎宮の手を取り、きざはしを昇る。

 行成の背後で扉が開く。

 中に入ってくる。

 橘の香りが頓宮のなかに漂う。

 二人は行成の横を抜け、大きな丸鏡を背に行成と向き合って座った。

 二人の顔の辺りはひときわ藍色が濃く、そこだけ藍で塗りつぶしたように見える。

「行成。」

 男の太い声が濃藍の奥から聞こえた。

「行成、お前は一条の摂政に連なる男。本来ならばお前は摂政・関白にもなれるはずであった。しかしお前の後ろ盾となるべき祖父伊尹これただも、父義孝も、すでにこの世にはおらぬ。このままではお前の家は没落するばかり。そこで私がお前の後ろ盾になろう。摂関はかなわぬまでも、後世に名を遺すほどの男にはしてやれぬものでもない。」

 保光から、何者かに成り行け、と伝えられていた行成は、その言葉に思わず唾を飲みこんだ。

「おじじの為にも、私は名を成しとうございます。おじじもそれを望んで私にこの名を付けてくれました。是非、お願いいたします。」

 行成は床に両手をつき、頭を下げて言った。

 武者は行成を試すように少し声を強めた。

「だがそのためには私と、ここにいる私の妻、恬子やすこのために働いてもらわねばならぬぞ。」

「私にできますことならば、何なりと仰せつけくださいませ。」

 表情は見えないが、行成は武者が笑みを浮かべたように感じた。

「うむ、だがそれは今宵ではない。今日は元服という、お前にとって節目の日。会うにはちょうど良い機会だと思い現れた。挨拶に訪れたとでも思えばよい。伝えるべき時が来れば再び現れ、話はその折にしよう。」

 再び野太い声に戻って武者は話し続ける。

「だが私の言うことがまやかしでない証拠に、ひとつだけ教えておこう。

 お前の近くに、仏に守られた強運の男がいる。強運なだけではない。才にも恵まれている。権勢門家けんせいもんけの生まれとはいえ、本来ならば権力の頂点に立てる立場ではないのだが、そう定められている。そしてこの男はお前の生涯にも大きな影響を与えることになる。

 男は二十歳になる頃から次第に強運を発揮し始め、三十になると一気に栄華への道を登り始める。子にも恵まれ、子たちがさらなる栄華をもたらす。」

「強運の男・・・私がせねばならぬことというのは、その男に関わることなのでしょうか。その男とは・・・」

「時が来ればわかることだ。私もある理由から、その男を密かに守っている。」

「では、せめてあなたさまのお名前だけでも・・・」

「在。」

 武者が短く言い放つと、急に辺りの藍が濃くなった。二人の姿が藍色の中に沈んでいった。

 行成は立ち上がって外に出た。群行の行列が黒い月に向かって夜空を昇っている。しかしそこには、束帯を身に着けた騎馬武者の姿はなかった。 


 兄兼通かねみちがこの世を去って一年後の貞元三年(九七八)十月、従二位じゅにいに昇進し、さらに右大臣に就任した藤原兼家ふじわらのかねいえは、十一月には二女詮子あきこ円融帝えんゆうのみかど入内じゅだいさせ、やっと自分に幸運が巡ってきたと感じていた。兼通が自分を越えて関白に就任して以来、数年もの間屈辱を味わってきた兼家は、それに耐えた甲斐があったとも思っている。

 ―あの権力の亡者に仏罰が下ったのだ。

 長期にわたる覇権はけん争いのなかで、兄弟としての親しみさえ失くしてしまっていた兼家に、兄の死に対する悲しみはなかった。むしろ、やっとこの時が来た、という喜びがこみ上げていた。

 ―青武者が現れて以来、俺には幸運がついて回っている。

 兼家は牛車ぎっしゃに現れた武者を密かに青武者と呼んでいた。

 ―あの青武者は俺の守護神の化身に違いない。言葉通り俺は右大臣に昇進し、詮子の入内もかなった。

 青武者が現れたのは兼通が死ぬ半年ほど前のことだった。当時、関白太政大臣だった兄によって、兼家は徹底的にいじめられていた。

 兼通は兼家の昇進を一切認めず、二人の異母弟為光ためみつを兼家の上司におくことさえした。兼家はそれに耐えた。いつか見返してやる、という思いを胸の内にしまい込み、じっと我慢を重ねていた。とはいえ兼家ももうすぐ五十に手が届く。入内を望む詮子も十七歳になった。兄がこのまま元気でいれば自分の時代が来ることはもうないのではと、心の奥に焦りに似た感情も芽生え始めていた。

青武者が現れたのはそんなときである。

 深夜、内裏からの帰り道、数人の随身ずいじんを従えた兼家の牛車が神泉苑しんせんえんにさしかかったとき、二条大路と大宮大路の辻に一人の武者が立っていた。束帯姿の正装した武者である。腰に差した太刀は正装した姿には似合わない使い込まれた野太刀のだちで、異様に長く太い。の先端が月明かりを反射して時折キラリと光る。

 牛車は武者に向かってゆっくりと進んだ。随身たちには武者の姿が目に入らないのか、武者に視線を向けようともしない。牛車がその脇を通り過ぎようとしたとき、武者の姿がすっと消えた。

 帰りの牛車の中で兼家はいつも眠っている。内裏では兼通のせいで異常な緊張を強いられる。そのため内裏から退出すると緊張がほぐれ、朱雀門すざくもんを出るあたりで必ず眠気に襲われる。そしてそのまま屋敷に着くまで眠っている。しかし今夜は違っていた。うとうととしたかと思うと、すぐに目が覚めた。すると目の前に、束帯姿のひどく蒼ざめた武者がいた。予期せぬ出来事に驚いた兼家は後ろにのけ反り、後頭部をしたたかに打ち付けた。やっとの思いで動揺する気持ちを抑えた兼家は、顔の前に落ちてきた冠を直しながら武者に尋ねた。

「お前は誰だ。武士の分際で、こんなところで何をしている。いつ乗り込んできたのだ。」

 武者は落ち着いた様子で答えた。

「お前に良い知らせを伝えに来た。」

 夜空の濃い藍を塗りつけたような真っ青な顔をした武者が、兼家の顔を真っ直ぐに見据えている。

「兼通の命運は既に尽きた。遠からずこの世を去るだろう。その後お前は復権し、娘詮子あきこの入内もかなえられる。

 とはいえ、手をこまねいていては幸運は手に入らぬ。お前の兄伊尹これただの流れが再び力を手にすることもあり得る。お前の先行きは、これからの数年間、お前が自分の未来をどのように切り開くかにかかっている。

 自分の身の回りに気を配れ。対処さえ間違わなければ、お前は望む地位を得るだろう。」

 こう言うと青武者の姿は次第に崩れ、闇に溶け入るように消えた。

 牛車がゴトリと音を立てて兼家の邸、東三条邸の門前に止まった。その振動で兼家は目覚めた。

 ―夢だったのか。いやに生々(なまなま)しい夢だった。

 牛車から降りようとしてふと床を見ると、足元に一粒の藍色の粉が落ちていた。拾い上げようと手を伸ばすと、それは陽炎かげろうのようにゆらゆらと床から立ち昇って消えた。


 永観二年(九八四)八月、円融帝えんゆうのみかどが退位し、冷泉帝れいぜいのみかど第一皇子師貞親王だいいちみこもろさだしんのうが十七歳で即位した。花山帝かざんのみかどである。春宮とうぐうには円融帝と詮子との間に生まれた懐仁親王むねひとしんのうが立った。

 花山帝の母は伊尹これただ娘懐子ちかこである。そのため、外戚筋がいせきすじにあたる伊尹の息子義懐よしちかが花山帝即位の年に蔵人頭くろうどのとうとなった。さらに翌永観三年、従二位権中納言じゅにいごんちゅうなごんに昇進した。これにより、義懐はいずれ摂関の地位を狙えるほどの力を持ち始めた。

 青武者が現れて以来、将来の展望が開けてきたとはいえ、兼家はなお不安だった。二人の兄、伊尹、兼通はいずれも五十歳前後で死んでいる。自分はすでに五十七になった。しかし帝はまだ十代。懐仁親王むねひとしんのうが即位するまで生きていられるかどうかわからない。そのうえ甥にあたる若い義懐が台頭してきた。

 兼家は、何としても、外戚の地位を生きているうちに手に入れたかった。自分が死んだのちに一門に栄華がめぐって来ても意味はないとまで思い詰めていた。

 ―どうすれば帝を退位させられるか。

 兼家は毎日そのことばかりを考えた。青武者が夢に現れて手立てを示してくれるかもしれないとも思い、毎晩床に就く前に心の中で何度も青武者を呼んでみたが、一向に現れる気配はなかった。

 そんな時、七月十八日、花山帝の女御忯子にょうごよしこがこの世を去った。弘徽殿こきでんの女御と呼ばれた忯子に、花山帝は深い愛情を注いでいた。色好みで評判の花山帝にとっても、忯子だけは特別な存在だった。身籠って里下がりをしていた忯子を無理やり参内させたのも、帝にとっては愛情表現のつもりだった。たとえそのことが忯子の寿命を縮めさせたとしても、一時も忯子と離れたくないという花山帝の思いは嘘ではなかった。

 憔悴しょうすいした花山帝は出家を望むようになった。そして兼家はこの機会を逃さなかった。

 他人から意見をされればされるほど自分の考えに頑なに固執する花山帝の性格をよく知っている兼家は、三男の道兼を邸に呼んだ。花山帝の即位後、道兼は蔵人くろうどとして日々帝の傍近くに仕えていた。

「道兼、帝が出家をしたいと言い出したというのは本当か。俺ももう歳だ。いつ死ぬかわからん。生きているうちに懐仁親王むねひとしんのうの即位を見たい。あの帝のことだ、どうせ本気ではなかろうが、うまくすればこの上ない機会となるかもしれん。お前もそうは思わぬか。」

 兼家は脇息きょうそくひじをつき、頬杖をしたまま道兼に言った。

「はい。私も父上が関白になり、朝廷を指揮するお姿を拝見したいと思います。帝にはすぐにでもご出家なさるよう勧めましょう。」

 兼家が外戚がいせきとなり、摂関や太政大臣にでもなれば、自分の出世も思いのままと考えた道兼はにこやかに答えた。

「愚かなことを言うな。毎日帝の傍に付いておって何も見えてはおらんのか。それだからお前はいつも道隆の後でうろうろすることになる。出家を勧めてはならぬ。勧めればあの帝のことだ、出家などせぬときっと言い出す。止めるのだ。本気で止めろ。

 いくら寵愛していたとはいえ、女の死の悲しみなどいずれ消える。消えぬうちに出家させるためには、お前が今すぐ本気で止めることだ。そうすれば意地でも出家すると言いだすだろう。

 頃合いを見計らって、お前もともに出家すると言え。そう言って帝を内裏から連れ出せ。寺の手配は俺の方で済ませておく。」

 父の言葉を聞いて道兼は急に不安になり、うつむいて小声で尋ねた。

「父上、では私も出家を・・・」

 兼家のこめかみに青い筋が現れた。

「馬鹿者!お前が出家して何の役に立つ!ごちゃごちゃ言わずに今すぐ内裏に行って帝の説得に当たれ!」

 兼家は自分の意図を理解せぬ息子を怒鳴り付け、邸から追い出した。

 

 眠れぬ夜が続いていた。花山帝は眠るのが怖かった。忯子よしこの死から半年ほど経った頃から、真っ青な顔をした武者が毎夜、必ず夢に現れるようになった。

 最初の夜、藍色の染料に似た小さな粒が闇の中に現れ、それが次第に集まり、ぼんやりとした人の顔になった。しかしその顔はすぐにちりのように霧散して消えた。

 二日目、再び藍色の粒が現れ、真っ青な顔をした人の姿になって消えた。手足はまだなかった。

 三日目には全身真っ青な武者の姿になった。輪郭はまだ紙に滲む墨のように曖昧で、二重にも三重にも見えた。

 夜を経るたびにその姿には曖昧な部分がなくなり、徐々にしっかりとした人の形を作り、十日も経つと束帯姿の堂々たる武者になった。目覚めるまで消えることもなくなった。

 最初の数日は人形を作っている気分で夢を楽しんでいた。しかし毎夜現れては異形いぎょうの姿が完成していく夢に、花山帝は次第に恐怖を覚えるようになった。

 何かを語るわけではない。不気味な顔で、武者はただじっと自分を見ている。濃い藍色に隠れて目鼻立ちはわからない。だが見ていることはわかる。恐ろしい。けれどもなぜ夢枕にこのような武者が現れるのか、その理由がわからない。花山帝は陰陽師安倍吉平おんみょうじあべのよしひらを内裏に呼び、夢解きをさせた。

 安倍吉平は安倍晴明あべのはれあきら・せいめいの息子で、六十歳をとうに越えた晴明に代わって当代一の陰陽師との噂が高い。吉平は鴨川で身を浄めると、神官姿で内裏の東孫廂ひがしまごびさしに座り、帝が眠りにつくのを待った。

 の刻(午後十一時頃)、花山帝の静かな寝息が聞こえ始めた。吉平は頭髪を一本抜き、ふっと息を吹きかけて式神に変えると帝の夢の中に送り込んだ。式神は吉平の分身である。式神に見えたもの聞こえたもの、そして式神が感じたことは全て吉平も見、聞き、感じる。

 帝の夢の中に送り込まれた式神は闇の中にじっとうずくまっている。何も見えない。何も聞こえない。しかし稠密ちゅうみつな闇が確かな重みを持って吉平の肩にズシリとのしかかっている。

 ―何だ、これは本当に夢の中なのか。この夢には確かな手触りがあるぞ。

 数々の夢解きを行ってきた吉平にとっても、これは初めての経験だった。これまで夢に重さはなかった。人の心の中に現れる幻の世界でしかなかった。 

 と突然、闇が熱を持ち始めた。同時に急激に闇の重さが増した。

 闇の温度がどんどん上がり始めた。闇の重さで吉平は押し潰されそうだった。吉平の全身から湯気が立ち昇り始めた。闇の中で蹲っていた式神の身が縮み始めた。吉平は全身が炎に包まれたような激痛を感じた。苦痛に耐えながら、吉平は式神の眼を通して闇に眼を凝らした。

 地獄谷の間欠泉のように、闇の中心から熱を帯びた細かく濃い藍色の粉がボワ、ボワっと吹き出されてくる。それは闇の後ろにある重く巨大な暗黒の世界から押し出されて生まれたもののように吉平には感じられた。

 藍色の粉は徐々に中央に集まり始め、やがて正装した堂々たる武者の姿になった。武者は全身真っ青で、真っ直ぐに吉平を見ている。

 吉平は式神をその顔の辺りに飛び込ませた。式神は顔の近くまで飛ぶと、ジュッという音とともに小さな炎を上げて燃え尽きた。頭髪をさらに数本抜いて再び式神に変え、飛び込ませた。それも燃え上がり、煙となって消えた。何度やっても同じことだった。

 吉平は降魔ごうまの印を結び、花山帝の夢の中にしゅを送った。頭の中に声が聞こえた。

 ―私は花山を害するつもりはない。ゆえに夢の中に現れた。私は花山を守ってやろうとさえ考えている。だがそのためには、花山は譲位をせねばならぬ。帝の地位に固執するなら、私は花山の命を奪わねばならぬ。言う通りに譲位をすれば、花山は寿命をまっとうするだろう。

 武者の声は吉平の頭の中に響き渡った。床の中の花山帝は汗まみれになって、苦しそうにもがいている。

 ―いずれ都に邪悪な怨霊が出現する。花山や義懐よしちかの流れではそれに対抗できぬ。下手な修法で闘えば皆殺しにあう。

 花山帝のうめき声が聞こえた。

 ―私はその怨霊を、ある男の力を借り、返すべき世界に送り返さねばならぬ。それが私の使命だ。この使命のため、私は夢を辿ってこの世に現れた。人の夢は、私が存在する世とこの世とを結ぶ、懸け橋なのだ。

 吉平には武者の言葉が理解できなかった。胸の奥に冷たいものを当てられたような気がして、肌がゾロリと粟立った。それでも吉平には武者が邪悪な物の怪であるとは思えなかった。また自分を害するようにも見えなかった。

 ―あなたはどなたなのでしょう。夢の中にのみ存在する幻とは思えませぬ。確かな重みが感じられるのです。式神もあなたには通用しません。また夢があなたのおられる世界とこの世を結ぶ懸け橋とは・・・

 武者は答えなかった。沈黙が続いた。沈黙に耐えかねた吉平はさらに尋ねた。

 ―私の陰陽の力では及びませぬか。これでも都随一の陰陽師と言われております。

 武者は一瞬間をおき、そして再び話し始めた。

 ―お前の修法など所詮浅きもの。私の世にも、この世にも属することができず、その狭間はざまに浮遊する邪鬼にしか通用せぬ、いわば子供だまし。都に現れる邪悪なものは、お前たちの言葉で言えば、悪しき神そのもの。

 吉平の額に、熱さからとも恐怖からともつかぬ脂汗が滲んだ。

 ―しかしあなたはさきほど、ある男、とお話しになりました。その男もこの世の者ではないのでしょうか。その男が神に対抗できるほどの力を持っているということなのでしょうか。私の力以上に・・・

 武者の眼の奥が光ったように思えた。

 ―その男には何の力もない。だが邪悪なものに対抗すべくこの世に送り込まれてきた男だ。この男が今この世に存在することこそが重要なのだ。話はここまでだ。花山は必ず退位させる。都を怨霊に奪われたくないならお前も力を尽くせ。

 武者の姿が一瞬の内に藍色の粉となって消えた。

目の前が真っ暗になり、吉平は闇の重さに押し潰されるようにひさしの板敷に倒れ伏した。

 花山帝が大きな叫び声をあげて目覚めた。寝ていた敷物の上には藍色の粉が染みのように点々と広がっている。粉は次第に色が薄れ、消えていった。

「吉平!吉平!吉平はどこにいる!」

 御寝所から廂に出ると、そこに吉平が倒れていた。

「吉平!寝ておるのか!早く起きろ!」

 花山帝の声で吉平はうっすらと目を開けた。

「吉平、何があったのだ。私は恐ろしい夢を見た。そなたは何をしていたのだ。」

 吉平はようやくの思いで座りなおすと装束を整え、花山帝に向き合った。

「帝の夢の中に式神を送り込みました。しかしそこで見たことをお話しする前に、帝がどのような夢をご覧になられたのかを先にお聞きいたしましょう。」

 夜明けにはまだ少し間があったが、東の空はぼんやりと明るくなってきていた。両肩の重みも熱も、今はもう感じない。吉平は呼吸を整えて帝の言葉を待った。自分と武者の間で交わされた言葉を帝がどのように聞いていたのか、吉平はそれを知りたかった。

「全身真っ青な武者がまた現れた。私は恐ろしい。

武者は私を正面から見据え、太刀を私に向けて譲位を迫った。皇統を私の代で終わらせたくないなら懐仁むねひとに皇位を譲れと言う。譲らねば私の命を奪うとまで言った。

 この夢は何を示しているのだ。吉平、すぐに夢解きをせよ。」

 夢の中で吉平が見たことと違っていた。退位をさせるとは言っていたが、花山帝と直接話をしていた様子はなかった。

 ―武者は自分と帝に別な言葉を伝えていた。そんなことが同じ夢の中で同時にできるのか。それとも帝は二つの夢を見ていたのか。自分が向き合っていた武者とは違う、別な武者がもう一人・・・しかしそのような気配はなかった。

「帝、確かにそのような言葉であったのでしょうか。できますれば、武者が語った通りにお話し願います。」

 花山帝は頭を抱えてその場に蹲った。

「思い出すのも恐ろしい。眼のあるべきところに眼がない。穴しかない。その虚ろな眼で私を睨みつけた。私は視線を外すことができなかった。しかもその視線が熱かった。本当に熱かったのだ。私はその熱で眼を焼かれるかと思った。その上、武者がいる闇が重かった。闇が私を締め付けるのだ。全身が苦しくなって息もできなかった。死ぬかもしれぬ、とまで思った。そして私に譲位を迫った。

 早くこの夢の意味を解け。そしてあの武者が私の夢の中に現れぬようにせよ。」

 吉平は迷った。花山帝の夢の中で見たこと聞いたことを正直に話すことに戸惑いがあった。もし花山帝に信じてもらえなければ、夢の中にもぐりこんで退位を迫る謀反人むほんにんと思われかねない。それでも吉平は瞬時に心を決め、威儀を正すと改めて座り直し、花山帝から視線を外さずに話し始めた。

「私が帝の夢の中で見たことをお話しいたしましょう。

 帝の夢の中に現れた武者はこの世の者ではないと思われます。しかしながら、確かに、この世に存在しております。

 あの者は人の夢を通じてこの世に出現をしたそうにございます。あの者の住む世とこの世を繋ぐ懸け橋が人の夢だと、そのように申しておりました。

 私が見る限りでは、帝の夢の中心に大そう闇の深い場所が一か所ありました。そこから押し出されるようにあの者が現れました。最初は幻かと思い、式神を顔の近くに飛ばしましたところ、瞬時に燃え尽きました。式神は並大抵の熱で燃え尽きるようなものではありませぬ。燃え盛る火炎のなかでも簡単に通り抜けられます。あの武者は人ではありませぬ。人ならばあの熱に耐えられるはずがありませぬ。そして武者は私に次のように語りました。

 いつの日かはわかりませぬが、都に邪悪な怨霊が現れるそうにございます。その怨霊が何ゆえに現れるのかは話しませんでした。ただ、私どもの力ではその怨霊と闘うことはできぬとのこと。場合によっては皆殺しにあうかもしれぬと申しておりました。あの武者はその怨霊から都を守るため、いずれとも知れぬ世から遣わされたとのこと。しかし都を守るためには、申し上げにくきことではございますが、帝のご譲位が不可欠とのこと。譲位していただけぬならば帝のお命を奪うと申しておりました。しかしながら、譲位をお認めいただければ、あの者は帝を生涯お守りすると。おそらくこれは真意でございましょう。

 また式神の件でお分かりのことと存じますが、私の陰陽おんみょうの術はあの者には通じませぬ。」

 話し終えても吉平は花山帝から眼を離さなかった。帝は全身を震わせながら、眼を大きく見開いて吉平を見返している。何か言いたそうに唇を震わせていたが、なかなか言葉が出ないようだった。

 やがて頭を力なく一つ振ると、俯きながら帝はぽつりと言った。

忯子よしこが死んでから厭なことばかりだ。懐妊したまま死んだことの罪深さが私にまで及んでいるのか・・・」

 花山帝は即位してまだ一年と数か月、吉平の胸中に帝への同情の念が湧き上がった。

「お命があってこその世でございます。常々お口になさっておられました通り、ご出家をなさいまして仏道にご専念なさいませ。」

 吉平の言葉を聞くと突然、花山帝の顔に怒りの表情が現れた。

「夢に現れた武者ごときのために、何ゆえ私が譲位をせねばならぬ。出家などせぬ。

そもそも何のためにそなたがここにおるのか。夢解きのためであろう。早く夢解きをして、あの者が私の夢に現れぬようにせよ。」

 吉平は眼を伏せた。

「それはできませぬ。私の力に余りましょう。帝のお身体を案じればこそ私は・・・」

「もうよい!下がれ!」

 強い言葉で吉平を下がらせた。だがそれからも花山帝の夢の中から武者が消えることはなかった。そればかりでなく、武者は鬼に変身し、手にした宝剣で花山帝に切りかかるようになった。

 眠れず、食事も満足に摂れない帝は、日に日にやつれていった。

 それから半年ほど経た六月半ば、花山帝は蔵人くろうど藤原道兼ふじわらのみちかねを呼んだ。

「道兼、私はもう耐えられぬ。そなたの勧めに従って帝としての務めを果たしてきたが、もう嫌だ。このままでは死んでしまう。

そなたは私の死を望んでおるのか。」

 花山帝の憔悴しょうすいしきった姿を見た道兼は、思わず笑みを浮かべそうになった。急いで頭を下げることで顔を隠した道兼は、父兼家の予想が的中したと思った。

「それほどのお苦しみを感じていらしたことに気づかず、まことに申し訳なく思います。

 わかりました。今はもうご出家なさいませ。ご出家なさることで帝のお気持ちがお楽におなりになるのであれば、それにすぎる喜びはござりませぬ。この道兼もご一緒させていただきます。すぐに準備にかかりましょう。しかしながら、このことは誰にもお話しになられませぬよう。知られれば成るものも成らなくなりますゆえ。」

 道兼は内裏を下がると、すぐに東三条邸に向かった。

 ―父上の思惑通りになったぞ。ぎりぎりまで帝の地位に留まらせて追いつめたことが功を奏したようだ。さすがは父上だ。あとは仕上げを残すばかり。

 東三条邸に着いた道兼は牛車の天井にぶつけて冠が曲がったことにも気づかず、走るように兼家のいる母屋もやに向かった。

 母屋で直衣のうしを緩めてゆったりとくつろいでいた兼家は、道兼の姿を見るとあわてて立ち上がり、衣服を整えて再び座りなおした。

「道兼か、何を慌てている。帝に何かあったのか。まだお若いのに、近頃帝はお疲れとのことだが。」

 道兼が兼家の正面に腰を下ろすと、曲がっていた冠が座った勢いで下に落ちた。顔を赤らめて慌てて冠を被りなおし、再び兼家に向き合った。

「時が熟しました、父上。いよいよ譲位の時が来ました。先程帝が出家するとお話しになり、私もご一緒すると申し上げました。帝のお気の変わらぬうちに寺のご手配を。」

 兼家は道兼をじろりと見ると、どうしようもない奴だ、といった表情で天井を見上げた。

「寺の手配などとうに終わっておるわ。それでお前はすぐに出家に賛成をしたのか。愚かな奴だ。帝は気まぐれだ。またすぐに出家はせぬなどと言い出しかねぬ。無理にでも引き留めれば、帝の決心はもっと固いものになったであろうに。

 まあ仕方がない。こうなったら一気に事を進めるしかあるまい。お前は内裏に戻り、帝の側を離れるな。すぐにでも出家したいという帝の気持ちを他の誰にも覚られるな。義懐よしちかに知られればこの話は潰れる。義懐を帝の傍に近づけてはならぬぞ。絶対に、だ。」

 兼家は道兼を内裏に向かわせると、息子の道長と元慶寺がんけいじ巖久阿闍梨げんきゅうあじゃりに使いをだし、邸に呼んだ。

 二人が邸に到着するまでの間に兼家は覚悟を決めた。

 ―この機会を逃すわけにはいかぬ。あの帝のことだ、最後の最後まで安心できぬ。帝をうまく誘いだすことができねば、腕ずくでも出家させねばならぬ。それができなければこの話は潰れる。事と次第によっては道兼を捨てる。出家させる。やむを得ぬ。一門のためだ。息子の一人くらい犠牲が出ても仕方あるまい。

 道長みちながと巖久が到着した。

 道長は兼家の五男だが、幼いころからその胆力や頭脳は兄弟の中でも抜きんでていた。兼家は道長が長男でないことを残念に思っていたが、それでも長男の道隆が摂政や関白に就いた時には最も頼りになる補佐役になると考え、大切に育てていた。

 兼家は道長を別室で待たせ、先に巖久と会った。

「巖久、帝が出家をすると、またぞろ言い出したようだ。近頃の帝の様子はどうだったのだ。俺としてはもうこの辺りでそろそろ決着を着けたいと思っておるのだが。」

 巖久はしばしば内裏に伺候し、花山帝に経文きょうもんの講義をおこなっている。また同時に、兼家の密命により帝の仏道への傾斜を煽り、出家するよう仕向けてもいた。それは兼家を後ろ盾に得ることによる、巖久自身の出世にも直結していた。

 巖久は兼家の方へ一膝進めると、声をひそめて言った。

「右大臣様、帝のお心はすでに固まっているものと思われます。最近では拙僧がお伝えした〝妻子珍宝及王位さいしちんぽうきゅうおうい″のを頻繁にお口になさっておられます。

 道兼様よりお聞き及びのこととは存じますが、弘徽殿こきでん女御忯子よしこ様がお亡くなりになられて以来、帝はいたくお心が弱っておいでで、毎夜夢枕におかしな武者が立つそうにございます。この正月には陰陽師の吉平に夢解きをさせたようですが、それも効果がないとのこと。最近ではお食事も喉を通らぬほど憔悴なさっておいででした。いよいよ右大臣様の大望もかなうようでございますな。」

 媚びるような薄笑いを浮かべて巖久がこう言うと、兼家は皮肉っぽく唇を歪め、顔を背けながら巖久に言った。

「ふん、お前とてひとつ穴のむじなではないか。お前がただ俺に忠誠を尽くしておるばかりでないことは、よう知っておるわ。」

 巖久は見透かされて苦笑いを浮かべた。

「まあよい。お前は寺に戻って帝の剃髪がすみやかに行われるように準備をせい。日時が決まったら使いを出す。その日、陽が落ちたら、どこの車ともわからぬよう内裏の近くに牛車を廻せ。道兼が帝をお前の寺に連れて行く。

 但し道兼は剃髪の前に寺を出させよ。出家するのは帝のみ。帝に騒がれぬよう、僧兵を何人か寺内に控えさせておけ。騒いだら抑え付けて、無理にでも髪を剃れ。剃ってしまえばもうそれまでじゃ。どのように足掻あがいても復位はできぬ。とはいえあの帝のことだ。不測の事態が起こらんとも限らん。その時は道兼もともに出家をさせてもかまわん。帝の出家を何より優先させるのだ。」

 兼家は話し終えると、別室に待たせていた道長に部屋に来るように伝えさせ、追い払うように巖久を下がらせた。

 別室では道長が烏帽子えぼしを脱ぎ捨てて寝入っていた。父や兄たちがまた何か企んでいるらしいとは感じていたが、道長には大して興味はなかった。

 襖の外から声をかけられて目覚めた道長は、大きく伸びをして烏帽子を被りなおし、父の許に向かった。部屋に入ると、父は近頃ではまれなほど上機嫌だった。道長を手招きして自分の前に座らせ、家人に酒の支度をさせた。

「父上、どうなさいました。この上なくご機嫌麗しきご様子。」

 いまだかつて道長は、長男の道隆とは違い、一人の時にこのようなもてなしを父から受けたことはなかった。 

「道長、遠慮せずにお前も飲め。わが一門の新しい門出になりそうじゃ。お前にも一働きしてもらわねばならん。」

 道長にとっても一門の繁栄は喜ばしい。笑みを浮かべながら盃に手を伸ばすと、酒を口に含んだ。

「何があったのです。それほどお喜びになられるには何か理由がおありでしょう。」

 兼家は道長を手で制して言った。

「まあ、そう慌てるな。追々話をしよう。だがこのことは決してよそへ漏らしてはならんぞ。とりわけ義懐よしちかに知られてはならぬ。一門の浮沈にかかわるからな。」

 兼家は直衣のうしを脱いで下着姿になった。

「ところでお前はいくつになった。そろそろお前をそれなりの地位に就け、兄たちを支えてもらわねばならぬ。」

 道長は明るい笑顔を見せた。

「今年二十一になりました。兄上たちを支えることは無論私の務めと考えておりますが、私には宮廷勤めはどうも性に合いません。先の円融帝えんゆうのみかどに侍従として仕えましたが、毎日肩が凝って逃げ出したくなりました。今の帝は先の帝より数段難しいお方。お傍近くにお仕えするのはご勘弁願います。」

 笑顔を浮かべたまま軽く頭を下げ、道長は再び酒を口に含んだ。兼家は顔の前で小さく手を振り、道長の方に身を乗り出すようにすると声をひそめて言った。

「そうではない。実は帝は出家の意向を持っている。それもすぐにじゃ。そうなれば詮子あきこが生んだ懐仁親王むねひとしんのうが帝になる。」

 思いもよらぬ重大な事柄に、道長の顔から笑顔が消えた。

「帝はこれまで何度もご出家のご意向をお示しになられておられたと聞いています。この度もまた帝の気まぐれからのことではないのでしょうか。あの帝はすぐに前言をくつがえすお方ですから。

 それに、帝の信頼のあつ中納言義懐殿ちゅうなごんよしちかどのがそれをお認めになるとはとても思えませぬが。」

 口元に運んだ酒を一気に飲み干すと、兼家はさらに声をひそめた。

「いや、道兼や巖久の話を聞くと、今度ばかりは本物らしい。だがお前の言う通り、帝の気まぐれは度を越している。またいつ心変わりをするかわからん。だから心変わりをせぬうちに出家をさせてしまわねばならん。お前の言うように、確かに気がかりは義懐だ。奴がこのことを知れば必ず、何としてでも出家を阻止しようとするだろう。あいつも娘を入内させて外戚の地位を狙っているからな。それで今、道兼が帝の傍にいて、義懐を近づかせぬようにしている。義懐に知られれば帝のご希望はかないませぬ、と言わせてな。」

 起こりそうな様々な事態が道長の頭の中を巡った。盃を置くと改めて兼家に向きなおった。

「父上、この話しは誰にも漏れぬうちに、一気に成し遂げねばなりませぬ。それもこの月の内に。」

「この月の内・・・」

 兼家が怪訝な顔で道長を見た。

「はい。先日安倍晴明が私の許を訪れてまいりました。その折晴明は、今月天道に大きな変化があるようだと申しておりました。そして、起きるならおそらく二十二日、もしその日に何事も起きなければ当分何も起きることはないとも言っていました。晴明はそれ以上は申しませんでしたが、それがこのことだったのでしょう。

 事の成否は二十二日。この日を逃してはなりませぬ。それまで道兼の兄上を必ず帝のお側に。他の臣との接触はなりませぬ。道兼殿は少し気の弱いところがあります。義懐殿に、政務のことゆえどうしても、と言われれば許しかねませぬ。帝は病によるけがれによってどなたにもお会いできませぬとでも言わせるよう、父上からお伝えください。」

 この時道長は、この事件が自分の将来を大きく変える予感がした。

    

 寛和二年(九八六)六月二十一日深夜、花山帝はまた藍色の武者の夢を見ていた。出家を決意してから武者が夢枕に立つことはなくなっていたので、久しぶりの登場だった。しかし武者の様子はいつもと違っていた。鬼に変わることはなく、やや俯いて宝剣を右手に持ったまま静かに座っている。不気味さに変わりはないが、同じ顔なのに不思議に恐ろしいという印象はない。

 武者が顔をあげた。眼の中はやはり藍色の空洞だったが、その視線に熱はなかった。帝の顔をじっと見つめたまま、武者は右手に持った宝剣を両手に持ち替え、捧げるように差し出した。花山帝は少し躊躇ちゅうちょをしたが、それを受け取った。身近に見ると、宝剣は確かに帝のしるしの剣だった。さやを払った。刀身がギラリと光った。しばらくの間剣に見入っていたが、やがて鞘に納めた。鞘に収まる瞬間、つばがカチッと音をたてた。音と同時に武者は藍色の粒となって消え、花山 帝は目覚めた。

 脇に道兼が控えていた。

「帝、お目覚めですか。長くお待たせをいたしましたが、いよいよその日がまいりました。今宵、お望みがかないます。」

 道兼は笑顔で花山帝に告げた。もちろんその笑顔は帝の望みがかなうことを喜ぶ気持ちからくるものではない。だが帝は道兼の笑顔の意味を読み取ることはできなかった。

「道兼、まことだな。きっと今宵出家できるのだな。よし、すぐに支度をしよう。」

 立ち上がろうとする帝の裾を抑え、道兼は大慌てで止めた。

「お待ちください。このことは誰にも覚られてはならないのです。すべてお忍びで行わねばなりませぬ。今から支度をするなどもってのほか。今日一日も普段通りに振る舞っていただかねば、成るものもなりませぬ。」

 帝は道兼を睨みつけた。

「今日まで散々待ったではないか。もう待てぬ。すぐに車を廻せ。」

 道兼は帝の裾を握ったまま続けた。

「義懐殿にこのことを知られれば何となさいます。中納言殿は帝がお籠もりになられて以来、ずっとこの宮中に控えておいでです。身を挺してでも必ず帝をお引止めになるでしょう。中納言殿を蹴倒してでもお出かけになられるお覚悟がおありでしょうか。また、帝がご出家をなさるとの話が中納言殿のお耳に入れば、道々に武士の一団を配すやも知れませぬ。」

 帝は言葉に詰まった。しばらくの間道兼を睨みながら小さくうなっていたが、やがて意を決したように言った。

兵部卿ひょうぶきょうを呼んで車の警護をするよう伝えよ。そうすれば誰も手を出すことはできぬ。」

 道兼は眼をつむり、首を左右に振った。

「帝はいくさにお出かけになられるおつもりなのでしょうか。もし武士たちの間に争いが起こればいかがなさいます。出家の途路で殺し合いをなさるのですか。」 

 兼家一門にとって、帝のこの出家の機会を逃すことはできない。もし義懐に知られれば阻止されることは明らかだった。

「出家には、本来ならば、寺には徒歩で行くことと定められております。しかしながら、今宵徒歩で寺まで参りますにはあまりにも危険。お車をご用意いたします。けれどもそれにしても、戦支度いくさじたくでのご出家はありえませぬ。陽が落ちるまでお待ちくださいませ。義懐殿も今宵は退出なさるご予定と聞き及びます。寺にも暮れてからと伝えています。寺の側の準備もございましょう。私もご一緒するのですから、今しばらくのご辛抱を。」

 花山帝はようやく諦めた様子で腰を下ろした。

 二十二日も暮れて夜になった。弦月の、水銀のような冷たい光が内裏の庭を照らしている。忯子よしこのことをぼんやりと考えながら、清涼殿の東の簀子すのこで花山帝は月を眺めていた。月の面に忯子よしことともに遊んだ管絃の夜の様子が浮かんだ。賑やかで、華やかな情景だった。

 やがて忯子ばかりでなく、これまでに契った女御や女官たちの姿も次々に浮かんできた。次第に花山帝の胸の内に不安が募ってきた。

 ―僧になればあのような宴はもうできぬ。私は本当に僧になりたいのだろうか。今この世は私のものだ。それを手放していいのか。手放して悔いはないのか。今ならまだやめられる。しかしここまできて今更・・・だが私はまだ帝だ。

 その時道兼は御寝所の西南にある渡殿わたどのに、兄の道綱みちつなとともにいた。

 道兼は口元を扇で隠し、道綱の耳元にその口を寄せて囁いた。

「そろそろ元慶寺がんけいじからの牛車が朔平門さくへいもんの脇に着いているはず。私は帝を牛車に乗り込ませます。道綱殿は今すぐに神璽しんじと宝剣を凝華舎ぎょうかしゃにおられる春宮とうぐうの許に移して下さい。決して誰にも覚られてはなりませぬ。密かに、そして迅速に。これが肝要です。凝華舎に入ったなら、父上か私からの知らせがあるまで春宮の許に留まり、神璽と宝剣をお守りしていただきます。」

 母が異なっているため、兄ではあっても官位が下の道綱に対する道兼の言葉は、丁寧ではあるが威圧的であった。そして一方、道綱もまたそれを受け入れていた。

「わかった。言う通りにしよう。なるべく早く帝を連れ出してくれ。だが誰かが帝の不在に気づき、春宮の許を訪れてきた時にはどうすればよいのだ。」

 幾分怯おびえを見せながら道綱は尋ねた。

「当然のことながら、ことが成るまでは神璽・宝剣が春宮の許にあることを、誰であれ知られるわけにはまいりませぬ。神璽・宝剣を几帳きちょうの陰にでも隠し、道綱殿は宿直とのいに来ているように振る舞ってください。すべて今宵の内に決します。今宵を逃せば父上の大望は成就いたしませぬ。

 道綱殿、すべて必ずうまくいきます。落ち着いて行動をなさるように。」 

 父兼家が弟道長にではなく、気の小さい道綱にこの大役をなぜ申し付けたのか、道兼には解せなかった。肝の据わった道長ならこれくらいのことは難なく果たせるのに、と歯噛みをする思いだった。 

 去っていく道綱の後姿を見送ると、道兼は花山帝のいる東簀子に向かった。道兼が後ろに腰をおろすと帝が振り返った。

「道兼、私は出家をしてよいのだろうか。忯子の死によって私は少し動揺していたように思う。月がこのように明るいのは、私の出家を阻むためのように思えてならぬ。もう一度ゆっくり考えてみたいと思うのだが。」

 父から、「あの帝が素直に出家するはずはない。必ずまだ一悶着あるはずだ。その時には腕ずくででも車に乗せて寺へ連れて行け。」と聞かされていた道兼は、簀子から部屋の中へと花山帝を導き、月を見上げた。それは神璽・宝剣が春宮に移るまでの時間稼ぎのためでもあった。

 道兼は月から花山帝に視線を戻した。

「帝、もうそれはできませぬ。帝のご意向により神璽・宝剣は既に春宮の許に渡っております。帝は帝のしるしを失いました。従ってもう上皇のご身分なのです。春宮は、神璽と宝剣を手にされた以上、まだ即位の大節会おおせちえは済ませておられませぬが、既に帝にお立ちになられたと同じです。後戻りはできませぬ。」

 花山帝の顔が怒りでみるみる赤らんだ。

「いつ私が神璽・宝剣を春宮に渡せと命じたのだ。そのようなこと、言ってはおらぬ。すぐに春宮の許に人を遣って取り戻せ!」

 道兼の胸に怒りがこみ上げた。しかし道兼は努めて冷静を装ってさらに続けた。

「帝はご出家のお覚悟をお話しされました。皇統を速やかに継続させるためにはこのようにしなければならないのはお分かりでございましょう。一旦手を離れた神璽と宝剣を奪い返すことなど、もはやできませぬ。」

 花山帝は怒りにまかせて道兼を睨んでいたが、やがて肩を落とすと床に座り込んだ。道兼は胸の奥に帝への同情の念がチラリとかすめたことに気づき、自分ながら驚いていた。

 同じ六月二十二日、天道に大きな変化のきざしが現れ、内裏に異変があると感じた安倍晴明は、息子吉平とともに朝から邸に籠もっていた。正面に九曜七星図くようしちせいずを掛け、魔除けのセーマン・ドーマンの咒符を広げた卓の前で、吉平と二人で凶事を避けるべく陰陽道の術を尽くしていた。

 原因が天元四年(九八一)の大晦日に現れた黒い月にあることは、晴明にはわかっていた。だがなぜ現れたのかがわからない。祥瑞しょうずいなのか凶兆なのかもわからない。天道の異変として占えば凶事と示され、地道から占うと祥瑞とでる。

 吉平から花山帝の夢について聞いていた晴明は、天道の変化が帝の退位ではないかと見当をつけていた。だがなぜそれが地道の祥瑞になるのか。確かに帝の平素の振舞には、周囲が眉をひそめる行動が多かった。即位の大礼の最中に女官を高御座たかみくらの中に引き込み性行為に及んだなどは、その最たるものである。しかし常軌を逸した行動をとった帝はこれまでにも多く伝えられている。花山帝は色好みで女色に関する逸話は多くあったが、臣下の生命を脅かすほどの悪逆非道の帝ではない。地の祥瑞とするほどではない。何かほかに理由があるのか、晴明には見当がつかなかった。

 さらに晴明には不安があった。強大な力を持った死霊がこの世に出現するとに示されたのだ。死霊は既にこの世近くにおり、天道と地道に大きな影響を与え始めているともでた。

 晴明は天道が平穏であることを必死に祈った。宙に指でセーマンを九度描きながら金剛界五如来の種字しゅじを唱え、さらに五大明王の名号みょうごうを唱えた。次に九字を切りながら〝臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在、前″と九度唱えた。これを何度も繰り返す。

 夜に入り、何百回目かの九字を切り終えたちょうどその時、月が雲に隠れ、卓の上のセーマン・ドーマンの咒符が震え始めた。いよいよ天道が動き始めたと感じた晴明はすぐに式神を呼び出し、内裏に異変がないかを探るよう命じた。

 一方、道兼の手引きにより玄輝門から内裏を出た花山帝は、朔平門の脇で待っていた牛車に乗り込み、左近衛府さこんえふの脇を通って陽明門から大内裏を抜けた。牛車は二人を乗せ、土御門大路つちみかどおおぢをゆっくりと東に進み、安倍晴明の屋敷の門前にさしかかった。

 花山帝は晴明に度々節会せちえに相応しい場所や時刻を奏上させたり、方違かたたがえについて占わせたりしていた。そんなことを思い出しながら、花山帝は牛車の中から晴明邸を眺めていた。と、門が静かに左右に開いた。何者かがバタバタと走り出てくる足音が聞こえた。だがその姿は見えない。足音は花山帝の乗る牛車の近くまで来たかと思うと、そのまま屋敷内に戻っていった。

 花山帝は再び不安に襲われた。

「道兼、やはり戻ろう。私はあの晴明に今宵という日が相応しかったのか、尋ねることをしなかった。いやな予感がする。」

 道兼は眼をつむったまま返事をしなかった。

「道兼、聞いているのか。私は戻ろうと言っている。」

 道兼の頭の中に父兼家の顔が浮かんだ。その顔には怒りが溢れている。花山帝とともにすでに内裏を出た道兼にとって、今は父の怒りの方が恐ろしい。道兼は眼を開くと帝に言った。

「何度も申し上げました通り、もう何があっても引き返すことはできませぬ。ご身分はみかどであって、すでに帝ではないのです。御所には帝のお戻りになられる場所はもうありませぬ。

 寺の支度もできているはず。今更何をお話しになっておられるのでしょう。後ろをご覧ください。父兼家が手配いたしました屈強な武士どもがこの牛車をお守りしています。何事も起きる気遣いはござりませぬ。」

 帝の表情が一変した。

「私の言うことが聞けぬと申すか!もうよい、歩いてでも戻る!車を停めよ!」

 腕ずくででも帝を元慶寺に連れて行くしかないと考えた道兼は、後ろについている武士たちに声をかけようと牛車の窓を開けた。その時、牛車の中に蝶の鱗粉に似た藍色の粉がさらさらと流れ込んだ。鱗粉は徐々に一点に集まり、花山帝の目の前で武者の姿になった。花山帝の夢の中に出てきた藍色の武者である。立ち上がろうとしていた帝は驚き、よろめきながら再び腰をおろした。

 武者は抜き放った野太刀を右手に持ち、花山帝の目の前まで顔を寄せ、低い声で囁いた。

「退位はすでに定められた。もう戻れぬ。戻ればお前は死ぬ。」

 恐怖に駆られた花山帝は、武者を突き飛ばそうと両腕を突き出した。しかし帝の両腕は武者の身体をすり抜け、道兼の胸を激しくどんと突いた。武者の体が青い粉となってふわりと舞い上がり、再び元の姿に戻った。道兼は勢いよく背の壁に頭を打ちつけたが、これが父兼家が常々話していた青武者だと気づき、これで帝の出家は万全だと痛みも忘れて青武者を見つめた。

「無駄なことだ。お前に俺を害することはできぬ。だが俺はこの太刀たちでお前を殺すことができる。」

 太刀は月の光を浴びて青白く輝いている。太刀と青武者の顔を交互に見ていた花山帝は、恐怖に震えながらも最後の勇気を振り絞って怒鳴った。

「お前は何者だ。ここは私の世だ。お前のような物の怪の住むところではない。早々に消えてしまえ。

 道兼、ここは晴明の屋敷の門前。晴明を呼べ。すぐにここに来るよう伝えよ。そしてこの物の怪をあの世に送り返せ。」

 青武者の顔がわずかにゆがんだように見えた。憐憫れんびんの笑みだった。道兼は帝の声で我に返ったが、晴明を呼びに行こうとはしなかった。

 青武者は低いが通る声で言った。

「お前の役目は終わった。今宵お前が退位するのは定められたこと。逆らうとお前はこの場で命を失う。決めろ。生か、それとも死か。」

 虚勢さえも剥がれ落ちた花山帝の全身から力が抜け、俯いたまま黙って何度も頷いた。

 晴明は邸に戻ってきた式神からすぐに報告を聞いた。

「晴明様、帝は只今道兼とともに門前を牛車にて通り過ぎました。いかがいたしましょうか。」

晴明は式神の言葉を聞くと、笑みを浮かべた。

「下がってよい。もう私の力も及ばぬ。帝は死霊の強い力に支配された。あの力にはこの私とてかなわぬ。今後天道がどのように変化していくのか、あの死霊がどのような動きをするのか、それを見守るしかない。

 吉平、お前も天道、そして地道の動きから目を離してはならぬぞ。万一の時にはお前と二人、命を賭して闘わねばならぬやもしれぬ。」

 晴明は笑みを浮かべながらも、同時に固い決意を吉平に告げた。

 深夜、花山帝を乗せた牛車が元慶寺に到着した。徒歩で寺に入る形を取るため、花山帝は門の手前で牛車を降りた。門前にも庭にも、物々しく武装した僧兵が溢れている。僧兵たちは下車した花山帝の周囲を幾重にも取り囲み、厳重な警戒をしながら帝を寺の内部に導いた。

 本堂にはすでに花山帝の得度とくどの準備が整っていた。玉座に似た座が本尊薬師瑠璃光如来ほんぞんやくしるりこうにょらいの前に据えられ、脇に巖久げんきゅうが控えている。

 道兼と数人の僧侶を従えた花山帝が本堂に入ってきた。帝が本尊に向き合って座ると、巖久は帝の肩に紫の布をかけ、もとどりはさみを入れた。花山帝は本尊に手を合わせ、目を閉じて小さく法華経を唱えている。

 花山帝の斜め後ろからこの様子をじっと見つめていた道兼は、髻に鋏が入ったことを確認すると帝の脇に進み出た。

「帝、帝のお望みが今宵かないましたこと、この道兼、心からお喜びを申し上げます。私も帝に引き続きまして髪を下ろすことができます。しかしながら、ひとつだけ心残りがございます。

 私は今宵、この寺に帝をお連れする前、父兼家に別れの挨拶をすることができませんでした。このまま出家をいたしますれば父の悲しみが思いやられ、仏道に専念する妨げになるような気がいたします。今一度父の邸に戻り、別れの挨拶をして来ようと存じます。すぐに戻りますゆえ、ひとまずこれにてお暇をこうむります。」

 共に出家をすると誓った道兼のこの言葉を聞いた花山帝は閉じていた目を大きく見開き、座から立ち上がろうとした。しかし巖久がその肩を強く押さえ、帝の耳に口を近づけて囁いた。

「帝、道兼殿は必ずお戻りになります。それに今得度をお止めになれば御仏のお怒りに触れ、きっと仏罰を受けられましょう。ここは素知らぬお顔をなさって、このままお続けになられますよう。」

 心に道兼への疑念を抱いたまま、それでも花山帝は得度の儀式を続けるほかはなかった。

 兼家の邸に戻った道兼はすぐに兼家に面会した。そこには弟道長の姿もあった。

「兄上、帝のご様子はいかがでしたか。」

 道長は父の正面の席を兄に譲り、脇に座を移しながら尋ねた。

「晴明の屋敷の前でちょっとした事件があったが、父上の言っておられた青武者が現れ、万事うまくいった。帝は出家した。

 それにしても、青武者を初めて見たが、何とも不気味だった。父上からお話しを聞いていなければとても冷静ではいられなかった。いや、冷静だったわけではないな。大騒ぎをせずにすんだだけだ。」

 道兼は笑みを浮かべながら父の前に腰をおろした。兼家も笑顔を浮かべて道兼に白湯さゆを勧めた。

「そうか、とうとう青武者はお前の前にも現れたか。それにしても道兼、お前にしてはよくやった。まあ、白湯でも飲んで一息入れろ。だがこれですべてが済んだわけではないぞ。画龍点睛がりょうてんせいを欠くと言う。これからが本当の勝負だ。気を抜いてはならんぞ。

 道長、お前はすぐに人を遣って義懐よしちかの動きを探れ。帝が見当たらぬことがそろそろ広まっているころだ。あの義懐がこのままじっとしているとは思えぬ。義懐は夕刻には内裏を退出したと聞く。明日一杯あいつの動きを封じるように手を打て。それから道綱に、すぐに宝剣と神璽しんじ大極殿だいごくでんに運ぶよう伝えろ。そうだ、明日懐仁親王むねひとしんのうへの譲国じょうこくの儀を行う。道隆はすでに内裏でその準備にかかっているはずだ。

 明日でけりをつける。お前たちも内裏に行き、道隆を手伝え。俺も夜明けには御所に入る。」

 一方、義懐は日が落ちるとすぐに内裏を退出したものの、胸騒ぎがしてならなかった。一旦は邸まで戻ったのだが、牛車を降りることなくそのまま内裏に引き返した。

 内裏に戻ると、帝がどこにもいないとのことで大騒ぎになっていた。宿直とのいの貴族たち、内裏にいた女房たち、果ては下人までをも総動員して探し回っている。内裏の中は隈なく捜索され、大内裏まで捜索の手が広がった。それでも見つからない。都中の主だった寺や神社にも人が遣わされた。

 義懐は焦った。今この時に花山帝が失踪すれば、やっと始まった自分の出世が危うい。兼家や道隆の顔が浮かんだ。

 ―帝を見つけねばならぬ。やっとここまで来たのだ。父上の死後、兼家殿に持ち去られた権力の座をやっと取り戻せるまでになったのだ。ここで負けるわけにはいかぬ。

 焦慮のあまり、義懐は冷静な判断力を失っていた。

春宮御所とうぐうごしょには春宮様と道綱様しかおられませぬ。」

「大極殿には道隆様とその手の者しかおられませぬ。」

 この報告を聞いたとき、義懐の頭の中には帝しかなかった。何ゆえこの二人が春宮御所と大極殿にいるのか、と考える余裕を失っていた。普段の義懐なら必ず不審に思い、兼家一門の動きに気づくことができたはずである。確かに一瞬、胸の内に違和感が生じた。しかしすぐに、帝はそこにはいないという所に気持ちが移っていった。どこにおられるのか、その一点に気持ちが向いた。

 義懐はじりじりとした気持ちで殿上のてんじょうのまに座り続けた。どこにもいないという報告しか上がってこない。

 ―もしや兼家殿が・・・

 この考えが胸の内に浮かんだのは、そろそろ夜が明けようという頃になってからだった。

 義懐は花山帝が出家の意思を持っていたことは知っている。もちろん右大臣の兼家も知っていた。その帝の意思を利用して、兼家が帝を連れ出したのではないかと義懐は考えた。兼家の邸を訪ねて確かめるべきか、義懐は迷った。腰を上げかけては、再びその考えを打ち消す。

 ―まさか、いかに兼家殿でもそこまではしないだろう。

 とも思う。

 六月の夜明けは早い。迷っているうちに東の空が白んできた。

 ―もう待てぬ。兼家殿の邸に行こう。

 意を決した義懐が立ち上がろうとしたとき、左少弁藤原惟成さしょうべんふじわらのこれしげが小走りにやって来た。惟成は義懐とともに花山帝を支えた、帝の寵臣の一人である。

「義懐様、帝の行方がわかりました。たった今、元慶寺に遣わした下人が戻り、帝は元慶寺におられるとのことでございます。

 すぐにお迎えに行かねばなりませぬ。私もお供いたします。お支度を。」

 夕べの今朝である。出家をするつもりでもまだ間に合うと義懐は思った。

「馬を!」

 義懐は惟成とともに馬を駆って朱雀門から五条大路に入り、五条大橋を渡って山科やましなはしった。危急の事態ということで元慶寺の本堂まで馬を乗りつけると、飛び降りて本堂の中に走った。

「主上!いずこに!いずこにおられますや!」

 本尊薬師瑠璃光如来やくしるりこうにょらいの前に座して念仏を唱えていた若い僧が振り向いた。花山帝だった。

「主上、何たるお姿・・・早まったことを・・・」

 全身の力が抜け、義懐は床に崩れ落ちた。そして同時に、自分の未来が閉ざされたことを覚った。

 ―道隆殿と道綱殿の動きを聞いたとき、私は何ゆえ気づかなかったのか。あの二人が大極殿と春宮御所にいたのだから、こういうことを目論んでいたと容易に気づかねばならなかったはず。あのときの胸のざわめきを何ゆえ押し殺してしまったのか。無念だ。これで父の時代の栄華を取り戻すことはできなくなった。兼家殿や道隆殿の風下にいるくらいなら・・・

 義懐は花山帝の後ろに座り直した。

「主上、もはや致し方ござりませぬ。私もお伴いたします。」

 義懐は力なくそう言うと、惟成これしげに巖久を呼びに行かせた。

 翌二十四日、義懐と惟成はともに髪をおろし出家、また春宮懐仁親王むねひとしんのうがわずか七歳で即位した。一条帝いちじょうのみかどである。春宮には冷泉上皇れいぜいじょうこうの皇子で、兼家の娘超子とおこが生んだ居貞親王いやさだしんのうが立った。

 一条帝践祚せんその翌日、兼家は円融上皇のみことのりによって摂政の地位に就いた。すでに五十八歳になっていた兼家は、一門の権勢を確実なものにするため、道隆、道兼、道長ら息子たちの昇進を急いだ。とりわけ長男道隆の昇進は目覚ましいものだった。これまで昇進が抑えられていたとはいえ、従三位右近衛中将じゅさんみうこんえちゅうじょうだった道隆は一条帝即位直後の七月五日には参議を経ずに権中納言に就任した。七月九日には正三位昇叙、二十日には権大納言に就任、一条帝の即位の儀が行われた二十二日には従二位に、続けて二十七日には正二位に昇叙した。さらに三年後の永延三年(九八九)二月には、円融上皇の反対を兼家が押し切り、内大臣に就任させて自らの後継者としての地位を確立させた。         


 永延三年八月八日に改元の詔が出され、永祚えいそ元年となった。三日後の八月十一日、十八歳になった藤原行成ふじわらのゆきなりは祖父保光の勧めで源泰清みなもとのやすきよの娘を妻とした。婚礼を終えた行成は一条藤原氏の主として桃園邸の母屋もやで新妻と向かい合っていた。

「婚礼とはいえ、少し酒が過ぎたようだ。そなたも疲れたであろう。そろそろ休むとしよう。これからは内のことはすべてそなたに任せる。末永くよろしく頼む。」

 生真面目な行成はそう言って頭を下げ、二人は床に就いた。

 深夜、行成は微かな気配を感じて目覚めた。見ると南廂の御簾みすの向こうに人影が見える。行成は妻を起こさぬように気遣いながら床から出ると、静かに御簾を上げた。そこには真っ青な武者が月を眺めながら座っていた。一瞬盗賊かと思った行成が大声で人を呼ぼうとすると、青武者は行成を制した。

「慌てるな、俺だ。見忘れたか。」

 その声で、行成はその武者が元服の夜に夢に現れた武者であることを思い出した。行成は青武者の脇に座った。

「あなたさまは元服の夜、私の夢に現れた・・・」

「そうだ。思い出したか。お前も妻をめとり、やっと一人前になったようだな。ところであの夜、俺がお前に言った言葉を覚えているか。今宵それをお前に伝えようと思っている。」

 行成は動顚どうてんしていた。夢に現れた青武者がなぜ夢の中ではなくここにいるのか。人の夢を操る呪術師にも見えない。

「あなたさまはどなたなのでしょうか。なぜここにおいでなのでしょう。夢の中にのみ存在するお方だと思っておりました。」

 以前は藍色の穴にすぎなかった眼が、今は人の眼と同じに出来上がっている青武者は、その大きな眼をギロリと行成に向けた。

「お前にはこれから俺のために大きな仕事をしてもらわねばならぬ。俺のことを少し話しておこう。」

 青武者は行成に向き合った。行成は振り返って妻を見た。

「あの女が目を覚ますことはない。案ずるな。」

 青武者はそう言うと、再び行成に視線を戻した。

「以前、お前の夢の中に現れた折、俺が妻を伴っていたことを覚えているか。名は恬子やすこだ。

恬子は文徳帝もんとくのみかど皇女ひめみこで、母は三条町の更衣と呼ばれた静子。出会ったのは恬子が文徳帝に続き、清和帝せいわのみかど斎宮さいぐうとして伊勢にいた時のことだ。当時俺は左兵衛佐さひょうえのすけで・・・」

 行成は青武者の言葉にますます混乱した。

「お待ちください。清和帝の御世といえば今から百年以上も昔。その頃左兵衛佐だったあなたさまが、どうしてここにおいでになるのでしょうか。」

 青武者は表情を変えずに行成を見た。

「それを順を追って話そうとしている。黙って最後まで聞け。」

 行成は浮かぬ顔をしながらも口をつぐんだ。

「当時俺は左兵衛佐で、貞観じょうがん七年(八六五)の暮れ、朝廷より狩の使いとして伊勢に遣わされた。母の静子から俺をねんごろに饗応するように言われていた恬子は、通常ならば出る必要のない宴の席に同席し、互いに心を魅かれた。そして大きな過ちを犯した。結果、恬子は子を宿し、男児を出産した。

 斎宮といえば御杖代みつえしろと言われ、帝の名代みょうだいとして天照大神あまてらすおおみかみに仕える神聖な巫女。斎宮の妊娠などあってはならぬことだった。そこで生まれた子は師尚もろなおと名付けられ、高階たかしなの子とされた。以後、高階氏は伊勢神宮にも帝にもはばかりのある血筋となった。

 しかし今、その師尚の血を継ぐ者が帝の地位を継承しようとしている。時の流れるままに手をこまねいていれば、そうなる。そしてそうなれば天道が乱れ、この世は魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする世となる。俺はそれを防ぐためにこの世に送り込まれた。こうなった原因が俺と恬子やすこにあるからだ。」

 青武者はこう語ると一息ついた。行成は恐ろしさのあまり青武者から目が離せなかった。行成は青武者が語った斎宮の一件を、祖父保光から聞いていた。

「それではもしや、あなたさまは・・・」

 青武者は笑みを浮かべた。

「そうだ。昔、俺は在中将業平ざいのちゅうじょうなりひらと呼ばれていた。」

 行成は青武者の言葉を思い出した。

「それであの夜、お名前をお聞きしたとき〝在〟とお答えに・・・」

 文武に優れ、歌の名手であり、色好みとしても京の都で語り継がれている業平が目の前にいることが、行成には信じられなかった。夢かと思いそっと後ろを振り向いてみたが、今日婚礼を挙げたばかりの妻が確かに眠っている。

 青武者は夜空を見上げた。そこには銀色に輝く月と、その後ろに、月にぴったりと重なった黒い影が見えた。

「お前は月の後ろにある、黒い影のようなものが見えるか。あれは空に開いた穴だ。俺はあそこから来た。普段は常人には見えぬ。しかし天道に異変が起きるとあのように大きくなり、時には人の目にも見えるようになる。

 空にはああした穴がいくつも開いている。大きさは様々だ。どれもが同じ穴というわけではない。吸い込む穴と、送り出す穴がある。吸い込む穴のうち最も大きいものが黒洞、送り出す穴のうち最大のものは白洞と呼ばれている。二つの穴は繋がっているわけではない。だが繋がっていないわけでもない。

 この世には前後左右と、上下という向きがある。だがあの穴にはもうひとつ、〝越える″という向きがある。二つの穴はこの〝越える″という向きで繋がっている。越えるのは場所だけではない。ときも越える。例えれば、ここにいるお前が瞬時に百年後の世に現れるようなものだ。無論刻ときさかのぼることもできる。だが遡った場合には身体を持つことはできぬ。魂だけが遡る。見ること聞くことはできるが、身体を持たぬゆえ、その時代に関わることはできぬ。

 死ぬと魂は空に昇る。心から離れた魂は、形も重さも大きさもないごく小さな粒のごときものだ。人の目には見えぬ。魂は死後そのような粒となって空に昇る。そして穴に吸い込まれるのだ。何事もなければ、魂は穴の中で人の一生よりはるかに長い年月をかけ、穴に吸い取られて消え失せる。しかし天道に異変が起きると、それを鎮めるために必要な魂が呼ばれ、この世に送り込まれる。誰が選んでいるのかは俺にもわからぬ。仏の住む西方浄土のような世界がまた別にあり、そこで仏が世を救うために選び出しているのかもしれぬ。選ばれた魂は天の中心、お前にもわかるように言えば、如来たちに護られて邪悪な存在と闘う。そしてそのためにこそ魂は長い年月穴の中に留められているのだ。

 しかし突然この世に送り出された魂は、当初は、風や日差しなどのわずかな刺激でも壊れる。それでまずは人の夢の中に現れる。そこで形を成し、簡単には壊れなくなるまで過ごすのだ。誰の夢の中にでも現れることができる。穴から夢へ越えればいいだけだからな。そして今の俺のように簡単には壊れなくなったのち、夢から現実の世界へ越えるのだ。俺はもう簡単には壊れない身体を持っている。むろん人間の身体ではない。触れてみよ。」

 行成は恐る恐る青武者の身体に触れた。しかし行成の手は何の手触りもなく青武者の身体の中に入り込んだ。同時に青武者は行成の腕を掴んだ。

「お前たちのような肉体を持つ者は俺に触れることはできぬ。だが俺はこうしてお前を掴むことができる。それは俺がごく小さな、いわば粒でできているからだ。

 俺が意識を集中しなければ、俺の体は粒が柔らかく集まっているにすぎぬ。どのような物が身体にぶつかっても、粒が拡散してそれは通り過ぎる。だが集中すれば粒の結合ははがねより固くなり、身体は武器にすらなり得る。

 人間の中にも魂を操れるものがまれに現れる。生まれながらに操れる者もいれば、厳しい修行を積んだ末に操れるようになる者もいる。

 人の魂を、お前たちは〝念〟と呼んでいる。そうだ、念とは魂のことだ。だが俺とその者たちとの違いは、魂の強さと自在さは無論のこと、さらに魂が身体を持つことができるかできぬかだ。」

 青武者の語る内容は、行成にはほとんど理解できなかった。ただ青武者が人ではないことだけは判った。行成は改めて両手をついて青武者に尋ねた。

「よく分かりませぬ。業平様、それで私が為さねばならぬことというのは、どのようなことなのでございましょうか。」

 青武者は行成から目を逸らすと、再び月を見上げて言った。

「行成、俺の名を口にしてはならぬ。俺は業平であって、もう業平ではない。業平は俺が人の世に在った時の名。今はただ青武者でよい。」

「わかりました。では青武者様、私に与えられます務めをお教え下さいませ。」

 青武者はゆっくりと立ち上がると庭に降り立った。月明かりを受けて、青武者の全身が青白くきらめいた。

「先程も話した通り、俺の使命は師尚もろなおの子孫が帝位に就くことを阻止することだ。しかし師尚の子孫はすなわち俺の子孫でもある。殺すことはできぬ。ゆえに皇位に就けぬ状況を作り出す。だがそのことで、その親が怨霊となってたたる。怨霊と闘うのは俺の役目だが、お前にはその状況づくりを手伝ってもらう。」

 青武者の言葉を聞き、行成は不安におののいた。顔を上げて慌てて青武者に尋ねた。

「青武者様、高階氏の末裔まつえいといえば道隆様の北の方貴子様。まさかそのようなことが・・・道隆様は兼家様のご嫡男ちゃくなん。長女の定子様の入内が決まっておられるとか。では怨霊となって青武者様と闘う相手は帝か定子様。もしや、定子様と帝との間に皇子がご誕生されるということなのでしょうか。そしてそのことが天道の動きに大きな影響を及ぼすと・・・」

 青武者は振り返って行成を見た。

「そうだ。貴子にも道隆にも定子にも、もちろん一条にも罪はない。だが天を犯した罪はいまだ許されてはおらぬ。

 帝とは天の心をこの世に実現させるための鏡のような存在。その鏡がけがされようとしている。それはあってはならぬことだ。もしそうなれば、天から見放されたこの世は、怨霊と魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする世となる。

 通常ならば、第一皇子として誕生すれば春宮に立つのが道理。立てぬとなれば、その母の怒りや苦しみもまた当然のこと。怨霊となって恨みを晴らそうともするであろう。そしてその恨みに便乗し、空の穴に到達できなかった魂が邪悪な物の怪や魑魅魍魎となってこの世に出現する。

 そこでお前の務めだ。以前お前に、お前の周りに強運の男がいる、と話したことを覚えているか。その男はこの三月、権中納言に就任し、出世の階段を昇り始めた。」

 行成は権中納言に就任した祝いの席に連なっていた。

「えっ、それでは、その男とは道長様。けれど道長様には、北の方時子様がお生みになられた道隆様、道兼様のお二人の兄君がおられます。道長様が藤原の長者になられるとはとても思えませぬが。」

 青武者は微かに笑みを浮かべると、再び月を見ながら言った。

「そのようなことはお前の心配することではない。

 さて行成、お前は今後家司けいしになったつもりで道長に忠誠を尽くせ。お前が正しいと思う方向に道長を導くのだ。道長は今、この世になくてはならぬ存在だ。道長なくして天道を、また地道を正常な姿に戻すことはできぬ。

 わかっているだろうが、今宵のことも他言してはならぬ。たとえ道長本人にであってもだ。まだ早い。今余計なことを知ると道長の将来に揺れが生じるやもしれぬ。それは必ず重大な結果を招く。

 お前は道長に無理に近づかずともよい。俺がそうなるよう仕向ける。そう遠い先ではない。道長にはお前の才が必要になる時が来る。それまでじっと時を待て。焦ってはならぬぞ。」

 青武者はそう言うと姿が薄れ、青い粒になって消えた。

 青武者が去ったあと、行成の心は複雑に揺れ始めた。行成も一条の摂政と呼ばれた伊尹これただの孫である。本来ならば自分が摂政・関白の地位に就くべき存在だと考えていた。また、きっといつの日かその機会が訪れるとも思っていた。しかし青武者は道長の家司けいしとして仕えよという。自分の将来を否定された気がした。道長が仏に護られていると聞き、それならば止むを得ないと思いつつも、心の奥にポツンと生まれた小さな嫉妬と憎悪を、行成は消し去ることができなかった。

                             (続く)

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