資本の横顔
たとえばディズニーランドのような場所を考えてみたい。作り込まれた景観、照明、そして動線。それだけでできている場所に夢を見る者は、実のところ対象を見ていない。対象を鏡にして、己の欲望の輪郭をなぞっているにすぎない。そして、あんなものは虚構だと笑う者もまた、鏡から逃れられない。その判定そのものが、覚醒したままでいたいという不格好な欲望の裏返しだからだ。
どちらが正しく世界を見ているか、という問いは成立しない。両者とも見ていない。見ているのは欲望の型であり、対象はそれが通過するためのただのスクリーンだ。世界観の相違とは、投影される欲望の相違であって、対象の相違ではない。この構図は、資本という、もっと大きなスクリーンにも同じ形で当てはまる。
貨幣を稼ぐことにも、貯めることにも、使うことにも、それぞれの愉悦がある。金のために金を稼ぐ者は、金そのものにロマンを見る。権力、自由、力――すべての非物質的な像が、金という空虚な媒体に結ばれる。安心感、あるいは漠然とした万能感を求める者もいる。この場合も欲望されているのは金ではなく、金がもたらすかもしれない情動の在庫だ。金は経路であり、代理記号であり、どこまで行ってもそれ自体ではない。
金そのものは、経路にすぎない以上、好悪の対象になりようがない。ただ、そこを通過する際に、誰かの欲望の痕跡が必ず付着する。執着、羨望、不安、承認欲求。湿り気と粘り気を感じるとすれば、それは金にではなく、そこに堆積した欲望の澱に対してだ。
馬の鼻先のにんじん。ラットレース。雑多だったはずの欲望が、ある一点に向けて収斂していく。ハブに近づくほど、個の輪郭は溶けて均質な流れになる。その変換の摩擦が熱として感知され、言いようのない違和感として残る。
街頭の広告で、はにかんだモデルの写真がこちらを見ている。人工的に仕組まれた無垢、金に換算されるための笑み。それを見た瞬間にせり上がってくる、生理的な吐き気のようなもの。良い悪いという倫理の議論ではない。もっと手前の、致命的な距離の問題だ、と言いたくなる。だが、その吐き気すらもすでに、システムが発する熱に包まれてしまっている。
ここまでの違和感が指し示す先を、はっきりさせておきたい。金は我々の鏡だと言われる。鏡であるなら、金を見ることで自分の欲望を知ることができる――主体はまだ認識の中心にいる。だが、欲望する主体が先にあって金という鏡に映るのではなく、収斂と均質化そのものが資本という場の運動だとすれば、話は逆になる。
我々は資本という場の中で、ある角度から照らされてたまたま可視化された断面、横顔にすぎない。場が動き、我々はその都度の断面として立ち現れる。金を見ているのは我々ではなく、資本が我々を通して自らの相を現成させているのだ。
この横顔という構図は、芸術という場にも同じ形で表れる。芸術を語るのに資本から入るのは、真にナンセンスだ。芸術の価値の生成そのものにとって、資本は外部の力であり、ノイズとして働く。オークション会場が絵の価値を決めるという考えと、そうではないという考えが折り合わないのは、このためだ。
資本にはロマンがあり、可能性があり、そして明確な限界がない。際限のない欲望は、むしろそれ自体の可能性を狭めてしまう。資本は芸術の入り口にも通路にもなれない。完全に阻害され、隔絶されている。
にもかかわらず、芸術と資本は現実には分かち難く結びついてもいる。資本は本来、手段であり外套であったはずだった。それが今や、現代における王であり、宗教である。
だが、ここで反転が起きる。資本が芸術を牛耳っているように見えるのは、横顔しか見えていないからだ。我々が資本という場に脅かされ,その断面としてしか現れ得ないのと同じように、資本もまた、芸術という、より大きな場のほんの一要素、通過するひとつの相にすぎない。
王に見えたものは、実は別の場の横顔だった。支配しているように見える方が、実は支配されている側の断面かもしれない――この反転は、どこまでも入れ子になっていて、最終的にどちらが場でどちらが断面かは決定できない。
ここに至って、我々はひとつの仮説に突き当たる。資本と芸術は、本質的にどちらが上でも下でもない、等価のものとして並立しているのではないか。そして、その二つの巨大な場のあいだを繋ぐ連絡通路として、我々という存在が機能しているのかもしれない、と。
だとすれば、あの横顔という構図――場によって切り取られ、たまたま具現化された我々の断面――が意味するものは極めて重い。それは、二つの場を行き来した無数の痕跡という記憶であり、システムに均質化されつつあることへの断罪であり、同時に、外部を気取りながらも内側に囚われている我々のハリボテとしての本質そのものだ。
連絡通路である我々は、資本の熱に浮かされながら芸術の可能性を夢見、芸術の純粋さに眩惑されながら資本の現実に引き戻される。その往還の摩擦こそが、あの生理的な吐き気の正体だったのだ。
どちらの場が真の実在かを問うことには意味がない。我々にできるのは、自らが連絡通路というハリボテにすぎないことを自覚しながらも、そこに刻まれる記憶と断罪の痛みを凝視することだけだ。場が反転し続けるその明滅のなかで、傷を晒し続けること。それだけが、この巨大な入れ子構造のなかで、我々が生きているという揺るぎない証左なのである。




