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第6話

「もう絶対運転しないから、とくに二人の前では絶対運転なんかしないんだから〜!」


 大変有名な漁港からここまで運転してくれた津島さんは、ご立腹な様子で腰に手を当てて俺たちに怒ってきた。

 俺と姉、道中ひたすら津島さんをイジり倒してしまったせいだ。

 到着した宿は海岸沿いにある小さな集落で、目の前には大きく湾曲した内海が広がっていた。

 ひっそりとした雰囲気に潮騒が心地良く、隠れた名所としてその名を馳せるのに十分な魅力を持った所だった。

 まだイジる俺たち。


「そう?あんたの運転とても楽しかったわよ」

 

「そうそう、下手なジェットコースターより怖かったですよ。いつ癇癪を起こして崖側にハンドルを切るか冷や冷やしましたもん」


「ねーあれは怖かったねー」


「夕日が綺麗って言った時だよねーあれ皮肉にしか聞こえなかったよねー」


「ふん、もういいよ、そういう心ない文句にはもう慣れましたー」


 旅館前の小さな駐車場でその大きな胸を逸らす津島さん。


「そうやっていちいち反応するからこっちもつい言いたくなるのよね〜」


「分かる〜津島さんって何言っても返してくれるからつい話しかけちゃうんだよね〜」


「分かる分かる〜この子ってほんとマメだからこっちも安心してしまうのよね〜男の子からモテる理由が良く分かるわ〜」


 ふん!と顔を逸らしていた津島さんが面白い反応を見せた。

 表情はとても怒っているのに耳まで真っ赤に染め上げ、口はたまねが見せたようにへの字になってもにょもにょさせていた。

 

「わた、私のこと、弄んでいるよね?二人息を合わせて褒めてくるの止めてくれる?さっきまで散々言ってたくせに何でそんな事するの?」


「バランス的な」

「バランス的な」


「何それ〜!!」


「そろそろ褒めておかないとヤバそう的な」

「そろそろ褒めておかないとヤバそう的な」


「阿吽の呼吸で馬鹿にしてこないで〜!!」


 旅館の入り口から割烹着姿の女将が現れ俺たちに挨拶をしてくれた。それから従業員の人たちが荷物を運び入れ、津島さんも旅館の中へ入って行った。

 俺も続こうとすると、姉に腕を取られた。


「ちょっと見て回りましょうよ、夕食まで時間もあるし」


「津島さんは?」


「男漁りでもするんじゃないの。あんたもいちいち反応しなくていいからね、嫉妬されてると思って行動がエスカレートするわ」


「そう〜?俺に嫉妬されて嬉しいもんなの?」


「嫉妬してくれるならアルマジロでもいいのよあの子は」


「悪口言い過ぎじゃない?」


「友達だからいいの」


 姉に腕を取られたまま俺たちは歩き出した。

 旅館の前を流れる小さな川があり、その川はここからでも見える山へと延びていた。

 その辺りを一緒に歩く。

 

(………っ)


 姉がさりげなく俺の腕を組んできたのでつい見上げてしまった。


「別にいいでしょこれくらい」


「まあ別に…」


 この見上げる角度だけは小さな頃から変わらない、少し斜め上に姉の顔があり、緩やかな孤を描いたまつ毛も見えていた。

 

(あと顔半分だけでも身長が伸びればと何度思ったことか)


 この体格にコンプレックスを抱き、実家にいた時はいよいよ話しかけることを難しくしていた。

 川を挟んだ所には使われていないコンクリート製の建物が並んでいた。古い看板にはペンキで『遊覧船』という文字が書かれており、その前には古くて小さなボートが停泊していた。

 その向かいの通りを一組みのカップルが歩いている、二人はお喋りに夢中になっておりこちらに気付いていなかった。

 

「ねえ、前に付き合ってた恋人ってどんな人だったの?」


 山手の方へ視線を向けていた姉がこちらに向き直った。


「それ、このタイミングで訊くの?」


「?」


「そうねえ〜…あんたより身長は高くて仕事にも精を出している人だったわ」


「ふ〜ん…」


 なら、姉がその人を見上げていたのか。少しだけ悔しい思いをした。

 姉が俺の心を見透かしたようにくすりと笑った。


「いや〜人のコンプレックス刺激するの楽しいわ〜」


「性格悪っ。津島さんと対して変わんないじゃん」


「だから友達付き合いが続いてんのよ」


 川の辺りを渡り終えると小さな橋が架けられていた。手すりもなく、そこを俺たちがゆっくりと渡っていく。


「その人と付き合い始めて何度か会っていくうちに、ああ、この人とはこれ以上仲は深まらないって思ってね、それから会う頻度も減っていったのよ」


「それで?」


「それで一月ぶりぐらいに会った時に向こうから別れを切り出されたのよ、それを私は快く引き受けた」


「だからたまねに捨てられるとか言われてたんだね」


「その人はその時付き合いがあった友人の紹介でね、別れた後にその友人から連絡があったのよ、私にいつ捨てられるかびくびくしていたって、だから自分から別れを切り出しんだって」


 そう話す姉は特段落ち込んだ様子はなく、ただ淡々としていた。


「そりゃ姉ちゃんは普段からクールだからね〜褒めても反応しないし、向こうもやり難かったんじゃない?」


「ちょっとぐらい慰めなさいよ」


「全然落ち込んでないじゃん」


「こういう時は慰めの言葉をかけた方が相手も喜ぶものなのよ」


「嘘こけ、慰めたら慰めたで歳上舐めんなって怒ってたでしょ」


 向かいの宿泊する旅館の明かりが俺たちを照らしている、だから姉の無邪気に笑う子供っぽい顔が良く見えた。


「良く分かってんじゃない。あんただけよ、私の事を良く理解しているのは」



 宿泊する部屋は何と驚いたことに八畳一間の和室だった。

 そしてさらに驚いたことに、姿を消していると思っていた津島さんが当たり前のようにいた。


「お帰り〜」

 

 丈の短いワンピース姿ではなく、前に俺の体を診てもらった時と同じ部屋着姿になっていた。その津島さんはお茶請けをぽりぽりと食べながらスマホを弄っていた。


「男漁りはもう終わったの?」


「うん、この旅館全然いなかったから」


(やっぱり行ってたんだ)


 姉が津島さんの近くに座り、俺は少し離れた位置に腰を下ろした。津島さんがスマホを弄りながら「旅館の人に椅子持ってきてもらうように言ってるから〜」と言ってきた。


「椅子?」


「つぐも君用に、椅子の方が腰の負担も軽くなるから」


「ああ…ありがとうございます」


「いえいえ」


 津島さんはすっかり寛ぎモードだ、姉も「覗いたら承知しない」と言いながら部屋着を持ってレストルームに入り、割と時間をかけずにすぐ出てきた。


「着る時はあんなに時間かけてたのに」


「ただ脱ぐだけだから時間なんてかからないわよ」


 部屋着と言ってもストレッチパンツにお揃いのジャージだ、今からジョギングをするセレブみたいな感じだった。

 本当に持って来てくれた椅子を有り難く使わせてもらい、姉と津島さんは二人スマホを弄りながらお喋りをしている。

 ポーンと俺のスマホにメッセージが入った。


妹:もう着いた?


つぐも:着いた、今から温泉入ってご飯食べる


妹:( *`ω´)


妹:( *`ω´)


妹:( *`ω´)


妹:いいな〜


つぐも:明日の夕方には帰るから、その時にお土産渡すよ


妹:ありがとう、楽しみにしてるね


(あ〜…和む…)


 姉と違って妹は気性も穏やか、悪口や皮肉なんかとは無縁でゆったりと会話ができる相手だった。

 子供の頃はいつも一緒だった。


つぐも:今何してるの?


妹:晩御飯作り、旦那は今日も仕事だから


つぐも:たまねはどんな仕事してるの?


妹:ネイルサロンで働いてる、そこでチーフやってるよ〜


「チーフって何?」


 と、何の説明もせずに姉に尋ねるとすぐに答えが返ってきた。


「リーダーみたいなもん」


「たまね凄えな、というか俺の姉妹どうなってんの…」


「あんたが怠けてるだけでしょ」


 姉の暴言は無視してメッセージを打つ。


つぐも:凄いね、立派じゃん


妹:そんな大層なものじゃないよ、ただ皆んなと一緒に仕事してるだけ


 さらにメッセージを打とうとすると津島さんにくいっと腕を取られた。


「こら、せっかく泊まりに来てるのにスマホばっかり弄って〜」


「いやさっき二人も弄ってたでしょ」


「今から温泉に行くよ〜!ほら準備して!」


 妹に素早くメッセージを送信し、言われた通り入浴セットと部屋に置いてあった浴衣を持って二人の跡に続いた。

 勿論混浴ではない、二人とは露天風呂があるフロアの入り口で別れ、俺は一人男湯へ向かった。

 脱衣所に入ると、ちょうど上がってきたらしい男性数人組みと入れ違いになった。


(ラッキー)


 井草で組まれたカゴにぽいぽい衣服を入れ、自宅から持ってきた垢落とし(ボディタオルのこと、我が家では垢落としと言う)を持って湯煙で白く濁る引き戸を開けた。

 案の定、他の宿泊客はおらず俺一人だった。


「ラッキー」


 内湯は一つ、さらに扉の向こうは塀に囲われた露天風呂があった。

 さささと体を洗って内湯に入る。


「あ゛〜〜〜…一人で入っても全然楽しくない〜〜〜…」


 普段、旅行へ行く時は地元の友達をいつも誘っている、だからお風呂もそいつと一緒だ。

 けれど今日は姉とそのご友人である、どうしたって一緒にお風呂には入れなかった。


(さっきの男性たちはもう唾を付けられたんだろうか)


 ああだからお風呂に入ったのかと納得し、内湯をそこそこ堪能してお次は露天風呂へ向かった。

 潮騒が耳に届く良い場所である、周囲の明かりも少なく夜空に瞬く星もはっきりと望めた。


「上ろう…一人は寂しい」


 露天風呂から上がって脱衣所へ戻り、いそいそと着替えを済ませていると、川の辺りを散歩していた先程の男性が一人で入って来た。

 お互い無言で会釈し合い、男湯を出て自分たちの部屋へ戻った。



✳︎



(明日で終わりか〜嫌だな〜ずっと旅行していたいな〜)

 

 あかりのお風呂はいつも長い、きっと夕食の時間ギリギリまで入っているはずだ。

 私が以前、旅行先で揉め事を起こしてしまったせいで彼女からぱったりと誘われなくなった。たまには旅行に行きたいと思っていた矢先にそんな彼女からお誘いがあり、ついライブ配信中にも関わらず奇声を上げてしまった。

 

(どうせ私は保険だろうと思ってたけど…)


 つぐも君も一緒だった、というより私は単なるオマケだった。旅行当日まで不満に思っていたけれど、全然そんな事はなく、寧ろ今まで一番楽しい旅行になった。

 あの二人は良く似ている、違うのは性別と身長くらいなものだ。私をよく揶揄うし、怒らせるし、そしてたま〜に褒めてくる。


 ── あ、俺も同じ事考えてました。やっぱり気が合いますね〜。


 思い出しただけでも心がこそばゆい。

 それに彼は男の子だ、しかも歳下、こちらも揶揄い甲斐があるから楽しい。私が他の人と話をすると絶対にその事を尋ねてくるから、私のやらしい部分も満たされていた。

 大好きな友人とその弟に囲まれて、何から何まで私を満たしてくれる。最高だった。

 あかりを露天風呂に残して先に部屋に戻り、撮影した動画の編集をしているとつぐも君がひょっこりと戻ってきた。

 歳の割におぼこい顔、濡れた髪はぺたんとしており、幼い頃のあかりに良く似ていた。


「あれ、津島さんは早いんですね」


「うん、私そんなにお風呂好きじゃないから。あかりは長いよ〜」


 座卓から立ち上がり襖を開く、中から一組みの布団を敷いて彼に横になるよう声をかけた。


「俺のエリンギが役に立ちますかね」


 なんて、冗談を言っているくせに──。

 何をされるのか理解した彼が「あ!」と言って自分の鞄からスウェットパンツを取り出しレストルームに入った。

 そして、少しだけ頬を赤らめた彼に今度は私が揶揄った。


「別に私は見ても気にしないけどね〜立派な松茸を見たことあるから〜」


 そう言うと彼がさらに頬を赤くした。

 

「す、すみません変なこと言って…さすがに長時間座っていたので少しだけ痛みます…」


 私に下着を見られると思い、慌ててスウェットパンツに履き替えたのだ。こういう初心な所があるから面白い。

 男の子になったあかりを揶揄っているようだった。

 仰向けに寝転がった彼の足回りを触る。私も浴衣に着替えているので、まあ、胸のラインも良く分かることだろう、治療している間つぐも君はちらちらと私の胸を盗み見ていた。

 やっぱり揶揄いたくなる。


「今日のこと謝ってくれるなら触ってもいいよ〜」


 その言葉にまた彼がぼっと頬を染めた。


「な、何言ってるんですか…」


 そう言いつつ、目は期待に溢れて私の胸から視線を外そうとしない。


「はい、うつ伏せになってね〜、これでエリンギも隠せるね〜」


 さすがに言い過ぎたのか、彼が無言で私の太ももをぱしんと叩いた。

 あかりに似た背中が目の前にある、けれど彼女と違って彼は筋肉質だ。

 筋肉の張り具合を確かめながらゆっくりと解していく。


「結構張ってるね〜この痛みが原因で腰も痛くなったんだよ〜」


「そう…なんですね…」


 その後は足回りも解して終わり、彼に終わったことを告げると言葉が返ってこなかった。


「Zzz……」


 眠ってしまったらしい。


(ちょっとぐらい…悪戯しても…)


 あの日と同じようにそっと彼に寄り添う、彼の寝顔がすぐ目の前にあった。

 このまま唇を奪うのは面白くない。


「ふふ…今度は起きている時にしようね…」


 彼の小さな耳に自分の唇を這わせる、ぶるりと反応し、それが面白くて今度はゆっくりと甘噛みした。


「んっ……」


 嫌なのか、感じているのか、彼が眉を歪ませる。もっとしたくなる。そこでスパン!と入り口の襖が開けられた。


「あ〜良い湯だった。さて、澪、言い訳があるなら聞くわ」


「…………」


「よし、その全力で平伏する姿勢は認めるわ。──人の弟に手を出すなって言ったでしょうが!!」


「ごめんなさ〜〜〜い!!」


 あかりが遠慮なく私の頭を叩き、持っていたフェイスタオルにアルコール(そこまでするの?)をかけてつぐも君の耳を乱暴に拭った。

 

「…いた、いたたた…な、何…何すんの…」


「さっさと起きなさい、今から夕食を食べに行くわよ」


「あ、ああ…うん…あ、津島さん、ありがとうございました」

 

「それはどっちのお礼?」


 あかりにまた叩かれた。



✳︎



 凄く気持ちが良く、俺はあっという間に眠ってしまった。

 そしてお風呂上がりの姉に起こされ、三人揃って旅館の大広間へ向かっていた。

 傾斜がきつい階段を降りて一階に到着する、先を歩く浴衣姿の姉は他の宿泊客の目を奪っていた。


(湯煙美人だ)


 大広間はパーティションに区切られいくつものテーブルが置かれていた、俺たちの場所は入り口から一番近い所だ。

 その隣は老夫婦、さらにその隣は男性三人組みの人たちが既に席に着いていた。

 姉と津島さんが奥に座り、俺が入り口側に座った。


「姉ちゃんほんと綺麗だね、湯煙美人って言葉が似合うよ」


「ありがと」


 あれ?反応が返ってきたぞ?絶対無視られると思ったのに、丁寧な言い方をするんじゃなかった。


「私は?私はどう?」


「ああ綺麗です」


「もうなにその雑な言い方〜!さっきはあんなにしてあげたのに〜!」


 紛らわしい言い方に隣の老夫婦がぎょっと目を見開きこちらを見てきた。


「へ、変な言い方しないでください!」


「治療してあげてたんでしょ」


「そうだよ〜エリンギが立派な松茸になるようにね!」


「鍋料理の前にそんな下品なこと言わないでください」


「君が先に言い出したんでしょ!」


 二つ隣、入り口側に座る男性客からの視線が痛い。

 津島さんも綺麗である、お風呂上がりの髪がしっとりと濡れ、スタイルも相まって艶かしい。そんな二人を相手にしているんだ、そりゃ妬まれもするだろう。

 旅館の女将が俺たちのテーブルに訪れ、並べられた料理の説明をしてくれた。それから食前酒が配られ三人で乾杯、ついに旅行の醍醐味の一つでもある夕食が始まった。

 テーブルに置かれていたメニューに目を通し、俺は一つの地酒を注文した。


「姉ちゃんはどうする?」


「私はいいわ、昼間に呑んだし。舌が飽きて何を呑んでも不味く感じるから勿体ない」


「じゃあしょうがないね〜。津島さんは?」


「見せて見せて〜」と、津島さんが伸ばした手を姉がぱしんと叩いた。


「駄目、絶対駄目、お願いだから楽しい旅行を台無しにしないでちょうだい」


「津島さんって酒癖も悪いの?」


「心外〜!」


「この子、前にあんたにやった事何も覚えていないわよ」


「え〜〜〜………嘘でしょ、遊んだ記憶すら忘れるなんて。酷い」


 本当らしい、津島さんは罰が悪そうにしながらその手を引っ込めた。

 注文したお酒が届き、女将さんが(ます)の中に置かれたグラスに注いでくれる。居酒屋でもそうなのだが、この時かならずグラスから溢れ、桝からも溢れそうな程にお酒を注いでくれるのだ。何でも"おもてなし"を表しているらしく、日本特有の文化らしい。


「あんたってほんと…こんな美女が二人もいるのにお酒に目を奪われるだなんて…」


「ね〜臆病にも程があるよね〜」


「手出しもできない女の人より、呑んで旨いお酒に手を出すのは当たり前でしょ」


 姉が「おお〜言うね〜」と言い、


「あんたに手出しができる根性と責任を取る覚悟があるなら、私に手を出してくれてもいいのよ」


「そんな根性と覚悟があるならとっくに結婚できてるよ」


 確かにそりゃそうだ!と姉が笑い、俺は注文したお酒に口を付けた。


「──!これはヤバい…このお酒はヤバい…」


 強いお酒だ、それなのにほのかな米の甘味も酸味もさっと引いていくだけ、いくらでも呑めてしまう。

 出された料理とお酒を交互に口へ運び、グラスを空けただけなのにもう酔いが回っていた。


「このお酒ヤバいわ〜…旨すぎる…」


 呑まないと言った姉もお酒を注文していた。


「さっきはいらないって言ってたじゃん」


「いやあんたがあまりに旨そうに呑むから…」


「この席呑んだくれが多いな〜」


 不貞腐れつつも津島さんも味を堪能し、贅沢な夕食を三人で楽しみながら続けた。



「あかり遅いね〜」


「そんなに広い旅館ではないんですけどね」


 夕食を終えた後、姉が唐突に「この旅館を見て回りたいからちょっと待ってて」と言い、一人でふらっと行ってしまった。

 俺と津島さんは旅館のエントランスで待っていた。とても小ぢんまりとしたスペースで肩を寄せ合って座っている。

 

「姉ちゃんもソロプレイするんですか?」


「ソロプレイって何──ああ単独行動?さあ…私が良く一人で行動するから」


 テーブルの上には『当館全面禁煙』というプレートが置かれている、それなのに使われていないガラス製の灰皿があった。


「…………」


 そのガラス製の灰皿を津島さんがじいっと見つめていることに気付いた。


「津島さんは煙草を吸うんですか?」


「──え!な、何で?何でそんなこと訊くの?」


「灰皿見てましたよね」


「え、え〜いやあ〜昼ドラとかで良く鈍器として使われてるな〜と思って見てただけで〜…吸いたいとか──あ」


 津島さんの袂からぽろりとライターが落ちてきた。


「…………」


「…………」


 物凄く気まずそうにしながらそのライターを拾っている。


「持ってるじゃないですか。──ああ、良くソロプレイしてたのは煙草を吸うためでもあったんですね」


「う、うん…」


 ちょうど女将さんがエントランスに現れたので喫煙場所を尋ねると、玄関に灰皿があるから表に出て吸ってくれと言われた。


「え、そんなのあった?」


「あるんじゃないですか?今から行きますか?」


「え?というか君は何とも思ってないの?」


「津島さんが煙草を吸うことですか?別に何とも、うちの工場でも皆んな吸ってますし、俺もよく喫煙所で休憩しますから煙にも慣れてますよ」


「ち、ちなみに君は…」


「吸いません」


「だ、だよね〜!いやでも理解者がいるのは嬉しいな〜!」と、気まずそうにしていた津島さんがパッと明るくなった。


「姉ちゃんは知ってるんですか?煙草吸うこと」


「うん、けど全然気を遣ってくれなくてさ〜いやそれが当たり前だと思うんだけど肩身が狭くて…」


「いないうちに吸ってきましょう。俺、夜の海も見たいですから」


「行こう行こう〜!」


 ソファから立ち上がってすぐ隣にある玄関へ、確かにシューズボックスの上にバケツを模した灰皿が置かれていた。

 それを手に取って津島さんと夜の海岸沿いへ、冷んやりとした空気が頬にあたり、酔っていた体を冷やしてくれるからとても心地が良かった。


(綺麗だな〜)


 内海の向こうにある街の明かりが薄らと見え、潮騒だけが耳に届くこの場所がとても幻想的に思えた。

 都会では絶対に味わえない静けさだ。

 津島さんが灰皿を持ってそそくさと遠くへ行こうとしていたので呼び止めた。


「何処へ行くんですか?」


「え、さ、さすがに煙草吸わない人の隣で吸うのは気が引けるから…」


「別にいいですって」


「い、弄ったりしない?」


「それは保証できません」


「もう!──吸うからね!吸います!」


 津島さんが慣れた手付きで煙草を取り出し、そしてライターの火が消えないようもう片方の手で覆いながら煙草に火を付けた。


(格好良い)


 一口目の煙が潮風に煽られ、俺の方へ流れてきた。津島さんがまたそそくさと移動し、風下の方へ移った。

 喫煙する人の殆どが同じ事をする、いや俺が気を遣わせているんだろうけど、屋外の喫煙所で吸う先輩方も絶対風上に立とうとしなかった。

 津島さんが吐く煙草の煙が潮風に揉みくちゃにされ、あっという間に消えていく。


「いつから煙草を吸っているんですか?」


「こ、高校生の時…」


「皆んなそうですよね、俺の周りにいる人たちも全員学生の時って言ってました」


 煙草の煙を追うのを止め、海の向こうにある小さな街並みに視線を向けた。


「…私ね、高校の時に辛いことがあって、それであまり家の外に出られなくて、その時に知り合ったネットの友達から煙草を勧められて…それで味覚えちゃって…」


「何があったんですか?」


「ぎっくり腰。体育の時にね」


「そうだったんですね…」


「私も昔は整骨院に通ってたんだよ、その時の先生が凄く良い人でね、いつも安心をくれる人だったんだ、だから私もこんな風になりたいって思って。それから動画サイトも良く見てた、動画と先生があの時の支えになってたんだ」


 ゆっくりと語られるのは津島さんの過去だ。


「やりたい事をやるのが私の生き方なの、だから整骨院で働こうって決めて資格の勉強も頑張って、でも全然やりたいようにできなくて挙げ句に揉め事ばっかり起こして…誰にも安心を与えることができなかったんだ」


 俺は間髪入れずに「そんな事ないですよ」と言った。


「…え?」


「俺も腰を痛めて辛い時期を送ったことがあって、前に津島さんに診てもらった時もまたあの日々を過ごすのかと思って不安になっていたんですよ。でも、津島さんから大丈夫だよって言ってもらえて、それで凄く安心できて」


「…………」


 津島さんがその手に持つ煙草の灰がぽろりと地面に落ちた。


「だから、はい、そんな事はありません、あなたも誰かに安心を与えられる人です。でも、あんな笑顔であんな事を言われたら誰だって勘違いしてしまいますよ、きっと患者さんにも言い寄られていたんじゃないですか?」


「う、うん…」


「きっとその人たちも安心できたと思いますよ、俺だけじゃなくて」


「………」


 津島さんが灰皿を地面に置き、ぱっと俺の手を取った。

 甘い香りと煙草の匂いが鼻をついた。


「…ねえ、私の恋人にならない?」


「………っ」


 そう言う津島さんの目は真剣だった、冗談で言っているわけではないとすぐに分かった。


「ううん、私をあなたの恋人にしてほしい一番にしてほしい。…駄目かな?」


「な、ど、お、俺ですか…?」


 普段の冗談も口から出てこない、どこかへ引っ込んでしまったようだ、それも無理もない、こんな状況は初めてだったからだ。


「うん、君は私が一番欲しかった言葉を沢山くれた、そんな人を誰かに取られたくない、だから恋人になってほしいの。恋人にしてくれるなら、私を一番にしてくれるなら、好きなものを全部捨てられる」


「…………」


「……駄目?」


「えっと……」


「…私が駄目なのは君も知ってるよね、色んな男の人に声をかけるし、だから君も色んな女の人と一緒になってもいいよ、寝てくれてもいい。でも、私を一番にして…お願い」


 最後の言葉、お願いという言葉が甘く重く、ズドンと胸に響いた。そのお陰でようやく言いたい言葉が出てきてくれた。


「…その、そういうつもりで言ったわけではなくて…単にあなたにそうだと伝えたくて…」


「分かってる、だから嬉しいの」


「…………」


「…分かった、急にこんな事を言われても困るよね、それなら私があなたに一番近い人間だっていう証をちょうだい」


「…証?」


「キスして、君が思う所にキスしてほしい」


「………っ」


「どこでもいいよ。ね?」


「ご、後日、改めてっていうのは…」


 堂々と逃げの一手を打つが、


「怖い?女性にキスをするのが怖い?…いいよ大丈夫、キスをしたからといって責任を感じなくてもいいよ、私が欲しいって言ってるんだから」


「…………」


 駄目だった。

 津島さんがそっと俺の手を握り自分の頬へそわせた。その頬は温かく、とても滑らかだった。


「…はい、練習だと思って…それが私にとって証になるから…ね?」


 観念した俺は吸い寄せられるように顔を近づけ、思い切って唇を付けた。

 ──津島さんのその頬に。


「………こ、これが精一杯です…」


「うん、凄く嬉しい…ありがとう」



 ふわふわ、ふわふわ、ふわふわふわふわふわふわふわとした足取りで津島さんと共に旅館へ戻り、玄関扉を潜ると鉢合わせした。

 姉と。

 そしてその姉が一方的にこう言った。


「いやね、あんたたちの姿が見えないもんだから女将さんに訊いたの、私の連れを知らないかって、そしたら灰皿持って二人仲良く表に出たって言うじゃない、だからこうして待ってたの。それだけだから、気にしないで」


 腕を組んで仁王立ちしていた姉がさっと振り向き部屋へ向かって行った。

 姉が見えなくなってから津島さんがそっと俺に寄り添い、


「…あんなに怒らなくてもいいのにね」


「は、はい…」


「付き合ってくれてありがとう」


 津島さんが灰皿を元の位置に戻し、先に上がって俺を置いて行ってしまった。

 一人玄関に取り残される。


(え…津島さんがいる部屋に戻るの…?無理〜)


 え〜何で先に行っちゃうの〜俺どうすればいいの〜?

 唇に残った津島さんの感触を持て余し、とりあえずエントランスのソファに座る。再び女将さんが現れたので「お酒を呑めますか?」と尋ねると、何かを察したのか「普段なら駄目ですけど特別にいいですよ」と言ってくれた。

 後は酔うに任せてひたすら呑み続けた。



✳︎



 先に戻って来たのはやはり澪だった。

 何かにあったに違いない、あの子のあの上せあがった顔に澪のしてやったりの顔、一目瞭然だ。

 澪は私に何を言うでもなく座卓に座り、自分の鞄から化粧道具を取り出している。

 私から切り出した。


「手を出すなって言ったわよね」


「本気だったから別にいいでしょ〜」


 それで会話が途切れる。

 今度は向こうから切り出してきた。

 ──一瞬で酔いが覚めた。


「ねえあかり、つぐも君に言ってないことがあるよね?」


「何の話?」


「どうしてあかりまでつぐも君に怯えていたの?突き飛ばしたのはたまねちゃんだけなんでしょ?」


「…………」


「あの話を聞いた時、変だな〜って思った、どうして何もしていないあかりまで怯えていたのかな〜って」


「…………」


 軽く化粧をし、それから手鏡でチェックをした後道具を鞄にしまっていた。

 何も言えずに固まっている私に向かって澪がにっこりと微笑んだ。


「ま、家族の問題だからこれ以上口出しできないけどね〜言わなくちゃいけないことは早く言った方がいいよ〜そうじゃないと私とちー君みたいになっちゃうからね〜これは忠告〜」


「…そりゃどうも。ほんと、あんたが友達で良かったわ」


「そりゃそうでしょう〜あかりは苛烈な性格してるから、見てくれは好きになっても中身まで好いてくれる人なんてそうそういないよ〜」


 そんな事は自分が一番良く分かっている。


「だから私をもっと大事にしてね〜」


 そして、こんな私でも彼女は付き合ってくれる、得難い人物であることには変わりない。

 だからと言って──つぐもまでくれてやるつもりは一切なかった。


「ありがとう」


 そう素直に言い、澪の頭を撫でてやった。彼女はそれだけで頬を赤くした。──つぐもに何かをしたくせに、玄関で姿を見せた時は一つも赤くしていなかったくせに、だ。

 それから小一時間ほど経ち、ようやく弟が戻って来た。


「風呂」


 それだけ言い、お酒で顔を赤くしている弟が濡れたままのタオルを持って再び部屋を後にしていた。

 あれは相当呑んでいる、心配だ。


「様子見てくるわ」


「行ってらっしゃ〜い」


 まるで他人事のような言葉をかけられた。

 この旅館の温泉は最上階にある、フロアの両端にそれぞれ男湯と女湯があり、私は迷わず男湯の方へ向かった。

 暖簾を分けて中を確認する、誰もいない、シューズボックスの横にあった『清掃中』の看板を入り口に置いてから中へ入った。

 これで当分誰もやって来ないはずだ、仮に見つかったとしても「姉弟水入らず」と言えばどうにでもなる、実際本当の家族なんだから。

 脱衣所で浴衣を脱いで内湯へ入る、誰もいない、露天風呂の方から物音がした。

 外へ出たと同時に激しい水飛沫の音が鳴った、弟だ、弟が顔を湯船に浸けていた。


(澪の裸を見たわけではないのね)


 私も湯船に浸かった、その音を聞いた後に弟が勢いよく顔を上げた。


「何やってんのほんとここ男湯なんだけど」

 

「別にいいじゃない、たまには姉弟水入らずでも」


 話しかけてもこちらを見ようともしない、きっと私の裸を恥ずかしがっているのだ。

 もし澪としていたら...こうはならなかっただろう。

 

「何?何の用なの」


「澪と何があったの?」


 弟がこちらを見て、そしてすぐに明後日の方向を向いた。それから立ち上がり、露天風呂を照らしていた外灯の電源を切ってしまった。


「何してるの?真っ暗じゃない」


「見えるの!濁り湯だったら良かったけど見えるの!」


 確かにここの湯は透き通っている、弟は湯船に浸かった私の裸すら見られないのだ。

 ──本当に馬鹿な事をした。弟と暮らし始めて一ヶ月近く経ったというのにあの件については触れず、もどかしい日々を送っていた。

 それが今日、解消されたのだ、きちんと仲直りすることができたのだ。だから舞い上がっていたのかもしれない、いちいち反応するなと言いながら私にはそうさせるよう、どうでもいい男性の宿泊客と立ち話をして──嫉妬させるように──その間に澪は、この初心で臆病な弟に手を出したのだ。


「で、澪と何があったの?言いなさい」


 真っ暗の中、ようやく弟がこちらを見た。


「…恋人になってほしいって…そう言われた」


「あんたは何て答えたの?」


「…いや、そういうつもりじゃないって…まあ、断ったよ…」


「それだけ?」


「…なら、自分が一番近くにいるっていう証が欲しいって言われて、まあ、その、キスした」


 その言葉に思わず天を仰いだ、そこには我関せずと呑気に光りを放つ星々があった。

 ──喉から手が出そうなほど...つぐもの顔に見入った。


「いや…頬っぺたになんだけどさ…どこでも良いって言われたから…」


「──そう、ならいいわ」


「………?どういう意味?」


「何でもない。で、あんたはこれからどうするの?真面目に交際を考えるの?」


「いやそれは…良く分からない」


「情けない…中身はともかくあんな女性に言い寄られているんだから、少しは自信を持ちなさいよ」


「んなこと言われても…」


 徐々に自分のペースを掴めてきた私は弟の顔から視線を外し、もう一度夜空を見上げた。今度は星に腹を立てることもなく、穏やかな気分で眺められた。


「そうね、アドバイスをするならあの子とても重いから」


「重いって、何が?」


「あの子と付き合った男性は漏れなく心を病む、その程度に重い」


「えっ…な、何で?どうして?」


「それは私にも分からないわ、でも、前に一度訊いたことがあるのよ、恋人とどれくらいの頻度で連絡を取っているのかって、そしたら頻度って何?って逆に訊かれたの」


「それで?」


「あの子ね、二四時間電話を繋ぎっぱなしにしていたらしいのよ、恋人と、だから頻度の意味を尋ねてきたのよ」


「…………」


「ま、そういう事だから、付き合うんなら良く考えなさいよ」


「ちょちょ、ま、待って!」


 立ち上がろうとすると弟が私の腕を掴んできた。

 力加減もなっていない、その力任せの握り方は──とても痛かった。


「…痛い」


「あ、ご、ごめん…いや俺さ、女の人と付き合ったことなんてないから色々教えてほしいんだけど…」


「え〜?私にそれを訊くの?そこまでする義理はないと思うけどね〜」


「そんな事言わずに教えてよ!──お願い!」


 弟が私の目の前で拝んだ、その手を退かせば裸が見られることだろう、それくらい距離が近くなっていた。

 傍にいるのは私だ、けれど頭の中は別の女がいる、その事にいくらか腹が立ったので外灯をつけさせようと思ったが...


(まあいいか、どうせ忘れるんだから)


「いいわよ、貸し一つね」


「え、貸しになるのこれ」


 弟も調子が戻って来たようだ。何よりである。

 それから私は湯船に浸かりながら、いかに津島澪という女が重いかについて懇々と教えてやった。



「おはようございます、津島さん」


「お、おはよう…どうかしたの?」


「いいえ。今日は俺が運転しますから、昨日は本当にありがとうございました」


「………」


 翌る日、先に大広間に行っていた弟と澪が顔を合わせ、そして思っていた通り他人行儀に徹しているその様子を見て彼女が驚いていた。

 澪が私の腕を取って「お手洗いに行ってくるね」と外へ連れ出し、そして問い詰めてきた。


「何あの他人行儀!!つぐも君に何をしたの?!」


 澪からしてみれば面白くないことだろう、キスをさせた相手があんな風になってしまったのだから。


「別に、昨日あんたに告白されたって相談されてね、だから色々と教えてあげたのよ」


「絶対前彼の事言ったよね?!」


「そりゃ言うわよ、フェアじゃないから」


 胸元を開けたあざといワンピースに、男が好きそうなニーハイソックスを履いた澪が「あーーー!」と叫んだ。


「止めなさい、周りに迷惑でしょ」


「何でそんな事言うのよ〜!!せっかく意識させられたのに〜!!」


「弟で遊ぶのは止めて」


「本気だって昨日も言ったよね?!何で邪魔するの?!人の恋路は邪魔しちゃいけないでしょ!!」


「なら訊くけど、つぐもの為に今度はいくつ好きな物を捨てたの?」


 澪がぴたりと固まった。


「決まり文句は多いに越したことはないもんね〜」


「………ま、待って、何でそれを知って…」


「さあね?壁に耳あり障子に目ありよ」


「あ、あかり…?これ以上つぐも君に吹き込むのはもう止めてね…?私本気で彼に…」


「それはあなたの誠実さ次第かしら。さ、さっさと朝ご飯を食べて出発しましょう」


「はい…」


 澪を連れて大広間に戻り、他人行儀の笑顔を貼り付けた弟と三人で美味しい朝食を済ませた。

 まあ、それでも彼女は強い。あっという間に調子を取り戻し、昨日と同じように弟と接し始めていた。


「今日は何処に行くの〜?」


「ぐるりと反対側に回るだけですよ、そこの有名店で昼食を済ませて南下していくだけです」


「一泊二日は勿体ないね〜」


「今度は二泊にしましょう、北の方にも有名な観光地がありますから」


 カウンターでチェックアウトの手続きを済ませていると、声をかけられた。


「おはようございます、帰島さん」

 

「──ええ、おはよう」


 昨日のモブキャラたちだ、名前なんぞ一文字も覚えていない。

 

「これから出発ですか?」


「ええ」


「良ければ俺たちと一緒に行きませんか?今から北へ上がって温泉巡りをするんですよ」


「そう、いいわね」


 早く何処かへ行かないかなと思いながら料金を支払う。昨日はこちらが話しを長引かせていたので、向こうが脈有りと勘違いしているのだ。


(めんどくさいな〜)


 手続きを済ませてこれ見よがしに鞄を持っても退こうとすらしない。

 適当に世間話をしてお茶を濁そうと相手をしていると、先に出ていた弟が戻って来た。


「何やってんの?」と、剣を強めて言ってきた。


「ほら、さっさと行くよ」と私の腕を取ってきた。

 私はつい、モブキャラたちを気遣い「こら、失礼でしょ」と言ってしまった。

 すると弟が、


「あっそ!それは失礼しました!──不束な姉ですがどうぞよろしくお願いしますね!」


 掴んでいた手をぱっと離してさっさと行ってしまった。

 モブキャラたちに「ごめんなさいね〜」と言い、私は彼を追いかけた。


「ちょっと、置いて行くことないじゃない!」


「あれ〜?こっちに来ていいんですか〜?昨日はあれだけ恋をするなら慎重にって言ってたくせにナンパされて嬉しそうにニコニコしてた人が〜」


「ただの愛想笑いよ!待ちなさいって!この鞄重いんだから!」


「あの人たちに持ってもらえばいいじゃないですか〜」


 弟の機嫌がすこぶる悪い、こんな事は初めてだ。


「だから!そんなんじゃないって言ってるでしょ!──ほら!これ持って!今日のお昼ご飯奢ってあげるから!」


「お金の線引きは大事だって言ってませんでした〜?」


 全然機嫌を直してくれない。

 けれどまあ、目的は叶った、不機嫌になった理由が私にあると思うとそこまで悪い気はしなかった。

 結局持ってもらえず、車に荷物を積んだ時には腕がぱんぱんになっていた。


「どしたの?」


 先に車に乗っていた澪がスマホの画面から視線を上げて尋ねてくる。私が答えるより先に弟が「人のアドバイスはあてにならない」と言った。


「何の話?」


「澪は気にしなくていいから」


「?」


「はい行きますよー!」


 機嫌が悪くなると敬語を多用する弟を面白く思いながら、お世話になった旅館を後にした。

次回更新 一時間後

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