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晴れのち雨  作者: 万里
3/10

うなづくだけ

待ち合わせをしたわけじゃなかった。

なのに、逃げられない空気だった。


信号を渡った先、コンビニの前に、美羽は立っていた。


真っ白なワンピース。手にはスマホ。

目線は、まっすぐに、雨を捉えていた。


「雨、ひさしぶりじゃん」


声が軽すぎて、鼓膜に張りついた。

胸の奥が、すっと冷える。


仁藤美羽。


中学のとき、ずっと一緒にいた子。

感情の波が大きくて、でも不思議と、放っておけなかった。


「わたしがいなきゃ」と、なぜか思ってしまうような人だった。



「見てよこれ〜、朝から全然既読つかなくて死んでたんだけど。雨が歩いてくるの見えて、ガチで生き返った」


笑っているのに、目が笑っていなかった。

でも、そういうところは、昔から変わっていなかった。


「最近ほんと、誰にも頼れなくてさ……」

「みんな、適当だし、冷たいし」


美羽の言葉は、境目なく流れてきた。


ひとつ返すたびに、倍の愚痴と泣き言が返ってくる。

会話じゃなくて、雨はただの吸収体だった。


「雨ってさ、そういうとこあるよね。ちゃんと“いてくれる”感じ。あたし、そういうのほんと、必要としてるから」


雨はまた、うなづいた。


反射みたいに。

声は出さなかった。


出したら、何かが壊れる気がした。

駅前のカフェに入った。


ガラス戸を押すと、冷たい空気が肌にまとわりついた。

午後の店内は静かで、BGMだけが流れていた。


美羽は奥の二人がけの席を選び、

何も言わずに、こっちを見た。


雨はうなずいて、向かいに座った。


店の奥はすこし薄暗くて、木目調の壁に小さなドライフラワーが吊るされていた。

コップを置く音や、ミルクピッチャーの金属音だけが、間を埋めている。


美羽はスマホをいじりながら、ずっとしゃべっていた。

通知を確認してはため息をつき、目を細めてから、またわたしを見た。


まるで、言葉を送る相手を間違えたかのように。

対面に座っていても、なんとなく視線を合わせないようにしてしまう。


視線が絡んだ瞬間、何かを背負わされる気がして。

壁際の鏡に、わたしたちの姿がぼんやり映っていた。

そこに映る自分の顔が、ほんの少しだけ、ひきつっている気がした。

でも、笑っている。ちゃんと、笑っている。


美羽の手元のネイルは欠けていて、

それを何度も無意識にいじっていた。

服の袖口も、少しだけほつれていた。


壊れかけているものに、目が行ってしまう。

直視するには、まぶしさよりも、切なさのほうが勝っていた。


ガラス越しに見える通行人の顔が、

ひとつひとつ、知らない言語みたいに通り過ぎていく。

あの中に、逃げられる場所があればよかったのに。


「雨ちゃんは、あいかわらずだね。てか、やっぱ変わってないじゃん。安心したかも」


安心、の意味がわからなかった。

雨が変わらないことで、誰かが安心する理由を、考えたくなかった。


「てかさ、ずっと言いたかったんだけど」


言葉の端に、何かをねじ込むような響きがあった。


「最近ほんと寂しくてさ、誰も“わたしのこと”ちゃんと見てくれないの!でも雨ちゃんは、違うじゃん?」


わたしは、なにも言えなかった。


違う、って何が?


わたしはただ、座ってるだけだ。

それすら、間違っている気がした。


「雨ちゃん、わたしの味方でいてね?裏切ったら、ほんと泣くからね」


笑いながら言うその言葉が、なぜか、呪いのように感じられた。


どうして、こんなにも軽く「裏切ったら」なんて言えるんだろう。


言葉は冗談みたいなテンションだったけど、

その目だけが、本気だった。

(わたしがここで返さなかったら、たぶん美羽は、ひとりで泣いてしまう。返したら返したで、きっとまた――)


堂々巡りだった。


どっちに転んでも、どこかが傷つく気がして。

でも、なぜかそのとき、“わたしが守らなきゃ”って、思ってしまった。


ほんとうはそんなこと、思いたくなかったのに。

それはきっとやさしさじゃない。

ただの責任感のふりをした、依存。


「守ってあげたい」という気持ちは、

誰かに必要とされたいということと、たぶん同じだった。


(じゃあ、いまのわたしは、誰のためにうなづいてるんだろう)


わからなくなってきた。


言葉は飲み込むたび、喉の奥で苦くなって、そのままどこかへ沈んでいった。


それを追うように、胸の奥から、別の何かが浮かび上がってくる気がした。


声ではなく、ただの気配。

まだ形を持たない“誰か”がそこにいた。


コップの水をひとくち飲んだ。

ぬるかった。味がしなかった。


喉の奥が、ぎし、と軋んだ気がした。

それは、心の音だったのかもしれない。


「やっぱ、雨ちゃんと話すと落ち着く〜。わたし、ひとりでいるとダメなんだよね。自分がどんどん嫌いになっちゃう」


わたしだって、自分を好きだと思ったことなんて、なかったのに。


(でも、それは言っちゃいけない)


そんな気がして、黙っているだけだった。


帰り道、ふたりは並んで歩いた。

隣を歩く美羽の足音が、ずっと耳に残っていた。

駅前のアーケードに差し込む光が、足元を淡く照らしていた。

その影が、雨のものよりも少し濃く見えた。


(本当は、帰りたい)


でも、それすら思ってはいけない気がした。

そう思わせる力が、美羽にはあった。


部屋に戻ってドアを閉めたとき、

初めて、ひとつ、息が吐けた。


背中がじっとりと汗ばんでいて、

わたしはそのまま、床に座り込んだ。


洗面所の鏡を見た。

髪は乱れていないのに、顔だけがぼんやりして見えた。


とくに何も話していないのに、口の中がひどく乾いていた。

何も言ってないのに、何かをずっと叫んでいたような気がした。


カーテンの隙間から差し込む夕方の光が、

畳の上に、ぼんやりと影を落としていた。


その影を見ていたら、自分の輪郭がどこまでなのか、よくわからなくなった。


ふと、胸の奥で、何かがゆっくりと息をした気がした。

それはまだ名前のない、でも、たしかに“誰か”の気配だった。

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