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晴れのち雨  作者: 万里
7/10

きれいになったね

カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。

東雲荘の畳に、長方形の光が落ちている。


目は覚めていたけど、起き上がれなかった。


今日は、美容室の予約日だった。

変わるための一歩。

わたしがずっと願っていたはずのこと。


だけど、身体が動かなかった。

起き上がって、着替えて、出かける。


たったそれだけのことなのに、頭の奥で何かがぎゅっと縮こまっている感じがした。


カーテンの向こうで、鳥が鳴いていた。

鳴き声は何度かかすれて、すぐに遠ざかっていった。

枕元のスマホが震えて、画面が光る。


でも、わたしはまばたきすらしなかった。

指先が冷たかった。

掛け布団の端を握っているのに、その感触が伝わらなかった。


首の後ろにじんわりと汗をかいていたけど、冷たい空気のせいか、それすら他人の身体みたいだった。


“今日は美容室”


その言葉だけが、何度も何度も、頭の中をまわっていた。

たしかに、行きたいって思ったのは、わたしだった。


でも――


身体が反応しなかった。

動こうとすると、どこかで“静かに拒否される”感じがした。

それは痛みでもなく、不安でもなく、ただ、柔らかく重い“無”みたいなものだった。


(行きたいのに、なんで動けないんだろう)


まばたきをひとつして、天井の木目をゆっくりなぞった。


光が差している。

時間は進んでいる。


でも、わたしはまだ“わたし”になれていない気がした。


そのとき、胸の奥に、静かな声が落ちてきた。


(起きなくていいよ。私がやるから)


わたしはまぶたを閉じた。

そのまま、ハルに身体を預けた。


カーテン越しの光が、ゆっくりと傾いていくのだけが見えた。



美容室の椅子に座っているのは、たしかにわたしだった。


でも、その鏡に映る姿はどこか他人のように見えた。

シャンプー台で目を閉じたとき、世界が遠くなる。

お湯の音が流れていく。


でも、それが自分の頭にかかっている音には聞こえなかった。

耳のすぐそばで聞こえるはずの水音も、

どこか膜の向こうで響いているみたいだった。


シャンプーの香りが、すっと鼻を抜けた。

少し甘くて、やわらかい香り。


嫌いじゃなかった。

むしろ、落ち着く匂いだった。


でもその安らぎが、“わたし”のためのものじゃない気がして、うまくつかまえられなかった。


席に戻って、クロスをかけられて、鏡の前に映った顔を見た。

それはたしかに、いまのわたしの顔だった。


でも、“いま”という実感だけが、どうしても抜け落ちていた。


ハサミの音がリズムを刻んでいる。

左から右へ、前から後ろへ。

テンポよく、ためらいなく、形が整えられていく。


その正確さが、わたしを安心させるどころか、“置いていかれている”感覚を強めていった。


(変わってる。変わってく。)


そう思ったとき、手のひらにうっすら汗をかいていることに気づいた。


でもその汗さえ、“変わっていく自分”に対するものじゃない気がした。


髪が肩のあたりで揃っていくたび、なにかが削られて、遠ざかっていくような気がした。


「ばっちり仕上がりましたね〜」


担当の美容師さんがそう言った。


鏡越しの笑顔に、わたしの顔は、ちゃんと微笑みを返していた。


「ありがとうございます」


その声も、やわらかく響いた。


でも、それを聞いているわたしの心だけが、まるでその場に存在していないような気がした。


うれしいはずなのに、どこかが、すうっと空白だった。

“変わった”わたしが、鏡の中にいる。


だけど、そこに“わたし”はいなかった。



美容室を出たあと、みちると会った。

約束していたわけじゃなかったけど、待ち合わせのように、駅前で自然に再会した。


「あっ、雨ちゃん……!」


みちるは、目を見開いて、ぱっと笑った。


「え、めっちゃ似合ってる……! なんか、前よりずっと軽やかっていうか……すごくいい感じ!」


その声がまっすぐ届いた気がして、一瞬だけ、胸の奥がふわっと緩んだ。

うれしい。

ほんとうに、そう思った。


けど――


その“うれしい”を、どうやって受け取ったらいいのか、わからなかった。


「ありがとう」って返した声は、たしかにわたしの口から出た。 


でも、その言葉を届けた“手”が、空っぽだった。

誰かに差し出されたプレゼントを、中身を見ずに笑って受け取ってしまったみたいな感覚。


どうしてこんなにうまくいってるのに、心の奥だけがついてこないんだろう。

髪型も、声も、笑顔も、ちゃんと変わってる。変わってく。


それなのに、“ありがとう”と一緒に出ていったはずのわたしの気持ちは、どこにもいなかった。


みちるの笑顔は、まっすぐでやさしかった。

それが、わたしを少しだけ苦しくさせた。


帰り道、スマホの画面に、ふと反射した自分の姿が映った。

顔は明るくなっていた。

髪型は、ずっときれいになっていた。


でも――


「きれいになったね」と言われたその姿に、わたし自身の気配は、どこにもなかった。


家に帰り、部屋の鏡の前に立ってみる。


髪の長さも、色も、輪郭の印象すら変わっていた。

肩のあたりでふわっと跳ねる、外はねの切りっぱなしボブ。


あの日、スマホの画面で見たあの子の髪型と、たぶん同じだった。

ほんとうに、“なれた”のかもしれない。

わたしが、憧れた“わたし”に。


でも――


鏡に映っていたのは、憧れをなぞることには成功したけど、中身のない“かたち”だけのわたしだった。


美容師さんの手が、丁寧に整えてくれた形のままだった。


鏡の中の“わたし”は、

たしかに「きれいになった」顔をしていた。


でもその顔は、どこかで「きれいな自分を演じてる」ようにも見えた。


鏡の前で、笑ってみた。

ゆっくり、表情筋を動かして、口角を引き上げて、目を少しだけ細める。


たぶん、これが“正しい”笑顔なんだろうなって思う。

だけど、そこに感情が追いついてこなかった。

笑ってるのに、目の奥が空っぽだった。


しばらくそのままの姿で立ち尽くしたあと、鏡の中のわたしと目を合わせるのをやめた。


こんなにちゃんと変わったのに、わたしがいた気がしなかった。


うまくいったはずなのに、その“うまくいった”の中に、わたしの実感だけが欠けていた。


(私に任せて。私がやれば全部うまくいくから)

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