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「香織はこうでもしないと逃げてしまうからね。」
ニヤリと笑って言う。
「で?昨日のあの男はなんだったんだ?」
その言葉に昨日の事を思い出した私は、また身体が震えてきた。その様子を即座に察した崇史さんは、優しく私の髪を梳き頬に手を当ててくれる。その温もりに少しづつ震えが収まっていく。
「…モトカレなんです。大学時代にサークルで知り合って付き合うようになったんです。彼は2歳年上なんですけど、彼が就職しても続いてて…。それが、私が就職したらお互いの時間が合わなくなって、そのうちにどちらからともなく連絡を取らなくなっていって自然消滅したんです。…よくある事ですよ。それからは一度も連絡なんてなかったんです。」
「それがどうして今になって…。」
「私にもわかりません。先月半ば頃からマンションのポストに毎日花びらが入ってたんです。…そういえば、視線を感じた事もありました。その時は私を見ているなんて思わなかったんで気にしてなかったんですけど。それが、ポストにいろんな種類の花びらが入ってて一昨日、やっと気づいたんです。毎日1枚づつ増えてたんです。昨日、彼は27日目になったから花束を持って迎えに来たって言ってました。私の年齢に追いついたからって。よくわかりませんけど。」
私は視線を少し下げた。崇史さんはため息を吐いた。
「そうか…。理由は警察から聞かないとよくわからないな。」
「はい…。」
少しの沈黙が落ちる。
崇史さんは私の頬に当てた手を降ろすと、まっすぐ私の目を見て聞いてきた。
「それで?どうして香織は俺から逃げてたんだ?」
「……。」
私は視線を下げたまま唇を噛む。私から依頼の終了を言い出さないといけないの…?どうして…。
「香織。」
崇史さんは私の顎に手を当て、顔を上げさせる。
「俺の目を見ろ。香織の考えている事を言ってくれ。」
私は崇史さんの目を見る。少し寂しそうな目。…どうして崇史さんがそんな目をするの?
そのまましばらく見つめ合い、私は意を決して口を開いた。
「崇史さん。貴方からの依頼は終了にしましょう。」
思ったよりしっかりとした声で言えた。その言葉に崇史さんは一瞬目を見開き、無表情になって眉間に深い皺が入る。その目にはうっすらと怒りが浮かんでいる。
「…どういう事だ?」
崇史さんは低く、冷めた声で言った。
「言葉の通りです。もう、恋人の真似事はやめましょう。私はもう崇史さんの恋人役はできません。」
私の顎に手を当てていた崇史さんの手に力が入る。…痛い。崇史さんの顔には、今度こそはっきりとした怒りの表情が浮かんでいる。彼のこんなあからさまな表情は見た事がない。
「…真似事だと言うのか。俺は、どういう事だと聞いているんだ。どうしてそんな事を言い出したんだ!」
なんとか怒りを抑えた低い声で崇史さんは言った。
「…崇史さんが言ったんですよ。大阪に行った時。『香織のおかげで恋愛してみたいと思った。』って。崇史さんはやっと見つけたんでしょう?本当に好きな人を。私と恋人の真似事をしていて恋愛してみようと思ったんでしょ?」
「…そうだ。本当の恋愛をしたいからそう言ったんだ。」
「だから、もうやめましょう。私が本当の恋人みたいに崇史さんの側にいたら迷惑でしょう。」
「迷惑?どうしてだ?そんな訳ないだろう。」
「私はこれ以上、崇史さんの側にいられません。」
「そんなに俺が嫌か!俺の側にいたくないのか!」
「嫌な訳ない!」
「それなら、どうしてそんな事…!」
「私がいたら困るのは崇史さんでしょ!」
「なんで俺が困るんだ!俺は香織を手放すつもりはないぞ!」
2人とも息を吐き、口を閉ざす。
そのまま2人は見つめ合っていたが、私はおかしな事に気づいた。
「崇史さん?手放すつもりはないってどういう事ですか?崇史さんは好きな人がいるんですよね?」
「だから、そうだと言っている。」
崇史さんは私を睨みながら言った。私はずっと気になっていた事を思いきって聞いてみる事にした。
「あの、崇史さんの好きな人って誰ですか?」
今度は崇史さんが不思議そうな顔をした。
「…香織に決まってるだろう。」
「えっ!?私?ウソ!」
「ウソって…。え?気づいてなかったのか?」
「だって、私のおかげって…。てっきり私以外の人だと思って。だから私がいると崇史さんの迷惑になるって…。」
「はぁ〜。どうしてそんな事を考えるんだ…。俺は香織に会えたおかげで本気で好きだという感情がわかったんだ。香織と本気の恋愛がしたいと思ったんだ。どうして香織以外の女を好きになるんだよ…。」
崇史さんは私を抱きしめると、もう一度、大きなため息を吐いた。それから、やっと私の手の戒めを解いてくれた。崇史さんは、少し赤くなった私の手を優しく撫でてくれる。
「そんな事言われたって…。知らないもん!」
「あぁ、悪かったよ。紛らわしい言い方をした…。」
崇史さんは身体を起こして私の目をしっかり見て言った。
「香織。俺は香織のことが3年も前から好きだ。俺と本気で恋愛してくれるか?」
その台詞に目が潤んでくるのがわかる。そんな私を見ながら、崇史さんはニヤリと笑って言った。
「してくれるよな?さっき、俺の側にいるのは嫌な訳ないって叫んでたもんな?」
え…。私、どさくさ紛れにそんな事言いましたか。一気に顔が熱くなっていく。
「な?」
崇史さん、そんなにとどめを刺さないでください…。私は俯いて小さく頷いた。その途端、私の名前を呼んだ崇史さんに思いっきり抱きしめられる。…くるしぃ!!ギブ、ギブ!軽く崇史さんを叩くとやっと私を離してくれた。
それから崇史さんは急に真剣な顔になって少しだけ寂しそうに言った。
「香織。昨日の夜、泣きながら寝てた。頼むから、俺といる時だけは声を殺して泣かないでくれないか…。」
それは私のクセだった。
私の父は私がまだ幼い頃に事故で亡くなった。それからは母が一人で私を育ててくれた。私はいつも忙しい母に心配を掛けたくなくって、なにか辛い事があっても言わなかった。そその代わりに、母が寝てしまってから一人トイレで声を出さないように泣いていた。もうずっとそうだった。崇史さんに言われるまで、私は人が泣く時に声を上げる事に気づかなかったくらいだ。
その崇史さんの言葉に、ついに私の目から大粒の涙が零れていった。
「はい。崇史さん、ありがとう…ございます。」
崇史さんは私を強く抱きしめてくれた。私は崇史さんの腕に安心して、十数年ぶりに声を上げて泣いた。
しばらく泣いて落ち着いた私は、少し気まずく思いながらそっと崇史さんの胸から顔を上げた。すると、崇史さんはそっと私の涙を親指で拭ってくれる。
「もう大丈夫か?」
穏やかな崇史さんの声と表情に私は久しぶりに笑って頷く。
「やっと笑ってくれた。」
そう言って崇史さんも柔らかく笑ってくれた。その時、私は思い出してしまったのですよ!
「仕事!!」
私は慌てて崇史さんから離れようすると、
「大丈夫。昨日の内に原田に連絡してあるから。今日は一日、ゆっくりしよう。」
ニッコリと笑った崇史さんの嬉しそうな笑顔になぜか危機感を覚えた。崇史さんの背後が黒いです!そしてその予感は的中。
「香織。やっと本物の恋人になったんだ。しっかり気持ちを確かめ合おう。」
とかなんとか言いながら、崇史さんの手が直接私の肌に触れてくる。私がなにか言う前に唇を塞がれてしまった。なんとか崇史さんに話をしようと頑張るものの、それがいけなかった。崇史さんはさらに、さら〜に濃厚な深いキスをしかけてくる。次第に頭の中が痺れてきて身体から力が抜けていくと、そのまま崇史さんにベッドへ押し倒されてしまった…。
一日ゆっくりするどころか、ぐったりと疲れてしまいましたよ…。
どうしてあんなに元気なのよ!
嬉し恥ずかし?の翌朝を迎えました。
なんかもう、いたたまれません!恥ずかしくて崇史さんの顔が見れない〜。まさか、あんな事をするなんて…!イヤ、もう思い出しちゃいけない。忘れるんだ、香織!一生懸命、自己暗示をかけてみる。まぁ、ムダだとは重々承知していますとも。
「おはよう、香織。」
なんとも甘ったるい声ではありませんか。朝から超ゴキゲン崇史さんですね。私がチラッと崇史さんを見ると、もう満面の笑みです。ああ、もう!
「…おはようございます。崇史さん、離してください。マンションに戻って着替えてから会社に行かないといけないんですから、早く出ないと。」
「まだ大丈夫だよ。車だから少し早めに出れば間に合うよ。」
「イエ、結構です。自分で電車で行きます。」
「香織〜?俺が許すとでも?」
「……。」
あ〜、わかりましたよ。却下なんですね。
べったりとまとわりつく崇史さんをなんとかあしらいながら部屋を出る。駐車場に連行されて崇史さんの車に乗せられて、私のマンションまで。車が止まって私が降りると崇史さんも降りた。わざわざ部屋まで付いてくるみたいです。「心配だから。」だそうですよ。
ポストを確認すると警察署からの書類が入っていた。事情聴取をしたいから、できるだけ早く署まで来て欲しいという内容だった。それを見た崇史さんは出社前に寄ろう、と言って私の隣で原田さんに携帯で連絡をしていた。
自分の部屋で着替えとメイクをして、崇史さんと一緒に警察署へと向かった。
「あの、こちらへ来るように連絡を頂いたんですけど…。水原香織です。」
警察署の窓口で名前を告げると、会議室のような部屋へ通された。もちろん、崇史さんも付いてくる。途中で止められそうになったら「彼女の婚約者です。」なんて適当な事を言って。
しばらく待っていると、あの時の警官が部屋に入ってきた。
「お待たせしてすいません。わざわざ来ていただいてありがとうございます。」
そう言うとイスに腰掛けた。
「いくつかお伺いしたい事がありまして。」
「はい。」
その警官はメモを出して私を見た。
「…谷口徹を知っていますか?」
「はい。以前、お付き合いをしていました。」
「それはいつの事ですか?」
「私が大学を卒業する頃までなので、5年前までです。」
「それ以降は連絡を取っていましたか?」
「いいえ。一度も。」
「あなたの所在を教えるような事は?」
「ありません。」
「…わかりました。」
大きくため息を付く。
私の隣で黙って聞いていた崇史さんが口を開く。
「その谷口徹という男は、香織のストーカーだったという事ですか?」
「正確には『つきまとい』です。彼は9月半ば頃から水原さんの周辺をうろついていたようです。」
「ポストに入っていた花びらは?」
「それも彼が入れたそうです。意図はよくわかりませんが、毎日花びらを入れていたと。それも1枚づつ増やして。花びらが今の水原さんの年齢の数まで達したら会いにいくという意味を込めたという事ですが…。その日に、花びらではなく花束を持って水原さんのマンションまで行ったようですね。」
「香織に会って、どうしようとしていたんですか?」
「…水原さんを迎えに行って、よりを戻そうとしていたようです。どうやら最近、付き合っていた彼女に振られたみたいで、急に水原さんの事を思い出したようです。…水原さんと付き合っていた時が一番楽しかったと。そんな時に偶然、水原さんを見かけたようで。水原さんがあの頃とあまり変わっていなかったので、今行っても受け入れてくれるんじゃないかと思ったらしいです。」
警官は苦笑しながら教えてくれた。私は複雑な気分だった。私と付き合っていた時が一番楽しかったと言われれば嬉しいが、今更よりを戻そうとも思わない。何しろ、もう心は彼にはないのだから。隣の崇史さんを見上げると、怒った声で小さく「迷惑な…。」と言った。
「それで、その男の処分はどうなったんですか?」
「悪質ではなく、いわゆるストーカーというよりつきまとい行為という事と、本人が反省をしているので、今回は警告処分になりました。」
「それだけで終わりですか?」
「残念ですが、今の段階では。」
「…わかりました。」
崇史さんは難しい顔をして何か考えているようだ。
「水原さん。もうこれで結構ですよ。また、なにかありましたら来ていただけますか?」
「わかりました。」
「今日はありがとうございました。」
警官に見送られて、崇史さんと警察署を出た。
車に乗った崇史さんは、すぐに発進せずに私の方を向いて手を握り、難しい顔で言った。
「香織。俺の部屋に引っ越してこい。」
「はっ!?」
この人はいきなり何を言い出すんですか!
ふぅ〜。やっとくっつきました。崇史さんがちょっと鬱陶しいですね…。




