第一章 死体と彼女と行方不明
和樹はアパートの扉の前で一つ深呼吸した。Tシャツに半袖の上着、ジーンズ姿の体は細身で長身。切れ長の目に、左右対称の口元。まあまあ結構かっこいい部類に入る少年だ。
和樹は、震える指をインターホンに近づけた。しかし、その指はボタンに触れる前に引っ込められる。
「かあああ! ダメだぁ!」
小声で叫んで、まるでおもちゃをねだっている子供のようにじたばた足を動かした。通りすがりのおばちゃんが、『なにかしら、この子』の視線を向けて来るが、知ったことじゃない。惚れた女の家の前に、初めて立っているのだ。緊張するのが当たり前だ。
和樹がここにいる理由は、すごく簡単。羽原が、バイトに来なかった。しかも、無断欠席だ。サボり癖のある奴なら、特に珍しいことではない。けれど、彼女はバイト開始時間十五分前にはエプロンをかけてカウンター前にスタンバイしているような奴なのだ。おまけに店長曰く、電話をしても連絡が取れないという。かくして、心配性の店長から様子を見て来い、と嬉しくも恥ずかしい命令が下ったというわけ。
『彼女一人暮らしだし、お風呂場で倒れてなければいいけれど』なんて店長は言っていたが、和樹はそれほど心配していなかった。羽原は、和樹と同じ高校生だ。冬のお年寄りじゃあるまいし、あの若さでぽっくりいくわけがない。まあ、風邪でも引いて寝込んでいるのだろう。そんなことより、玄関先で自分をみた羽原がどんな反応をするかが心配だ。
和樹が、ぐっと拳を握り締めた。
羽原には悪いが、これはチャンスだ。病気で弱っている所に、心配して見舞いに来てくれた男。女なら、クラッと来るだろう。たぶん。
(がんばれ、俺! 負けるな、俺! 行くぞ、俺!)
核の発射ボタンでも押すような心境で、和樹は茶色のボタンを押した。部屋の奥でチャイムが鳴ったのが聞こえる。が、返事がなかった。
「おーい、羽原。生きてるか~」
閉まったままの扉に話しかけるが、やっぱり返事はない。
「どこか、買い物にでも行ったのか?」
良く考えれば、一人暮らしの場合熱があろうが吐き気がしようが、食べ物や薬は自分で買ってこなければならないのだ。両親がいるありがたさを噛締めながら、和樹はドアノブに手をかける。
ドアノブは、あっさり回った。戸を開けるためというよりも、鍵が掛かっている確認のためにノブを回した和樹は、思わずそのままの格好で固まってしまう。
今までのドキドキと違う種類の緊張が襲った。背筋を冷たいこんにゃくでなでられたような寒気が走る。そういえば、部屋が妙に静か過ぎないか? 生きている人間がいれば当然するはずの、食器の触れ合う音や軽い咳、テレビの音といった生活音が全くしない。強盗? それともまさか本当に風呂場で倒れているのだろうか? こんな時に不謹慎にも浮かんできた羽原の裸(想像図)を慌てて消す。中の様子が分かるかと扉の横にある窓を覗いたが、曇りガラスになっていて、家具の輪郭がぼんやりと分かるだけだった。動いている人影はない。
「羽原、入るぞ」
ゆっくりと、和樹はドアを開けた。
入り口と同じ形に切り取られた光が玄関のタイルに差し込む。自分の影が、乱れた靴の上に覆いかぶさった。和樹は、スニーカーを脱いでそろそろと上がりこんだ。背後で扉の閉まる重たい音がする。
部屋に入って、最初に目に入ったのは、めくれ上がった淡いブルーのカーペット。それから、ガラスの天板にヒビの入ったテーブルと、床で中身をぶちまけているコーヒーカップ。ツタの葉が飾りについた大きな鳥かごが、戸を開けた状態で床に転がっている。ふわふわとした羽毛が部屋に散っていた。女の子が持っているようなぬいぐるみや、キャラ物の文房具が一つもないのが実に羽原らしい、と脳のどこかが現実逃避気味に考えた。
いつの間にか息を止めていたらしい。急に苦しくなって、和樹は空気を無理に吸い込んだ。胸の奥で、詰まった掃除機のような音がした。
「ハ、ハネハラ?」
何とか搾り出した声は、情けないくらい小さく、耳元でなる鼓動の音にかき消されてしまいそうだった。
急に視線を感じて、和樹は体を堅くした。振り返ると、小さなタンスの上に乗せられた写真立ての羽原と目が合った。校門を背景に、中学の制服を着た羽原。隣で、彼女の父親らしい男がうっすら笑みを浮かべている。なぜかその笑いを酷く不気味に感じて、和樹は視線を反らせた。
小さな台所に、白いクローゼット。視界の隅に見えるベッドルーム。テレビの影。和樹はあちこちに視線を走らせて、羽原の姿を探す。腰まである黒い髪、細く白い手、ガラスのようにどこか無機質な真っ黒な瞳…… この部屋にあるべき和樹が好きな物すべて、どこにもない。
その代わり、とでも言いたそうに床に転がっていたのは、短い茶色の髪を持った見慣れない少女だった。薄い青のワンピースを着た体をくの字に丸め、喉を押さえている。髪の間から微かに見える頬は、粉でも被ったように白く血の気がない。荒れた唇も長い間プールに入っているように蒼ざめている。その下にある特徴的なほくろ。
確か、羽原の友達のミカとかいう女の子だ。店に何度か来ていたのを覚えている。和樹は、一歩後ずさった。テレビドラマにあるように、脈や呼吸を調べようなどと思いもしなかった。
和樹は、もう一歩後ずさった。踵に、何か堅い物が当たる。それは、置時計だった。針は五時四十七分を指して止まっていた。五時、四十七分。それが、彼女に何かが起こった時間。
(その時…… その時俺は何してた?)
たぶん、店長のんきに電話をしていたころだ。
『ああ、まだ羽原が来ないんですよ。なんか連絡もつかなくて心配っすよ』
嘘をつけ。大して心配していなかったくせに。
『ま、風邪か何かだと思いますよ。面倒だけど、もう少ししたらもう一度連絡してみます』
嘘付け。羽原の家に行く口実ができて喜んでたくせに。
(俺が浮かれている間に、アイツは……!)
「うわあああああ!」
叫び声を挙げて、和樹は扉に向かった。ドアノブにかけた手が、汗ですべる。それでも何とか戸を開けると、和樹は靴を履くのも忘れたまま駆け出していった。