水が怖くて
なりたいものがあった。
でも、触れたら壊れそうで、
目をそらしてばかりいた。
まぶしさの輪郭だけが、心に残っている。
その光にもう一度出会える気がして、わたしはこの町に来た。
バイトの制服の袖には、油の匂いが染みついていた。
今日も、たっぷり揚げた甘辛い香りが、
Tシャツの袖口に、深く残っている。
厨房の換気扇が、背中を撫でるたびに、
しみついた匂いがふわっと浮き上がる。
蒸れた皮膚がそれを吸い込んで、
わたしは、無意識に鼻をすする。
厨房のタイマーが鳴った。
油揚げをフライヤーから引き上げると、
ふちが少しだけカールしていた。
甘めのタレにくぐらせて、バンズに見立てる。
照りのあるヒレカツと、シャキシャキのレタスを挟んで、紙で包むと、しゃく、と音がした。
この音が、わたしは少しだけ好きだった。
おきつねバーガーで働きはじめて、もうすぐ半年になる。
面接のとき、なぜか受かったことに驚いた。
自分で言うのも変だけど、話すのが苦手で、声も小さくて、笑顔もぎこちないままだったと思う。
それでも、受かった。
「マスクしてたら、だいたい誰でも同じやからね」
面接のとき、店長が笑って言ったのを覚えている。
ここでは、わたしは「接客が上手くて頼れる雨さん」にはなれなかった。
ただ、包むのが早いだけの人。
誰かと話すことが苦手でも、
揚げたてのヒレカツを、さっと紙に包んで、番号を呼ぶ。
それだけで十分だった。
レジ横の冷蔵庫に、ふと目が映る。
そこにいた自分が、すこしだけ他人みたいに見えた。
清潔感のある髪。しわのない制服。感情のない目元。
ちゃんとしている。
でも、どこか嘘くさい。
わたしは誰に向けて、この姿を保っているんだろう。
そう思った瞬間、胸がすこしだけきゅっとなった。
窓の外には、いつも通りの山の稜線。
そのずうっと向こうには、たぶん海がある。
見えないけど、いつも思い出す。
海が見たいな、って。思うときがある。
でも、それは“触れたい”じゃなくて、“眺めたい”に近い。
あの光、あの果て、あの風の匂い。
遠くから届く気配だけが、わたしの中をざわつかせる。
でも、実際にその中に足を踏み入れる想像をすると、
体の輪郭が崩れてしまいそうで、息が止まる。
名前も、声も、ぜんぶ曖昧になって、
自分という境界が、どこかへ溶けてしまいそうだった。
わたしはきっと、泳げない。
いや、それ以上に最初から泳ごうとしてこなかったんだと思う。
(アメなら、できるよ)
何かが聞こえた。
喉の奥に、ひりつくような違和感があった。
それはわたしの声じゃなかった。
でも、たしかに聞こえた。
そのまま口が動きそうになって、慌てて唇を閉じた。
*
──仕事もひと段落し休憩中、ベンチに座っていた。
この街のお気に入りスポットの一つに挙げられる、お店の裏の小さな公園。
日差しに照らされ、水を流し込んでいると、
ひとりの女の子が近づいてきた。
「すみません、あの……匂いにつられて、つい」
制服姿のわたしを見て、すこしだけ照れたように笑った。
「うち、結構近所で。よく来るんですよね!」
「……そうなんですね」
急なことに、あまりうまく返せなかった。
でも、彼女は気にした様子もなく話を続けた。
「最初は、油揚げのハンバーガーなんて想像もつかなかったけど……今はもう、普通のパンには戻れないって感じです」
少し間をおいてから、彼女は言った。
「静かですよね、ここの公園。なんか……落ち着きます」
「……はい、私も好きです。ここ」
それしか言えなかったけど、不思議と声が出しやすかった。
*
その日の夜、東雲荘の二階の窓を開けた。
昼間の彼女の笑顔が、ふいに思い出された。
白いTシャツに、風で揺れる髪。
まぶしかったわけじゃないのに、なぜか目をそらしたくなった。
彼女の目は、わたし“そのもの”を見ているような気がした。
わたしのことを見透かそうとしている。
そう思った瞬間、少しだけ怖くなった。
でも――
あのときの彼女のような目なら、
もう少しだけ、見られてもいいかもしれない。
そんなふうに思ってしまった自分が、すこし不思議だった。
古びた窓枠に頬を預けながら、
この町に来た日のことを思い出していた。
知らない人ばかりの街。
誰ともつながっていない日々。
それなのに、今日、はじめて誰かと話せた。
それも、わたしの声で。
うまく話せたわけじゃない。言葉もすこしずれていた。
それでも、伝わった。たしかに、届いた気がした。
(……でも、本当にわたしの声だった?)
喉の奥に、うっすらとひりつきが残っていた。
昼間、ベンチで返した言葉。
あのとき、口が勝手に動いたような感覚があった。
まるで、わたしじゃない“誰か”が代わりに喋っていたみたいに。
(アメなら、できるよ)
そうささやいた声と、彼女と話していたわたしは、
もしかして、同じところから出てきたんじゃないか。
そんなことを思ったら、急に怖くなって、
わたしは窓をそっと閉めた。
暗くなった部屋のなか、
背中で障子が、かすかに鳴った。
冷蔵庫のモーター音が止まったあと、しんとした静けさが戻ってくる。
こういうとき、わたしはいつも、声を出さなくなる。
誰もいないからじゃない。
自分の声が、自分のものでなくなるのが怖いから。
海が見たい。
そう思うときがある。
でも、それは“触れたい”じゃない。
“立っていたい”でも、“泳ぎたい”でもない。
ただ、眺めていたいだけ。
ひかりの粒。空の果て。音のない風。
そのすべてを前にしたら、
わたしはきっと、立っていられなくなる。
名前も、声も、過去も。
ぜんぶ、いっぺんに溶けてしまいそうで。
水が怖い。
でも――
その向こうにある景色を、見てみたいとも思う。
触れられなくてもいい。届かなくてもいい。
ただ、“そこに立っているわたし”を、
ほんの少しだけ、想像してみたくなる。
明日もまた、わたしはこの制服を着てカウンターに立つと思う。
たぶん、それでいい。
――いまのところは。