プロローグ
朝は、だいたい世界がクソだと感じながら始まる。
それはなぜなのか。
夢というものは、どんなに甘美でも、いつか必ず覚めてしまうからだ。人間なら誰もが夢を見る。ハーレムアニメの主人公が女の子たちに囲まれて笑い合う夢だって、その一つだ。
だが、そんなものは長続きしない。目を覚ませば、現実はいつもそこにあって、俺を冷たく見下ろしている。夢なら覚めてくれと思う日も、時々ある。いや、むしろ最近はそんな日ばかりだ。
ジリリリリ──ジリリリリ──
けたたましいスマホのアラームが、ベッド脇の机で喚いていた。
布団の中で寝返りを打ちながら、俺は重い瞼をこすり、少しヒビが入っているスマホの画面をタップし、アラームを止めた。部屋は薄暗く、カーテンの隙間から差し込む朝日が、埃の舞う空気を淡く照らしている。夏の残り香がする湿った空気が、鼻をくすぐる。
外からは、近所の犬の遠吠えや、通りを走る車のエンジン音がぼんやりと聞こえてくる。9月1日、夏休み明けの朝。学校が再開するなんて、考えただけで気が重い。
「あぁ…女の子は、偉大なんだよ…」
アラームを止め、俺はそんな最低な呟きを漏らして目を覚ました。
だらりと手を伸ばし、ベッドから這うように起き上がり、姿鏡の自分を見る。
姿鏡に映る自分は、寝癖でぐしゃぐしゃの髪と、くすんだ目をした平凡な高校生。Tシャツはよれよれで、部屋着のスウェットは膝が薄く擦り切れている。
カレンダーを横目で見て、ビリビリと8月の紙を破る。9月のカレンダーが露わになると、9日に”俺の誕生日!“と書いてるのを見て、軽くため息を吐く。
誕生日なんて、今年も一人で過ごすんだろうな。誰も祝ってくれない、ただの記念日。
「ふぁ…」
大あくびをしながら、部屋のドアを開けて一階へ向かう。階段を降りるたびに、木の軋む音が静かな家に響いた。家の中はいつもこんなに静かだ。父さんは離婚で居ないし、母さんはもう…。
キッチンに着くと、冷蔵庫のブーンという低音が耳に響く。夏休み中は遅くまで起きていたせいで、朝のルーチンが乱れていたけど、今日からまた学校。面倒くさい。
軽く自己紹介をしよう。
俺の名前は天樹真城、高校二年生。自分で言うのもなんだが、性格は至って平凡。成績は中の上、剣道部に所属してたけど今はやめて、運動神経はまぁそこそこ。友達は居ないと言えば居ない。いわゆる「モブ男子」そのものだ。
夏休み中は、家でアニメを見たり、ネットサーフィンしたりするだけの日々だった。外に出るのも億劫で、コンビニに行くくらいが精一杯。誰も誘ってくれないし、誘う相手もいない。
だが、俺には一つだけ、誰にも負けない情熱がある。
それが“女の子フェチ”だ。
ただのスケベじゃない。俺は本気で研究している。
髪の毛のサラサラ感、足の繊細なライン、鎖骨の微妙な曲線、絶対領域の神聖なバランス、指先の動き、くるぶしの形、制服のシワが揺れる瞬間、スカートのひらめき、表情筋のわずかな動きまで。
記憶力には自信があるし、最近は匂いフェチにも目覚めてしまった。シャンプーの香り、柔軟剤の残り香、女の子の存在そのものが放つ微かな甘さ。
──その全てが俺の心を掴んで離さない。
例を挙げれば、夏休み中に街で見たあの女子高生。風に揺れるポニーテールから漂うフローラルの香り、素足のサンダルから覗く足の甲の白さ。あの瞬間、俺は時間を忘れて見入ってしまった。
でも、そんな情熱を誰かに話せるわけがない。変態扱いされるだけだ。
自分で言うのもなんだけど、これを超えたらもう変態を通り越して超人だろって話だ。でも、どんなに美少女を愛でようと、現実の俺には縁がない。
俺はそういうことをちゃんと理解してるオタクだ。
二次元に恋し、三次元に絶望する。悲しいけど。それでも、今日も現実という地獄を生き抜くために、俺は登校の準備をする。
いつも通り、朝飯は自分で焼いたトーストをかじりながら、スマホで昨日のアニメの感想をチェックする。バターの香りが鼻をくすぐり、画面にはSNSの投稿が次々と流れる。
「あのヒロインの表情、最高だったな……」と呟きながら、咀嚼する音が静かなキッチンに響く。夏休み中はこんな時間が唯一の癒しだった。現実の女の子に近づけない分、画面の中の彼女たちに没頭する。
食事を終え、歯磨きをし、制服に着替え、補聴器を右耳につける。耳鳴りが少し和らぐ。鏡の横には、母さんと幼い俺の古い家族写真。笑顔の母さんがそこにいる。
あの笑顔を見ると、胸が締め付けられる。母さんが亡くなってから、2年も経ったかな。父さんも祖母も居るわけでもない。俺は一人でこの家を守ってるみたいなもんだ。
「行ってきます、お母さん」と小さく呟き、玄関のドアを開け、外へ出る。少し冷たい朝の空気が頬を刺し、遠くでカラスの鳴き声が響いた。
夏の暑さが抜け、秋の気配が漂う街並み。
登校中、街はいつもの喧騒に包まれている。商店街のシャッターがガラガラと上がり、朝のラッシュに急ぐサラリーマンが肩をぶつけ合う。
夏休み明けだからか、道行く生徒たちの声が弾んでいる。グループで笑いながら歩く姿を見ると、俺の胸に寂しさが込み上げる。俺は女の子のふとももに目がいかないよう、必死に理性を保つ。深呼吸を繰り返し、視線を地面に固定する。
でも、ついチラチラ見てしまう。セーラー服の裾から覗く素肌、風に揺れるリボン。あぁ、なんでこんなに魅力的なんだろう。心の中で葛藤する。
周りには久しぶりの光景なのか、他の生徒たちが集団で登校しているのが見え、少し背ける。一緒に登校してくれる友達なんていない。別に無理強いしているわけじゃない。別に、だ。
夏休み中、誰からも連絡なんて来なかった。
SNSのフォロワーも少ないし、クラスグループに入ってるけど、メッセージを送る勇気がない。
「ふぅ……我慢、我慢……」
数分歩くうちに学校に到着。校門を抜け、下駄箱で靴を脱ぎ、上履きに履き替える。
教室の扉を開けると、久しぶりの喧騒が耳に飛び込んでくる。嘲笑するような笑い声、噂のような雑談、誰かのスマホから漏れる音楽。夏休み明けの興奮が、教室全体を活気づけている。
誰かが旅行の土産話をしている声、別のグループが宿題の愚痴をこぼしている。
「よー、天樹! また妄想しながら来たのか〜?」
クラスメイトの誰かの声が飛んで、ニヤニヤした顔がこっちを見てる。皆はそんな冗談めかしたことを言って、笑っている。
正直誰なのかもわからない。思い出すまでもなく、名前なんてクラスメイトの誰一人として覚えていない。夏休み前から、俺はただの標的だ。
「お前の思う俺は理想主義者かっての……」と適当に返し、俺は自分の席に腰を下ろした。
机や席には「障害者」や「死ね」だのインク文字が薄ら残っていたが、それもそこまで気にしていなかった。消してもまた書かれるだけだ。
授業中では度々消しカスを投げられる始末。休憩中の5分休みのトイレでは俺を追ってきては暴行のいじめ。唯一心置きなく過ごせる時間は昼休みしかないのだ。
無論、昼ごはんを作る暇はないため屋上の施錠されているドアの前でスマホをいじることしかできなかった。夏休み中は家で引きこもっていたけど、学校に戻るとこの地獄が再開する。
見た通り、俺はいじめられっ子だ。悲劇の主人公とまではいかないが、それも過度な。補聴器のせいなのか、それとも俺が何をしでかしたのかは正直自覚なんてしたくない。ただ、発端は理解しているが、それも思い出したくもない。
中学生の頃、補聴器をからかわれて以来、ずっと続いている。最初は軽い冗談だったはずが、だんだんエスカレートして。今では暴言、暴行、孤立。心が麻痺して、慣れてしまった自分が怖い。
いじめられ、罵倒を浴びせられ、暴行を加えられ。そんな生活にも正直言って慣れていた。
普通の朝。
普通の教室。
普通のクラスメイト。
普通の自分。
このまま、普通に高校生活を続けて何事もなく普通に生きていきたい。
そう思っていた。
◆◆◆
その日の放課後、いつもと少しだけ違ったのは、帰り道が遠回りになったことだ。ただ、関わってはいけない人が居たからというわけでもあるが、正直に言おう。前の道を歩く二人の女子高校生が気になって、つい後をつけてしまった。
ストーカーじゃない、断じて違う。ただ、セーラー服のスカートが風に揺れるたびに、絶妙なラインがチラリと見える。それが、あまりにも芸術的だっただけだ。
夏の終わりの柔らかな風が、彼女たちの髪を優しく揺らす。遠くからでも、シャンプーの甘い香りが漂ってくる気がする。俺の心臓が少し速くなる。こんな衝動、抑えきれない。
「(これ、ある意味で“文化遺産”じゃないか?)」
そんなバカげたことを考えながら、俺は彼女たちの後を歩いていた。覗いてたわけじゃない。
事故だ、事故。罪なのはあのスカートだ。
何気なくついて行き、あわよくば見れたらよかったなと思っていた。街の喧騒が周りを包み、信号の音や車のクラクションが混じり合う。夕方の陽光が、アスファルトをオレンジに染めている。
──その瞬間だった。
一人の女子高校生がスマホを落とし、拾おうとしゃがんだ。
それとほぼ同時に、誰かがその女子高校生を押した。通り魔なのか、それともただ急いでいたのかわからなかったが、女子高校生の体がふらつき、車道に飛び出す。
「……あっ!」
俺の目は一瞬、女子高校生のスカートの下に焼き付けられた白いパンツを捉えた。だが、そんな興奮も束の間、右側からけたたましいクラクションが響き、トラックの巨体が猛スピードで迫ってくる。
プップー! プップー!
音が頭の奥に突き刺さる。補聴器がその音を増幅し、耳が痛い。
「っ……!」
俺の足が、勝手に動いた。
かっこつけたいわけじゃない。打算も理性もない。ただ、「助けなきゃ」という衝動だけが体を突き動かした。
女子高校生の細い腰に手を回し、力いっぱい押す。彼女の体がふわりと浮き、車道の外へ転がる。
その瞬間、俺の胸に後悔がよぎる。なんで俺なんだよ。でも、止まらなかった。
そして、視界が黒く弾けた。
ドゴッ!
トラックとの衝突。全身を貫く衝撃。体が宙を舞い、アスファルトに地面に叩きつけられ、少し転がるのがわかる。
骨が折れる音、肉が潰れる感触。息が詰まる。
「(やべぇ、なんでいつもこうなるんだよ…流石に死んよな、これ…最後ぐらい推しの生ライブ見たかったな……)」
視界が赤く染まる。血の匂いが鼻をつく。周囲からは悲鳴や泣き声、心配しそうな叫び声が聞こえてくる。だが、それすら遠ざかっていく。
体が冷たくなる。足の感覚がなくなる。夏休み明けのこの日が、俺の最後の日になるなんて。
「(あぁ…痛い…最近運動してないからか…体が思うように動かねぇ…)」
目を開ける力も、声を出す気力も失せる。
今思えば、くだらなくて、ちょっと甘すぎた人生だった。
激痛が走り、じわじわと死が近づいてくる。
そして、俺の意識は途絶えた。
お読みいただき、ありがとうございます。
小説を投稿するのは初であり、初心者なため文面も少しおかしな所もありますが悪しからずです。
文字数が約4500字なのは丁度いいのでしょうか。
何にあれ、これからの「借者の器は俺には合わない」を気に入って頂けると幸いです。




