笑顔って
制服の袖をまくった指先に、油の匂いが染みついていた。
厨房からレジに戻ると、わたしは無意識に背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませ」
その声も、笑顔も、すっかり体に馴染んでいた。
でも時々、自分の声が少しだけ他人みたいに聞こえるときがある。
「こんにちは!……あ、この前ちょっと話しましたよね? また会えて、うれしいです」
声をかけられて、レジの画面から目を上げた。
白いシャツ。揺れる髪。よく通る声。
あの子だった。
名前も知らない、でもなぜか印象に残っていた。
綺麗な人だと思った。どこか、まぶしくて、こわいくらいだった。
「……ありがとうございます。よく、いらっしゃってますよね」
なんとか声を返した。でも、うまく笑えていたかはわからない。
「お名前、聞いてもいいですか?」
喉が詰まる。言いたいのに、言葉が出ない。
“名乗る”という行為が、こんなに難しかったなんて。
(アメなら、ちゃんとできるのに)
その声が胸の奥から湧いたとき、わたしの口は勝手に動いた。
「高遠、雨です。……よかったら、雨って呼んでください」
言葉が出た。声も震えていなかった。
でも、そのすべてが、自分のものじゃない気がした。
その子がふっと笑う。
「わたしは、"深"って書いて、みちるです。ちょっと珍しいでしょ!」
その名前を、わたしはこのとき、はじめて知った。
「よかったら、インスタとか交換しませんか?」
「はい、お願いします!」
その返事も、自然に出たように感じた。
まるで、口が勝手に動いたみたいに。
でもそれが、どこから出たのかは、よくわからなかった。
画面を操作して、アカウントを交換する。
笑顔を浮かべて、確認し合う。
わたしは、確かにそこにいた。
でも、わたしじゃないみたい。
その子は軽く手を振って、店を出ていった。
「また話しましょうね」
そう言った笑顔は、わたしに向けられていたはずなのに。
わたしには、受け取りきれなかった。
店のドアが閉まる音がして、風鈴が揺れた。
そのあとに残った空気が、妙に静かだった。
その子の姿が見えなくなってからも、わたしはその場を動けなかった。
笑顔で応対していたはずなのに、
終わった瞬間、足の裏から力が抜けた。
手のひらに、じんわりと汗がにじんでいた。
なのに、体の奥は冷たかった。
……ほんとうは、緊張していたんだ。
カウンターに戻って、次のお客様に「いらっしゃいませ」と声をかける。
声は出た。いつも通りの、ちゃんとした接客だった。
でも、なぜか口元が少し引きつっている気がした。
笑顔がうまく戻らなかった。
(“できた”のに、どうしてこんなに疲れてるんだろう)
そう思ったとき、やっと自分がいた場所を思い出したような気がした。
帰りのバスの中、スマホの通知が小さく震えた。
インスタグラム。
その子からフォローが返ってきていた。
アカウント名の横には、
「深いって書いて、みちる」と、あのときの自己紹介のままの表示名。
その画面を、しばらく見つめたまま、指が動かなかった。
“つながった”という感覚が、
どうしても、わたしの中に入ってこなかった。
わたしじゃない誰かが喋って、その誰かとして、その子に認識されたような気がして。
“雨ちゃん”って、呼ばれる未来が、
少しだけ、怖かった。
返事を打つことも、アイコンをタップすることもできなくて、そのままスマホの画面を伏せた。
*
部屋に戻って、制服のまま床に座り込んだ。
東雲荘の畳はひんやりしていて、背中に静かな重さをくれた。
靴下のままの足先が冷えて、妙に現実感があった。
喉の奥に、まださっきの声が残っていた。
「高遠、雨です。……よかったら、雨って呼んでください」
あまりにもスムーズだった。
震えもしなかった。
笑えてすらいた。
でも――あれは、わたしじゃなかった。
思い返すほど、実感が薄れていく。
喋っていたときの記憶だけ、空白みたいに曖昧だった。
どうして“あんなふうに”できたのか。
いや、なぜ“できてしまった”のか。
(アメなら、ちゃんとできるのに)
ふいに、その声が返ってきた。
静かだった。
でも、たしかに胸の奥で響いた。
(……だれ?)
反射的に問い返すと、少しだけ間を置いて声が返ってきた。
(私は、ハル)
心の中で誰かが語りかけてくる。
(雨が降るなら、晴も必要でしょ?)
やさしい声だった。
親しげで、どこか得体の知れない温度を含んでいた。
“わたしの中”から聞こえたのに、
“わたしじゃない”感じがした。
でも、不思議と怖くはなかった。
どこかでずっと、一緒にいたような気がした。
あのとき喋っていたのも、きっとこの声だった。
わたしが言えなかった言葉を、代わりに届けてくれた声。
(……ハル)
声に出さずに、名前を繰り返した。
胸の内側で、ほんの少しだけ、空気が温まった気がした。
“ハル”という名前を思い浮かべるたびに、
胸の奥が、すこしだけ呼吸しやすくなる気がした。
知らない人じゃない。
でも、知らないままでもいられなかった人。
(きっと、わたしが言えなかったことを、代わりに言ってくれたんだ)
その事実だけは、たしかに心強かった。
でも――
(わたしの声じゃなかった)
守られていたのか。
それとも、操られていたのか。
今のわたしには、その違いがよくわからない。
ハルの声は、やさしい。
静かで、冷静で、どこか遠くから見守っている感じがする。
だけどそのやさしさが、
わたしを“乗っ取る”ためのものだったらどうしようって思ってしまう。
名前を知ることで、わたしの中の“知らなかった何か”が、急に現実になった。
“ここにいる”って、はっきりわかる。
それが、うれしいのか、こわいのか、まだわからない。
そのまま静かに目を閉じる。
記憶の中にあるあの“笑顔”を思い出そうとした。
浮かんできたのは、その子と話していたときの自分だった。
笑っていた。
ちゃんと、笑えていた。
でもその笑顔は、どこかで“誰かがつくった”みたいに、なめらかすぎた。
笑顔って、どうやって浮かべるんだっけ。
試しに、鏡の中の自分に笑いかけてみる。
でも、うまくいかなかった。
口元だけが引きつって、目が動かなかった。
あの時のわたしは、ちゃんと笑えていたのに。
その顔の記憶を探そうとすると、まるで映像の一部みたいに、“他人の演技”として再生される。
(あの笑顔、ほんとうにわたしのだった?)
答えは返ってこなかった。
ただ、静かな部屋に、自分の呼吸だけが漂っていた。
人格が二つある一人の人間って書くのが難しいですね
ところで、Twitterを使った方が良いというアドバイスをいただきました。
@pd5_i です。雑多なアカウントですが、どうぞよろしく。