ねえ星を見よう。
暑さもそろそろやる気がなくなってきたのか、最近は穏やかに過ごしやすい気候になってきた。近年は短くなった――あるいはなくなったとも言われる秋という季節ではあるけれど、こうして肌で感じる季節としてはまだ生き残っているようにも思う。もちろん、それさえもあまり感じられないから、秋がなくなったなんて言われているのだけど。
そういう人間の感覚としては感じにくくなった秋だけど、でもちょっと視線を上げて空を見てみると、そこは確かに秋の空になっている。それは特に夜に顕著で、なんとなく、星空がきれいに見える。わたしにとって一番星空がきれいなのは冬だけど、それに次ぐのは秋なのだ。もっとも秋の夜空がきれいなんていうのは、お月見という日本の文化がすでに示しているわけなのだけど。
「それは月が美しいのであって、必ずしも夜空が美しいとは言い換えられないんじゃないですか?」
水を差してきたのは志岐くん。わたしのかわいい後輩だ。かわいくないヤツだけど。そこがかわいい。
「男に対して『かわいい』って言うのは、ある意味で冒涜的ですよね」
「そうかな? 率直な感想だと思うんだけど」
「率直な感想とはいえ、言われた側としては複雑なものですよ。不快に思う人だっていると思いますよ」
彼の言わんとしていることはなんとなく想像できるものではあるけれど、理解するにはちょっと難しい。そういうこともあるのかなー、くらいにしか思わない。男女の価値観の相違なのかもしれない。女子の間では本音であれお世辞であれ、とにかく多用される言葉だからあまり深く考えたことはなかった。そもそもかわいいという言葉のもつ意味が、もはや取り返しのつかない段階まで拡大されているような気もする。
「キモカワとか、典型ですね」
「あの感覚はわたしには理解できるよ? わかんないのは、一見するとただのおっさんみたいに見える人をかわいいって言う子がいるんだけど、あれはよくわかんないなあ」
そしてもしそのおっさんが声をかけてきたら、絶対に「キモい」とか言い出すのだ。わたしにはわかる。わたしだってそうする。かわいいものは見ているのがかわいいのであって、関わりを持ってもかわいいと言えるかは別問題なのだから。
「……深い世界ですね」
志岐くんは困ったようにそう言った。
「そうだね」
深い世界でもあるし、困った世界でもある。
浅くて悩みの種がない世界なんて、わたしは寡聞にして知らないけれど。あるのなら行ってみたい。いや、やっぱり行かなくてもいい。悩みがないのは素晴らしいけど、浅い世界ってのはあまりにも味気ないような気がする。深くて悩みのない世界、困ったことのない世界なんてないものだろうか。
「深いから悩むんだと思いますが」
「あ」
「先輩、伊空先輩。しっかりしてくださいよ」
「まあ、これもわたし色だよ」
「すこしは考えて発言しないと、周りから人がいなくなっちゃいますよ」
「努力するよ」
素直にうなずいた。唯一の会員である志岐くんが離れてしまうのは困る。非常に困る。もしいなくなってしまったら、わたしは一体誰と話をすればいいのか。途方に暮れてしまう。
「そんなことで途方に暮れないでください。だいたい、ぼくが来る前はひとりだったんでしょう? 平気じゃないですか?」
「それは違うよ。元々ないものと、あったけどなくなったものでは雲泥の差だよ」
江戸時代は江戸時代の生活が確立されていて、おそらくそれに対する不満はないだろうけど、今のわたしたちが江戸時代の生活水準に戻ることはきっとできない。お金がなくても満足な生活を送ることはできるだろうけど、手に入ったお金を捨ててまたその生活に戻ることはとても難しい。そういうことだ。
わたしたちは捨てるには多すぎるものを手に入れてしまった。人間の欲望は際限ない。行き着くところまで行き着けばそれも収まるだろうけれど、そこの限界ってどこなんだろう?
「それを議論するのは宇宙の範囲を議論するのと同じですよ」
「ふうん?」
「ぼくたちの手に余ります」
「それもそうだね」
それにそもそも、別にわたしは志岐くんとそういう話がしたいわけでもない。ただただこの見晴らしの良い丘に寝そべって、他愛もない話をしたいだけなんだ。
風が吹いた。
それは乾いた風で、すこし冷たい風だった。
「冷えてきましたね」
「秋ですからねー」
「最近は暑い夏が続いていましたからね。新鮮です」
「暑い秋はもう秋とは言わないんだよ」
そういえば志岐くんにとって秋は――
「金木犀が香る時期、だったかな?」
「よく覚えてますね」
それは去年の秋、やっぱりこうしてここで駄弁っていた時にした話。もうあれから一年。時間はあまりにもはやく過ぎて、わたしがこうしていられる時間もあまり残されていない。わたしはこの、もう終わっちゃうっていう感覚があまり好きじゃない。「最後だから何かしたい」って思いと「最後だから何をしても同じ」って思いが、ぐちゃぐちゃになってわたしを乱すから。考えなくてもいいことを、不必要に考えてしまうから。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水に非あらず」
突然に、志岐くんは言った。
「どうしたの?」
「去年もこの話をしたんですよ。あの時は伊空先輩から始めましたが」
「わたしが?」
それは『方丈記』の冒頭。鴨長明の無常観を顕著に示した一文だ。自分がどんな話をしたのか、残念ながら思い出せない。志岐くんは覚えているのが、すこしだけ悔しくもある。
「ええ。もっとも、今とは状況が違いますけど」
そう言って志岐くんは空を見上げる。
大きな雲がゆっくりと風に流されていく。
「同じままであるものなんて、ないんですよ。あるとすればきっとそうであると錯覚しているだけで」
「もし仮に不変のものがあるのだとしたら、志岐くん、それはなんだと思う?」
もし仮に。仮にどれだけ時間が移ろおうとも変わらないものがあるのだとすれば、そんな強固な「芯」を持つものがあるのだとすれば、それは一体何なのだろう。
「不変のもの……ですか」
志岐くんは首をひねって唸る。わたしも考えてみたけれど、思いつくものはなかった。変わらないものなんてあるのか、もしあるのなら、それは一体何なのか。わからないわたしは志岐くんに問いかける。
「そうですね、『不変』という言葉の意味でしょうか」
それが変わってしまったら、何がなんだかわからなくなりますから。志岐くんはそう続けた。
「つまりわかんないってこと?」
「そうですね。一応聞いておきますけど、伊空先輩は何かありますか?」
「ないよ」
そうでしょうね、と志岐くんはうなずいた。ないものはないのだから、なくて当たり前なのだと言っているように見えた。
こんなことを言っている間にも、空の雲がいつの間にかひとつ減っている。困ったもので、現実というものはありのままにそれをわたしたちに突きつける。わたしにはそれがすこしだけ重く感じられた。志岐くんならどう思うのだろうと彼の横顔をのぞいてみたけれど、彼がそんなことで悩むようには思えなかった。彼はどこかわたしとは違う世界を見ている――そんなふうに思うことがある。
「もし変わることを嫌う人がいるなら、その人は生きることに向いていませんよ。成長を嫌うのとそれは同じことですから」
「厳しいね」
志岐くんは、時々とても厳しいことを言う。
「厳しいですか? でも変わることを嫌う人なんて実際にいるでしょうか」
いる――とも言い切れないのか。どちらかと言えば、いないと言うほうが簡単かもしれない。なぜならみんな生きているからだ。志岐くんの言葉を借りるなら、自分が成長して大きくなること、それさえも『変化』のひとつといえるから。だからこそ、それを嫌う人は生きることに向いていない。
「でもどうして突然そんなことを?」
「悩んでいると思ったので」
「……」
志岐くんは知ったふうなことを言う。彼はきっとわたしの知る誰よりも人のことを見ていて、誰よりもいろんなことを考えているのだと思う。そしてそれはほとんど的中していて、今回もそうだった。
わたしは悩んでいる。現状について、これからについて。でもふつうはこんなことでは悩まなくて、時間が解決してくれて、なるようになるその流れに乗っていけばうまくいく――そういう問題なんだ。
「放置してもうまくいくとは限りませんよ。失敗するとも限りませんが」
「どうすればいいのかな」
「疑問や悩みは解消するに限ります。たとえそれがどんなに些細なことであっても」
「志岐くんは今までそうしてきたの?」
「いいえ。こういうことはそれをしてこなかったからこそ言えるんです。それを実践してきた人は、その大切さはわかっていても、本質的にわかっていません」
「悪は善を知っている。けれど善は悪を知らない」
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
「カフカの言葉ですね」
カフカがどういう意図で、状況でこの言葉を残したのかわからない。けれど今回のケースに当てはめるなら、実践していないからこそ見えるものがあって、実践していては見えない――つまり、実践しないことによって生じる不利益を実感できないということ。これは大きな違いだ。
「だからといって、実践していないほうが良い、優位ってわけじゃないのは大切なことです。今回の場合は特に」
原文だともしかすると、善は悪を一方的な見解――つまり悪は罰せられるべきという価値観のみで悪を評価しているということを示しているのかもしれない。だとすればこれはあまり良い引用ではないのかもしれないけど、頭に浮かんできたものはしかたがない。
「そうだね。どう考えても実践してきた人たちのほうが、多くの利益を得ているはずだよね」
「それもそうだとは言い切れませんよ。その実践の方法にもよると思います」
志岐くんはつまり何が言いたいのだろう。さっきから曖昧で遠回りなことばかり言って、いつもの志岐くんらしくない。
「ぼくらしさってのもよくわかりませんけど、そこはもう考えないようにしましょう。そんな結論の出ない議論は基本的に無益です。まあ結局ぼくが言いたいのは、先輩は先輩がやりたいようにやればいいんじゃないですかってことなんです」
「わたしがやりたいように?」
「ええ」
志岐くんはうなずく。
「今こうしているように。空が見たいから空を見る。誰かと話したいから話す。誰かといっしょに歩きたいから歩く。それでいいんじゃないですか? ぼくたちにはまだ、それが許されると思いますよ」
大人のことは大人になってから考えればいいんです、志岐くんはそう続けた。大人が何なのかは知りませんけどね、とやや冗談めかしながら。
「志岐くんもやりたいようにやってるの?」
わたしに振り回されるのも、実はそれほど迷惑していないってことなのかな。
「そうやって自己肯定しないでくださいよ。迷惑は迷惑です」
えー……。
「最初は『先輩の言うことだから』って気分のほうが強かったですよ、正直な話」
呆れたふうにため息をつく。
「今はどうなの?」
「わりと楽しんでます。ぼくの周りでは伊空先輩みたいな人はいませんから」
「わたしの代わりなんて、わたししかいないよ」
ふだんの志岐くんならここで「そうでしょうか」なんて言うのだろうけど、今回は「そうですね」とうなずいた。珍しい。
「ぼくはそんな非人道的な人間じゃないですよ」
うん。
また風が吹いて、すぅ、と冷たい風が通り過ぎた。そろそろ日も傾いて、西の空が赤く染まり始めている。
「女心と秋の空なんて言葉もあります。今日はこの辺でお開きにしますか」
「わたしはそんなに簡単に心変わりしません!」
「そうですか。そうですね。いくら変わらないものがないとはいえ、ぼくもそこは変わってほしくないです」
歯の浮くようなセリフを当然のことのように言ってのけ、志岐くんは立ち上がった。わたしも志岐くんのあとに続く。
「また月曜日ね、志岐くん」
「はい。さよなら、伊空先輩」
家に帰ってご飯を食べて、そのままの流れでシャワーを浴びる。いつもよりも就寝準備がはやく整ってベッドの上でごろごろしていると、なんとなくふと窓を開けて空を見たくなった。今日の空は快晴で、星がきれいに見えた。小さい星もはっきりと見えている。
「そういえば、星に手が届きそうって言ってたっけ」
年に一度か二度、思い出したように帰ってくる従兄弟たちは、この空を見上げるたびにそんなことを言っていた。都会ではこんなに星は見えなくて、ここで見る星はとても近くて手が届きそうなのだと。わたしは都会の空を知らないけど、空が狭いだろうなーと思うことはある。あれほど高いビルがたくさんあったら、そりゃあ上への視界は狭まるに決まっている。
「あ、そっか」
そしてそれだけ高い建物の、しかもその上層で光る明かりは確実に星の輝きを霞めてしまう。そして月明かりでも十分に道を歩くことができることも忘れて、こっちの道を歩くたびにそれに感動するわけだ。なんだか寂しいような気もするし、それが便利さを求めることなのだと言われれば納得せざるを得ない。
どっちがいいかなんて、わたしにはわからないけど。
どっちが好きかなら、答えはすぐに出る。
「この町もいつかはそうなるのかな」
全然想像できないけど、その可能性だってないわけじゃない。変わらないものが決してないように、この町だって変わる。繁栄の道をたどるのか、それとも終わっていくのか――それはわからないけど。どちらにせよ、それをわたしが知ることはないんだろうな。
満点の星空の中に、それを隠す雲が流れ込んできた。夜の雲は灰色に見えて、星を隠して、今度は月を隠した。すると空はすこし暗くなって、雲が通り過ぎるとまた月が地を照らす。月のまわりにある星は月明かりに照らされてその輝きを発揮できず、控えめに自己主張をしている。
快晴と思っていた今日の天気は、実は快晴ではなく晴れのようで、思ったよりも雲がある。こうなるとその風情を味わいたくなるのが人情ってもので、良いものは共有したくなるのもまた人情。星空は満点のそれよりも、どこかかげりがあるほうがわたしは好きなんだ。
「ふふ……」
時刻は二十二時三十分。
まあ、悪くない時間だと思う。
枕元に置いていた携帯を取って、手早く目的の番号を探す。数秒のコール音の後、相手は電話に出た。
「もしもし」
「あ、志岐くん? 今大丈夫かな」
「はい」
後ろから声が聞えるのは、家族がいるのかな。てことは志岐くん、今リビングか。
「志岐くん、今日は月がきれいだね」
「……そうですね。きれいです」
「というわけで志岐くん。今夜、星を見ましょう」
いつもの丘の上、わたしよりも先に志岐くんが座っていた。わたしに気づいているのかいないのか、ぼーっと空を見上げている。そんな彼の隣に座り、鞄から持ってきたクッキーを取り出した。さすがに手ぶらで来るほど気の利かない女ではないつもりだ。
「最近の手作りクッキーは手が込んでいますね。ひとつひとつ包装しているんですか」
現金なもので、クッキーを出した途端に志岐くんはこちらに向いた。
「見ての通り市販品だよ。コンビニで買ってきたの」
知ってます、と言わんばかりにクッキーに手を伸ばす。そのまま何も言わずにクッキーをほおばる志岐くん。わたしもひとつ食べて、空を見上げる。やはり今日はいい空だ。ちょっとばかり肌寒いけど、これもまた秋っぽくていい。金木犀にはまだちょっと早いのが残念だけど。
と、わたしの首筋に、何か温かいものが触れた。
「コーヒーです」
「最近の自家製コーヒーは缶に入れるの?」
「自家製を缶に入れて香りを殺す馬鹿はいませんよ」
なんだか志岐くん、冷たいです。
「それにしても伊空先輩。風呂上りに外に出て、風邪でもひきたいんですか?」
「え? なんでわかったの?」
「髪がまだ少し湿っていますし、なんとなくいつもと雰囲気が違います」
「よく気づいたね。さすが」
「褒めてくれてうれしいですが、せめて髪くらいちゃんと乾かしてから来てくださいよ。ホントに風邪ひいちゃいますよ」
対応は冷たかったけど、やっぱり優しいところは優しい。わたしが志岐くんの多少の暴言を許しちゃうのは、たぶんこれのせいだと思う。なんだかんだ言いながら、こうしてわたしの分のコーヒーを買って来てくれているんだから。
「うん。これから気をつけるよ」
雲の流れは速くて、もしあんな風が下で吹いていたなら、わたしは間違いなく風邪をひいていたに違いない。夕方も志岐くんに言われたことだけど、もうすこし考えて行動したほうがいいのかもしれなかった。
「秋って複雑な季節ですよね」
翌日の夜、二日続けての呼び出しに答えてくれた志岐くんが、誰にでもなく独り言のように言った。
「複雑って?」
恵みの秋、豊穣の秋……秋といえばそういう大地の恵みの恩恵を受ける季節で、一般的なイメージとしてはそれで定着しているように思う。複雑なようには思えない。
「そうですけど、そうじゃなくて、その反面、秋の後には冬がきます。沈黙の季節です。だとすれば秋っていうのは何かを終わらせる前触れのようにも思えます」
「そうなのかな」
確かに秋は一年の後半、その年が終わろうとしていることを告げる季節ではあるけれど。いやでも、そもそも一年という区切りは人間が作ったもので、今回の場合はあまり意味はないのかな。志岐くんの言うことは難しい。
「どうしたんですか、伊空先輩。前はもっとこう、自分の意見を言ってくれましたよ」
そうだった……、のかな。そうだったような気もするし、違うような気もする。なんだかもやもやして、しかも自分が何に対してもやもやしているのかもわからないから、そのもやもやは膨れ上がるばかりだ。そのもやもやを取り除きたくて、わたしは志岐くんを呼んでいるのかもしれない。
「どうしたんです? 将来に対する漠然とした不安にでも襲われてしまったんですか?」
将来に対する不安?
ああ……たしかにそれはあるのかもしれない。大学のこと、その次のこと、志岐くんのこと、わたしのこと。考え始めるとキリがない。梅雨のころに志岐くんと話をしたけど、それでもまだ不安になることはある。本当にこれでいいのか、わからなくなる。
「大学は……」志岐くんは言葉を選んでいるのか、すごく考えながら話し始めた。「……やっぱり感覚としては高校の延長だと思います」
「高校の延長?」
「はい。まだ高校生のぼくが言うのも変な話ですけど。それでも……今までもそうだったでしょう? 小学校から中学校に上がるとき、もしかしたら先に中学生になった人はもう別人のようになっているかもしれない。でもそんなことはありませんでした」
それは……そうだろう。たったそれだけのことで何かが――全く別の人になるような何かが変わるとは思えない。
「中学から高校もそうでした。そして自分も、何かが変わったわけじゃありません。自分はずっと連続していて、変わったのは環境だけです。ぼくたちはそれに合わせて順応しますが、でも自分自身が別のものになったりはしません」
環境が変わるから、変わったから、変わってしまう――そんな錯覚です。
「錯覚?」
「錯覚です。もし何かが本当に変わるとするなら、それはたぶん、学校という社会から完全に脱する時じゃないですか? 大学は研究機関だといいますが、それでも『学歴』というカテゴリに含まれるのだからぼくたちにとっては同じようなものです」
研究機関なら、むしろ『職歴』だと思います。
そう続ける。
「そんな不確かなものを気に病む必要はありませんよ」
「不確かなものを気に病むのが人間だと思うな」
そうでしょうか。
そうだと思うよ。
「星がきれいですね」と、志岐くんはやや強引に話題を変えた。わたしにとってもそれは都合が良くて、特に追求はせずにその話題に乗った。
「そうだね。とっても、きれい」
今日の空にも雲はあって、薄く星を覆う膜を張っている。
「伊空先輩」
「なあに?」
「楽しいことをしましょう」
「え?」
志岐くんがこういう提案をするのは珍しい。もしかしたら初めてかもしれない。どこかへ行こう、何かを見ようという誘いはあったけど、こういう抽象的な、具体性のない提案は初めてだ。
「楽しいことって?」
楽しいことにも色々あるけど、わたしにとって楽しいことといえば、こうして志岐くんと空を見ながら話すことなので、改めて提案されると困ってしまう。それとももしかして、志岐くんはこうしているのはあまり楽しくないのかな。
「今日の、というか最近の伊空先輩は思考がネガティブ過ぎますね」
「わたし、何も言ってないよ?」
「顔に出てますよ、顔に。そんな暗い顔されてると、夜闇に紛れて顔が見えなくなるじゃないですか」
どんな顔なんだろう。
「そんな顔してた?」
「してましたよ、今もですけどね。まあ受験生ってやつはそれだけ大変ってことかもしれませんが」
受験……は、実はわたしはそれほど問題視していない。クラスのみんなはもう、血眼になって勉強しているけど、わたしにはそういう情熱はなかった。今の自分が背伸びをしなくても大丈夫な大学で、自分のやりたいことを勉強する――そう決めたから。別にそれは受験勉強から逃げているっていうわけではなくて、どうしても高い偏差値の大学に通うことに魅力を感じないからだ。もしかしたら大学の見学をしたら魅力的に気づくかもしれないけど、少なくともわたしは偏差値に魅力を感じたりはしない。
幸い、隣の県にちょうどいい大学があるわけだから、そこに通うための努力をすればいいと思っている。
だから今はそんなことよりも。
「楽しいことってどんなことかな」
「そうですね。……ぼく、こういうこと考えるの苦手なんです。伊空先輩のアイディアを期待してます」
「期待しないでよ」
ふたりで唸って十分ほど、「町に繰り出しますか」と志岐くんが言った。
「今から?」
「はい」
時刻は二十二時。あまり高校生が外をうろついて良い時間ではないけど、それももう今更だった。別に町に繰り出したところで、どうせそこは眠りの中。俗に言う夜遊びみたいなことはできない。じゃあそこに行って何が楽しいのかという話なのだけど、わたしにはなんとなくそれがわかった。
「よし、じゃあ行こっか」
「はい」
志岐くんよりも早く立ち上がって、彼に手を差し出す。志岐くんはわたしの手を取って立ち上がって、ズボンについた草や砂を払って落とした。
丘を下って静かな道を歩く。街灯の明かりが等間隔に道を照らしている。明かりといえばそれくらいのもので、この時間になってしまうとコンビニか自販機くらいしか働いているところはない。静かな田舎町、それがこの町だ。
去年、志岐くんと出かけたのはもうすこし遠くまで行ったから、たぶん、あそこはまだ明るいのだろうとは思うけど。どうなんだろう。
道路に車の往来はほとんどなく、たまに通る車は他の車が通らないことを知っているから、日中では考えられないような速度で駆け抜けていく。わたしたちはたまに道路の真ん中を歩いてみたり、広い駐車場の中心で立ち止まってみたりした。静まり返った夜の町は、いつものわたしが知っている町とは違う世界に思えた。そしてそんな場所から見上げる星空は、どこか特別なものに見えた。
「不思議な気分だね」
「そうですね」
世界にはわたしたちふたりしか人がいないんじゃないか――そんな錯覚さえわいてくる。そうならないのは遠くでコンビニの明かりがまぶしく光っているからでもあるし、秋の夜は虫の声で包まれているからでもある。
虫の声。
なんだか久しぶりに聞いたような気がする。
「ねえ志岐くん」
「なんですか?」
「虫ってさ、いつから鳴いてた?」
志岐くんの目は「何を言ってるんだこの人は」と言っていた。
「少なくとも昨日、突然呼び出された時点では鳴いていましたよ」
わたし、気づかなかったんだ。
「気づいてなかったんですか?」
「……うん」
本当に、今の今まで気づかなかった。のんびりと星を見ていた時も、夕方志岐くんと空を見ていた時も、虫の声には気づかなかった。そんなことに気づけない自分が、まるで自分ではないように感じる。わたしはそこまで余裕がなくなってたんだ。
いつの間にか、気づかないうちに。
「今、気づきました」
前を見たまま、志岐くんはわたしの手を引く。
「ちゃんと気づいたので大丈夫です」
何が大丈夫なのか、わたしにはわからないけれど。それでも志岐くんは大丈夫、大丈夫と繰り返す。
「志岐くん?」
志岐くんの「大丈夫」はわたしにというよりも、彼自身に言っているような気がした。どうしてだかわからないけど。
「ねえ伊空先輩」
「うん?」
「ぼくはここにいます」
「……? わたしもここにいるよ」
「はい」
「どうしたの?」
志岐くんは黙ったまま、わたしの手を引いてどんどんと歩いていく。いつの間にかわたしたちは、いつかの桜並木にやってきていた。
「どうしたの?」
「ごちゃごちゃと考えすぎていたのは、ぼくのほうだったようです」
「どういうこと?」
「変わるだの変わらないだの、そういう考えてもどうしようもないことばかり考えていました。伊空先輩、ねえ、伊空先輩。実を言うとぼくは不安なんですよ」
それはわたしが初めて聞いた、志岐くんの弱音だった。ふだんの志岐くんは何かを達観してしまったような、見限ってしまったような態度だけど、今の志岐くんは触ると壊れてしまいそうなほどに弱弱しく見えた。秋の虫の声で押しつぶされてしまいそうになるほど。
「何が不安なの?」
「伊空先輩が大学に行ってしまった後、ぼくはひとりです」
友達がいない――わけではない。志岐くんは休み時間には友達と話しているし、何度か「告白されました」なんて報告も受けたことがある。友人には恵まれている、わたしはそう思っていたのだけど、志岐くんはそう思っていないのかな。
「わかっているでしょう? そういうことじゃないですよ」
わたしは、何も言えなかった。
「何かの本で、香辛料の入っていないカレーだとか、炭酸の抜けたコーラだとか、そんな言葉を見たことがあるんですが、まさに来年からそんな高校生活になりそうです」
まるで一年生の頃のわたしだ。
「ほら、そこはわたしが一年の頃の追体験だと思えば大丈夫だよ」
「それで大丈夫なら苦労しませんよ」
「そりゃそうだけどさ。志岐くん、どうしてほしいの?」
「そう聞かれると困りますね」
本当に困った様子で顔に手を当てる。今日の志岐くんはわけがわからない。というか、わたしたち本当に大丈夫かな。ちょっと頭のネジが吹っ飛んでるかもしれない。
「大丈夫です。仮にネジが外れていたとしても、それは思春期特有の現象ですから」
そんな現象は聞いたことがない。
「同じ時間をもう一度繰り返したいですね」
「同じ時間っていうと?」
「去年先輩と会った日からこれまでです」
「わたしは……そうでもないかな」
「そうですか? ぼくはとても楽しい時間だったので、できればもう一度味わいたいのですが」
そう言われると確かにそのとおりで、もう一度繰り返したいという思いが全くないかと言われれば、まあ全くないわけじゃない。志岐くんと会ったその日の喜びをもう一度味わいたいとは思う。
初めての後輩。
最初で最後だったけど。
「わたしはね、志岐くん。繰り返すんじゃなくて先を歩きたいと思うよ」
志岐くんはどこか残念そうな顔でわたしを見ている。
「ほら、志岐くんも言ってたでしょ? 変化を嫌う人は生きるのに向いてないって」
同じ時間を繰り返すのは、変化を嫌っているのと同じようなものだ。
「そう言われてしまうと繰り返すなんて妄言はもう言えませんね」
すこしムッとしてしまったみたいだけど、すぐに志岐くんは笑った。
「寂しいのはわかるけど、我慢してよ。大学だって同じトコ行くわけじゃないでしょ?」
高校よりもよっぽど可能性は低くなる。と思う。
「それはわかりませんよ。ぼくの志望大学は未定ですから」
志岐くんがその気になれば、わたしの志望している大学なんて軽々と合格してくるに違いない。どうやらわたしよりも成績は良さそうだし。
「そっか。でもわたしがいるからって理由では選ばないでね」
きっとそういう選び方をすると、志岐くんはまた炭酸の抜けたコーラみたいな生活を送ることになる。これからの生活がそうなるかはわからないけど、その理由で大学を選んでしまったなら、絶対にそうなってしまう。
「わかりました」
「よろしい」
お互いに笑いあって、ようやくふだんのわたしたちに戻ったような気がした。わたしも志岐くんも、きっと寂しかったんだろうなと思う。いやそうじゃなくて、寂しくなることが怖かったんだと思う。
充実した生活。
それを失うことが怖かったんだ。
「じゃあ志岐くん、明日も学校があるしそろそろ帰ろうか。日付が変わっちゃうよ」
「そうですね」
うなずいて歩き出そうとする志岐くんの服の裾を捕まえる。
「手、繋いでよ。転んだら大変でしょ?」
志岐くんに手を出すと、志岐くんはしばらくわたしの手を見て、ペチッ、と、わたしの手を軽く叩いた。
「甘えないでください」
「ちょっと志岐くん、それはないよ」
いくらなんでもあんまりだ。志岐くんは笑いながら小走りでわたしから逃げ出した。
「あ、こら、待ちなさい。志岐くん」
慌てて彼の後を追う。
「あ、伊空先輩。ほら見てください。月がきれいですよ」
「本当だ。きれいだね……じゃなくて! 志岐くん!」
彼は逃げる。
わたしはその後を追う。
残りわずかの時間を噛みしめるように。
あるいは、目をそらすように。
わたしたちは夜の町を駆ける。