第8話
「うん…うん…へえ〜たまねは凄いね〜…うん…うん…」
「…………」
仕事から帰ってきた私に気付きやしない。
自分から挨拶をするのは癪だったので無言だ、キッチンにはラップがかけられたお皿がある、弟が作ってくれた物だ。
音が鳴るよう乱暴に荷物をテーブルに置くと、ソファに座っていた弟が私に気付いた。
「──びっくりした。お帰り」
さすがに挨拶を返さないのは大人気ない──と、思う自分自身がいかにも子供っぽく、それが情けなかった。
「ただいま」
「あ、姉ちゃん帰ってきたから切るね、おやすみ〜」
弟が電話を切り、キッチンに立った。
素直ではない私はこう言った。
「別にいいのよ、たまねと電話で話していても」
「よく言うよ」
弟がラップをかけたまま電子レンジへ入れ、タイマーをかけた。
その物言いにカチンと来てしまい、いつもの文句が口からついと出る。
「何が?言ってごらんなさいよ」
「分かったからもう、着替えてきなよ」
弟は嫌そうにしながら晩御飯の準備をしている。私が使っている茶碗にご飯をよそい、加熱が終わったお皿をテーブルに乗せた。
「あのさあ、あんた自分が歳下だって分かってる?口の利き方ってもんがあるでしょ?」
肚に蟠る怒りのせいで口が止まらない、弟は見る見る面倒臭そうな顔になった。
弟に甘えていることは自覚している、仕事で疲れて、それなのに向こうはお喋りに夢中、こっちが帰って来てもぞんざいな対応だ、八つ当たりするなという方が無理な話だ。
「ごめんって、そんなに怒らないでよ」
「怒ってないわよ、あんたが怒らせたのよ」
「…………」
もう相手にし切れないと言わんばかりに弟が無言で私から離れ、スマホが置かれているソファへ戻って行った。
イヤホンまで付け始めた弟にさらに腹を立てながら夕食を済ませ、寝室から着替えを持ってお風呂へ向かう。
脱衣所でスマホを確認するとメッセージが入っていた。
澪:そろそろ折れてほしーなー
前に見せてきた写真の件だろう、今は心底どうでも良かった。
あかり:消して、どうでもいい
服を脱ぎ、一日の疲れを取るため湯船に浸かる。
「はあ〜〜〜〜〜〜〜〜」
長い溜め息が出てきた、自分でも驚いた。
何故こんなにもイライラしなければいけないのか、弟を見ているだけで腹が立ってくる。
ああそうだ、ただの八つ当たりだ、仕事がどうとか、たまねにばっかり構っているのが気に入らないとか関係ない。
入浴を済ませてスマホを確認すれば澪から返事はなく、それにさえ腹を立ててしまった。
リビングに戻ると既に電気は消されており、弟は横になっていた。
音を立てないようゆっくりと扉を閉め、私も眠りについた。
◇
「それプライベートが筒抜けだからでしょ、そんなのストレス溜まって当たり前じゃん」
「あ〜…言われてみればそうね…」
休日、妹も休みだったので私の家に呼び、とにかく弟がムカついてしょうがないと話をするとそう答えが返ってきた。
妹は弟の前では猫を被っている、それは癖のようなもので本人は自覚しておらず、私と話をする時はまあまあ毒を吐く。有り体に言えば生意気な態度が目立った。
私が出してやったココアに妹が口を付け、馬鹿にしたような目をしながら言った。
「同棲止めたら?お互い不幸になるだけだよ」
「あんたにそこまで言われる筋合いはないわ。そういうあんたは部屋は別々にしてるの?確か二部屋あったわよね?」
「ううん、旦那と一緒、私ら別にそういうの気にしないから。これって体質によるからさ、無理な人は無理だと思う、つまりお兄ちゃんとお姉ちゃんの相性が悪いってこと」
「だからそこまで言われる筋合いはないっての、どうにかするわよ」
「どうにかって何?お兄ちゃんを解放してあげたら済む話でしょ」
「自分が独り占めしたいからって、それにその言い方は何?私が悪いみたいじゃない」
「そうでしょ?子供の時だってお兄ちゃんにちょっかいかけて気を引いてたじゃん、やり方が汚い」
「あんたはか弱いふりをしていたわね、本当は強いくせして」
「まあね〜お兄ちゃんって優しいからつい」
(自覚はあったのね…)
妹と話をする時はいつもこうだ、喧嘩するギリギリのラインで応酬し合う。それでもたまねは遠慮なく私の悪い所を指摘してくるし、私が注意すると素直に聞き分ける。
まあ、気兼ねなく会える相手ではないし長時間共にいられる相手でもないことは確かだ。
(そうね〜いい加減引っ越ししないとあの子と仲違いしてしまいそう)
せっかく仲直りできたのにこのままでは振り出しに戻ってしまう。
ココアを飲み終えた妹が、今度は自分の番だと言わんばかりに話し始めた。
「いやでもさ〜お兄ちゃんって全然成長してないよね〜そう思わない?」
「で?」
同意を求めてきたわけではない、ただの前振りだ、だから続きを促した。
「お互いいい歳してるのに私のこと子供扱いしてくるんだよ?それが恥ずかしくてさ〜人前でもやるんだよ」
「兄ってそういうもんでしょ」
「いやいやあれは度が過ぎてるって、この間もね、私の顔を手で挟んで猫みたいにこう〜ぐにゃぐにゃ〜ってして、頭も撫でてきたんだよ?せっかく気合い入れて化粧したのに台無しじゃん!みたいな」
「止めてくれって本人に言いなさい」
「それにね、なんか私のことが一発で分かるみたいでどこで待ち合わせしてもすぐに見つけてくるの!どんだけ私が好きなの〜照れるわ〜」
「たまたまでしょ」
「お姉ちゃんって待ち合わせしてる時どうしてるの?」
「待ち合わせも何も出かける時は肩を並べてこの家出てるわよ」
マウントが取れないと分かった妹が素早く話題を変えた。
「この間ね、お兄ちゃんと電話してると私の家に行きたいって言い出して、どうして?って訊くとお姉ちゃんが怖いって言ってさ〜いや兄が妹に助けを求めるのってそれいいの?」
「別にいいんじゃない」
「まあ〜私とお兄ちゃんって相性は良いからね〜一緒にいても疲れないし、お姉ちゃんには分からないだろうけど」
カッチン!!と来てしまったので、妹の話を聞き流しながら澪にメッセージを送った。
あかり:取引きに応じるわ、家に来て
「消せ」と言ったのは昨日だ。
澪:もう消したけど
あかり:嘘つくな
澪:何があったの?昨日怖かったんだけど
あかり:たまねが今家にいるの、これで分かったでしょ?
澪:おっけーすぐ行く
「聞いてる?」
聞いてなかったけど、ただ喋りたいだけの人に正直に答える人間はこの世にいない。
「聞いてる聞いてる。澪もこっちに呼んだから、別にいいわよね」
「え〜何で呼ぶの?お兄ちゃんに色目使ってる人でしょ?私ああいうあざとい人嫌いなんだけど」
◇
「澪さ〜ん!待ってましたよー!」
「たまねちゃーん!やっほ〜!お土産持って来たから沢山食べてね〜」
「わーありがとうございますー!」
二人で話していた時の態度はもう見る影もない。私にはああいった芸当はできないのでいつも感心する、真似たいとは思わないが。
持って来るな!と言っても持って来るお土産をたまねが嬉しそうに受け取り、そしてすぐにキッチンへ退かしていた。
「二人で何話してたの〜?」
「色々ですよ、姉とは良くこうしてお喋りするんです」
「いいな〜私妹はいないから憧れなんだよね〜」
「そんなにいいもんじゃないわよ」
「またまた〜あかりは素直じゃないんだから〜」
「ねーお姉ちゃんは昔っからこうなんですよ」
澪もテーブルに着き、それから三人で四方山話に花を咲かせた。
澪もたまねも良く喋る、互いの間合いを図りながら絶妙なバランスを保ちつつ、決して敵対しないように言葉を重ねていた。
(良くやるわ、ほんと)
私は適当に相槌を打ちつつ、小一時間ほど喋ったあたりだろうか、とにかく弟との仲を自慢したい妹が地雷に足を乗せた。
「私と兄はほんと昔っから仲良しだったんですよ。ちょっと色々ありましたけど、今ではすっかり元通りで、毎日っていうほど会ってるんです」
「いいな〜」
「だからこの間の旅行も行きたくて、でも姉がそれを許してくれなくて、意地悪ばかりしてくるんですよ」
「あかりとも仲が良いんだね〜」
「でも、一番仲が良いのは私と兄ですね」
澪がチラリとこちらを見てから、「そうなんだ?」と切り返した。
私は弟の連絡先を澪に送信し、それを澪が確認した。
「そうですよ!さっきも言ったじゃないですか澪さん!」
「これ見てみて〜この間三人で呑んだ時の写真なんだけどね〜」
「はあ……何ですか?──は?」
澪のスマホを見ていたたまねが固まった。
「これ、あかりとつぐも君だよ、仲良いよね〜」
「………………」
妹は絶句している、あの写真を見て何も言えないようだ。
「ね〜妬けちゃうよね〜こんな仲良しな所見せつけられたらさ〜」
「それ、あんたの合成じゃないわよね?」
澪が素でキレてきた。
「こんなん作るか!何で私がこんな写真を捏造しなければいけないのさ!作ってる間に憤死するわ!──ほら!ちゃんとオリジナルだからあかりも見てみなよ!」
よし!
私は渡された澪のスマホを直近で見る、強いショックを受けている妹には悪いがそそくさと自分のスマホに弟との写真を送信した。
ちょっとしか見ていないけど、確かに私と弟だった。額だけではなく鼻も当たっており、あと少し角度を変えたら唇同士が触れ合う距離だった。
天使だと思った、それは決してナルシスト的なものではなく、寄り添うように眠る私と弟は安らかで満たされており、その姿を天使だと思った。
送信を終えて澪にスマホを返す、ショック状態から復帰したたまねが一言。
「お姉ちゃんも仲直りできて良かったね」
さすがだ、さすが私の妹だ、その一言が出てくるのは強い証拠だ。澪も妹の言葉に若干引いていた。
その後は妹が旦那を言い訳にして帰ると言い出し、私はちっぽけな優越感に浸ってその背中を見送ったのだった。
✳︎
「あの子多分今日は帰ってこないわよ」
「でしょうね、たまねちゃんが帰そうとしないでしょ」
「あんたが友達で良かったわ」
「その褒められ方は嬉しくないな〜結果的にたまねちゃんをはめたわけだからきっと私は嫌われただろうしね〜」
「元から嫌われてるから気にしても無駄」
「だと思った」
今日は久しぶりにあかりと二人っきりだ、ここ最近はつぐも君も混じっていたので気兼ねなく寛ぐことができる、良きかな良きかな。
友人は私が撮った写真をひたすら眺めながら呑んでいた、手元にはバターピーナッツとうす塩味のポテトチップス、私が持ってきたお土産には手を付けようとすらしない。
あかりから念願だったつぐも君の連絡先はゲットすることができた、それは良い、けれど私は別の要求も考えていたので、これはこれで面白くないと感じていた。
たまねちゃんが帰ってから片時もスマホの画面から目を離そうとしない、そんな友人に私はこう言った。
「私ね〜あかりが折れないなら別の要求も考えていたんだ〜」
ずっと欲しかったプレゼントを買ってもらったように微笑むあかりが「試しに言ってみて」と答えた。
「私のこと抱いてもらおうって考えてたんだ〜」
「…………」
あかりが私に視線を寄越してきた、その瞬間"勝った"と悦んだ。
「あかりは女の子抱いたことある?」
「あるわけないでしょ、あんた何言ってんの?」
「私も女の子に抱かれたことないんだよね〜」
「はあ?じゃあなに、私があんたを抱けばこの写真を貰えていたっていうの?」
「うん」
「正気?」
「だって、こうでもしないとあかりは私を見てくれないでしょ。最近はつぐも君のことばっかで全然こっちを見てくれないからさ〜」
「…………」
「私のことが気持ち悪い?でもね、友達でも嫉妬することはあるんだよ〜」
「そうね、そういう事を言われるのは確かに気持ちが悪いわ」
「ほんと正直〜。でもさ、あかりもある程度一線超えた方がいいと思うよ、つぐも君と仲が上手くいってないんでしょ〜?それってあかりの人に対する潔癖な所が原因だと思うな〜」
「だからあんたで練習しろって?」
「そ」
「…………………」
「……っ」
あかりの私を見る目が明らかに変わった。
あれは"吟味"している目だ、あるいは"値踏み"、男が女に向ける"劣情"とでも言うべきもの。
あかりが、果たして私が抱く存在たる人間か見極めようとしている、もはやそれは友人に向けるものではない。私がそうさせたのだ、その事実がいくらかの興奮を与えた。
(え、え、え、本当に…?これでいいよって言われたら私どうしたらいいんだろ)
そういえば、あかりがベッドに上がった時の事は知らない。リードするのかされるのか、苛烈な彼女のことだからフラットという事はまずないだろう。興奮した彼女がSにもMにもなれるところが容易に想像できた。
(え〜〜〜!わ、私がされるのかな…それともあかりが甘えてくるのかな…)
その事を想像しただけで体が段々と火照ってきた、彼女がじいっと見てくるだけでその見られた部分が熱を帯びてくるよう。
たっぷりと時間をかけた後、全身をくまなく愛撫してほしいと思えるような薄い唇が開いた。
「無理ね」
「なんにゃそれ〜〜〜!散々人を期待させておいてそれはないよ〜〜〜!」
彼女らしい、はっきりとした意見が出てきた。
「確かに女同士で寝るのもありかなとは思ったけど、あんた面倒臭そうなんだもん。一回で終わるならまだしも気に入ったら粘着するでしょ」
「……………それはやってみないと分からないんじゃない?」
「よく言う、男を監視したいっていう女が一回で済むわけないでしょ」
「確かに、それは言えてる」
「あんたを抱くぐらいなら妹に犯された方がまだマシ」
「ほんとっ!ほんと失礼〜〜〜!そういう所だからねあかりが人を寄せ付けない原因って!」
「でもあんたは友達付き合いを続けてくれるでしょ?だからあんたとはそういう面倒臭い関係になりたくないの、分かった?」
「分かった、二度こんなこと言わない」
「ほんとチョロい」
いちいち余計な事を言うあかりに掴みかかるが、物の見事に返り討ちにあってしまった。
✳︎
仕事終わりに妹からメッセージが入り、「今から呑みに行かない?」と誘われたので繁華街へ一緒に繰り出してから随分と経った。
妹と肩を並べて呑むお酒が体に染みる、長年連れ添った夫婦のようにのんびりとした時間を過ごし、呑み比べをして、これはいいね、あっちの方が良かったと、取り留めのない言葉を交わす。
その間、妹は何枚も写真を撮っていた。食べ物の写真かと思いきや、何枚かは俺も映っていた。
妹のスマホを見ながらまたちびり。
「俺の写真、いるの?」
「いるよ〜思い出作りだから」
「なら俺もたまねの写真いい?」
「いいよー」
カメラを内側に向け、肩を寄せ合って一枚パシャリ。
俺はカメラ目線だったので気付かなかったけど、妹は俺の頬っぺたに唇を寄せていた。
「さすがに恥ずかしいよこれ〜」
「じゃあ消す?」
「消さない、家宝にします」
「ならもっとお洒落してくれば良かったね」
「いやそんな事ないよ、十分可愛いから」
店内の薄暗さもあって良くは見えないが、確かに今日の妹は可愛いかった。というかちょっと露出が多いように思う。
「でも、こういう所に来る時はあんまりそういう服装はしないでね」
「…うん、お兄ちゃんに恥じかかせないようにって頑張ったつもりなんだけど…」
「ああ!いやね、他の人に見られるかな〜って思ったからさ、ここにいる人って皆んな酔ってるし、ね?似合ってないとかそういう意味じゃないから!」
「…うん」
「あ、ここじゃなくて違う店に行く?個室がある所にさ。──ほら、たまねが行きたい所選んで!」
「…分かった」
ああ、ああ、余計な事を言ってしまった、たまねがしゅんとしてしまった。
俺から受け取ったスマホで付近のお店を調べている、グラスを空けたところで「ここがいい」と見せてきた。
「ここホテルじゃん…」しかもこの煌びやかさはラブホだよね...
「だって個室がいいって言うから。お酒とおつまみ買って二人で朝まで呑むのもいいかな〜って。駄目?」
「兄妹でラブホって…」
「気にし過ぎ、私の友達もやってるよ」
「そうなの?」
「うん、こっちの方がハシゴするより安上がりだってさ。それに眠たくなったらそのまま寝られるし、お店ならそうはいかないでしょ?」
「あ、確かにね、それはいいね」
「うん、行こう!」
その後、会計を済ませて店を出た。繁華街の中にあったスーパーで酒やらつまみやら買って最寄りのホテルへ向かい、妹と朝まで呑み明かした。
✳︎
早朝、玄関から開く鍵の音で目が覚めた。
ゆっくりと廊下を歩く音はお忍びだ、弟が朝帰りしてきたのだ。
ちょっと驚かせてやろうと勢いよく扉を開くと、案の定弟は肩をびくりと震わせていた。
「──びっくりした。ごめん、起こした?」
「別にいいわよ。お帰り、たまねと朝まで?」
「うん」
弟は私を見ようとせず、冷蔵庫から買い置きの水を取り出している。
「昨日は悪かったわね、八つ当たりして」
ペットボトルに口を付けていた弟が危うく溢しかけていた。
「──……いいよ、俺もちょっとイライラしてたから」
「早いとこ引っ越ししましょうか、お互いの為になってないわこの家。私ね、こんなに長い間他人と暮らすのが久しぶりだったからあんたにイライラしてたのよ」
「ほんと」と弟が口を挟み、「そういう所卑怯だよね〜」と言ってきた。
「何が?」
「謝る時は全力って、卑怯だよ、こっち何も言えなくなっちゃうじゃん」
減らず口を叩いている割には目元が潤んでいる、それに気付いた私はほっと胸が暖かくなった。
弟はもう視線を逸らさず、私のことをきちんと見ていた。
「そんな事言われても知らないわ、慣れなさい」
「はいはい。──今度一緒に呑みに行く?良さそうな店があったからさ」
「どうせたまねと行った所なんでしょ?」
「違うよ、たまねは好きそうな店じゃなくて、ああ、姉ちゃんとなら楽しめそうだなって思った所」
「いいわよ、あんたが出してくれるんなら」
「いいよ、その機嫌の良さが長続きするんなら」
「何それ。──なら今日行きましょうか、あんたの財布空にしてやるわ」
「お、いいね〜一旦帰ってきた甲斐があったよ」
(それって……)
もしかしなくても、私を気にかけてくれていたのだろう、だから直接出社せずに...
その後弟は軽くシャワーを浴びただけでそのまま行ってしまった。少しくらい横になればと声をかけるが、そんなことしたら休みたくなるからいい、と言っていた。変な所だけ真面目である。
仕事も恙無く終わり、待ち合わせ場所の駅前で弟を待つ。
今日は週末、明日から休みの人が肩を並べて歩く姿が多くあった、結構な賑わいだ。
駅前広場には気が早いクリスマスツリーが飾られ、各お店の名前が書かれたオーナメントもあった。
何もツリーの上で角逐しなくとも思うが、まあ、売り上げの為なら新しい文化を作ることも厭わない社会だ、無理もないのだろう。
それからスマホを見たり道行く人を眺めたりしながら時間を潰し、待ち合わせの時間になっても弟は現れず、さらに時間が流れていく。
(残業かしら。メッセージぐらい送ってくれても…)
予定より数十分は過ぎている。辺りをきょろきょろとすると、いた、クリスマスツリーの向こう側に弟が立っているではないか。
私から弟の方へ向かう。向こうが私に気付き、罰の悪そうな顔になった。
「何してんのよこんな所で、いるなら声をかけなさいよ」
「いやだって〜姉ちゃん気合い入り過ぎじゃない?何その格好」
「ふ、普通よこれぐらい。何で声かけないの?」
「姉ちゃんの隣に立つ勇気がなかった。自分を奮い立たせてたら姉ちゃんに見つかった」
弟の馬鹿みたいな冗談に笑ってしまい、待たされていた苛立ちもあっという間に霧散した。
──まあ、たまねの件があったから、確かに気合いを入れたのは事実である。
「で、連れてってくれるんでしょ?何処にあるのよ、案内しなさい」
「三歩くらい離れてくれる?」
「いい加減にしなさい。──ほら、これであんたもちょっとは自信が付いたでしょ」
全く情けない弟だ、私から手を繋いでやった。
「あ〜…あいつに彼女が作り難くなるぞって言われた意味が良く分かった気がする…」
「お生憎様ね、私はあんたの彼女じゃない」
「それもそうだ。──こっちこっち」
その繋いだ手を弟が引っ張った。
──ほんのりと暖かい弟の手はしっかりと握られていた。
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