12.そして、恩人は――
あ、そうか――と或る日の朝、洗面所の鏡を覗き込んだ時、夢香は漸く気付いたことがあった。
(アタシ……天堂君のこと、好きなんだ)
あの日、亜希菜や村上教諭も交えて四人でセッションを楽しんだ日から、義祐の穏やかな笑みが頭の中から離れなくなった。
ほとんど四六時中、義祐の顔ばかりが頭の中に浮かぶ。
つい先日、貴幸と別れたばかりだというのに、一体いつの間に、自分の心はあの長身の青年に奪われてしまったのだろう。
或いは、電車内で痴漢から守ってくれた時には既に、心が傾きかけていたのか。
だから貴幸に浮気され、一方的に別れを告げられた時にも、思った程の悲しみが襲ってこなかったというのだろうか。
そんなことがあり得るのだろうか。
(うぅん……アタシ、自分で自分のこと、分かってなかっただけだ)
洗面台に視線を落とし、じっと考える。
義祐が今までに与えてくれた喜びは、発見は、夢香の中に途轍もない宝物として根付き始めている。
それは自分自身でもはっきりと自覚出来た。
なら、今日にでも告白しようか。
他の誰かに取られてしまう前に、自分のものにしてしまおうか。
(あ……でも、天堂君の気持ちはどうなんだろ……?)
義祐は言葉数が少ない青年で、その本心を垣間見ることは中々難しい。
もしも、彼が夢香のことを異性として見てくれていなかったら、どうしよう――不意に、そんな不安が脳裏に過った。それはほとんど恐怖と呼んでも良い。
あの純朴な青年が、夢香をただのクラスメイト、単なる知人程度にしか思っていなかったらと思うと、急に胸の奥に、疼く様な痛みが走った。
ほんのちょっと前まで、彼とは何の接点も無かった。
陽気なイケメン連中とばかりつるんでいて、彼の存在そのものを認識すらしていなかった。
そんな自分が、義祐に心を寄せても良いのだろうか。
(天堂君から見たら、アタシはその辺によく居る、ただのギャル系女子とか、そんなのかな)
考えれば考える程に、頭の中で色々な疑念が渦巻いてくる。
しかし、自分の気持ちにも嘘はつきたくない。
(もっと天堂君のことを知って……それから、色々、一緒に……)
そうするのが、無難かも知れない。
しかし本当にそれで良いのだろうか。
(あ~、う~……駄目だぁ、全然分かんない)
貴幸と付き合っていた頃は、こんなに悩んだことは無かった。本当にただ、ノリだけで毎日生きていた様な気がする。
これがひとを好きになるということなのか――夢香は今更ながら思い知る気分だった。
(天堂君は、アタシなんかに好きになられて、どんな気分なんだろ……)
迷惑じゃないだろうか。
嫌な思いをさせたりはしないだろうか。
そもそも、彼とお付き合いする女子というのは、もっと清楚で真面目で、誰からも『この子なら間違い無いだろう』と認められる様な、それ程の完璧な娘でなければならないのではないだろうか。
それに比べて、自分はどうだろう。
一体、何があるというのだろう。
才能らしい才能なんて、何も無い。今までただ、何の考えも無く好きなことだけをやって生きてきた。
義祐に釣り合う何かが自分にはあるだろうか。
答えは、否だった。
(どうしよ……アタシ、本当に何も無い。ただいつもの皆と、楽しくつるんでるだけ、だった……)
己をストイックに追い込み、何かを達成したことなど、何ひとつ無かった。
(やっぱり、アタシじゃ、ダメなのかな……)
夢香はその場にしゃがみ込んでしまった。
途轍もない程の絶望が一気に襲い掛かってきた。
その時だった。
洗面台の小物置に乗せてあったスマートフォンから、ラインの着信通知音が鳴った。
誰だろうと思って手に取り、そして息を呑んだ。
義祐からだった。
「今日の放課後、少しお時間、頂けますか?」
短い一文だった。
しかしそこには非常に大きなメッセージが込められている様な気がした。
そしてその瞬間、夢香は意を決した。
これはきっと、何かの運命だ。自分で自分に決着をつけてこいという、神様からのお告げだ。
(天堂君、アタシもキミと、お話したい)
もう迷うのはやめた。
自分の気持ちを、精一杯の勇気を出して伝えよう。しっかり伝え切ろう。
それが、今までたくさん助けてくれた、自分の心を汲んでくれた義祐への、唯一の感謝の印だ。
ここで逃げ出してしまったら、それこそもう二度と義祐の顔を見られなくなる様な気がした。
(例えフラれても、アタシは天堂君と友達で居られる……うぅん、友達で居たい。だから……勇気を出してしっかり伝えよう)
夢香は鏡の中の自分をもう一度見つめた。
そこに映る自身の瞳の中には、もう何ひとつ迷いは無かった。
◆ ◇ ◆
そして、その日の放課後。
校舎裏の非常階段口。
約束していた通り、そこに義祐の姿があった。
ここで全てが終わっても構わない。
自分の心に嘘はつきたくないし、後悔もしたくない。
だから、前を向くことにした。
「あのね、天堂君……アタシね……」