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スズランの栞、紅の跡  作者: 万里小路 信房


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1、弔いの鐘

 和平条約調印のためワプティアを訪れた大公国の宰相オパビニア侯爵率いる外交団の儀礼的な訪問を受け、凍てつく玉座に座る皇帝ジュゼッペは、氷のような声でつぶやいた。


「……ババアは来ていないのか」


 声に露骨に失望の色をにじませたジュゼッペの脳裏には、かつて雪の降る学び舎で自分に微笑みかけた、凛々しい女性の面影が焼き付いていた。それを塗りつぶすように、彼は吐き捨てたのだった。


 謁見の間に響く皇帝の声は、大公国の政治家だけではなく、帝国の高官たちを震え上がらせた。礼儀を逸した言葉だと指摘するものは誰もいなかった。その中で老練なオパビニア侯爵だけが皇帝の瞳の奥に勝利者の愉悦ではなく、迷子の子どものような弱々しさを見てしまった。彼はこの平和がいかに危ういものであるかを悟り、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 二月末、和平の鐘は鳴った。しかし、それは勝利の旋律ではなく、弔いの鐘の音だった。


 条約調印の直後、オパビニア侯爵を待っていたのは、かつての友邦である西の連合諸国の冷酷な通告だった。


「侯爵、理解していただきたい。我が国は慈善事業で援助してきたわけではないのだ」


 連合の代表は、シェリーを啜りながら、事務的に言い放った。


「早期和平を選んだ時点で、大公国は帝国に対する時間稼ぎ、防波堤としての役割を終えたのだよ。これ以上の支援は、帝国の機嫌を損ねるだけの無駄な投資だ。……君たちはもう、独りで冬を越してもらうしかない」


 差し出された握手を拒み、侯爵は拳を握りしめた。帝国の剣に切り刻まれた後に待っていたのは、友と信じた者たちに見捨てられるという仕打ちだった。


 帝国軍の氷上の大進撃を止める代償として、大公国はリソスフェアの肥沃な森、繁栄した商業地とプシロフィトン湾の要衝を切り取られた。約二千あまりの英雄を雪原に残し、生きて戻った者たちを待っていたのは、略奪され、破壊された故郷の残骸だった。


 「領民を見捨てるような講和はありえない」――。大公国総司令官フリーデリケ公女の断固たる意思により、帝国へ割譲された土地から四万人の民衆が、着の身着のまま後方へと逃れてきた。彼らには故郷に残り、帝国臣民となる選択肢があった。しかしほとんどすべての住民が大公国の民として生きる道を選んだ。その多くは女性、老人、そして子どもだちだった。


 かつて豊かな農村を貫いていた街道は、今や絶望を運ぶ黒い列に埋め尽くされていた。資源の乏しい大公国にとって、彼らの農地と住居を確保するのは、戦場での防衛以上に絶望的な作業だった。


 兵站総監イノセラムス男爵の執務室には、食料配給を求める嘆願と、破壊された道や橋の修復計画が山積みとなり、テオドールら事務官たちは泥を啜るような労苦の中で、独立国家としての形を必死に繋ぎ止めていた。


 帝都ワプティアで結ばれた平和条約は大公国の独立を守ったが、帝国の脅威が消えたわけではない。割譲された領土には帝国の巨大な要塞が築かれ、租借地となったコランダム半島は、大公国の喉元に突きつけられた鋭利なダガーだった。


 フリーデリケは、平和という名の休戦が長くは続かないことを誰よりも理解していた。


「次は、この国そのものを食らいに来る」


 彼女の号令により、新たな国境線沿いに、以前のフリーデリケ・ラインに代わる新たな防御陣地の構築が開始された。それは次の嵐が来るまでの、時間との戦いだった。しかし、西の連合は大公国が早期和平を選んだことに失望し、武器の供給を停止した。外交的な孤立の中、大公国は再び、独りで冬の夜に立ち向かうことを余儀なくされた。

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