2、皇子の改心
かつて、彼は皇帝の五男坊という余り物だった。帝位など夢のまた夢。
自分の将来など、兄皇帝の下でお飾りの騎士団総長になるぐらいだろうと思っていた。何の展望も持てないでいた。彼は、酒と女に逃げ、放蕩の限りを尽くしていた。
彼は十五歳になると、乳母の夫の息子という偽りの身分と偽名で軍事アカデミーに放り込まれた。そこで出会ったのが、大公国から留学に来ていたフリーデリケ公女だった。三歳年上の、凛とした公女。彼女の金色の髪が馬上できらめく。その光景が、昨日のことのように思い出される。女はそれ以前に知っていたが、彼にとっては初恋だった。
優秀な学生だった彼女にふさわしい人間になりたいと思った。皇帝の五男と、小国の公女ならば釣り合いのとれた関係だろうと思った。添い遂げられるはずだと。
彼はそれまでの生活を改めた。外からは品行方正と評価された。アカデミーでもそれなりの成績を収め、皇子だという素性を知らない教官からも目をかけられるようになった。特に少壮の軍事理論家のフリズナ公爵ミケーレから高い評価を得た。
ある日の演習後、公爵は夕闇の迫る教場にジュゼッペとフリーデリケを呼び出した。
「君のこの補給路の策定は実に見事だ。フリーデリケの電撃的な進撃は、君の静かな、だが完璧な兵站の支えがあって初めて完成する」
フリズナは二人の肩に等しく手を置いた。その掌は厚く、温かかった。
「剣を振るう者と、鞘を整える者。君たち二人が揃えば、帝国の未来は盤石だ。私は、君たちにこの国の百年を託したいと思っている」
ジュゼッペは胸が熱くなるのを感じた。身分を隠した自分を、公爵は一人の軍人として軍事アカデミー始まって以来の秀才フリーデリケと対等に並べたのだ。
模範的な皇子へと変貌した彼は、帝室でもそれまでと扱いが目に見えて変わった。今までの放蕩息子から有力な藩屏候補と見なされ、帝国を支える政治家たちからも期待の目で見つめられるようになった。
「……努力しましたね。あなたはきっと、帝国の立派な礎になるわ」
彼らの世代がアカデミーを終え、任官する日にフリーデリケは任地から後輩たちのために駆けつけた。彼女は一足早くアカデミーを巣立ち、今は帝国の騎士団に所属して軍務に就いている。
フリーデリケは先輩として彼の肩を叩き、そう言葉を贈った。それは、身分を隠して孤独に耐えていた青年が、一人の人間として認められたと感じられた、初めての瞬間だった。
彼女は雪解けの陽光を背に受けて立っていた。
だが、十八歳のジュゼッペは見た。彼女の凛々しい軍服の襟元、わずかに開いた隙間から覗く、吸い込まれるほど白い首筋に、仄かに残る熱い紅の跡を。彼女が動くたび、清廉な石鹸の香りを裏切るように、濃密な女の香りが立ち上る。
その時、彼がねだって彼女から譲り受けたのが、スズランの押し花の栞だった。フリーデリケの出身地に咲く、小さな白い花。冬の苦しみに耐えて春に可憐な花を咲かせる。その栞はアカデミーで恩師フリズナ公爵の書いた教本に、いつも彼女が挟んでいたものだった。それは昨日までは彼女とミケーレをつなぐものだった。しかし昨夜二人はそれ以上のものを手にしていた。
彼女は昨日まで大切にしていたそれを、聖女のような慈しみのこもった微笑みとともに彼に手渡した。彼女の瞳の奥には、もはや彼のような青年の入る隙などない、別の男に暴かれ、満たされた充足の余韻が揺らめいていた。それは、愛する男との一夜を経て、世界中のすべてが愛おしく見えていた彼女の、無自覚で残酷な幸福のおすそ分けだった。
「今はこんな物しかあげられないけど、いつか、この花が咲く季節に、あなたに故郷を案内してあげる」
彼女にとっては、異国の後輩に向けた社交辞令に過ぎなかったのかもしれない。幸福の絶頂で何の気なしに手放された残骸。それを聖遺物のように抱きしめた日から、彼の地獄は始まったのだ。
三十年以上が過ぎた今も、皇帝の執務机の、誰にも触れさせない秘密の引き出しには、その色が褪せ、脆くなった栞が大切に収められている。彼は時折、深夜の静寂の中でそれを取り出し、自身の血で汚れた指先で、壊れそうな花びらをなぞり、あの日の幻影を追い続けている。




