3、皇帝という名の呪縛
第五皇子と異国の公女との甘い生活の夢は早々に打ち砕かれる。運命は残酷だった。
兄たちが次々と病に倒れ、父が急逝する。輿望を担って彼は皇帝となった。順当にいけば兄の子が帝位につくはずであったが、彼に対する信望が高すぎた。誰が見ても甥は皇帝に向いているとは思えなかった。
玉座を押し付けられた彼は、帝国の法に従い、名門出身の皇后を迎えねばならなかった。フリーデリケとの未来は、戴冠の瞬間に永遠に閉ざされた。
彼は帝位を望んだことはなかったが、皇帝として冷徹なまでに有能だった。官僚制度を整え、宮中に巣食っていた腐敗を一掃した。だが彼の心は欠落を抱えていた。
万雷の拍手と歓喜に包まれた戴冠式の夜。深夜の静まり返った玉座の間で、ジュゼッペは独り、重い冠を傍らに置いてスズランの栞を見つめていた。贅を尽くした金糸のローブは、彼にとって愛を捨てる拘束衣に他ならなかった。
「……努力しましたよ、先輩。あなたの望み通り、私は帝国の礎になった。この、冷たい石の床のような男にね」
暗闇に向かって放たれた独り言に、応える者は誰もいなかった。
彼の婚姻生活もまた、氷のように冷え切っていた。皇后は完璧な淑女であり、帝国の秩序を象徴する存在だったが、ジュゼッペにとっては記号に過ぎなかった。
ある春の日、皇后はせめてもの気遣いのつもりで、庭に咲いたばかりのスズランを銀の花瓶に生けて執務室を訪れた。彼女は、夫が深夜まで一人で引き出しを見つめていることを知っていた。その中にある何かに追いつけないことを悟りながらも、せめて今、隣にいる自分を見てほしいと願ったのだ。
「陛下、春の香りを連れてまいりました。少しはお疲れを……」
可憐な白い鈴の形をした花が視界に入った瞬間、ジュゼッペの顔から血の気が失せ、激昂した声が宮殿の石壁を震わせた。
「その花を二度と私の前に持ち込むな! 今すぐ全て引き抜き、焼き捨てろ!」
皇后の手から花瓶が滑り落ち、銀の器が甲高い音を立てて床を転がった。散らばった水と花びらを、彼女は震える手で拾い集めようとした。そのとき、凍りついた夫の瞳に、自分という人間が微塵も映っていないことに気づいた。
「……申し訳ございませんでした」
そう言葉を残し、背を向けて去る彼女の足音だけが、広すぎる宮殿に虚しく響いた。ジュゼッペはその音すら聞いていなかった。
血の滲むような謝罪を口にしながら、彼女は理解したのだ。この男にとって、自分は生涯、隣に座るだけの置物に過ぎないのだと。
怯える皇后と困惑する侍従たちを余所に、彼は執務机の引き出しに大切にしまい込んでいる唯一の本物を思い浮かべていた。彼にとって、彼女の故郷の花を愛でる資格があるのは、あの学び舎にいた名もなき青年だけだった。今の自分のような血塗られた男が、清らかな花を愛でることなど許されない。その絶望が、彼をより一層冷酷な統治へと駆り立てる。
彼は治世の中で、自らの帝位を脅かす反乱分子となった将軍フリズナ公爵を躊躇なく処刑した。そして帝国軍内の公爵の影響下にある将軍、騎士たちを大量に粛清した。
公爵はかつて軍事アカデミーの教官であり、今では帝国を支える有能な将軍だった。彼と彼女の師であり、何よりフリーデリケの想い人でもあった。
フリズナ公爵はジュゼッペを除き、兄の子を即位させようとしていた。
「遅いんだ。甥が帝位にふさわしいのであれば、なぜ私が即位する前に皇帝にしなかったんだ。いまさら遅すぎる。それに、教官はこんな陰謀に関わらずに、彼女を幸せにしていれば良かったんだ!」
敬愛する師の処刑の決断の背後には、愛する女を奪えなかった自分へ不甲斐なさへの憤りがあった。師を殺し、彼女の想いを砕くような自分には、最初から彼女を望む資格などなかった。
フリズナ公爵を処刑し、その関係者を大量に粛清したあと、皇帝の心を占めていったのは、帝国軍の今後ではなかった。彼が考えていたのは公爵の刑死を、フリーデリケ公女がどう受け取るかということだけだった。




