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晴れのち雨  作者: 万里
9/10

狐の嫁入り

カーテンの隙間から、光が差し込んでいた。

なのに、雨の音がしていた。


ふしぎな天気だった。


晴れているのに、しとしとと降り続く雨。


狐の嫁入りだ――

そう思った瞬間、胸の奥に、すうっと冷たい風が通った。


わたしは布団のなかで膝を抱えていた。

誰かと話したいわけじゃなかった。

でも、ひとりでいるのも、しんどかった。


どちらも選べなくて、身体だけが、静かに沈んでいく感覚だった。 


この光景、どこかで見た気がする。

東雲荘の朝。

狐の嫁入り。

光と音のちぐはぐな重なり。


「今日は、変な日だな」


誰にも聞こえない声で、ぼそりと呟いた。

そのときだった。


背中の内側で、ふわりと何かが揺れた。


心の中に差し込む、やわらかい何か。

温度も重さもないのに、たしかに“そこにある”とわかるもの。


わたしは、目を閉じた。

そして、その気配に、言葉を向けた。


「ハル」


呼ぶでもなく、問いかけでもなく。

ただ、その存在を、認めるように。


(アメ)


その声は、風の音にまぎれて聞こえた。

耳で聞くというより、胸の奥で響いた。


(ずっとここにいたよ) 


わたしは、まぶたを閉じたまま.小さくうなずいた。

その声には、聞き覚えがあった。


でも、それは過去に誰かから聞いた声ではなかった。

もっと奥に.自分でも忘れていた感覚の深いところに、

ずっと沈んでいた“なにか”の響きだった。


小さい頃、泣きたいのに泣けなかった夜。

誰にも言えなかったくやしさを、布団の中でかみしめたあのとき。

ほんとうは、あのとき、


こんな声で、こんなふうに叫びたかったのかもしれない。


「やめてよ」と言いたかったのに「大丈夫」と笑ってしまったとき。

ほんとうは、その奥でこの声が震えていた。


だから、懐かしかった。

そして、すこし、こわかった。


この声は.わたしが“なかったことにしてきた”全部の感情の音そのものだった。


長いあいだ耳を塞いできたその声が、いま、自分の内側から響いている。


そのことが、どこか深く、ふるえるように怖かった。


でも、逃げようとは思わなかった。

それだけは、はっきりしていた。


(私、こわかったの)


(あなたが、自分ををきらいになるんじゃないかって) 


ハル――わたしの声は、わたしの胸の内側で、やさしく呼吸していた。


(でも、アメがそれを感じなくて済むなら、私が全部引き受けたかった)


(怒っていいときに怒るとか、傷ついたときに泣くとか、誰かに頼るとか、そういう当たり前のことが、アメにはずっと難しかったから)


わたしは、ハルの声を聞きながら、ゆっくりと手を胸元に重ねた。

たしかに“ここにいる”気がした。


「でも、それじゃ……“わたし”が、いなくなっちゃう気がして」


振り絞るようだった。


「わたしの代わりに誰かが感じて、動いて、話してくれて。そうして“うまくいく”たびに、わたしの居場所がなくなっていくようで」


(違うよ)


(私がいたのは、アメが消えるためじゃない)


(アメがちゃんと“高遠雨”になるためだった)


わたしの瞼の裏に、たくさんの“言えなかった感情”が浮かんだ。


ひとりで教室に残された昼休み。

自分が1番苦しいのに、誰かに手を差し伸べてしまい、心が締め付けられそうになった夜。

たくさんの欲望や感情に蓋をして生きてきたこれまでの道のり。


怒っていた。

悔しかった。


でも、それを感じると“わがまま”になる気がして、

笑ってごまかした。


ハルは、その怒りを抱えていた。


あるいは、誰かと比べられて「えらいね」と言われたとき。

ほんとうは、なにひとつ誇らしくなんてなかったのに。

ただ我慢していただけなのに。


わたしは、その“えらい”を受け取ってしまった。

そのまま、ずっと“そういう子”でいようとした。


ハルは、その悲しさを黙って飲みこんでいた。


それから、ずっと言えなかった「好き」とか「そばにいて」とか。

誰かに求めることは、“重い”と思われそうで怖かった。


だから、わたしはいつも、与える側に立とうとした。


ハルは、そのほんとうの願いをずっと握りしめていてくれた。


わたしのかわりに。

怒りも、悲しみも、願いも、どれも、ちゃんと“わたし”のものだった。


あの頃、ちゃんと感じきれなかったわたしのかわりに。


ハルが、それを全部、持っていてくれた。


わたしは、ずっと「誰かみたいになりたい」と思っていた。


みちるみたいに自然に笑えて、


美羽みたいに誰かと繋がれて、


いつも迷わずに立っている誰かみたいに、


何があっても揺れない“ちゃんとしたわたし”に憧れていた。


でも、ほんとうは――

ただ、“わたし”として在りたかっただけだった。


泣いたり、怒ったり、求めたりしても、誰にも責められずに、ただ「そこにいる」ことを、許されていたかった。


わたしは、誰にもなれなかった。

でも、今なら、そうなれなかった自分ごと、愛せる気がした。


ハルがくれたものは、そういう“憧れを超えた自己”だった。


「こうなりたい」ではなく、「これが、わたしなんだ」と言える感覚。


「わたし……やっとわかった」

「わたしの中に、“私”が必要だったんだって」


(アメなら、ちゃんとできるよ)


その瞬間、身体の奥でなにかが、ふっとほどけた。

声はもう聞こえなかったけれど、ハルは、たしかにそこにいた。

わたしのなかに。

はじめからずっと、ここに。



いつのまにか雨は止んでいた。


カーテン越しの光は、さっきよりやわらかくなっていた。


地面も空も、少しだけ澄んで見えた。

わたしは、布団からゆっくり起き上がった。

呼吸が浅いままなのに、胸の奥は不思議と軽かった。


ハルの声は、もう聞こえなかった。


でも――


いなくなったとは思わなかった。

その気配は、まだちゃんとここにいた。


わたしの輪郭の内側に、“わたしのままで在る”という手ざわりだけが残っていた。


鏡は見なかった。

見なくても、わたしがここにいることが、いまはちゃんとわかったから。


光のなかに立ち上がって、カーテンをそっと開けた。

風が、すこしだけ冷たかった。


でも、その冷たさすら、どこか懐かしく思えた。

狐の嫁入りのあとの静けさのなかで、わたしはひとつ、やっと自分を受け入れたような気がした。


もう誰かに代わってもらわなくていい。

わたしは、わたしとして、ここにいる。


どこにもいかなくていい。

どこにも戻らなくていい。


このまま、このからだで、もう一度歩きだせばいい。


カーテンの隙間から、風が吹き抜けた。

どこかで鳥が鳴いて、しばらくしてやんだ。


すべての音が、少し遠くなっていた。

でも、世界が静かになったわけじゃない。


たぶんわたしが、やっとそこに“自分”を取り戻しただけだった。


わたしの足は、まだ少し重い。

でも、それでもいいと思えた。


光のなかで、わたしはそっと立ち上がった。

ほんとうの“わたし”として。

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