1.恩人はまさかのぼっち君でした
朝の通勤通学の時間帯。
その日も電車内はいつも通り、凄まじく混雑していた。
しかし、それまでに感じたことの無い明らかな異常事態が光原夢香に襲い掛かろうとしていた。
(え……ヤだ、ちょっと……)
ミニスカートの内側に侵入してくる様な形で、明らかに意図を持った接触が感じられる。
彼女の柔らかくてふくよかな尻に、誰かが指先でまさぐる様な動きを仕掛けてきていた。
(こ、これって……痴漢、だよね……?)
夢香は血の気が引くのを感じた。怖くて、全身が硬直してしまっている。
何とか身を捩って逃れようと試みたが、左右からぎゅうぎゅうと体を寄せてくる他の通勤客らに動きを阻まれてしまい、どうすることも出来ない。
声を上げるだけでも何とかなるだろうか。
そう思って口を開きかけたが、恐怖の方が先に立ってしまい、喉の奥から僅かな唸りが漏れ出るだけで、明確な意思を伴う響きを搾り出すことが出来なかった。
(ヤだ……ヤだヤだヤだ! こ、怖い……誰か……誰か、助け……!)
と、その時だった。
肩の辺りを、何かがちょいちょいと突いてくる様な別の感触が伝わってきた。
それまでぎゅっと瞑っていた瞼を開けると、目の前に立っている同じ年頃の男子が能面の如き無表情で、夢香の肩を軽くつついていた。
次いで彼は、人差し指と親指を立てて、その場でくるくると廻す仕草を見せた。
場所を変わってやろう、という意思表示に思えた。
(え……もしかして、助けてくれるの!?)
夢香が訴えかける様な視線を向けると、その男子は小さく頷き返した。
この時の夢香は、もう必死だった。
勇気を振り絞って何とか痴漢を捕まえるということよりも、兎に角今は、この恐怖から一刻も早く逃れたかった。
「お、お願い……」
漸くにして、囁く様な声を搾り出すことが出来た夢香。
するとその直後、件の男子はその大人しそうな顔つきからは想像も出来ない程の剛腕を発揮して夢香の体をぐいっと引き寄せ、そして他の通勤客が迷惑そうな表情を浮かべているのもお構いなしに、ドア脇の己の位置と夢香の立っていた位置をぐるりと入れ替えてくれた。
ほんの数秒間のやり取りに過ぎなかったが、夢香はドア脇の位置に体を移し、そして件の男子は夢香に背を向けて、一瞬前まで彼女が居た位置に立っていた。
その男子は、夢香の尻を無遠慮に触り続けていた痴漢と正面から向き合う格好で位置を取り、彼女を守ってくれていたのだ。
(あ……た、助かった……)
夢香は心の底から安堵した。
やがて電車は次の駅に停車し、大勢の通勤通学客が一斉に降車した。
その凄まじいひとの流れに押される様にして夢香もホームに降り立ったのだが、その時には既に、彼女を助けてくれた男子の姿はどこにも無かった。
(あ……御礼、いいたかったのに……)
自分を助けてくれたあの男子は、飛び抜けてイケメンでもなければ、明るい陽キャという雰囲気でも無い。
しかし夢香の危機をそれとなく察知し、無言で助けてくれたあの姿勢は本当に男前で、男気に溢れ、そして頼もしかった。
そして今になってやっと気づいたのだが、彼女を痴漢から助けてくれた男子は、彼女が通う衣柄高校の制服を纏っていた。
ということは、彼は同じ学校に通う男子生徒と考えて間違い無い。
この春から二年に進級した夢香は、必死に記憶を手繰り寄せてみたが、しかし今回彼女を助けてくれた男子生徒の顔は、全くといって良い程に思い出せなかった。
ということは他の学年か、或いは他のクラスの生徒だろうか。
いずれにしても、同じ学校の生徒ならばどこかで言葉を交わすタイミングもあるだろう。その時に改めて御礼をいえば良い。
(でも……どのクラスのひとだろう……?)
一学年下の新入生ともなると探すのに苦労するかも知れないが、二年或いは三年なら、それなりの交友関係が出来ているだろうから、見つけるのにはそこまで時間はかからないかも知れない。
だがいずれにせよ、学校に向かわなければ話が始まらない。
(絶対に見つける……見つけて、ちゃんと御礼、いわなきゃ)
そんなことを思いながら学校までの道程を進んでゆくと、途中で仲の良いクラスメイトらと合流。
「よーっす、光原ぁ。おはよー」
「やほやほー。夢香元気ぃ?」
男女問わず、左右から声がかかってくる。彼ら彼女らはいつでも明るく、ノリが良く、そして大体が平均以上の顔面偏差値揃いだ。
そんな中に夢香の姿もある。自分でいうのも何だが、夢香は顔とスタイルには結構な自信があった。
だから彼女の周囲にはいつも誰かが居て、楽しい時間を過ごすことが出来ている。
しかし今朝の痴漢だけは、本当に気分が凹んだ。一年生の時は一度も無かった被害だけに、まさか自分がという思いが強かった。
「よぉ、どしたよ光原。元気ねぇじゃん」
仲の良い男子のひとりが半笑いで覗き込んできた。
他の女子らも、どうしたのかと僅かに怪訝な表情を浮かべて視線を向けてくる。
夢香は大きく溜息を漏らしながら、怒りを吐き出した。
「もう、めっちゃサイアク! アタシさ、生まれて初めて、痴漢に遭っちゃったよ」
「え……マジかよ、それ」
半笑いの仲良し男子は心配するどころか、逆に嬉しそうな笑みを湛えて更に興味津々な顔を寄せてきた。
「なぁ、どんなだった? ちょっとは感じたりした?」
「ちょっと、やめなよ……あんた、幾らなんでもデリカシー無さ過ぎだし」
別の仲良し女子が怒りを含んだ声で窘めた。
夢香もこの男子の余りに無神経な言動には心底嫌気が差したが、しかし場の空気を変に悪くするのもどうかと思い、ここはぐっと堪えた。
そうして何人かの仲良しグループで連れ立って教室へと向かう。その間も夢香の気分は微妙に沈みっぱなしだった。
(はぁ~あ……何でこいつら、ひとの気分とか全然考えないんだろ)
普段は仲の良いクラスメイト男子達ではあったが、痴漢被害に遭った夢香の気持ちを全く斟酌しない無神経さには、本当に腹が立った。
「なぁ~、そんな怒んなよ。なぁってばぁ」
「うっさい。ちょっと黙ってて」
夢香は苛々しながら教室へと足を踏み入れ、そして何気にぐるりと室内を見渡した。
そしてその瞬間、全身に電撃が走る様な衝撃を覚えた。
(え……うっそ! マジ!?)
窓際の席に、居た。
そう、あの彼だ。痴漢の魔の手から夢香を救ってくれた、能面の様に無表情な長身の男子生徒。
その彼が、当たり前の様にその席に座っていた。
周りのどの輪にも加わらず、ひとり瞼を閉じて、ワイヤレスイヤホンで何かを聞いているその姿は、間違い無く今朝、電車内で夢香を助けてくれたあの青年だった。
(え……待って待って待って。アタシ、彼のこと全然知らないんだけど?)
頭の中が、パニックになってきた。
どうやら彼は、どのグループにも属していない、いわゆるぼっちらしい。
誰からも相手にされず、そして誰とも関わろうとしていない寡黙な青年。
だがそれでも、彼が夢香を助けてくれたことに変わりは無い。
夢香は仲の良いメンツからあれこれ声がかかるのを軽く受け流しながら、恩人たるぼっち男子の席へと一直線に足を向けた。