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晴れのち雨  作者: 万里
8/10

言えない

通知は、数日前から届いていた。


スマホが震えるたびに、見ないふりをした。

画面の右上に「LINE」の文字が表示されているのはわかっていた。

でも、開けなかった。開けられなかった。


「大丈夫?」


「なんで返してくれないの?」


「雨、今どうしてる?」


たぶん、そんなふうなことが並んでいた。


想像しただけで、喉の奥がきゅうっと締めつけられる。

既読をつけた瞬間、何かが始まってしまう気がして、

指が、どうしても画面に触れなかった。


本当は、「今は無理」と返したかった。

でも、「無理」の一言が、“わたし”の全部を拒絶する言葉になる気がして――


送れなかった。


気づけば、今日の朝、「今日、時間あるかな?」という一文が届いていた。


それだけだったのに、スマホを手にした瞬間、指先が冷たくなった。


行きたくない。


そう思った。

本気で思った。


でも、断る言葉が出てこなかった。

「うん」とだけ返した。

それしかできなかった。


送信ボタンを押したあと、喉の奥に熱がこもって、

しばらく何も飲めなかった。


外に出るまでに、何度も玄関で立ち止まった。

靴を履こうとしてしゃがんで、また立ち上がって。

ドアノブに手をかけて、すぐ引っ込めて。

呼吸のリズムがうまく掴めなかった。


でも、行かなきゃいけなかった。

“返さなかった”わたしの責任として。

“変わってしまった”わたしの説明として。



街は春の終わりの光をまとう午後だった。

でも、歩道の景色は全部、色を失って見えた。


喫茶店に向かう足だけが、どこか他人のものみたいに感じられた。



「やっほー、雨。ちゃんと来てくれてよかった。

正直、来てくれるかちょっと不安だったんだよね」


その言葉に、わたしの背中はほんの少しだけ冷たくなった。


笑顔だった。

でも、その笑顔は“確認”のためのものだった。


「なんか、髪……切ったんだ。へえ。似合ってる。たぶん」


「ううん、変じゃないよ? ただ、雨がそういう髪型するの、ちょっと意外だっただけ」


カップを置く音が、耳の奥に響いた。

どう返せばいいのか、わからなかった。


言葉が口の中で固まって、動かない。


「この前、LINE送ったの、ちゃんと見てたよね?」


「……わたし、すごく不安だったんだよ? 既読もつかないし、無視されてるのかと思って。なんか、心配することすら迷惑なのかなって、すごく傷ついた」


喉がきゅうっと詰まった。

飲み込めない感情がそこに溜まっていく。


ごめん。

言いたいのに、出なかった。


「でも、わたしが勝手にしんどくなってるだけなのかもしれないって思って、ちゃんと気持ち整理して、やっとこうやって話してるんだよ?」


「雨って、いつもそうだよね。しんどいことあっても誰にも言わないで、突然ぱったり無視したり、消えたりする」


「わたし、前にも言ったよね? そういうのやめてほしいって。ずっと一緒にいたいって言ってたじゃん、昔……」


空気が、重かった。

美羽の言葉が止まらない。


笑ってる。

でも、目が笑ってない。


「今の雨、なんか全然ちがう,前はもっと、ちゃんとわたしのこと見ててくれた気がするのに」


「わたし、何か間違えたのかなってずっと考えてたよ。 “変わったね”って言いたくないのに、言わざるをえない感じが、ほんとしんどい」


「……でも、たぶん悪いのはわたしだよね。重かったんでしょ? わたしのこと」


このままじゃ、わたしが消えてしまいそうだった。

なにかが言葉にならないまま、ずっと詰まっていた。


「ごめん。なんか、いろいろわかんなくなってきた」


「でも、やっぱり、雨にはずっとあのときのままでいてほしかったんだよね」


その一言が、わたしの中で何かを押しつぶした。


心臓がひとつ鳴った。

でも、そこから何も動かなかった。


言いたいことがあった。

言わなければ、という気持ちもあった。


でも、言葉を出そうとするたび、美羽の声がその上から、ふわっと、でも確実に覆ってきた。


コーヒーの温度はとっくに冷めていた。

でも、空気だけがずっと熱かった。


「また連絡するね」


「今度はちゃんと返してね」


「わたし、心配性だから」


美羽はそう言って、笑った。

最後まで、やさしい声だった。


でも、その言葉はわたしの心を通らず、空気の上を滑っていった。

席を立つその背中に、わたしはなにも返せなかった。

ほんとうは、返したかった。


「ごめんね」でも、「ありがとう」でもなくて、

なにか、ちゃんとしたわたしの言葉を。


でも――


その“なにか”が、どこにも見つからなかった。

わたしの中にあったのは、強くて重たい沈黙だけだった。


言えば壊れる気がして。

言わなければ自分が崩れる気がして。


けっきょくわたしは――


言えなかった。


カップの底に残ったコーヒーの色だけが、目に痛いくらい濃く見えた。

背中が冷たかった。


肩にのしかかったものがなくなったのに、息がしづらかった。


たぶんそれは、わたしの中に美羽の言葉が、全部沈んでしまっていたから。

ハルは、何も言わなかった。

ただ、胸の奥で静かにそこにいた。


わたしは、まだ“わたし”として、ここにいられてるだろうか。


答えは、なかった。


でも、言えなかったことだけは、いつまでも、身体の奥に残っていた。

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