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第3話

「ありがとう、マジで助かるわ」


 今日も生憎の雨だ。昨日から降り続けている雨は街という街を濡らし、そして出勤を控えていた姉のやる気にも陰を落としていた。

 けれど、雨は午前中で止むようだ、そして行きだけ俺が車で送ることになった。


「いいよ別に。それと、今日は向こうの家に帰るから」


 助手席に座り込んだ姉がどうしてと尋ねてきた。


「ちょっとずつ片付けしようかと思って、それに冷蔵庫の中身も心配だしね」


「今日はこっちに来ない?」


「うん、そのつもり」


 姉はあっそとだけ答え、窓の向こうに視線をやった。

 それからお互い何を喋るでもなく朝だというのに混雑を見せる道路を走り、姉の職場であるショッピングモールへ向かった。

 どうして通勤に車を使わないのかと尋ねると、姉はスマホを弄りながら答えた。


「この道混むでしょ?だから途中で止めたの」


「だから乗入許可証があるんだね」


「そ」


 それからまたお互い無言になり、ショッピングモールのロータリーに到着した。

 姉はありがとうだけ言い、颯爽とした歩みでショッピングモールへ入って行った。

 急な温度変化である、いや気温の話ではなく姉だ。


(何か怒ってなかった?気のせい?)


 気のせいだろう、それに朝だし皆んなが皆んな朝からテンションが高いわけではない。

 姉のマンションに戻り、俺は手荷物だけ持って家を後にし、もう三日近く帰っていない自分の家に帰るべく電車に乗った。



 最寄りの駅から徒歩数十分、バスでも数十分というとても辺鄙(へんぴ)な所にある自分のマンションに帰ってきた。


(忘れてた〜)


 玄関先に置いてあった可燃物のゴミ袋、数日間放置されて小さな虫がたかっていた。その事に愕然としながらまずはゴミを片付け、そして改めて自分の部屋に入った。

 一週間おきに掃除はしているのでそこまで汚れてはいない、ブックシェルフがいくつかとグリーンフェイク、それから備え付けのベッドに一人用のソファ、俺の家具はこんなものである。

 ここを引っ越すことになったのだから、とりあえず目に付く物から片付けを始めた。徒歩数分の所にあるスーパーでダンボールを貰い、そこへ本を小分けにして他の物をずんずん詰めていく。

 本を一つにまとめ過ぎるととんでもなく重たくなるので、こうして小分けにするのが良いと友人に教えてもらったことがあった。

 それから数時間をかけて片付けと掃除をし、疲れた所で一旦手を止めた、時間はもう夕方だ。


(晩飯どうしよう、めんどくさい)


 これである、一人暮らしのご飯事情は常にこれである。

 そう、"面倒臭さい"!食材を買いに行くのも用意するのも面倒、食べに行ってもいいけどお金がかかる。

 最終的に辿り着いたのはご飯だけ自分で炊いて後はスーパーのお惣菜で済ませる、これが経済的にもお腹具合にも程良い。

 姉が寂しいと言っていた理由が良く分かってしまった。

 誰かの為に作るのは緊張するし少し億劫でもある、けれど作ったご飯を「美味い」と言ってくれるのは嬉しいし充実感もあった。

 気兼ねしないことは決して良い事ばかりではない、緊張の中にも小さな、けれど確かな幸福はあるものなのだ。

 俺はスマホを手に取って、姉にメッセージを送った。


つぐも:やっぱそっちに行ってもいい?


 仕事中でもスマホを所持して良いのか、またしてもすぐに返事があった。


姉:今日は帰ってこないんじゃなかったの?


つぐも:意地張りました


姉:何それ。あんたが帰ってこないって言うから友達呼んだわ、それでもいいんなら帰ってきてもいいよ


(友達〜?それは嫌だな〜)


 仕方がない、今日はこっちに泊まろう。

 よくよく考えてみれば、自分の寝床が二つもあるなんて贅沢な話だ。


つぐも:今日はこっちにいます


姉:あっそ、一人で寂しくお酒でも呑んでな


つぐも:その人は泊まっていくの?


姉:さあ、泊めるつもりで呼んでないけど、泊まりたいって言うなら泊める


つぐも:その人が帰ったら教えて


姉:別にこっち来ればいいじゃない


つぐも:恥ずかしい


姉:その歳で人見知りってw


 それっきり既読が付かなくなってしまった。

 

(一人で晩酌、寂しいな〜〜〜)


 止めよう、お酒は止めよう、酔った勢いで姉に電話しかねない。

 重い腰を上げて家を出る、自分の為だけに食べ物を買って来よう。

 数年間お世話になったスーパーでかにクリームコロッケとカレーのレトルトを買い、やっぱりお酒を呑もうとうす塩味のポテトチップスとチータラも購入、ご飯を食べてお風呂に入り、良い感じにお腹が空いてきたところで冷蔵庫で冷やしておいた日本酒を自分専用の湯呑みに注いだ。


「んま〜〜〜」


 と、言っても答えてくれる人がいない、その寂しさを紛らわすようにお酒を次から次へと口の中へ放り込む。

 うす塩味のポテチがなくなりチータラも食べ尽くし、「まだお酒が足りない!」と千鳥足で家を出て三度スーパーへ向かう。

 スーパーの駐車場横に隣接されたパチンコ店の煌々とした明かりに照らされ、負けたお客が愚痴を言いながら喫煙所で煙草を吸っていた。

 もう適当にあれやこれやとカゴに入れ精算しお店を出て、観念した俺はパチンコ店の看板を見ながら姉に電話をかけた。

 すぐに出てくれた。


「もしもし」


「寂しいわ〜一人で呑むの寂しいわ〜」


 電話口で姉がけらけらと笑った。


「だから言ったでしょうが一人は寂しいって。あ〜あ〜あんたがあんな意地張らなければそんな思いせずに済んだのに〜」


「そんな事言ったって〜どのみち帰らないといけなかったんだしさ〜」


 朝と打って変わって姉は上機嫌だ。


「知らないわよ、意地張ったあんたが悪い」


「姉ちゃんの友達ってどんな人なの?」


 すると、


「もしも〜し」


 と、姉の声ではなくその友達の人が電話に出た。どこか間延びした声をした人である。


(何か出てきた!)


 とは言わず、酔っ払った口で自己紹介をした。


「あ、姉がお世話になってます、帰島つぐもとい、言います」


「津島 (みお)で〜す、よろしくね〜、弟くんはあかりと一緒に暮らすんでしょ?」


「あ、は、はい!」


「いつから暮らすの?」


「え、ま、まだ決まってません!」


 電話口の少し遠くから、「全然酔ってないじゃん、ちょ〜礼儀正しい〜」と聞こえ、さらに「人見知りしてるだけだから」と聞こえてきた。


「また一緒に呑もうね〜」


「よ、よろしくお願いします!」


 津島さんという人から再び姉に代わった。


「仕事の電話か、もっとリラックスしなさいよ」


「いきなり代わらないでよびっくりするでしょ〜」


「あんたがどんな人かって訊いてきたからでしょ、直接話した方が早いと思って。じゃあね、澪は泊まらないって言ってるからいつ帰ってきてもいいよ」


「あ、うん、分かった」


 電話を切って、誰も待っていない自分の家へ戻った。



 翌日は朝から出発し、昼頃に姉のマンションに戻ってきた。

 姉は今日も仕事で家にいない、一日ぶりに戻ってきた家には誰もいなかったけど、他人がいた息遣いのようなものは残っていたのでそこまで寂しい思いはしなかった。

 ここに戻って来るまでの間に下着や肌着の類いを買い足しておいた、そして一昨日に洗濯かごに入れた自分の物がどこにも見当たらなかったので姉に断りを入れ、ついに寝室に突入することにした。


姉:入ったらお酒抜きだから!


 というメッセージは既読だけつけて返事は返していない、自分の物と俺の物を一緒くたにして寝室へ放り込んだ姉が悪い。


(いざ行かん!)


 寝室の引き戸を開ける、想定通りの散らかりようだった。


「いや〜これは酷い」


 何あの服の山、一人分だよね?

 こんもりとした山が二つもある、ちらりと俺の下着が見えていた。

 姉の部屋は六畳程だ、リビング側の壁にベッドが置かれ、その反対側の壁に机が置かれている。お洒落な紙袋に埋もれて使われていないノートパソコンも見えていた。

 物色する必要も無いだろうと畳まれずに放置された服の山に手を伸ばす、あれよあれよと姉の下着や肌着、何これ?みたいな服が沢山出てきた。


(ほんと女の人って服の数多いよね〜)


 それらを一枚ずつ丁寧に畳む、姉の下着も肌着も関係なく、だ。

 実家にいた時も母親の手伝いで洗濯物を良く畳んでいた、今さら姉の下着を手にしたところでどうという事はない。嘘ではない。

 畳み終えて姉の分はベッドの上に、自分の分は持って来たバッグの中に詰め込んだ。

 その後はついでだからと姉の部屋も掃除をし、そこから近所の大型スーパーへ出かけた。

 ああそういえば姉に返事を返していなかったと思い出しスマホを取り出して、メニューを考えるのも面倒だったので姉に尋ねた。


つぐも:何食べたい?


姉:部屋に入った?


つぐも:入った、ついでに掃除もした、ベッドの近くにペットボトルの空き容器を置くのはどうかと思う


姉:あんたは親か。晩御飯は何でもいい


 やっぱりそれかーいと思いながら食品売り場を回り、野菜をあれこれ見ているうちに晩御飯はシチューに決まった。

 そう、シチューである。誰かに作ってもらうか自分で用意しない限り口にしないシチューである。

 外食した時も「シチューを食べに行こう!」ってならないし、ファミレスに行った時もメニューの中からシチューを選ぶことも滅多にない。だからシチュー。

 野菜コーナーで人参、玉ねぎ、エリンギにブロッコリー、それからシチューの素と牛乳をカゴにぽいし、その後はおつまみコーナーへ向かってやっぱりうす塩味のポテチにチータラを買う。

 このおつまみがまた日本酒に合うこと...お酒の種類によってはポテチが甘く感じるのだ、それが面白い。

 レジに並んで精算を済ませ、昨日とは打って変わって鼻歌交じりに家へ戻った。

 姉が帰って来たのは晩御飯の支度を済ませ、そろそろお風呂に入ろうかという時だった。


「ただいま」


「お帰り」


 前に見たスーツとはまた違う色合いのスーツを着ている姉が俺に向かって手招きした。


「こっち来て」


「何?」と言う前に、姉が素早くデコピンの構えを取り、それを秒で放ってきた。


「──いった!」


「勝手に部屋に入るな」


「いやいや、ちゃんと断り入れたでしょ」


「入って良いなんて一言も言ってないでしょ」


 拗ねたようにふんと鼻を鳴らして自分の部屋へ、俺は少しだけプンプンしながらお風呂場へ、脱衣所に入ったと同時に姉の叫び声が聞こえてきた。

 それからドタドタと走る音。


「ちょっと!あんた私の下着までなに丁寧に畳んでるのよ!気色悪いじゃない!」


 扉越しにそう言われたので言い返した。


「失礼な!実家にいた時も俺が畳んでたわ!せっかく掃除までしたのに!」


「そんなの誰も頼んでない!」


「だったら自分でやって!ほんと汚かったんだから!」


「何ですって──」と姉が扉を開いたではないか。ここ脱衣所ですよ?

 俺の裸をばっちりと見た姉、それから裸を見られた俺。


「あーーー?!」

「あーーー?!」


 お互い声を上げ、顔を赤くしてしまった。

 それからお風呂を済ませて食卓へ、さっきはあんなに怒ってたのに姉が代わりにシチューをテーブルの上に並べていた。

 

「シチューってまた、珍しいの作るわね」

 

 部屋に入ったこともさっきの事もまるで気にしていない様子だ。


「まあね、シチューって誰かに作ってもらわないと食べないでしょ」


「確かに。で、このポテトチップスとチータラは?」


「おつまみ用。向こうの家からお酒持って来た」


「おお〜良いね〜あんたのお酒呑むのも悪くないわね」


「え、呑むの?」


「今すぐあんたの胃袋に入った私のお酒を吐き出させてもいいんだよ」


「冗談だって」


 ほんと、姉はサッパリとしている。怒っていた事も全く気にしていない、このドライな性格は昔からだった。

 二人でシチューをもぐもぐと食べていると来客があった、インターホンが鳴ったことに姉も少しだけ驚いている。


「誰?」


「さあ、何かの勧誘じゃない?」


「めんどくさいなもう〜」


 どうやらアポ無しらしい、昨今この手の来客は誰も出ないのが定石だ。

 スプーンを咥えたまま姉が席を離れ、来客した人をインターホン越しに確認すると、「澪じゃない」と呟いた。


「え、その人って昨日も来てた…」


「そう。──どうしたの?」


 後半はマイクをオンにして津島さんに話しかけている。


「遊びに来た〜」


「いいよ〜」と姉がそのまま招き入れたではないか。


「いや何でさ!」


「別にいいじゃない、あんたも女の子に慣れろ」


「女の子って言う歳じゃないでしょ!」


「あんたってほんと余計なことばっかり言うよね」


 悪戯を思い付いた子供のようにニヤニヤと笑っている、それから程なくして津島さんがやって来た。

 リビングに入った途端、ぶわわと甘い香りが部屋中に広がった。


「初めまして〜!ああやっぱり!あかりに似てる〜可愛い弟くんだね〜!」


「ど、どうも…」


 何と言うか、津島さんは全体的にふわふわとした人だった。

 髪は茶色で髪をサイドに二つ括っている、ハイウエストのワンピースに革製のジャケットを肩からかけたお洒落な服装をしていた。

 そして、その津島さんは両手に大きな紙袋を下げていた。


「それ何持ってるの?」


「これね〜皆んなで呑もうと思ってお酒買ってきたんだ〜」


 津島さんが紙袋をテーブルの上に置き、中から何と!日本酒を取り出したではないか!


「ああ!それ!」


「君も知ってるの?これ有名なやつだよ〜!」


「お酒に釣られてんじゃないわよ情けない」


 津島さんが買ってきたというお酒は大変珍しいもので、滅多にお目にかかれる銘柄ではなかった。

 俺も居酒屋で一度だけ呑んだことがあったけど、一杯で千円を越してしまうような、言わば高級品であった。


「それ呑んでもいいんですか?」


「うん!君も呑んで〜」


 初対面かつ女性ということも忘れ、俺はお酒の事で頭がいっぱいになり、ろくすっぽ考えずこう言った。


「良かったらシチュー食べますか?まだまだ余っているので良かったら」


「いいの?嬉し〜!じゃあ私もいただきま〜す!」


「お酒が絡むとほんと人って変わるよね〜」


 姉は面白くなさそうにそう呟くが相手をしている暇はない、貴重なお酒を持って来てくれた津島さんの機嫌を取らなければ!元から機嫌は良いけど。

 津島さんにシチューを出す。津島さんはニコニコしながらシチューを食べてくれた。


「美味しいね〜!」


「いやそのお酒には負けますよ」


「何と比較してんの。あんたはさっさとお風呂に入ってきなさい」


「いやさっき入ったじゃんか。というかさ、何でいつもお酒呑む前に風呂を済ませろって言うの?」


 は!と姉は小馬鹿にしたような顔になった。


「呑んだくれは桶に溜まった水だけで溺死するって昔から言われてるのよ、そんな事も知らないの?」


「それだけで?ほんとに?」


「泥酔するとそれだけ判断力が鈍ってしまうってこと、分かった?」


「あ〜言われてみれば確かに」


 シチューをぱくぱく食べていた津島さんが俺たちを見て微笑んだ。


「二人とも仲良いね〜」


「いやいや、ついこの間まで連絡すら取ってなかったんだから」


「え!そうなの?そんな風には見えないけど…」


「本当ですよ、俺が泊めてくれって電話するまで何年も喋っていませんでしたから」


「へえ〜そうなんだ〜私にも弟がいるんだけどね、全然会ってないんだ〜」


「え?あんた弟いたの?初耳」


「私だってあかりに弟がいるの昨日初めて知ったよ〜二人仲良さそうだからどうしても会いたくてさ〜だから急にお邪魔したの」


「いつでも来てください!」と、俺が言うと姉が「どうせお酒が目当てでしょ!」としつこく言ってきた。


「もうしつこいって!そっちが女の子に慣れろって言ったんでしょ!年甲斐もなく!」


「何ですって!」と姉がばば!っと立ち上がり俺の首に腕を回してきた。

 ぎゅいっ!と締め上げられてしまった。


「いたた!暴力ばっかり!」


「あんたが減らず口叩くからでしょ!」


「ほんとに二人は再会したばっかりなの〜?そうは見えないけどな〜」


 姉を止めてくれるわけでもなく、津島さんはのんびりとシチューを食べていた。



「かんぱ〜い!」×3


 ついにやって来たお酒の時間、津島さんが注いでくれたお酒を礼儀も忘れてちびりと呑む。


「んま〜んまんま〜!」


 ふんわりとした甘味が舌から鼻へ突き抜け、飲み込む時は酸味がくいっと入ってくる。そしてやっぱりすうっと引いていくので堪らなく旨かった。

 ああそうだったと思い出し、俺も津島さんにお酒を注いだ。


「す、すみません…忘れてました」


「いいよいいよ〜そんなに嬉しそうに呑んでくれるなら持ってきた甲斐があったよ〜」


「津島さんも日本酒が呑めるんですね」


「うん、あかりに叩き込まれたから〜」


「叩き込まれたって…何やってんの姉ちゃん」


 姉も津島さんが持って来たお酒で舌鼓をうっている、それから俺が買ってきたポテチもちびちびと。「確かにこれはいけるわね」と言ってから、


「だって女の子と日本酒が呑みたかったんだもん。男の人だったら日本酒呑める人多いけど、何かとウェットな関係に持っていこうとするからめんどくさいのよね〜」


「そりゃ姉ちゃんみたいな人に誘われたら誰だって勘違いするでしょ」


「あんたは勘違いしてないじゃない」


「弟だからでしょうが!」


 テーブルの上には神々しい光りを放つ一升瓶、それからポテチやチータラ、おつまみの袋で溢れ返っていた。


「あかりは恋人作らないの?もったいないよ〜」


「今はいいかな〜仕事してる方が充実してるし。そういうあんたはもう別れたんだっけ?」


「え〜それはどうかな〜」


「何ではぐらかすのよ」


 姉は長い髪をポニーテールにしている。それに津島さんが持ってきたお酒はとても強いものらしく、顔からうなじにかけてもう赤く染まっていた。きっと俺も同じだろう。

 かたや津島さんは、もう二杯目のお酒を注いでいるのに顔色が全く変わっていなかった。


「つぐも君は?恋人とかいるの〜?」


「いないわよ「いやそれ俺の台詞」


「え〜どうして〜?そんな可愛い顔してるのに〜?」


「か、可愛いかどうかは分かりませんけど、ちょっと苦手で…」


「女の子が苦手ってこと?」


「その割には澪の胸ばっかり見てるじゃない、確かに私より大きいしね〜」


 姉の暴言は無視して津島さんに答えた。


「デートとか、そういうのがちょっと苦手で…あれこれ気にして楽しめなくなるというか…何度かデートはしたことあるんですけど」


 これはマジである。けれど全部失敗に終わっているので苦い思い出しかなかった。

 津島さんより姉の反応の方が大きかった。


「え、あんたデートしたことあるの?」


「あるよそれぐらい」


「絶対童貞だと思ってたのに」


 いやそれは当たっているんだよとは言わずに、


「聞いてた人の話、全部失敗に終わったって言ってるじゃんか。そういう姉ちゃんは何で恋人と別れたの?」


「え〜どうしよっかな〜弟にそんな話してもな〜」


 首筋まで赤く染まり、なんなら全身真っ赤っかになりつつ姉がそうはぐらかしてきた。


「じゃあいいよ別に。津島さんも姉と同じ所で働いているんですか?」


 全く顔色が変わらない津島さんが答えた。


「ううん違うよ〜」


「え、じゃあどこで知り合ったんですか?」


 無視られても全く気にしていない姉が答えた。


「この子元々整骨院で働いていたのよ、前に肩を痛めたことがあってその時にお世話になったの。ね?」


「そうそう〜私が辞める一か月くらい前?それぐらいの時にあかりが来て、それで仲良くなったんだ〜。あかりってさっぱりしてるでしょ?だから色々と相談することがよくあってさ〜」


「へえ〜姉ちゃんって同性からもモテるんだね」


 ふんと鼻を鳴らしただけだ、褒めてもこれである。


「何だっけ、働いてた所でトラブルがあったんだっけ」


「そうそう〜ちょっと他の先生たちと揉めちゃって〜それで居づらくなって辞めたんだ〜」


 整骨院で働く人は互いに「先生」と呼び合う、俺も一度お世話になったことがあるので馴染みがあった。


「今はどんなお仕事をされているんですか?」


 う〜ん、と少し言いづらそうにしている。


「ど、動画配信なんかを…ちょこっとだけ…」


「え!すご!自分のチャンネル持ってるんですか?」


 途端に元気を取り戻した津島さんが自分のスマホを出して「見てみる〜?」と渡してくれた。

 見せてもらったチャンネルには沢山の動画が上げられており、それなりの登録者数も表示されていた。


「凄いですね〜動画配信者の方と初めてお会いしました」


「そんな、そんな大層なもんじゃないよ〜!」


 津島さんは嬉しそうにニコニコ顔だ。


「ど、どうかな〜?動画のラインナップ的に…」


 そう訊かれたのでスクロールして舐めるように見てみた。

 広く浅い感じで様々なジャンルの動画が上げられており、時間も一〇分程度の一般的なものだった。

 中にはゲーム実況動画も混じっていた。ゲームもするんですね。


「ホラゲはしないんですか?」


「ほ、ホラー系はちょっと…やっぱそういう物も見たりするの?」


「俺は好きですよ。でも、津島さんの動画は俺が見ているジャンルも多いですから…別にこれでも…暇しなさそう」


「そう〜?ありがとう〜!」


 また嬉しそうに笑い、がばっ!と津島さんが俺に抱き着いてきた。

 一瞬で甘い香りに頭を支配され、ふわふわしてしまった。


(はあ!!甘い香り!!)


「ちょっと澪」


「ごめんごめん〜視聴してる人から生の意見が聞けて嬉しくてつい〜」


 津島さんが離れても甘い香りと柔らかい感触がまだ残っている。凄い人だ、一瞬で身も心も支配されてしまった、単に俺が慣れていないだけかもだけど。

 それから色んな話をしながらお酒を呑み、滅多に酔っ払わない姉までもが千鳥足になってしまった。


「あ〜….呑み過ぎた〜…美味過ぎる酒も駄目〜…」


 一升瓶もあと三分の一ほどしか残っていない、俺もぐでんぐでんになってしまった。


「あ〜…気持ち悪い〜…もう呑めない〜…」


「澪〜…あんた今日はどうすんの〜…泊まってくの〜…」


「泊まっていいんなら泊まってく〜私も今から家に帰るのめんどくさいし〜」


 え〜あれだけ呑んでも全然平気そう...

 津島さんが姉に肩を貸して寝室まで運び、それからソファで伸びていた俺に代わってマットレスを用意してくれた。


「すみません〜…ありがとうございます〜…」


「いえいえ〜はいどうぞ〜」


 優しい、この人優しい、姉も見習ってほしい。いや、俺を泊めてくれただけでも姉も優しいけど。

 ふらふらとした歩みでマットレスに向かい、意識も半ば飛びかけている状態で倒れ込んだ。

 あれ...そういえば津島さんはどこで眠るのかなと疑問に思うが、頭も上がらないし考える余裕もなかった。

 そして、ぱったりと意識が途絶えた。



✳︎



 好きな事をやる、それが私の信条だ。

 高校生の時に腰を痛めてしまい、辛い時期を送ったことがある。友達と好きなように遊べず、ずっと部屋で過ごしていた。

 その時心の支えになったのが多種多様な動画と、それから一年間に渡って治療してくれた先生だった。

 その人は明るくいつも献身的で、整骨院に通うのが楽しみになっていたほどだ。

 だから私は先生のように資格を取り、誰かの支えになれるよう整骨院で働くことを決意した。

 高校を卒業して三年制の専門学校へ通い、晴れて柔道整復師の資格を取得して働き始めた。


(可愛い寝顔…)

 

 けれど、働き始めて真っ先に悩んだのが他の先生たちとの人間関係だった。

 私にそんな気はないけれど、他の先生たちがその気になって何度もアプローチをしてくるようになり、それが常となってどの場所に行っても揉め事が増えるようになった。

 挙げ句には女性の先生からも遠ざけられるようになり、誰かの支えとなる前に私が誰かに支えてもらわなければ職場へ行くことすらできなくなっていた。

 辞める決意をしてすぐの頃、あかりと出会った。

 彼女はとてもさっぱりとした性格をしており、つい悩んでいた事を彼女に漏らしたことがあった。

 働き始めてからずっと悩んでいた事なのに彼女はあっけからんと、


 ──そんな誰彼構わず良い顔をする自分が悪いんでしょ。あなた、笑うと魅力的だから皆んなが勘違いするのよ。


 そう言われてしまい、私は落ち込むどころか胸がスッキリとする思いをした。

 あんな怒られ方は新鮮だった、そうだったのかと自分のことを客観的に見られるようにもなった。

 それから私はあかりと付き合うようになり、友達になって沢山の悩みを打ち明けるようになった。そんな中で次の仕事、というよりやりたい事が決まり、今はこうして動画を配信するようになった。

 私が高校生の時に支えになってくれたもう一つのやりたい事だ、けれど、周囲の人たちに理解者がおらず、白い目を向けられていた。

 それなりの登録者を獲得し、有名な配信者を多く抱える事務所にも声をかけてもらえるようにもなった、けれど一向に自信がつかずその事にも悩んでいた。

 けれど──。


(ふふふ……)


 私の大好きな友人と似た目元、それから男性の割には小さな体、そんな彼が私のことを褒めてくれた。

 安らかな寝息を立てる彼の前髪を、このまま起きてしまえと念じながら払ってあげる。彼女の髪と同じように柔らかく、何度でも触りたくなった。

 もう一度、もう一度、髪に飽きたらそっと頬に手を添える。

 あ、彼の閉じていた瞼がゆっくりと開いた──。



✳︎



 まず、甘い香りが鼻につき、目を覚ました。

 甘いと言ってもお菓子や花の類いのものではなく、女性的な甘い香りだ。

 何故?と思って目蓋を開けばそこにあった、目の前に、津島さんの顔が。


「…………」

「…………」


 そして次に、半月のように湾曲した津島さんの瞳が目に映った。

 蠱惑的、あるいは情欲的、どろっどろに溶けた感情を溜め込んだ瞳が真っ直ぐに俺のことを捉えていた。


「え…あの…」


「どうしたの〜?」


 距離感が凄いんですけど何でこんなに近いの?


「え、あ、か、代わり…ましょうか?」


 うっとりと微笑むように細められている津島さんの目がさらに細くなった。


「ううん。さっきね、私のチャンネル褒めてくれたでしょ〜?それが嬉しくて、もっと褒めてほしくて君と仲良くなりたいな〜って」


 あれで褒め言葉になってたの?

 きっと津島さんは俺が眠った後に潜り込んできたのだろう、だからこうしてシングルサイズのマットレスの上で見つめ合う形になっているのだ。

 お酒のせいも相まって心臓は破れんばかりに強く脈を打っている、女性に対して何ら免疫力がない俺にとってこの状況は刺激が強過ぎた。


「一緒にデートしよっか?」


「…………」


 もう何も答えられない、黙って耳を傾ける。


「苦手なんでしょ?私が克服させてあげるよ〜別に楽しくなくても気にしないから、ね?一緒に沢山練習しようよ〜それで仲良くなって、ね?出来なかったことを一緒にしようよ〜」


「で、出来なかったことって…」


 男の性強し、その言葉に期待が膨らまないはずもなく。

 たださえ近いのに津島さんがぐっと俺の方へ近寄った。

 大人の香りに酔いも吹っ飛び、柔らかい息が鼻先から唇にかけて当たっている。

 初めて会ったとか、姉の友達だからとか、そういった要素が全て頭から抜け落ち、俺はもう津島さんのことを「何でもさせてもらえる女」としか見ていなかった。


「…えっちな事とか、興味あるでしょ?」


 ごくりと、唾を飲み込む自分の音が聞こえた。


「…あ、あります…」


 姉に聞こえないよう小声で答える。

 津島さんも小声になった。


「…私もあるよ」


 ちょっと視線を下げれば胸の谷間が見える。

 遠慮なく見たあと視線を戻すと、津島さんが顔を上向けて天井を見ていた。

 俺も釣られて上を見る。そこには地獄が待っていた。


「何してんの」


「…………」

「…………」


 姉である。無感動な瞳が俺たちを見下ろしていた、きっと閻魔大王も頭を垂れるはずに違いない、それぐらい怖かった。

 とくに慌てるわけでもなく、津島さんがゆっくりと体を起こした。


「ソファは寝心地が悪いから、弟くんと一緒に眠ろうと思って〜。け、決して悪気があったわけでは〜、だ、だから安心」いや、津島さんもものすごく慌て始めた。

 姉が一喝する。


「──澪!その男癖が悪いの直せって言ったでしょ!弟にまで手を出すなんて信じられない!」


 怒られたはずの津島さんが負けじと声を張り上げた。


「だって褒めてくれたんだもん!あかりだって私の動画褒めたことないでしょ!」


「あんた褒めてくれるんなら相手がゴリラでも良いって昨日言ってたじゃない!──いいからさっさとこっちに来る!私と一緒に寝る!」


「ええ〜〜〜!!もっと私を褒めて〜〜〜!!褒めて伸びるタイプなんですぅ〜〜〜!!あかりは愛が足りな〜〜〜い!!!」

 

 急に駄々をこね出した津島さんが姉に引っ張られて寝室へ連行されていった。

 そして取り残された俺、マットレスの上で撃沈である。さっきの甘い雰囲気なんか欠片もなく、行き場を失った性欲だけが胸と股間に残った。


(え〜ゴリラでも良かったの〜?どういうこと〜?え〜今の何だったんだ…)


 今からでも何かが始まりそうな空気だったのに...こんな事になるなら胸の一つでも触っておけば良かった二つあるけども。

 はん!と変な声を出しながら仰向けに寝転がる、どうやら俺は津島さんに遊ばれていたらしい。


「は〜あ、やってらんない」


 そう独り言を呟くと、姉が寝室から出てきてとことことこっちに向かってきた。

 うるさいと注意されるのかと思いきや、今度は姉が俺の隣に寝転がってきた。


「何?」

 

「魔除けだと思いなさい」


 姉は背中をこちらに向けている、間近で見ると案外小さな背中が目の前にあった。

 津島さんのことがなければこれでもドキドキしていたに違いない、しかし免疫力が飛び級でレベルアップした今の俺にとって何ら感じさせるものはなかった。

 嘘である。少しだけドキドキしている。


「魔除けって何?津島さんのこと?」


「そ。あの子男癖だけは悪いから、色んな人に唾付けるの」


「それ先に言ってくんない?」


「友達の悪口を先に言うやつがあるか」


「それはそうかもしんないけど…」


「ほんとそれだけなの、澪は。気も利くし人当たりも良いし」


「はあ〜〜〜このまま大人の階段を上るのかと思ったよ、先に地獄がやって来たけど」


「それは残念ね」


 あれ、俺の相手をしてくれないの?と冗談が舌先まで出かかるがぐっと飲み込んだ。こんな下ネタ身内に言ってもろくなことにならない。

 俺も姉に背中を向けて目蓋を閉じる、まだまだ心臓はバクバクしてどこか破れてしまったのではないかと思うが、不思議と眠気はあった。

 あとはその眠気と姉の気配に身を委ねながら、もう一度眠りについた。



✳︎



(何なのこの姉弟〜)


 どうやら私はまた何かしたらしい、知らない間にあかりの部屋で眠っており、起きてみればベッドの宮棚には「弟に手を出すな!」とメモ用紙が貼られていた。

 そして、リビングに出てみれば。


「どんなに仲良い姉弟でもそれはないよ〜何かムカつくから写真撮ろう〜」


 何か寝た覚えがあるシングルサイズのマットレスの上で、あかりとつぐも君は眠っていた。

 お互いに額を合わせて、ぎゅっと手を繋ぎながら、恋人同士より恋人っぽい、こんなの恋愛映画ですら見たことがない。

 パシャリと写真に収めた。


「…寝顔はそっくり。あ〜何かムカつく〜凄いムカつく〜こっちは弟と仲良くないし恋人と別れたばっかりだっていうのにさ〜」


 そうだ、これネタにして次のライブ配信の時に喋ってやろう、きっとリスナーからも「そんな作り話」と笑われるに違いない。

 友達と気になる男の子をいっぺんに取られてしまった私は、腹を立てながらキッチンに立った。


「あ〜ムカつく〜!」


 それでも皆んなの為に朝食を作ってあげるこの私を誰か褒めてほしい!!

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