うなづくだけ
待ち合わせをしたわけじゃなかった。
なのに、逃げられない空気だった。
信号を渡った先、コンビニの前に、美羽は立っていた。
真っ白なワンピース。手にはスマホ。
目線は、まっすぐに、雨を捉えていた。
「雨、ひさしぶりじゃん」
声が軽すぎて、鼓膜に張りついた。
胸の奥が、すっと冷える。
仁藤美羽。
中学のとき、ずっと一緒にいた子。
感情の波が大きくて、でも不思議と、放っておけなかった。
「わたしがいなきゃ」と、なぜか思ってしまうような人だった。
「見てよこれ〜、朝から全然既読つかなくて死んでたんだけど。雨が歩いてくるの見えて、ガチで生き返った」
笑っているのに、目が笑っていなかった。
でも、そういうところは、昔から変わっていなかった。
「最近ほんと、誰にも頼れなくてさ……」
「みんな、適当だし、冷たいし」
美羽の言葉は、境目なく流れてきた。
ひとつ返すたびに、倍の愚痴と泣き言が返ってくる。
会話じゃなくて、雨はただの吸収体だった。
「雨ってさ、そういうとこあるよね。ちゃんと“いてくれる”感じ。あたし、そういうのほんと、必要としてるから」
雨はまた、うなづいた。
反射みたいに。
声は出さなかった。
出したら、何かが壊れる気がした。
駅前のカフェに入った。
ガラス戸を押すと、冷たい空気が肌にまとわりついた。
午後の店内は静かで、BGMだけが流れていた。
美羽は奥の二人がけの席を選び、
何も言わずに、こっちを見た。
雨はうなずいて、向かいに座った。
店の奥はすこし薄暗くて、木目調の壁に小さなドライフラワーが吊るされていた。
コップを置く音や、ミルクピッチャーの金属音だけが、間を埋めている。
美羽はスマホをいじりながら、ずっとしゃべっていた。
通知を確認してはため息をつき、目を細めてから、またわたしを見た。
まるで、言葉を送る相手を間違えたかのように。
対面に座っていても、なんとなく視線を合わせないようにしてしまう。
視線が絡んだ瞬間、何かを背負わされる気がして。
壁際の鏡に、わたしたちの姿がぼんやり映っていた。
そこに映る自分の顔が、ほんの少しだけ、ひきつっている気がした。
でも、笑っている。ちゃんと、笑っている。
美羽の手元のネイルは欠けていて、
それを何度も無意識にいじっていた。
服の袖口も、少しだけほつれていた。
壊れかけているものに、目が行ってしまう。
直視するには、まぶしさよりも、切なさのほうが勝っていた。
ガラス越しに見える通行人の顔が、
ひとつひとつ、知らない言語みたいに通り過ぎていく。
あの中に、逃げられる場所があればよかったのに。
「雨ちゃんは、あいかわらずだね。てか、やっぱ変わってないじゃん。安心したかも」
安心、の意味がわからなかった。
雨が変わらないことで、誰かが安心する理由を、考えたくなかった。
「てかさ、ずっと言いたかったんだけど」
言葉の端に、何かをねじ込むような響きがあった。
「最近ほんと寂しくてさ、誰も“わたしのこと”ちゃんと見てくれないの!でも雨ちゃんは、違うじゃん?」
わたしは、なにも言えなかった。
違う、って何が?
わたしはただ、座ってるだけだ。
それすら、間違っている気がした。
「雨ちゃん、わたしの味方でいてね?裏切ったら、ほんと泣くからね」
笑いながら言うその言葉が、なぜか、呪いのように感じられた。
どうして、こんなにも軽く「裏切ったら」なんて言えるんだろう。
言葉は冗談みたいなテンションだったけど、
その目だけが、本気だった。
(わたしがここで返さなかったら、たぶん美羽は、ひとりで泣いてしまう。返したら返したで、きっとまた――)
堂々巡りだった。
どっちに転んでも、どこかが傷つく気がして。
でも、なぜかそのとき、“わたしが守らなきゃ”って、思ってしまった。
ほんとうはそんなこと、思いたくなかったのに。
それはきっとやさしさじゃない。
ただの責任感のふりをした、依存。
「守ってあげたい」という気持ちは、
誰かに必要とされたいということと、たぶん同じだった。
(じゃあ、いまのわたしは、誰のためにうなづいてるんだろう)
わからなくなってきた。
言葉は飲み込むたび、喉の奥で苦くなって、そのままどこかへ沈んでいった。
それを追うように、胸の奥から、別の何かが浮かび上がってくる気がした。
声ではなく、ただの気配。
まだ形を持たない“誰か”がそこにいた。
コップの水をひとくち飲んだ。
ぬるかった。味がしなかった。
喉の奥が、ぎし、と軋んだ気がした。
それは、心の音だったのかもしれない。
「やっぱ、雨ちゃんと話すと落ち着く〜。わたし、ひとりでいるとダメなんだよね。自分がどんどん嫌いになっちゃう」
わたしだって、自分を好きだと思ったことなんて、なかったのに。
(でも、それは言っちゃいけない)
そんな気がして、黙っているだけだった。
帰り道、ふたりは並んで歩いた。
隣を歩く美羽の足音が、ずっと耳に残っていた。
駅前のアーケードに差し込む光が、足元を淡く照らしていた。
その影が、雨のものよりも少し濃く見えた。
(本当は、帰りたい)
でも、それすら思ってはいけない気がした。
そう思わせる力が、美羽にはあった。
部屋に戻ってドアを閉めたとき、
初めて、ひとつ、息が吐けた。
背中がじっとりと汗ばんでいて、
わたしはそのまま、床に座り込んだ。
洗面所の鏡を見た。
髪は乱れていないのに、顔だけがぼんやりして見えた。
とくに何も話していないのに、口の中がひどく乾いていた。
何も言ってないのに、何かをずっと叫んでいたような気がした。
カーテンの隙間から差し込む夕方の光が、
畳の上に、ぼんやりと影を落としていた。
その影を見ていたら、自分の輪郭がどこまでなのか、よくわからなくなった。
ふと、胸の奥で、何かがゆっくりと息をした気がした。
それはまだ名前のない、でも、たしかに“誰か”の気配だった。