竹内街道を経て
住処である大阪市内から奈良五條市へ行く用事がありました
移動は自家用車を利用してなのですが、いつもの近畿自動車道→阪和自動車道→南阪奈道路という高速道路を走るのに気乗りがしないので下道で行くことにしました
通行料いりませんので燃費のことを考えてもお得でした(笑)
今回は八尾から大正橋を渡りすぐ左折して大和川の左岸堤防をひたすら東に向いて走りました
ほどなく自然と石川の左岸堤防に入り道明寺の辺りで橋を渡り今度は石川の右岸をひたすら南下するルートをとりました
羽曳野市から国道166号線とほぼ同じ経路の竹内街道を走りました
アップダウンとカーブが連続する道で府県境に竹内峠があります
そして奈良の竹内の交差点を右折し奈良の西側を南北に走る山麓線と呼ばれる奈良県道30号線御所香芝線を南下するルートをとりました
今年の元旦に初日の出を見るためにこの辺りを走ったのですがそれ以来でした
折しもこの竹内街道と呼ばれる道路は堺市にあった私の生家の一本裏側の大小路から続いている道路であり大阪側ではまずこの縁を感じます
そして奈良が大好きな私にとって飛鳥とともにこれまた興味のある奈良盆地の西側である葛城地域へ繋がる道です
竹内街道の名前から連想するのは・・・
あの280歳で死去したと言われる武内宿禰ですね
280歳まで生きたなんてどう考えてもおかしいので、何か歴史上のトリックがあるのだとは思いますが、この武内宿禰の末裔に、波多氏、巨勢市、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏等の名だたる古代豪族がいます
そしてこの各氏の地盤は奈良盆地の西側や大阪の南河内の辺りでした
竹内街道と山麓線が交差する竹内の交差点はまさに奈良県の西側です
あの名だたる古代豪族達はこの奈良盆地の西側で南北に広がり権勢を振るっていたようで、古代豪族の姓に因んだ地名がこの辺りに残っています(地名が先か姓が先かはどうなんでしょうね?)
奈良盆地の西側といえば気になるのが登美(奈良県の地名)の長脛彦と言われていた登美地方の豪族の人物です
そしてもうひとり長脛彦の妹と結婚したとされる饒速日尊です
神武東征の折に最初大阪から大和へ入ろうとした神武天皇を破ったのが長脛彦です
そして熊野へ廻った神武天皇はこの時には饒速日尊の仲介で大和へ入ることができました
饒速日尊の説得を聞かなかった長脛彦はここで成敗されたと記録されているようです
ある文献によると神武天皇の祖先の邇邇芸尊は饒速日尊と同じ天孫系で天照大神の子孫とされています
それもあって神武天皇を助けたことになっています
さて、ではこの大和の西側にいた長脛彦の子孫や饒速日尊の子孫はどうしたのでしょう?
そして8代孝元天皇の三世孫とされる武内宿禰との関係は?
武内宿禰の子孫がこの奈良盆地の西側を本拠地としていたこと
ここに何らかの関連性はないのか?とても興味があるのです
神武天皇は橿原の畝傍山の辺りに宮を造られたとか・・・
そこから大阪の難波宮へ出ていった16代仁徳天皇までの間、武内宿禰の末裔である葛城氏が大王家と姻戚関係を持っていたとか・・・
それが何故いつの間にか武内系一族は西側からいなくなって三輪山や飛鳥の方へ移動したのか?
この奈良県道の山麓線を走るときいつもあの豪族たちは何故西側からいなくなったんだ?
という疑問が浮かんでくるのです
確かに奈良盆地は東側のほうが西側より雰囲気が穏やかに感じられます
西側の山々は凛とした雰囲気に包まれていると感じます
だから?なんですけどね(笑)
単純に都が飛鳥へ行ったから!と言ってしまえば身も蓋もありませんが・・・
この奈良盆地西側で名前が出てくる各人には飛鳥とはまた違う歴史を感じて飛鳥応援大使の私でもさすがに興味は尽きません