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スズランの栞、紅の跡  作者: 万里小路 信房


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5、北の雪原への飛翔

 皇帝の歪んだ執着をよそに、大公国の現実は冷酷に突き進んでいた。独立を維持するための次なる一手、外交の戦場において、大公国は再び絶望的な孤立に直面することとなる。


 大公国の外交的な最優先目標は、帝国に対抗するための隣国との協力体制の確立だった。特に、リトセラス王国とヴァカムエルタ都市国家連合との防衛同盟の結成が模索された。


 この同盟が実現すれば、大公国は帝国に対してより強固な抑止力を持ち得た。


 しかし、この外交努力もまた、帝国の圧力により頓挫した。帝国は、大公国が軍事同盟を結ぶことを強く非難し、それは大公国の独立を脅かすものだと、公然と威嚇した。


 リトセラス王国の外交官ディトモピゲ子爵もヴァカムエルタ都市国家連合の外交官のマチルダも、大公国の悲鳴にも似た訴えに、沈痛な面持ちで首を振った。両国は自国の中立政策を優先し、同盟への参加を拒否した。


 これにより、大公国は再び外交的な孤立を深め、帝国の脅威に単独で立ち向かう道を歩まざるを得なくなる。


 大公国は、苦渋の選択として、大陸で勢力を広げるゴニアタイトとの接近を検討し始める。それは帝国に対する均衡をもたらすかもしれない、大きな賭けだった。


 秘密裏に再軍備を進める大公国と、それを嘲笑いながらさらなる包囲網を敷く帝国。


 その夜、ジュゼッペは義務を果たすためだけに皇后の褥を訪れた。


 窓から差し込む冷たい月光が、無言で横たわる妻の背を照らしている。行為の最中、彼は一度も彼女の顔を見ようとしなかった。


 皇帝は皇后が隣で寝息を立てている寝台で、かつて雪の降る日、フリーデリケと二人、図書館で一つのランプを囲み、フリズナ公爵の歩兵の運用論について議論していた場面を思い出していた。


 彼がフリーデリケに問いかける。


「もし私が道に迷ったら、あなたが導いてくれますか?」


 すると、彼女が笑って答える。


「あなたは優秀な後輩だもの、そんな心配はいらないわ」


 微笑む彼女の幻影が、今の彼を狂わせる。ジュゼッペは隣で浅い眠りに落ちていた皇后の肩を、無慈悲に掴んで引き寄せた。


 彼は一度も彼女の顔を見ようとせず、背後からその肢体を組み伏せた。皇后が困惑し、震える指先で夫の腕を探っても、ジュゼッペはその手を冷たく払い、彼女の背中を、ただ暗闇のなかで激しく蹂躙した。


 顔を合わせぬまま、背後からその存在を塗りつぶすような、容赦のない衝撃。


 それは愛撫などという生易しいものではなく、三十年前に奪い損ねたあの日の絶望的な略奪だった。彼は皇后のうなじを乱暴に口づけし紅の跡をつけた。彼女の苦悶の声を、かつて自分に関心を寄せもしなかったフリーデリケの悲鳴として脳内で変換していく。


 抱きしめる腕に力を込め、彼女の奥深くに自身を叩きつけるほどに、ジュゼッペの心は現実を離れ、北の雪原へと飛翔する。腕の中にいる女がフリーデリケではないという事実が、逆に彼を狂気的な渇望へと突き動かした。彼女ではないものを激しく抱くことで、自分の中の本物への執着を、より純粋に、より醜く研ぎ澄ませていく。


 絶頂の瞬間、彼の喉から漏れたのは妻の名ではなく、獣のような、あるいは泣きじゃくる子どものような弱々しい呼び声だった。


 翌朝。鏡の前に立つジュゼッペは、情事の残滓を拭い去りながら、己を冷たく見下ろした。


 鏡の中の自分を、そして届かない太陽を、彼はもう一度だけ呪詛のように、縋るように零した。


「……ババア」


 そんな皇帝の背中を、皇后は静かな諦めの表情で見つめていた。


 皇帝ジュゼッペは大公国総司令官フリーデリケ公女の次なる一手、その知略の閃きを待ちわび、同時に恐れていた。


 この戦争は、国家間の存亡を賭けた争いであると同時に、かつて青い夢を見た青年の、あまりにも歪で、あまりにも孤独な求愛の続きでもあった。 降り積もる雪の下で、次の戦いの火種は、静かに、しかし確実に熱を帯び始めている。 

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