6.恩人は格闘家でした
週末、夢香は久々に気合を入れて顔面を作った。
ファンデーションまではいつも通りだが、アイブロウ、チーク、リップなどは普段よりも時間をかけ、お気に入りのブランドでじっくり仕上げた。
今日、彼女は久々に会う吉沢貴幸とデートを予定している。
貴幸は一年生の秋頃から付き合い始めた別高校のイケメンで、日頃は部活が忙しい為、中々会うことが出来ない。
それでもラインでは毎日、短いながらもやり取りが続いている。ここ最近は若干途切れがちだが、それでもこちらが問いかければちゃんと返事はしてくれていた。
今日のデートも、実をいえばちゃんと約束した訳ではない。
しかし貴幸が好きな格闘技のアマチュアトーナメントを観に行きたいと前々からライン上で零していたのを夢香はチェックしており、最近では絶対に行くという意味の返信もちらほら見られた。
これはもう、言外に誘われていると見て良いだろう。
夢香は久々のデートということもあり、相当頑張ってお洒落していこうと決めていた。
トップスはお気に入りの白いオフショルダーニットに袖を通し、ボトムスには先日ひと目惚れして即決で購入した黒いミニスカート。
そこに網タイツとショートブーツを合わせて、いざ出陣。
会場は都心部の、と或る大型体育館だった。
トーナメントの第一試合が始まる一時間前には到着し、エントランス前広場で貴幸が来るのを待つ。
ラインでも到着した旨を伝えておいたが、しかしまだ既読はついていなかった。
(ま……アタシが来るのが早過ぎるのは、いつものことだけどね……)
内心で苦笑を漏らしながらしばし時間を持て余しつつ、のんびりと周囲の観戦客の群れを眺めていると、その中に大事なひとの顔を見つけた。
貴幸だった。
「あ! やっほ! 貴幸~!」
夢香は極上の笑みを浮かべて駆け寄っていった。久々に見るカレシはやっぱりイケメンで、格好良い。
ところが当の貴幸の方は、何故か驚きと疑念に満ちた顔を返してきた。もっといえば、その視線の中には妙に敵意じみたものすら感じられた。
(え……何?)
笑顔で歩を寄せながらも、途端に不安が込み上げてきた。あの反応は一体、何なのだろう。
そして今、気付いた。
貴幸の隣には、見知らぬオンナが居た。しかも、貴幸と手を繋いでいる。
まさか――夢香の胸の内に湧いた不安は、一気に恐怖へと彩られ、そして半ば確信に近い思いへと変化していった。
「あれー? このひと誰ー? 貴クンの知り合いー? あ、もしかして元カノちゃん?」
そのオンナはあっけらかんとした表情で貴幸に問いかけていた。
元カノとは、どういうことなのか。
夢香は一度たりとて、貴幸から別れ話を打ち出されたことは無いというのに。
「貴幸……そのひと……誰……?」
半ば呆然とした表情で、夢香は辛うじて声を搾り出した。これに対し貴幸は苛立ちを隠そうともせず、露骨に舌打ちを鳴らした。
「見りゃあ分かんだろ。今カノだよ」
「え、だって……アタシ、そんな話、何も聞いてない……」
昨日も貴幸からはちゃんとラインが返ってきていた。素っ気無い短フレーズではあったが、確かに応答はあったのだ。
それなのにこれは一体どういうことなのか。
「おめーとはもう、終わりなんだよ。お、わ、り。大体いっつもおめー、何かっつーと重いし、ダルんだよな。全然ヤらせてくんねーし……」
「じゃあ……そのひととは……もう、ヤった、の……?」
夢香はまだ、処女だった。だから初めての経験はお互いしっかり愛を育んでから記念となる日に、と決めていた。貴幸も夢香の想いに同意していた筈だ。
それなのに何故、こんなことに。
「オレさー、そーゆーの、メンドいからヤなんだよね。もっと軽く、カジュアルにヤれる子の方がイんだよ。まぁそーゆー訳だしさ、もう俺に付き纏うなよ。おめーマジで重いから、ストーカーとかされんのメーワクだしさー」
「ねー、貴クン、早くいこーよー。あそこのキッチンカー、もう開いてるし」
いうだけいって、貴幸と新しいカノジョは足早に去っていった。
夢香はただひとり、その場に取り残された。その美貌は呆然と色を失い、頭の中は真っ白だった。
それから30分程が過ぎた。
未だショックから立ち直れず、涙すら溢れてこない。余りに衝撃的で、何も考えることが出来なかった。
その時、エントランス横の選手用入場口近くで、ひとびとの湧く声が聞こえてきた。参戦する選手が到着したらしい。
(もう……いいや……どうでも……)
夢香は重たい足取りでエントランス前広場を去ろうとした。このまま春の暖かな街中を歩くのは、全く気が進まなかった。
(アタシ……アタシなんて……)
それ以上の思考が湧いてこない。どこで間違えたのだろう。どこで見誤ったのだろう。そんな後悔が時折、胸の奥に去来するばかりだった。
そうしてふと、入場する選手の列に顔を向け――思わず、その場に立ち止まってしまった。
(え……ウソ……あれ、もしかして、天堂君?)
夢香は思わず目をこすってから、もう一度凝視した。
だが、矢張り間違い無い。選手の列の中に居る見知った顔は、間違い無く義祐だった。
そういえばエントランス近くに、今日のトーナメントに参戦する選手名が列記されたいた筈だ。
信じられないという思いを抱きながら、それでも夢香は小走りに駆け寄って選手リストを見た。そして、そこにあった。
天堂義祐の名が。
(マ……マジだ……天堂君、出るんだ……)
その瞬間、夢香の気持ちは決まった。
(み……見よう! 絶対、見ていこう!)
貴幸に浮気され、フラれたショックが一瞬にして消え去った。
それ程のインパクトだった。