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第4話

「も〜!そんなに警戒しないで〜!何もしないから〜!」


 あれから津島さんは良く顔を見せるようになっていた。

 俺が姉の家に住むようになって二週間ばかり過ぎた頃、今日も津島さんはやって来た。沢山の紙袋はいつもの事、そろそろ棚が津島さんのお土産ではち切れそうになっていた。

 それに津島さんはお洒落を楽しむ人のようで来る度に服装が変わる、同じコーデは絶対にしてこない。

 今日は髪を括らずストレート、ごっついプルトップパーカーの下はスキニーパンツという、アウトドアチックの服装だった。

 俺はそんな津島さんから十分距離を取って挨拶をした。


「いつもお土産ありがとうございます、今日もゆっくりしていってくだ「いや凄い他人行儀〜!フレンドリーな感じで〜!」


 津島さんはいつもアポ無しでやって来る、たまに午前中にやって来ることもあった。

 津島さんがどんとテーブルの上に紙袋を置き、それから椅子に座った。


「あかりは?」


「まだ仕事ですよ、そろそろ帰ってくると思いますけど。というか連絡すればいいじゃないですか、無駄足を踏まなくて済むのに」


 そう言うと津島さんがわざとらしく胸を張り(胸を張らなくても十分大きいです)、動画を日々作成するクリエイターらしい名言を放った。


「それだと外に出る機会が減っちゃうでしょ〜?小さな発見が新しい構想を生んでそれが動画になるの、その機会を自分から摘むのは良くないな〜と思って、だからいつも連絡せずに来るんだよ」


 こっちは迷惑しているんですけどとは言わず「へえ〜ちゃんと考えているんですね」と思った事を口にすると、津島さんが嬉しそうにニコニコと微笑んだ。


「君も褒め上手だね〜「いや褒めてませんけど」そこは褒めてるでいいの〜!でも、一番の褒め上手はあかりかな〜、九割りツンで一割がデレなんだけどね、そのデレがまた胸にきゅううんって来るんだよ。あかりに褒められるのが一番嬉しい〜」


「分かる〜」


「分かるでしょ〜?!」


「姉ちゃんって普段はクールな顔して何考えてるのか分かりませんけど、お礼を言う時とは照れ臭そうに笑いながら真っ直ぐ言いますよね〜あれ反則だな〜っていつも思ってました」


「分かる〜!そうそう!ギャップ萌えっていうか〜その笑顔を見せてくれるのは私だけなんだ〜って思えるっていうか〜「そこまで思ったことありませんけど」それがまたきゅううって来るの〜!君は良く分かってる!」


 津島さんと姉トークで盛り上がっているとその本人が帰ってきた。


「ただいま。──って、またあんた来てるの?」


 今日の姉はパンツスーツではなくスカートを履いていた。深い赤色をした上下のスーツに髪はサイドにまとめて肩から流している、大人っぽいスタイルにバランスを持たせるためか、頬に明るめのチークを入れていた。

 あんな人とついこの間、同じマットレスで眠っていたのが今でも信じられなかった。


(もう店長なんかせずモデルになればいいのに)


 それ程に綺麗だった。

 

「お邪魔してまーす」


「来過ぎだから。そろそろ家賃払ってもらうわよ」


「ちゃんとお土産持ってきてるじゃーん!たまにはお礼言ってくれてもいいと思うんだけどなー」


「食べ切れないのに持って来るんじゃないわよ。そんなありがた迷惑に誰がお礼なんか言うもんですか」


 一刀両断。鋭い言葉に斬られた津島さんがまたわざとらしい演技をしながら「ぐっふぅ…」と呻いた。

 その姉が津島さんに興味を失くし、キッチンに立っていた俺に話しかけてきた。


「晩御飯は何?」


「煮物」


 そう言うとあからさまにその綺麗な眉を顰めてみせた。


「じじ臭い…もっとガツンとした物を食べさせなさいよ」


 二週間も経てば「あんたの朝食、心に染みたよ…」も無くなり文句も出てくるものだ。

 だからといってこちらも相手の顔色なんか窺っていられない、こっちが作るんだから選ぶ権利はある。


「別にいいでしょ。ダシが効いた大根だって美味いよ」


「え〜何それ、それならレトルトのハンバーグの方がまだ美味いわ」最近の姉は文句ばっかりだ、続けて「あんたさ〜日本酒に合わせて料理選んでない?」と言ってきた。


「それの何が悪い」


「たまには洋食とか食べたくならないの?」


 サイドにまとめた髪を解き、軽く頭を振りながらさらに文句を言ってきた。

 その様はまさしくモデルのそれだが言ってる内容はまさしく鬱陶しい姉のそれだった。


「洋食、ね〜…俺ハンバーグしか作れないし「レパートリー何とかしなさいよ「そんなに言うなら自分が作ればいいじゃん「私は忙しいの、あんたみたいに楽な仕事してないの「私もいるよ〜痴話喧嘩しないで〜」


 心外な突っ込みを入れてきた津島さんに向かって俺と姉が揃って「そんなんじゃない」と返した。


「うえ〜仲良し〜はいはい乙乙」


 津島さんも最近はあまり気取らなくなった、よくネットスラングを口にしながら今みたいに悪態をつくことが増えてきた。


「津島さんも食べる?」


「食べます、いただきます、寧ろあてにしてました」


「金払え」と言う姉に向かって津島さんが「このお土産が目に入らないのか!」と返した。


「これ俺が作ったんだから誰に食べさせるのも勝手でしょ」


「は〜!あっそ!色仕掛けしてくる奴には優しくするって?さすがは男、底が浅い」


「何だと〜?これでもちゃんと警戒してるわ!「だから警戒しないでよ〜!」


 などと、いつものように騒がしくしながら今日も晩御飯を迎えた。



 化粧を落としても変わらず綺麗な姉も、何だかんだと食卓について三人揃っていただきますをやった。


「澪、あんたこっちに来てばっかりで仕事の方は大丈夫なの?そろそろライブ配信とか始めるんでしょ」


「うんまあ…どっちかと言うと自前のチャンネルが本業で〜ライブ配信の方が副業って感じかな〜だから大丈夫」


「それ大丈夫なの?事務所から文句言われたりしない?」


「大丈夫だよ〜他の人たちもやってるし、ライブ配信の時に自前のチャンネルの宣伝やったら駄目だけどね〜」


「そりゃそうよね〜。で、あんたはどうなの?こっちの生活にも慣れた?」と気さくに尋ねてきた。


「大丈夫、自分の部屋がなくても大丈夫」


「嘘こけ、たまにあんたシャワーが長い時があるじゃない「そういう事は言わなくてもいいんだよ」


 姉はほんと、周りを気遣うのが上手い、俺も頑張って真似ているぐらいだ。

 俺の下事情にピンときた津島さんが品性の欠片もないことを言ってきた。


「私が相手してあげよっか?」


 そして俺はそれに対して下ネタで返した。


「俺のはこのエリンギみたいに小さいですよ」


「それは小さ過ぎ〜!!」


「こら、食事中でしょう、止めなさい」


 煮物は鳥のかしわに大根、にんじん、それから白ねぎにエリンギ、椎茸だ。味は醤油ベースの鶏ガラにしてある、俺は大変好きなのだが姉はあまり好みではないようだ。

 煮物は楽である、買ってきた鍋用カット野菜とかしわを鍋に入れ、あとは調味料で味付けをして煮込むだけだ。

 姉はかしわばっかり、俺と津島さんで煮込んで味が染みた野菜の取り合いを繰り広げていた。

 晩御飯を終えた後は姉が寝室へ引っ込み、津島さんは食卓に自前のノーパソを広げて動画編集の作業に入っていた。


「よくこんな所で集中できますね」


「君に襲われるのを待ってるんだよ〜」


「姉に言いつけますよ「というのは嘘で〜少しくらい騒がしい方が逆に集中できるの。静か過ぎてもちょっとした物音に反応してしまうからさ〜」


「それは何となく分かりますね」


「分かってくれる〜?やっぱり私と君って相性良いよね〜一緒にいても疲れないし〜そう思わない?」


「そういうの別にいいですから「いやほんとの事だから!信じてよ〜!私そこまで嘘つきじゃないよ〜!」


 姉が言っていた"ウェット"というのが最近何となく分かってきた。

 これは確かに少し面倒くさい、ちょっと同意を示しただけで「相性良いよね」と言われると身構えてしまう。

 嘘である。津島さんみたいな人に「相性良いよね」と言われるとそれだけで嬉しい。

 では、俺の中で一体何が津島さんとの防波堤になっているのか、それはゴリラ発言だった。


(褒めてくれるんならゴリラでもいいんでしょ)


 その後は津島さんともとくに喋ることもなく、キーボードを軽やかに叩く音を聞きながら皿洗いを終え、就寝間際になった時間帯に津島さんが「またね〜」と家を後にしていた。



 姉と一緒に暮らすことが決まった直後のある日、それは向こうから伝えられた。

 姉の勤務体系についてである。遅番、早番というものがあり出社時間と定時が日によって変動するのだ、それから客商売なので休みも土日関係なし、週に二日は決められているらしいが連続することは滅多にない。

 そう、圧倒的に俺の方が食事を担当する日が多いのだ。

 聞かされた時は「ハメられた!」と思った。けれど姉はその事に配慮してくれているのか、俺が頼んだわけでもないのに姉が担当する日は豪勢な食事になる。

 そして今日、姉が晩御飯を作ってくれる日だった。

 程よく残業をこなし職場の正門を後にする、すぐ目の前を通る産業道路は今日も沢山の車がかっ飛ばしていた。

 お気に入りリストの曲を聞きながら私鉄の駅に向かう、いつもと違う道なので最初は辺りを見回しながら帰っていたが最近ではもう飽きてしまった。

 産業道路と国道が合流する広い交差点を渡り、夜空を引き裂くように建つ高いタワーマンションを眺めながらさらに歩く。

 ああいう高級マンションに住める日は来るのだろうか。


(きっと贅沢な暮らしをしているんだろうな〜)


 妄想を膨らませながら私鉄の駅に到着し、商店街がすぐ目の前にある駅前広場には、今日も今日とて顔を赤らめたサラリーマンたちがいた。

 家飲みではなくて居酒屋に繰り出すのも良いかもしれないと、考えながら改札口を潜った。



「ただいま〜」


 もう良い匂い、玄関先からもう既に良い匂いが漂ってくる。

 手洗いを済ませてリビングに入る、エプロン姿の姉がテーブルの上にお皿を置いているところだった。

 イタリアン!


「お帰り」


「うわ〜すげ〜」


「ふふん」


 得意気に胸を逸らす姉、これは凄い。

 パエリアにカルパッチョ、そしてアヒージョまであった。


「これ、作るの大変だったんじゃないの?」


「そりゃそうよ〜でもここいらで良い物作っておかないとあんたに逃げられそうだったからね、頑張ったわ」


「良く分かってらっしゃる」


 姉がニヒルな笑みを浮かべて肘で突いてきた。

 自分はウェットなムーブを嫌っているくせにたまにこういうスキンシップは取ってくる。それが良く分からない。

 では早速と席に着いて合掌し、姉が座るのも待っていられなかったのでパエリアから手を付けた。


「〜〜〜!」


 無言である。感想を言う暇もなく、俺はただただ美味しいパエリアを頬張った。体力仕事で空かせた腹にこれは堪らない。

 気がつけばあっという間に完食。姉はゆっくりと食べていたのでまだまだ残っていた。


「…………」


「そんな物欲しそうな目をしてもやらないからね」


「分かってるよ。凄い美味しかった」


 そう言うと姉は「そ」とだけ答え、咀嚼に勤しんだ。褒めてもこれである。


「今日は津島さん来ないの?」


 ただ聞いただけなのに、感情でも宿っているのか本人より表情豊かな眉が「はあ?」としかめられた。

 姉の機嫌は本当に掴めない、見る見る悪くなってきたので俺はささっと席を立ち「片付けは俺がやるよ」と逃げの手を打った。

 やっぱり機嫌が悪くなっていた姉がこう言った。


「今度から澪と一緒に晩御飯作ってあげようか?」


「いやいいよ」


「何で?あんたから訊いてきたんじゃない、澪がいなくて寂しいんでしょ?」


「そういう意味じゃないから」


「だったら何で訊いてきたのよ」


「津島さん姉ちゃんのこと好きだって言ってたからさ、それに最近良く来るし、今日は来ないのかな〜って思っただけ」


「そうね〜あんたも仲良くなったしね〜あんな風に優しい女の子の方がいいよね〜」


(めんどくさい…)


「何言ってんの、姉ちゃんも十分優しいでしょ」


「どうだかね〜」


 姉も食事を終えて席を立ち、食器をシンクに持って来た。


「今からでも呼んであげよっか?どうする?」


「もういいってめんどくさい、何でそんなに怒ってんの」


「怒ってないわよ自惚れんな」と姉が手を持ち上げ、「片付けよろしく!」と共にその手を振り下ろしてきた。

 結構な勢いだ、その手は俺の腰をバシン!と強く叩いた。

 その瞬間、腰から足にかけて鋭い痛みが走った。


「〜〜〜っ!!」


 立っていられない程の痛みだ、持っていた食器をシンクに落としてしまい大きな音が鳴った。

 寝室へ行こうとしていた姉も足を止めている。


「ちょっと、そんな大袈裟な──つぐも?」


「……………」


「ちょっと!」


 痛い、痛む、腰の奥から不愉快な痛みがもやもやと発生し、太ももから足の指先にかけて痺れも起こっていた。

 何も答えられずにいると姉がさっと駆け寄ってきた。


「ねえつぐもってば、大丈夫なの?ねえって!」


「腰…前に痛めたことがあって…」


 それで察したらしい、姉がさらに慌て始めた。


「ああ、ああ、嘘うそ、ごめん私そんなつもりじゃなくて──」


 姉はひたすら俺の肩に手をやったり腰を触ったりしている。

 自分ではどうにもならないと思ったのか、部屋に取って返し津島さんへ電話をかけていた。


「澪!ごめん今からこっちに来られる?実は──」


 姉の少し弱った声を聞きながら、痛みが引くのをじっと堪え続けた。



 腰の痛みが再発したのはマットレスが原因だろうとの事だった。

 すぐにやって来てくれた津島さんにあれやこれやと質問され、俺はそれに全て答えた。

 以前、仕事中に手足が痺れ始めてしまい、会社を休んで行った整骨院で反り腰と診断され、そこから約一年をかけて治療してもらったことがあった。

 

「このマットレスは柔らかいから、普段使っているやつはこれより固いものじゃない?」


「言われてみればそうですね…こっちの方が柔らかいです…」


 津島さんに背中や足、腰、それから太ももの裏など触られ、触診が終わった後に「良い先生だったんだね〜」と言った。


「酷い状態になっていないから痛みもじきに治るよ」


「それは良かったです…」


 それから軽いストレッチと整体をしてもらった。その間、姉はずっと心配そうに見ているだけだった。


「その時の先生からストレッチのやり方教えてもらってない?それサボってたでしょ」


「はい、もう痛まなくなったので…」


「駄目だよ〜その時の先生がしっかり治してくれたみたいだから悪い所はないけど、他の筋肉が固まってるから、それも痛みの原因なんだからね〜ストレッチはちゃんとしないと〜」


「すみません…」


 津島さんはずっと柔らかい笑みを浮かべている、それに施術もとても丁寧だ。

 俺の先生も女性だったけどここまでではない、こんなに献身的で歩み寄られたら誰でも勘違いをしてしまうのではないだろうか。


(人間関係のトラブルって…患者さんも入ってたんだろうな〜)


「それからマットレスも自分の体に合った物を買ってね、寝具も大事だから〜」


 ずっと見守っていた姉が「明日にでも買ってくるわ」と言ってきた。


「え、別にいいって」


「駄目。あんたは今日私のベッド使って、あれ高反発のものだからそれよりマシだと思う」


「わ、分かった…」


 さっきまでの機嫌の悪さは見る影もない、俺より意気消沈とした様子を見せ肩を落としていた。


(あの姉ちゃん見てらんない…)


 津島さんのお陰もあり、施術が終わった頃には完全とまではいかなくても、痛みがすっかりと引いていた。

 腰の痛みは怖い、立とうが座ろうが横になろうが痛むのだ。その痛みは決して無視できるものではなく、私生活にも多大な影響を与える。

 辛かった時期を思い出してしまい、きっと顔にも出ていたのだろう、津島さんが仰向けに寝ていた俺の頭にそっと手を置き、


「大丈夫だから、すぐに良くなるからね〜」


 この間見せた猛獣ような笑みではなく、心から安心できるような、そんな笑みをしてそう言ってくれた。


(あ、これは勘違いしちゃうよ…)


 あの日のことがなければ俺も津島さんを好きになっていたかもしれない。

 そして津島さんは姉に近寄り雷を落としていた。


「──あかり!いくらなんでもやり過ぎだから!スキンシップも度が過ぎればただの暴力なんだからね!今度からは気を付けてね!」


「ご、ごめん…」


「私じゃなくてつぐも君に謝るように!!」


 そして、何のお洒落もしていない部屋着姿の津島さんが家を後にした。

 きっと、着替える間も惜しんで来てくれたのだろう、その気遣いもとても嬉しかった。



✳︎



 弟がシンクの前にしゃがみ込み、微動だにしなくなった時は──肝が冷えた。

 まるで昔のあの子を見ているよう、私たちが原因で長期に入院する羽目になったあの日と同じ。だから、季節を先取りしたように、真冬の寒さの如く肝が冷えてしまった。

 声をかけても答えてくれない、振り向きもしない。その様子を見て私は頭が真っ白になってしまい、今日まで培った社会人としての経験と蓄えた知識が何の役にも立たないと知り、指一本動かせなくなってしまった。

 それでも澪に助けを求められたのは"同じ轍は踏まない"という、恐ろしく自分勝手でちっぽけなプライドがあったお陰だ。

 最初は青白かったあの子の顔に生気が戻り、必要以上に体を触っていた澪の愚行はまあ見逃すとして、彼女の献身的とも言える治療にはとても感謝した。

 彼女が帰った後、向こうから謝ってきた。

 どうして?


「ごめん姉ちゃん…腰のこと黙ってて」


「どうしてあんたが謝るの、悪いのはこっち。本当にごめん…」

 

「いいって、だから気にしないで」


「そう言われても…」


「いいって、ほんとにもう大丈夫だから──嘘、まだちょっと痛むけど動けないほどじゃないからさ、ね?気にしないで、お願い」


「明日は休みなさい、私と一緒に買いに行くわよ」


「え?」


「え、じゃない。何が良いのか私には分からないし、あんたが新しいマットレスを選んで」


「いやでも…まあ、うん、分かったよ」


 弟は、自分が痛い思いをしたというのに寂しそうな顔をしている。それが居た堪れなくて、申し訳なくて...


「本当に悪かったわ…」


「いいってもう、しつこい」


 そう弟は言うが、まだまだ寂しそうな顔をしていた。



✳︎



 姉と買い物である。

 腰を痛めて診に来てもらった津島さんに勘違いを起こしそうになった翌日、俺は会社の上司にこれこれこのようにと体調を説明し休ませてもらい、姉と買い物である。

 姉と買い物である。どんな服装で行けばいいのだろうか...あの姉と隣に並ばないといけないと思うと胃が痛んだ。


(ん〜…)


 自宅から持って来た服を床に並べて睨めっこする、どれを選んでも姉と比べて見劣りしてまう。

 姉が寝室から出て来た、案外私服姿を見るのは今日が初めてである。


「支度できた?」


「俺も行かないと駄目?」


 冗談で言ったつもりなのに、動きやすそうなニットカーディガンにスキニーパンツ姿の姉が途端に眉を曇らせた。


「…腰が痛むの?それならあまり無理はしないで、私一人で「いやいや!だ、大丈夫だから、もう少し待ってて」


 昨日から姉はこの調子だ、こっちの調子が狂ってしまう。早く元気になってほしいけど、何を言ってもどれだけ大丈夫だと言っても姉の心配そうに下がった眉が元に戻らなかった。

 それに今日は新しいマットレスを買いに行くんだ、何も遊びに行くんじゃない、だから姉も動きやすさ重視の服を選んでいる。

 俺もスウェットパンツとナイロンジャケットを選んでささっと袖を通し、姉と並んで家を出た。

 今日の運転手は姉だ。俺は助手席に座り、車が発進したと同時に何処へ行くのか尋ねた。


「私が働いている所よ、あそこ品揃えがここよりいいから」

 

「え…姉ちゃんの所に行くの…?」


「そうだけど…もっと近場がいい?腰って座ってても痛む時があるのよね──ああごめん、気が付かなかった「いやいや!だ、大丈夫だから、うん、そこへ行こう!」


 ああ!やり難い!冗談が通じない姉はやり難いったらない!

 自分がいかに日頃から冗談ばっかり言っていたのか思い知らされ、もう下手な事は言うまいと口を閉ざした。

 だというのに...黙り始めた俺を心配してやたらと姉が言葉をかけてくるのだ、普段はこんな事絶対しないのに。


「痛くなったらすぐに言って」


「わ、分かった…」


 ──ああ、何も言わない自分も悪いのかと思い至り、ひとまず今の容態を姉に伝えた。


「今は少し痛む程度だから、座ってても平気。酷い時は座っていられなくなるから、その時と比べたら大分マシだよ」


「そう…」


「座って痛みが出るなら立って腰を休ませたりすればそのうち落ち着くからさ、どうしても痛くなったらその時は自分から言うよ」


「うん、黙ってたら承知しないからね」


 お、何か普段っぽい。運転している姉へそろりと視線を向けると、ぱっちりと目が合ってしまった。


「何?」


「な、何でも…」


 駄目だ、もはや本体としか思えない感情を宿した眉は下がったままだ、まるで怒られてしょげている子供のよう。


(あ〜見てらんない〜早く元気になってよ〜)


 窓の外へ視線を逃す。

 平日の朝でもこの幹線道路は大変な賑わいを見せていた。商用車にトラック、それから輸入車がびゅんびゅんと走り去って行く傍ら、俺たちの車はのんびりとした速度でショッピングモールへ向かった。



「どう?」


「う〜ん…これっぽいような違うような…」


 ショッピングモールの寝具コーナーにやって来た俺たちは、売られているマットレスを端から順に確かめていた。

 低反発、高反発、それから敷布団にウォーターベッドなるものまで。『四年連続一位!』と掲げられた定番人気商品も確かめたりしてみたけれど...


(違いが分からん)


 高反発のマットレスは体が沈まないよう、体重がかかる部位を均等に保ってくれる仕組みだ。

 低反発はその逆で、体重がかかる部位が沈み込むようになっている。この違いは大きく、俺みたいに腰を痛めた人間が低反発のものを使うと逆に悪化させてしまうのだ。

 腰だけが他と比べて沈み込み、その分体重もかかってしまう。全部wi○iで調べた。

 最初に見つけた高反発マットレスで良いと言ったのに姉が、「ちゃんと調べなさい」と言ってきたものだからこうして見て回っているのだ。

 

「最初のやつで良いと思うんだけどな〜」


「これ試しに使わせてもらえないのかな、買って失敗したら洒落にならないじゃない」と言った姉が「ちょっと待ってて」と店員を探しに行ってしまった。


(アグレッシブだな〜)


 連れて戻って来た店員は姉の知り合いのようで、爽やかさと暑苦しさを足して醤油で煮込んだような(所謂体育会系)男の人がぎょっとした様子で俺を見ていた。


「え、あれって帰島さんの…」


「いい?マットレスの具合を確かめたいの」


「えっと…購入前に開封するのはちょっと、さすがに…と、ところであの方は…?」


「私の弟」


 そう聞いた店員はあからさまな笑顔になった。


「──そうですか〜ご姉弟がいらっしゃったんですね〜」


(うんわ嬉しそう。というか俺が彼氏なわけないだろ、見れば分かるのに)


 それから二人はヒソヒソと話し合い、売り場ではなくバックヤードでなら大丈夫という話になった。姉、それ職権濫用なのでは?いや、惚れた弱味を握ったに違いない。


「着いて来て──あ、あんたはそれ持たなくていいの、彼にお願いしてるから」


「はい!任せてください!弟さんも是非こちらに!」


 顔は濃いけど爽やかボイス。


「ど、どうも…本当に良いんですか?」


「ええ、はい!帰島さんのお願いですから!」


 高反発マットレスを持った店員さんの跡に続き、俺たちもバックヤードという所に入った。

 まるで舞台裏のような、質素な感じがする所で早速店員さんが封を開けてマットレスを広げてくれた。


「これが駄目だったらこのマットレスはどうなるの?」


「私が買い取って澪に渡すわ」


 うわ要らね〜津島さんも災難...

 

「あんたは遠慮なんかしなくていいから、駄目なら駄目ってちゃんと言ってね?」


 靴を脱いでマットレスの上に寝転がる。爽やかボイスの濃い顔店員の笑顔が姉のすぐ隣にあった。

 

(………これでいいと思うけどな〜)


 沈まないから腰が痛くなったりしない、ましてや調子が悪い今ですら大丈夫なんだからこれで良いでしょ。

 これで良いと伝えると、何か知らんが濃い顔ボイス爽やか店員が慌て始めた。


「他にも色々とありますので試してみてはいかがですか?いきなり一つに決めるのは勿体ないですよ!」


 姉ちゃんと一緒にいたいだけだろ!とは言わず、「いえ、本当にこれで大丈夫です、これにします」と言った。

 店員は「そうですか…」と少し残念そうにしながらもマットレスを片付けレジまで運んでくれた。

 「パッケージを綺麗にして来ますね!」と何処かへ姿を消した隙に、俺は姉に尋ねた。


「何で寝具売り場の人と仲が良いの?」


「……別に、何でもいいでしょ」


 そっぽを向いてそう答える姉、興味が尽きない。


「もしかしてあの人とお酒呑んだことがある?お酒強そうだしね」


「ま、まあ…そうね、一度だけ誘ったことがあるわ」


(あの人が勘違いさせられた人か〜)


 だからあんなに張り切ってたんだな。


「何処で呑んだの?まさか自宅に誘ったとか?」


「そ、そんな事しないわ、普通に店よ店」


「ふ〜ん…」


「もう、何でもいいでしょ、根掘り葉掘り訊かないでちょうだい」


「他にも誘った人いるの?」


「何でそんなに訊いてくるの?」


「だって気になるんだもん」


「別にそんな…ど、どうでもいいでしょう!」


「──あ、痛たた、教えてくれないから腰が…」


 しまったああ!!ついいつもの調子でやっちまったああ!!

 俺はそのあと血相を変えた姉に付き添われ、モール内にあったマッサージを施す店で休ませてもらうことになったただの冗談だったのに。

 というか姉よ、顔が広いですね、そのマッサージ店を預かる女性に事情を説明し、あっという間に許可を取り付けていた。


「す、すみません…」


「いえいえ、帰島さんにはいつもお世話になっていますから。私たちは資格を持っていませんので体を触ることができないのですが…」


「い、いえ…休ませてもらえるだけで助かります…」


 それから姉は再び寝具コーナーへ戻りマットレスを回収し、車に運び入れてから俺の所へ帰って来た。


「お待たせ。腰の具合は?」


 姉の心配そうな顔が心を痛めた。

 俺は白状した。


「ごめん…実は──」


 ただの冗談だった事を説明し、雷が落とされるのを期待するも、


「冗談が言えるくらい元気になったって事なんでしょ?それならそれで良いわよ」


 そう、言葉を返され...儚い笑みを...向けられてしまいました...



✳︎



「温泉に連れてって、それで全部チャラ」


 昨日、腰を痛めてからずっと元気がなかった弟が、モールで買い物を終えて自宅へ向かっている時にそう言ってきた。

 ちらりと盗み見た弟はフロントガラスに目を向けており、前を走る車を見ているようだった。


「温泉に?」


「うん、姉ちゃん全部持ち、どう?」


「どうって…休みが…」


 信号に捕まり停止する、私もその車を見やった。ナンバープレートに書かれた県名は温泉地として有名な所だった。


(いやでも…この子がこんな我が儘を言うのも…)


 きっと、気にさせない為の気遣いだろう。


「温泉に行って湯船に浸かって美味いもん食べてお酒呑んでぱあっーとやってそれで終わり!」


「そうね〜…有給もここ最近取ってないし…」


 私がそう言うと、弟の顔にようやく元気が戻りぱっと輝かせた。

 そんな顔をされたらやっぱり駄目とは言い難い。


「マジで?取れそう?」


「予約はどうするのよ」


「旅行シーズンでもないからそこらへんは大丈夫じゃない?──ちょっと待って今調べる…」


 弟がスマホを弄り始め、三つほど信号を超えた辺りで私に視線を向けてきた。


「取れそう、部屋も空いてるし。ここなんかどう?」と、弟が運転している私にスマホを見せてきた。


「今運転中だから帰ってからにして」


「え、ってことは…」


 弟と二人で温泉旅行。まさかこんな日が来るなんて...


「その前に、長時間座ってても大丈夫なの?」


 腰の話をすると、また弟の顔が曇ってしまった。


「う〜〜〜ん……何とかする」


「何とかじゃ駄目、旅行先で悪化させたら意味がないじゃない」


「いやでも〜旅行行きたいな〜」


「だからってね─」続けられた弟の言葉にはっとさせられた。


「そうでもしないと姉ちゃんが元気にならないでしょ、もうその顔見てらんないよ」


「…どんな顔してるのよ」


「すっごく元気がない、まるで怒られた子供みたい。俺の事気にしているんでしょ?だから温泉に連れてって行ったの」


「…だからあんたも元気がなかったの?」


「そう、調子が狂う、いつもの姉ちゃんじゃないと無理」


「………」


 この子はほんと、人のことを良く見ている。昔からそうだ、私たちのことをちゃんと見て、口にしなくてもしっかりと見ていたのだ。

 折れた。


「──分かった、そこまで言うんなら連れてってあげるわ」


「やった!マジ?どこ行く?」


「だから帰ってから!運転中だから!」


 弟と二人...二人っきりか...いや別に変な意味はないけど。

 そうと決まってから弟はすっかり元気になった、その様子を見て私もようやく心が落ち着き、念のため澪のことも呼ぼうと考えた。

 家に到着し、車から降りる間際に澪のことを提案すると弟は快く承諾した。


「いいと思うよ、俺もお世話になったから三人で行こう」


「そうね、そうしましょう」


 これは決して逃げたわけではない。もし、弟と盛り上がらなかったら...などという弱気な私が保険をかけた、という事ではない。

 すっかり元気を取り戻した弟は、マットレスを運ぶ私をそっちのけにしてスマホの画面に見入っていた、きっと宿泊する旅館を吟味しているのだろう。

 その事に些か腹を立てながらもマットレスを運び、エントランスを潜った時にずるりと落としてしまった。


(これまあまあ重いのよね〜)


 その音にようやく気付いた弟が「ごめんごめん!」と謝りながらマットレスを運ぼうとした。

 素直じゃない私は「別にいい」と突っぱねるが、「二人で持てば大丈夫」と言い、結局持ってもらった。

 エレベーターに乗り込み一息吐く。


「マットレスから旅行、それだけだからね、後は自分で何とかしてちょうだい」


 お金の線引きはとても大事だ、それは身内になればなるほどしっかりとしなければならない。

 やはり少し調子に乗っていた弟が「最後に店屋物だけでも…」と言ってきた。


「調子に乗らない」


 肩が当たるほど傍にいた弟にデコピンしてやった。力を弱めてやったのに、これ見よがしに弟が痛がった。



 晩御飯なんぞ作る気にもなれなかったので、結局店屋物をそれぞれお金を出し合い頼み、食事を済ませた。

 弟はお風呂だ、余程機嫌が良いのか下手っぴな口笛がこちらにも届いてくる。

 今日、モールで会った後輩の男の子のことを考えた。確かに彼は気立ても良いし素直である、私の頼み事でも快く引き受けてくれた。

 それを弟は──。


(……………)


 ああも食いついてくるとは、考えもしなかった。

 嫉妬したわけではあるまい、単に私の人間関係に興味を持っただけだろう。


(──そうね、あの子にメッセージでも送りましょうか…)


 たまね、末の妹だ。


あかり:今度旅行へ行くことになったわ


 返事がすぐに返ってきた。


たまね:誰と?お母さんと?


あかり:違う、つぐもと


 既読が付いて数分経ったのち、


たまね:何でそんな冗談言うの?何かあった?


あかり:ほんとよ、今家にいるわ


たまね:は?家にいる?実家ってこと?


あかり:私の家よ、今お風呂に入っているわ


たまね:はあ〜〜〜?意味分かんない


たまね:いつ仲直りしたの?


たまね:お姉ちゃんも仲悪かったよね?


 たまねの慌てようにくすりと笑みが溢れる、ほんと私は意地が悪い。


あかり:この間にね、電車が動かないから泊まらせてくれって


たまね:それで何でお姉ちゃんの所に行くの?おかしくない?


あかり:おかしくないわよ、結婚したことちゃんと言ったの?


あかり:あんただって疎遠になってたんでしょ


 既読スルーされるかと思いきや、向こうから電話がかかってきた。

 それを酒の肴にしながら、私は暫く妹の相手をして夜を過ごした。

次回更新 一時間後

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