第7話
「ええ?姉と同棲?」
あの旅行から帰ってきて一週間ばかり過ぎた頃、季節は秋を半ばにして平均気温を下げさせ街の人々の衣服を変えさせていた。
ここは地元の居酒屋だ、昨今室内の完全禁煙が進み煙草が吸えなくなっている中で、『電子なら可』という個人経営のお店に友人と共に来ていた。
その友人が電子煙草に口を付けながら俺の話しを聞いている。
「何でそうなるの?」
「向こうからそう提案された、一人暮らしは寂しいからあんたもどうだってさ」
「するのか?」
「まあ一応ね」
「それは大丈夫なのか?彼女が作り難くなりそうな気しかしないけど」
煙草を吸い終えた友人がスティックを灰皿に入れ、日本酒で喉を潤している。
「そういうお前はどうなんだ?前にアプリで知り合った人がいるって言ってただろ」
「それなーバツイチで子持ちの人でさ、一回会っただけなのに今度両親に紹介したいって言われた」
「そんな事ってあるの?マジで?」
「俺もびっくりしたわすぐ逃げたけど」
友人がまたスティックを取り出しカートリッジにセットしている、本人曰く紙巻き煙草と違って味が薄いから何本でも吸ってしまうんだとか。
「それよりお前だよ、彼女はどうすんの?」
「彼女ね〜…」
「早く作って結婚しろって。俺の周りで結婚していないの俺とお前だけだぞ」
「まあ〜ね〜結婚ね〜」
「お前はいいよまだ顔は良いから、俺なんか見てみろほら!「見飽きたわ」そういう意味じゃねえわ!」
「それ言うならお前こそ出世してんじゃん、金はあるんだろ?」
「男は金じゃねえよ」
「顔でもねえよ」
「だったら何なんだよ、何で俺たち結婚できないんだよ」
「知らねえよだから結婚できないんだよ」
ランプが灯ったカートリッジを手にし、友人が一口吸い、だからこいつは良い奴なんだよと思わせることを言ってくれた。
「でも良かったな、仲が悪かった家族と仲直りできて。身内と仲良くするのは良いことだよ」
「まあな、今はそれで頭がいっぱいって感じ」
注文していた蟹味噌が届き、割り箸の先にちょんと付けて舐める、それから日本酒で流し舌鼓をうった。
「姉の写真持ってないのか?どんな人か見たい」
「いいよ、これ」
この間の旅行写真を見せてやった。
すげー美人!とか騒ぐのかと思いきや、友人は真面目な顔をしてこう言った。
「…お前同棲は止めとけって、こんな人が傍にいたら一生彼女ができないぞ」
◇
「かにみそ〜」
「ちゃんと言いなさい」
「た、ただいま戻りました…」
「はいお帰り」
ゆ、油断していた...ここ最近姉の帰りが遅いので誰もいないだろうとふざけた言い方をしてしまった。
その姉はちょうどお風呂上がりでレストルームから出てきたところだった、髪がしっとりと濡れている。
「今日は早いね」
「やっとひと段落したからね〜。どこに行っていたの?」
「地元で呑んできた」
「いいわね〜こっちは忙しいってのにまあ呑気で」
「大丈夫、お土産はこのお腹に詰めてきたから」
「だったら早く吐き出せ」
姉と一緒にリビングへ入る。姉は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し口を付け、火照った体を冷やしていた。
その上下に動く綺麗な喉に、何故だか視線を奪われてしまった。
「ねえ、結婚とか考えたことある?」
「──なに急に、結婚?」
質問が唐突過ぎたのか、危うく口に含んでいた水を溢しかけていた。
「そう、地元の連れとそういう話になってさ、いやいつもしてるんだけど、姉ちゃんみたいな綺麗な人と一緒に暮らしてたらいつまで経っても彼女が出来ないぞって言われた」
「そりゃ災難ね「いや姉ちゃんのことだからね?「結婚ね〜…」
乱暴に髪の毛を拭きながら椅子に座り、何も無い天井を見上げている。
「まだ先かしらね〜今は別に困ってないし」
「そういう話はないの?紹介とかさ」
「あるわよ」
「でしょうね」
「そういうあんたはどうなの?浮いた話を一つも聞かないんだけど」
俺も姉ちゃんの前に腰を下ろし、喉が渇いていたのでテーブルに置かれていたミネラルウォーターに手を伸ばした。
ごくりと飲む、酔った体に心地良い冷たさが喉を通っていった。
「前したじゃん、津島さんにキスした話」
「それは浮いた話じゃなくて沈む話でしょ」
「確かに」
「というか勝手に人様の物を飲むな、金払え」
「いいじゃんこれくらい、減るもんじゃないし「減るわ!」
姉が俺の手からミネラルウォーターを取り上げた。
「ところでたまねとはどうなの?仲良くやってる?」
「うん、明日も会うよ。三人でご飯でも行こうよって誘ってるんだけどさ、たまねが別にお姉ちゃんはいいって言うから」
「私も別にいいわ、二人で行ってきなさい」
「あれ、本当に仲が良くないの?」
「会う時は会うけど、別に会いに行くような相手じゃないってだけ、気にしなくていいから」
「あっそう…ならいいけど」
俺から奪い返したミネラルウォーターに口を付けながら姉がスマホを弄り始め、とくに話すこともなくなったので風呂場へ向かった。
◇
翌る日、妹との待ち合わせ場所である都市一番の駅にやって来ていた。
最近(と言っても数年前)開発されてさらに大きくなったその駅は、隣接する商業ビルを繋ぐ空中通路が設置されている。そこを買い物客や通勤客がひっきりなしに歩いていた。
その通路の真ん中に辺りに目印になり易い時計塔があるらしく、そこを目指して歩いていると、
(ん?)
妹が既に立って待っていた、待ち合わせの時間までまだまだあるのに。
「ごめん待った?」
「──わっ」
その妹はスマホに視線を落としながら、前へ後ろへ体を揺らしながら弄っており、声をかけるとぴくりと反応してみせた。
「良く見つけられたね、こんなに沢山人がいるのに」
「そりゃ分かるよ。どれくらい待った?」
「ううん、そんなにだから気にしなくていいよ」
キャップを被ってセミロングの髪をその中へ押し込んでいる、ロング丈のシャツに下はスキニーパンツにスニーカー、側から見たら男の子に見えなくもない。
妹がにかっと笑って嬉しそうに言った。
「やっと一日遊べるね、今日まで仕事帰りに会ってたから物足りなかったよ」
「うん。ねえ、この駅見て回っていい?新しくなってから俺一度も見て回ったことがなかったからさ」
「いいよー良く買い物に来るから案内してあげる」
「友達と来るの?」
「そう、あと旦那と良く来る。色々あるから退屈しないし暇潰しにもいいんだよね〜」
「ウィンドウショッピングってしたことない、目的なかったらそもそも外も出歩かないし」
「いつもは何してるの?」
「最近はウォーキングしてるかな〜後は良く呑んでるよ」
肩を並べて歩き出した妹が俺の肩を揺らしてきた。
「今度連れてってよ!一緒に呑みに行こ!」
「たまねも呑めるの?」
妹が格好良くサムズアップをしながら「うちにも酒があるぜ!」と言った。
「マジ?いいね〜!でも旦那さんに悪いから外で呑みに行きたいね」
「うんうん、お兄ちゃんとなら何処でもいいよ」
「たまねとならコンビニ前でも楽しめそう」
「それ友達とやったことあるけどすーぐお金飛んじゃうよ」
「そうなの?──ああ、コンビニ高い割には量少ないもんね、確かにすぐ飛びそう」
その後、妹とのんびり会話をしながらぶらぶらと練り歩いた。
✳︎
澪:つぐも君はうちにいるの?
あかり:いない、妹と出かけた
澪:たまねちゃんに取られてやんの
あかり:友達の縁切るわよ
澪:そこまでなの?!
メッセージですら器用に突っ込んでくる。
澪:ちょうど良い、今からそっちに行ってもいい?私と取引きしようよ
(取引き?)
およそ穏やかな言葉ではない澪のメッセージに興味を引かれてしまった私は、こう返事を返した。
あかり:それは何の取引きなの?
澪:お互い得をする取引きさ
あかり:いいよ、うちに来て
それから一時間もせずに澪が私の家にやって来た。今日もその両手には紙袋があった。
「ねえあんたさ、食べ切れなくて賞味期限が切れたお土産を処分するこっちの身にもなってくれない?」
来る度来る度お土産を投下していくものだから、戸棚の中にはいつも物が溢れ返っている。弟が良く晩酌のお供にしているけれど、それでも供給の方が上回っていた。
「しょうがないじゃん、こっちだって食べ切れなくて困ってるんだから」
「それファンからのプレゼントだったりするの?押し付けるの止めてくれない?」
「私だって心苦しいんだよ〜食べ物はフリマでも捌けないから腐らせるわけにもいかないし」
「だからって──まあいいわ、で、取引きって?」
澪が鞄の中からスマホを取り出し操作し始める。何を見せてくれるのかと期待するが、まずは向こうの要求を告げてきた。
「私が欲しいのはずばり!つぐも君の連絡先!「駄目、この取引きは中止」いや断るの早!」
そう、こいつは弟の連絡先を知らないのだ。それなのに弟に手を出した、遊んでいるとしか思えない最たる理由だった。
「これを見ても同じ事が言えるのかな〜」
勿体ぶるように澪がある一枚の写真を遠くから見せてきた、それは男女が並んで眠っているものであり、余程仲が良いのか手を繋ぎ、額まで合わせているものだった。
「それに何の価値があるというの?何かの映画のスクショじゃない」
「…いやなんか凄い腹立つな〜」
「はあ?」
「これ、あかりとつぐも君だから」
「?!?!」
「映画のようなワンシーンを再現したあかりとつぐも君の写真だからねこれ」
「え──ちょ、はあ?こんなのいつ撮ったの?」
「ほら、この間三人で呑んで私が泊まった日があったでしょ?その次の日に二人がこうして眠ってたから、何か腹立ってネタにしてやろうと思って撮ったの」
「良く見せなさい!遠かったらちゃんと見えないでしょ!」
「駄目です〜連絡先と交換です〜」
「ぐっ…」
そういう事、あの写真を渡してほしかったら連絡先を寄越せと...
断腸の思いで断った。
「じゃあいい、連絡先は教えない」
「──ええええっ?!これ欲しくならないの?!奇跡の写真だよ?!世界でたった一枚の写真なんだよ?!どんなに仲良しなカップルだってこうはならないよ!!」
「いい、あんたに教えるぐらいならいらないわ」
「えええ……うっそ〜………信じられない」
本当は喉から手が出るほど欲しい。けれどこの女から弟を守るためには仕方がない。
「というか、連絡先が欲しいなら本人に直接言えばいいじゃない、何で私なの?」
「え、だってお互いに交換したら監視できなくなっちゃうから」
「は?」
「連絡先を登録したら他のSNSにも反映されるでしょ?私は変な女が寄り付かないかつぐも君を監視したいの」
「うわあ…」
だったら尚のこと教えられない。
「本当にいらない?」
「いらない、何なら消してくれても構わないわ」
「あっそ、じゃあ消そ、こんなの持ってても仕方ないし──ああ!やっぱり嘘つけえ!欲しいんじゃんか!──この手を離せええ!」
無意識のうちに手が伸びてしまい、暫くの間澪のスマホを取り合った。
◇
──欲しかったらいつでも言ってね〜。
そう捨て台詞を吐いて澪はこの家を後にしていた。
私は家で一人悶々として過ごしていた、せっかくの休みなのに全く気が休まらない。
(何よあの写真…あんなもの見せるんじゃないわよ〜)
凄い写真だった、確かにあれは奇跡と呼べるものかもしれない。
私があの弟とあんな...手を繋いで頭まで合わせて...狭いベッドの上で喧嘩せず、寄り添うように眠っていたなんて...確かにどんなカップルでも再現は難しかろう。
欲しい、何とかして手に入れたい。
(忍び込むのは…いや澪のことだからよしんばスマホをゲットできてもパスコードが…つぐもを使えばあるいは…いやあれは見せたくない、私だけの写真にしたいわ)
煩悩にかられた私は澪にメッセージを送った。
あかり:取引きを検討したいからさっきの写真を送ってくれない?
澪:いいよー
「っ!」
期待に胸が膨らむが、
澪:[画像を送信しました]
「どこをズームアップしてるのこれじゃ何も分からないじゃない!」
駄目だ、手玉に取られている。
(落ち着きなさい私…これ以上墓穴を掘るわけにはいかないわ…)
ゆっくりと深呼吸をする、二度三度、正体不明の焦燥感が徐々に薄まり、いかに自分があの写真に束縛されていたのか、俯瞰できるようになってきた。
落ち着きを取り戻した私はある事を閃き、弟にメッセージを送った。
✳︎
姉:映画のエキストラの話が来てるんだけど、あんた出てみる気はない?
(は?)
「どうしたの?」
「何でもない、スパムメールだった」
馬鹿げたメッセージを確認した俺は返信せずスマホをポケットに戻し、フリーになった手をもう一度妹の手に重ねた。
妹はそれを何でもないように受け止め、けれどしっかりと握り返してくれる。
気が付いたら手を繋いでいた、子供の頃のように。
新しい駅を見て回るのも飽きた俺たちは街へ繰り出していた、行く当てなんかない、ただ妹と一緒にぶらぶらと歩き回っていた。
それだけで楽しい。歩き回っている間、俺と妹は今日までの日々を話し合っていた。
中学の時、高校の時、専門校の時、私はこうしてたよ、ああしてたよ、大学で初恋の人と出会ったよと、すれ違いで生まれた隙間を埋めるように、俺と妹との間に生まれた隙間にお互いの思い出を詰め込み合った。
今は妹の旦那さんの話をしている。
「紹介だよ、こんな人がいるからどう?って言われて」
「会社の人?」
「そ。それから何度か会っていくうちに向こうからメッセージで付き合わない?って言われて、私がいいよって返事して、それから会う機会も増えてね」
「へえ〜メッセージで告白か〜」
「会った時にも言ってくれたけどね、いきなり直接言うのは恥ずかしかったんだって、凄い照れてた」
「そういうのもありなんだね」
「うん。それでね──」
線路の高架下を歩く、道は人で混雑している。
店のウィンドウガラスに映った俺たちの姿がふと目に入ってきた。
俺も妹ももう大人である。こうして手を繋ぎ合う姿は恋人同士にしか見えなかった。
後ろめたさが勝った、何だか妹の旦那さんに悪いような気がして、俺の方からそっと手を離す。
「向こうは家族付き合いが苦手だからって………」
話しの途中だった妹が言葉を止め、じっと俺の顔を見つめてきた。突然手を離されたから戸惑っているのだ、その潤んだ瞳と悲しそうに小さく開く口が「どうして?」と言外に語っていた。
慌てた。
「──い、いや、さすがにこの歳で手を繋ぐのはまずいかと思ってさ」
「そんな事ないよ、誰も気にしてないよ」
「ほら、見てみなよ、手を繋ぐと恋人同士にしか見えないでしょ?」
もう一度手を繋ぎ、店のウィンドウガラスを指差す。
それを見た妹がこちらに顔を戻した時にはもう、悲しそうにしていなかった。
「ただの兄妹にしか見えないよ」
「そう…?」
「ね」と、妹が俺に呼びかける。
「二度とこんな事しないでね?さすがに私でも怒るよ?」
「分かった、二度としない」
「うん。でね……あれ、どこまで話したっけ?」
「旦那さんが家族付き合いが苦手って話」
「そうそう、だから私たち式も挙げていないんだ、いずれするつもりだけど披露宴はしないつもりだし」
「最近そういうの多いよね」
「うん、ご祝儀あてにしているみたいでこっちも気を遣うじゃん?だからね──」
もうすれ違いは勘弁だ。
何事もなかったようにまたお喋りに興じ、喉が渇くまで俺たちは再び歩き続けた。
一度離したからなのか、俺の手を握る妹の手は少しだけ力強かった。
◇
「ただいま戻りました」
和みに和んだこの一日。悪口を言い合うわけでもなく、冗談で煙に巻くわけでもなく、皮肉で殴り合うわけでもなかった妹との会話は心身共にリラックスすることができた。
姉から小言を貰いたくなかった俺はきちんとした言葉で挨拶をする、けれどその姉から返事が返ってこなかった。きっと外出しているのだろう。
「真面目に挨拶して損した」
「聞こえてるわよ」
いたんかーい。
姉はキッチンに立っており、コーヒーを淹れてるところだった。「お帰り」と言われ、「あんたも飲む?」と訊かれたので「いただきます」と答えた。
「その丁寧な言い方気持ち悪いから止めてくれない?」
「…………」
「何よ」
帰ったらこれだ、また妹に会いたくなってきた、せっかくストレスが霧散したのに霧散したストレスが一気に戻ってきた気分だった。
「別に」
「………」
姉からの追撃もなく、俺は一旦洗面所へ行って手洗いうがいを済ませる。それから部屋着に着替えてリビングへ戻った。
淹れたてのコーヒーだけがテーブルに置かれ、淹れた本人は寝室へ引っ込んでいた。
(あれ…何か忘れてるような…──あ)
そうだ、姉のせいで戻ってきたストレスをもう一度解消してもらおうと、妹に明日も会えないかとメッセージを送る。
妹:(p_-)
妹:(p_-)
妹:(p_-)
このスタンプ三連打はマイルールなの?
妹:ごめん
妹:明日は遅番だから会えない
つぐも:分かった、また今度ね
妹:明後日なら会えるよ
つぐも:明後日は俺が仕事で遅くなりそうだから会えないと思う
それからお互いごめんねごめんねと応酬し合い、そうこうしているうちに何かを思い出さなければいけないことを忘れてしまった。
✳︎
「良かったね、お兄さんと仲直りできて」
「──あ、うん。先に寝てていいよ、おやすみ」
「おやすみ」
今日、一日だけで百枚近く写真を撮った、私の兄と。
夫が寝室へ入り、私はまたフォトフォルダを一から順に眺め始める。
──お兄ちゃんなんかだいっ嫌い!!
母親も姉も、私が悪かったわけではないと何度も言った。本人が肺の悪さを自覚せず、いや、気付かず日々を過ごしていたのも原因だったと言った。
違う、そうじゃない、原因は私にある。あの日あんな事をしなければ、少なくともすれ違うような事にならなかったはずだ。
一つ違いの兄が先に進学し、その跡を追うように私が進学し、中学でも同じように過ごすのだろうと、そして高校へ行けばさすがに距離が空くのかなと妄想し、大学へ行って大人の付き合いに変わってまた仲良くできるのかなと──そう、思った日々は全て私が原因となってやって来なかった。
「…………」
足りなかった、兄と作りたかった思い出が足りなかった。
自分でも、この歳にもなって兄に固執するのはどうかと思う。
けれど、もう兄との関係は修復できないのだろうと、諦めかけていたところにチャンスがやって来た。
久しぶりに、本当に久しぶりに会った兄は、兄だった。何も変わっていなかった、私を見る目はあの日と同じ、私が突き飛ばしたあの日から何も変わっていなかった。
ああ、そうか、私が逃げていただけで兄は怒ってなどいなかったんだと、分かった。
そしてすぐ、私は猛烈に後悔した、逃げなければやって来た私の青春の日々、いるべき兄がいず、ずっと自分を責めていたあの学生の日々。
「……………」
もう自分を誤魔化す必要は無い、兄の影を追い求める必要もなくなった、ただこの胸にあるのは"後悔"と"払拭"だけ。
「……………」
足りない。思い出が足りない。
──いや、違う。
「……………」
フォトフォルダを閉じ、メッセージアプリをタップして兄へメッセージを送った。
たまね:ごめんね、今日は直接言えなくて
すぐに既読が付いたことに安心した、兄もメッセージを眺めていた証拠だ。
つぐも:うん、今度会った時にでも話してほしい
たまね:怒らない?
つぐも:怒らないよ
たまね:また遊んでくれる?
つぐも:うん
たまね:分かった、おやすみ
つぐも:おやすみ
ほうと息を吐く、胸の中が何かに満たされているのが良く分かった。
これだよ、これ。
兄はいとも簡単に私を、あの人混みの中から、目立たない服装をしていたにも関わらず──見つけてくれた。
すぐに既読が付いたのも、私が傍にいなくても私のことを考えてくれている証拠だ。
すぐに私を見つけてくれたのも、私を捜していた証拠だ。
見えているものだけに縛られるのはもうよそう、それではあの時と変わらない、本人が目の前にいても私は私に縛られたままである。
「…………ふふ、嬉しいなー」
それは私が過ごしたあの日々と同じ、だから、
兄も同じ日々を過ごしたら──もっと私の事を考えてくれるはず。
これだ。