8.恩人はヌン茶デビューを果たしました
夢香は、更にもう一歩踏み込むことにした。
「あ、あのさ、天堂君……もし、良かったら、でイイんだけどさ……この後、時間あったりする?」
何故こんなに勇気が要るのか自分でも分からなかったが、凄まじく気力を消費して、何とかこのひと言を搾り出した夢香。
義祐は一瞬意味が分からなかった様子できょとんとしていたが、やがて小さく頷き返してきた。
「じゃ、じゃあさ、アタシのお勧めのカフェで、ちょっとお茶しない? そこさ、ヌン茶がめっちゃ良くて、時々行くんだよね」
「ヌ……ヌ、ヌ?」
少し義祐には難しかったのか。恐らく彼は、ヌン茶が何なのか分からなかったのだろう。
「あ、御免ゴメン。えっとね、アフタヌーンティーのこと」
乾いた笑いを浮かべながら頭を掻いた夢香。
義祐も漸く合点がいったらしく、あぁ成程といわんばかりの表情で苦笑を浮かべていた。
(天堂君……何か、笑うとカワイイ……)
ふとそんな感想が急に降って湧いてきた夢香。
すっかり気分が和らいでいる。同じ場所で数時間前に、貴幸から手酷い心のダメージを受けたとは到底思えない程の、穏やかな気持ちだった。
正直なところをいえば、まだ多少貴幸に心が引っ張られている部分は、無くもない。だがそれ以上に、義祐ともっと話したいという気持ちの方が強かった。
(アタシって、こんなビッチなんだっけ……?)
大好きだった筈のカレシから手痛い裏切りを浴びたからとはいえ、こうも簡単に他のオトコになびくのは如何なものかと思う部分もある。
しかし、どうにも義祐への興味から目が逸らせない。それはもしかすると、あの日の放課後、義祐の奏でるギターの音色を心に焼き付けた時からの、気持ちの延長なのかも知れない。
(そう考えたら……アタシも結局、貴幸とやってること一緒じゃん……心で浮気してたんじゃん)
何となく、自分が嫌になってきた。
貴幸からフラれた時、涙が一滴も流れなかったのは、自分の中で既に心が離れ始めていたということなのだろうか。
そんなもやもやが数秒程、夢香の胸の内に暗い翳を落としていたのだが、不意にスマートフォンからラインへのチャット着信通知音が響いた。
何事かと手に取ると、目の前に居る義祐からだった。彼もまたスマートフォンを手にしていた。
「御免なさい。俺、自分の口で上手く喋れないので、こっちで伝えるのを許して下さい」
あ、そういうことか――夢香は彼の前で、自分をフった元カレへの心残りを胸の内で持ち出していたことに、罪悪感を抱いた。
今は義祐だけに視線を向ければ良い。貴幸のことなど、この場ではどうでも良い筈ではないか。
「それで、そのヌン茶のお店、予約とかはしなくて良いですか?」
「あ、うん。それは大丈夫。いつでも入れるお店だから」
ラインで意思を伝えてくる義祐に対し、夢香は自身の声で応じた。
「じゃあ、行きましょうか」
その一文に、夢香は何故か胸が高鳴った。義祐はごくごく普通に、何の躊躇いも無く、夢香の希望に応えようとしてくれている。
それ自体が彼女にとっては奇跡の様な一事だった。
だが、このチャンスを逃して良い筈が無い。夢香は自分でもぎこちないと思う程の明るい笑みを浮かべて、小さく頷き返した。
「うん、行こ!」
こうしてふたりは、肩を並べて駅へと向かう。その際夢香は一瞬だけ、後ろに視線を流した。
その視界の中で、貴幸が依然として愕然たる表情のまま、呆然と佇んでいる。
(……サヨナラ)
まだまだ未練は幾らか残っているが、夢香は半ば自分にいい聞かせるつもりで、心の中で別れを告げた。
ビッチだろうが軽薄だろうが、もう何でも良い。
オトコに浮気され、フラれたのだから、無理矢理にでも切り替えるしかない。
それに何より、今は隣に居るギターの天才、アマチュアキックボクシングの若きトーナメントチャンピオンへの興味の方が圧倒的に優っている。
カラダの関係が得られないからといって簡単に浮気する最低野郎に、そういつまでも拘っている場合ではなかった。
◆ ◇ ◆
そうして、ふたりが足を運んだのはやや小ぶりな外観ながら、年代を感じさせるシックな内装のお洒落な英国喫茶だった。
ウェイトレスやマスターともすっかり顔なじみとなっている夢香は、勝手知ったる我が家の如く、いつものお気に入りのテーブルへと落ち着いた。
「カオリさーん、いつものヌン茶、お願いしまーす」
「はいはーい。今日はふたり分ねー」
カオリと呼ばれた女子大生アルバイトのウェイトレスが、これまた慣れた様子で手早くオーダーを取り、カウンター越しに厨房へと声をかけている。
その間、義祐は幾分緊張した様子で店内をきょろきょろと見廻していた。
「天堂君、こういうお店、初めて?」
夢香の問いかけに、義祐は二度三度、落ち着かない様子で頷き返してきた。
その、どこか子供じみた反応が妙に嬉しかった。彼にも、未経験なものがあったのだ。
それはよくよく考えれば当たり前の話なのだろうが、夢香にとっては妙に新鮮な気分だった。
「でもホント、凄かったよねー……天堂君って、いつから格闘技やってたの?」
この問いかけに対し、義祐はまたもやライン上で応えを返してきた。
曰く、小学生低学年の頃から近所の道場で空手を始めたということらしい。中学卒業の頃には黒帯で、三段にまで達していたとの由。
尚、ギターを始めたのはその少し後で、こちらは小学校高学年になってからのことだという。
「御存知の通り、俺、言葉がちゃんと話せないから、練習中とか試合中に頻繁なコミュニケーションが必要になるチームスポーツとかは全然駄目なんです。だから個人競技で、師範の指導を聞いていれば良いだけの格闘技とかが丁度良くて、だから空手を始めました」
ギターも同じ理由で、ということだった。
いずれも、友達が居なくて時間を持て余していたから、何の気無しに始めたという話だった。
着手した理由は、ぼっちだったからという悲しい理由なのだが、彼のレベルにまで極めると、それはもう結果良ければ全て良しの域にまで到達しているのではないだろうか。
そんな意味のことを夢香が口にすると、義祐は苦笑を滲ませてかぶりを振った。
「それは、ただの結果論です。やっぱり俺は、基本はただのぼっちなんですよ」
その自虐的な笑みに、夢香は心の奥に軽い痛みを感じた。
彼のぼっち環境を作り出した一因に、自分達の様な陽キャ側も一枚噛んでいたからだ。
勿論、夢香ひとりが悪い訳ではない。
しかしどうにも、この罪悪感が拭えない。
一体どうすれば、胸の奥の疼きを消すことが出来るだろうか。
そんなことを思いながら、夢香はふと視線を落とした。