第29話
先日、姉の友達で帰島あかり(確かに綺麗な人ではあった)の弟である帰島つぐもが自分の所を訪ね、こう尋ねてきた。
──津島さんと一緒になろうと思ったきっかけはありますか?──と。
(まさかこんな身近に同類がいたとは…)
学務課のオフィスは慌ただしく、皆が年末へ向けて仕事の片付けにかかっていた。
それらの喧騒を耳に入れながら、彼に何と断ろうか考え続けてもう午前が過ぎてしまっていた。
(僕たちの環境は特殊だから…だから今の状況が実現しているんだ…それを一から説明するのも…)
仕事に身が入らない状態で仕事をし、昼休みの時間に入った。
学務課のオフィスを出て学食へ、途中で外に出る必要があり、大学内の中庭に差しかかった。
一二月を過ぎ、冬本番となったこの頃の気温はとても低く、吐く息も雪のように白かった。
それにも関わらず、中庭に設置されたベンチには座っている学生が一人いた。その後ろ姿には見覚えがあり僕はつい声をかけていた。
「こんな所で寒くないの?」
声をかけた学生は先日、院試の受験票を取りにきた宮島さんだった。
振り向いた彼女の顔は赤く火照っており、手には湯気を立てている肉まんと一冊の本が握られていた。
「寒いです」
彼女はそう一言だけ答えた。
「中に入らないの?」
「勉強しているんです、この寒さならうたた寝もできませんから」
院試へ向けてラストスパートをかけているらしい、何ともストイックな勉強法だ。
「そう。僕はてっきり彼女たちにいじめられているのかと」
「まあ、それに近いと言えば近いですけど。あと数ヶ月もすれば皆んな別々の道を歩みますから、気にしていません」
「そう。──程々にね、試験本番に風邪を引いたら元も子もないよ」
「気を付けます」
余程本に集中しているのか、宮島さんはあまり僕の顔を見ようとしなかった。
踵を返して学食へ向かおうとした途端、着信を知らせるメロディーが鳴った、僕の物ではない、宮島さんだ。
あれだけ本に集中していた彼女がぱっとスマホを取り出しこう言った。
「──つぐもさんからだ…」
「っ?!?!」
──またしても思わず、僕は彼女の手を取っていた。
「君もしかして、彼と知り合いなの?!」
✳︎
「また来たか浮気者め」
「それ毎回言われるんですか?」
「ちーくーん、ろくでなしが来たよ〜」
「お邪魔しまーす」
今日は会社を休んで最寄りの総合病院に行って来た、そしてその帰りに俺はまた津島さんの自宅を訪ねていた。
目的は千鶴さんと話をするためである、先日お邪魔した時は心なしか迷惑そうにしていたけど...今日もやっぱり迷惑そうな顔をしていた。
「また来たのか…」
「来るって言ったじゃないですか。前回の話の続きをしましょう」
「僕は嫌だって言ったよね?どうしてほぼ初対面なのにそうぐいぐい来れるの?」
「自分のイチモツを見せようとした人に気を遣わなくていいでしょ」
「あれは!!──はあ、もういいよ。とりあえず僕の部屋に来て」
「え、駄目に決まってんじゃん」と、言ったのは津島さんである。
「何の話し合いか知らないけどリビングですればいいでしょ。前も二人でコソコソと…」
「事情があるんだよ姉さん「そうそう「君は黙っててくれる?」
部屋着の割には露出が多いスカートを履いている津島さんが「もう!」と怒り始めた。
「私はね!これでも嫉妬しているんだよ!私の大好きなちー君とつぐも君がいきなり仲良しさんになって「知らんがな」×2「──とにかく!私を除け者にしないように!いいね!」
「とりあえず僕の部屋に入っててくれる?「全然人の話聞いてない「分かりました」
リビングから引き返す間際、津島さんは千鶴さんに詰め寄ってぎゅう〜っともたれかかっていた。対する千鶴さんは心底迷惑そうにしながら「こういう事は誰もいない時に」と怒っていた。
(しっかりいちゃついてるやんけ)
廊下を渡って千鶴さんの部屋へ、遠慮なく椅子に座らせてもらった。
(ああいう事は絶対しないよな、あの姉)
津島さんは良くも悪くも全てオープンにする人で、さっきのように「嫉妬してます」感を全面に出してくる。片や俺の姉は、追い込まれないと素直な感情は表に出さない。
そういう奥ゆかしい(良く言えば)所がまた好きなのだが...
程なくして千鶴さんが津島さんも引き連れて部屋に入って来た。
「結局そうなるんですね」
「ごめんね、全く言う事を聞いてくれなくて」
津島さんは子供のようにむくれっ面を晒しながら千鶴さんの腕にしがみついていた。
(姉があれをやったら──いや普通に嫌だわ)
津島姉弟がベッドに座り、前回の話し合いを再開した。
「──で、君は実の姉と一緒になりたいっていう事だけど、考えは変わった?」
津島さんはただ参加するだけらしい、俺が前回千鶴さんに打ち明けた秘密を聞いても「あ〜やっぱり〜」みたいな表情をしただけだった。
「いいえ、変わりません」
千鶴さんがふんと鼻で息を漏らしてから、
「自分の事は棚に上げるけど、あまりお勧めはしないよ「そうそう「姉さんは黙っててくれる?」この人誰にでも厳しいらしい、続けて「それに、家族であろうと他人であろうと、相手の意志があって初めて成り立つものでしょ?恋人同士っていうものは。君の姉は君の気持ちについて何て言っているの?」
まあ、あっさりと核心を突かれてしまった。
「ええと…まだ何とも…互いにそういう事は意識してるよね〜みたいな話をしたことがあるくらいです」
「めっちゃ初々しいやん…私らもそういう時があったよね〜」
「そう…なら、君が押し切ってしまえば恋人同士に持っていけるって事なんだね?」
「その確率は高いと思っています」
ちょいちょい言葉を挟んでいた津島さんが突然「ぐふっ!」と呻いてベッドに倒れ込んだ、その弾みでスカートが捲れているが千鶴さんは直そうともしない、俺もチラリと御神体を拝んだだけ。
二人もまるで何事もなかったように話し合いを続け、千鶴さんが「ところで」と枕言葉を置いてから話し始めた。
「僕は今、大学の学務課という所で働いていてね。君の地元にある大学に籍を置いているんだ」
「へえ〜…それで?」
「そこで色んな生徒と接する機会があるんだ。今日も院試のラストスパートへ向けて、屋外で本を片手に昼食を済ませている学生がいてね、とても良い子だったよ」
「…………」
話の流れが読めない、何故その話を今ここで──ん?地元の大学...?院試...?
「え…千鶴さん、まさか…」
「察しが良いね。とても良い子じゃないか、宮島日和さん」
俺たちに構ってもらうのを待っていた津島さんがベッドの上で「ぎゃあ!」と吠え、「ちー君が私以外の女の名前を呼んだ!」と叫んだ。
それでも無視する俺たち。
「…知り合いだったんですか?」
「つい最近知り合った、と言った方が正しい。彼女、君からのメッセージを楽しみにして待っていたよ。僕が話しかけても本から視線を上げなかったのに、君からのメッセージにはすぐに食いついていた」
「……………」
「僕の相手もね──「結婚相手の話は止めてください!まだ心の準備が──」と騒ぎ始めた津島さんについに痺れを切らした千鶴さんが立ち上がり、部屋の外へ連れ出していた。
そして、薄らと汗をかいてすぐ戻ってきた。
「──はあ全くもう…」
「とか言っている割には今日の夜も楽しむんでしょ」
「それが何?」
「うわあ…」
「そんな態度を取るなら今すぐこの話し合いを「ああ嘘です!」
「僕の相手もね、本当に良い人だったんだよ。向こうの両親にも挨拶を済ませて、僕のことを好いてもらって、そして最後の最後に僕は皆んなを裏切った」
「…………」
「先に忠告しておくけど、君が本当にあかりさんと一緒になりたいって言うのなら、今すぐに宮島さんと縁を切るんだ。それが君にできる?」
「…やります」
「口で言うのは簡単だよ──これ以上のアドバイスは出来ない、僕から言えるのはそれだけだ。それから、僕は君の味方をしない、いいね?」
「はい、それで構いません」
千鶴さんはどこか不満そうな表情をしながら、「それなら構わない」と言い、話し合いが終わった。
◇
「どう?つぐも君もご飯食べてく?」
「いいですか?お願いします」
「──え……」
「別にいいよね、ちー君も仲良しさんみたいだからさ」
「え、僕は普通に嫌なんだけど…というか、君も何でご相伴に預かれるの?」
「誘われたので」
「それだけの理由で僕と澪の間に割って入ろうって?」
(うわあ…この人もマジモンだわ)
あの姉にしてこの弟あり。
津島宅を出て行く間際、家の主にそう誘われたので俺は遠慮なく受け、そしてその弟はとても嫌そうな顔をしていた。だが知った事では無い。
「先に言っておきますけど帰島家の食費を圧迫していたのはあなたの姉ですからね?どれだけご飯を分けてきたことか…」
「えへへ…「その照れ笑いは可愛くないですよ」
「そうなの?つぐも君の話は本当なの?」
「うんそうだよ〜作るのが面倒臭い時は必ずお世話になってた」
「そこはせめて美味しいからって言ってくださいよ…」
「──分かった、その代金は僕が立て替えよう、だから今すぐに君は帰るんだ」
「もう!つぐも君は私の友達でもあるんだからそんな事言ったら駄目!」
「くっ…」
津島さんがキッチンに立ち、千鶴さんも食器のあれやこれやを取り出している時にメッセージが入った。
姉からだった。
あかり:晩飯
あかり:どうすんの?
つぐも:食べてから帰る
あかり:メッセぐらい送れ
あかり:まさか澪の所行ってないわよね
(え!──何この人普通に怖いんだけど)
ここで嘘を吐いてもどうせ津島さんに確認のメッセージが届くはずだ。素直に白状した。
つぐも:そう、千鶴さんも一緒で三人でご飯食べる
あかり:は?
あかり:は?
あかり:私は?
メッセージを送る前に、
「津島さん、姉も一緒でもいいですか?」
二つ返事で返ってきた。
「いいよ〜」
「待って!だから僕は──」
つぐも:姉ちゃんの分もあるってさ
そうメッセージを送り、姉は既読だけ付けてものの数分でこっちにやって来た。
姉は、人って怒り過ぎると顔が能面みたいになるんだな、という典型のように能面みたいな顔をしていた。
俺には一瞥もくれずに家主に向かって「招待ありがとう」と挨拶していた。
「丁寧なあかりが気持ち悪い件について」
「千鶴君も、お邪魔させてもらうわ」
「はい、どうぞ」
津島さんの冗談にも答えず、姉は千鶴さんをロックオンして話し始めた。
エプロンを装着し、まるで下は何も履いていないように見える津島さんが俺にこそっと耳打ちしてきた。
「…めっちゃキレてるじゃん、あかりのやつ」
「ね、何ででしょうね。普段ならあっそで終わりなんですけど」
「…まさかの無自覚?引くわー」
「うわあ…「いやそれ私の台詞だから。あかりは君に怒ってるんだよ?」
「いや、それは分かるんですけど、それが分からないんですよ」
「急な哲学止めてくんない」
「あそこまで態度に出すことってあんまり無いんですよ。例えば、一週間ぐらい津島さんの家でご飯を食べてて、それが今日バレたとかなら分かるんですけど」
「導火線が短くなってるってこと?」
「嫌な例えですけどそうですね」
「それだけ君に本気になってるって事なんじゃないの?」
そう言って津島さんが俺の元から離れ、そう言われた言葉に俺の胸がドキリと跳ねた。
✳︎
お風呂場の扉を開ける、それだけで一日の疲れが飛んでいくようであった。
今日の入浴剤はベルガモットの香りである、爽やかかつ甘い匂いが私の鼻だけではなく全身を包んでくれた。
「にゃあ〜う〜」
「あ、こら、入ったら駄目だよ〜」
お風呂はとても良い。文字通り一人っきりの時間であり、私はこの時の『匂い』にとても気を遣っている。
入浴時にしか嗅げない匂いがあれば、より一層リラックスできると考えているからだ。だから、私の部屋には沢山の入浴剤があり、それはボディソープも変わらなかった。
湯船に浸かって香りを楽しむ、体の内側から疲れが溶けていくようだった。
(まさかあの人が…名前は何だっけ…あ、そうそう津島さん、あの人がつぐもさんの知り合いだったなんて…世の中ってほんと狭いな〜)
私が漏らした独り言を耳に入れ、向こうから「自分も知っているよ」と言ってきたのだ。
(けど、何であんなに焦ってたんだろう…)
津島千鶴、という人は互いに共通の知り合いがいると分かった途端、挙動不審になっていた、その理由は分からない。
けれど、共通の知り合いがいる、という事で"学生と職員"という間柄から少し近しいものになり、いくらか話も弾んだのだ。
そして、私はその人に「子供扱いを受けている」とつい相談してしまっていた。
対するその人の返答は、
──見た目がそうだから仕方ないんじゃない?
(分かってるよそれぐらい!だから悩んでいるのに!)
湯船から上がって体を洗い、もう一度浸かってからその日の入浴を終えた。
この時期は家の中にいても肌寒い、父のこだわり間取りのせいもあって風通しが大変良く、廊下を歩く時は何か羽織らなければならない。
お気に入りの大型ブランケット(私の身長と同じ!)を肩からかけリビングへ向かう。今日は猫の行列ができなかった、皆んな部屋の中から出たくないのだろう。
「ただいま」
「お帰り。今日も遅かったんだね」
リビングには父がいた、遅い夕食を取っているところだった。
父がリビングの暖房を付けてくれていたお陰で寒くなく、寧ろ暑いくらいだった。他の皆んなもリビングに集まっており、父に習ってご飯を食べていた。
猫は人の事を良く見ており、真似をしたがる生き物だ(他の動物もそうかもしれない)。ご飯を食べていればご飯をねだり、昼寝をしていれば近くで眠っており、あくびをすれば猫もあくびをする。
最近忙しい父は見るからに元気がなかった。
「師走もあって皆んな敏感になっていてね、些細なミスでも神経質になって片付けようとするから自分の時間が取れないんだ。挙げ句、取り引き先から良い人材はいないかと言われる始末で…最近海外に支社を出したものだからうちに──」と、ご飯を食べながら愚痴を溢し始めてしまった。
私は適当に返事を返しながらリビングのバーカウンターに座り、スマホを取り出した。早速猫たちが邪魔をしに来た。
「こらもう、スマホが見えないでしょう」
「にゃ〜にゃ〜う」
スマホに顔を擦りつけてくる猫たちをいなしながら、私はつぐもさんにメッセージを送った。今日、胃の検査で病院へ行くと聞いてからだ。
日和:こんばんは。検査の方はどうでしたか?
結局、その日はメッセージが返ってこなかった。
✳︎
日和ちゃん:こんばんは。検査の方はどうでしたか?
「…………」
「──ちーくーん、つぐも君が女の子とメッセージしてるよ〜「っ?!」
「それを何で僕に言うの?」
「ちょ──覗かないでくださいよ」
「私のちー君だけでは飽き足らず。君もほんとあかりと一緒であっちこっちに唾をつけるよね〜」
「僕と彼はそんな仲ではないよ、何言ってるの?」
ちなみに姉は今はいない、トイレである。
「人をたらしみたいな言い方しないでください。そういう津島さんだってスマホ見られたらマズいでしょ?見ますよ?今見ますよ?」
「ど〜ぞ〜やましい事なんて何もありませ「またスマホ変えたんですか?前使ってたのと違ってますよ「──姉さん?それ本当なの?」──ちょ!違うから!つぐも君が変な事言ってるだけだから!」
「見せて」
「千鶴さんに見せてあげてください」
俺と千鶴さんが同時にそう言うが、当の本人は折良くトイレから戻って来た姉へ逃げていた。
「あかり!二人がいじめてくるの!」
「え、何なに?何の話してたの?」
姉は食事中も決して俺と目を合わせようとはせず、今も何ら迷うことなく千鶴さんの元へ向かっていた。
「ああいえ…姉の携帯が変わっているという話を…」
そして、千鶴さんは姉に対して苦手意識でもあるのか、常に引き攣り笑いで受け答えしていた。
「何それ、いつもの事でしょ」
「あかり!」
「え、そんな頻繁に変えているんですか?」
「うん、前なんか一月で三回くらい変わってたことがあったから。最初はスマホカバーを変えてんのかと思ったぐらい」
「…………」
「うわあ…」
いつもの「うわあ…」を言うと、ついと姉が俺に視線を向けて──結局千鶴さんに向き直して話しかけていた。
「千鶴君も気を付けなよ、この子の男遊び相当なもんだから」
「それは覚悟していましたけど…」
「あれ、私四面楚歌だったりする?」
「今頃?」
「今頃?」
「津島さんが難しい言葉使ってる…」
「デザート食〜べよ〜」
(ほんと切り替え早えな)
どうせ姉に相手しもらえないので俺もキッチンへ行き、津島さんからデザートをもぎ取った。
「裏切り者に渡すデザートは無い!」
「旅館に泊まった時の話を千鶴さんにしますよ「どれ食べる?好きなの選んでいいよ」
冷蔵庫の中を見せてもらい、四つ程肩を並べているプリンの中からオーソドックスな物を手に取った。
キッチンテーブルで津島さんと斜向かいに座ってプリンを頬張る、姉と千鶴さんはリビングのソファでお喋りに興じていた。
黒胡麻プリンなる物を食べていた津島さんが、俺に胃の検査の事を尋ねてきた。
「そういや、胃を悪くしてるんだって?大丈夫なの?今日揚げ物が多かったけど」
日和ちゃんに返事を返していない事にちくりと胸を痛めながら答えた。
「今日、胃カメラ飲んできましたけどとくに問題は無いって言われましたよ。ここ最近お酒も控えているので痛みも収まりました」
「あ〜あれね〜あれはしんどいよね〜」
「津島さんも飲んだことがあるんですか?」
津島さんは黒いプリンをちろちろと食べている。
「あるよ〜前に勤めていた場所で揉め事起こしたって言ったでしょ、その時に私も胃を悪くしてね、その時に飲んだことがあるの」
「鼻に麻酔をしてもらって?」
「そ。胃の中を異物が通っていくあの感じ、吐き気が止まらなかったよ」
「分かる〜」
ソファに座って千鶴さんと話をしている姉が何度かちらりとこちらを見てきた、それは千鶴さんも同じで俺たちのことが気になるらしい。
それは津島さんも変わらず、何度かソファの方へ視線を送っていた。
──ドキリとするような事を津島さんに言われた。
「ほんと、私たちって似た者同士だと思わない?気にされて嬉しいでしょ」
「──っ」
「私は嬉しい、だから今日君を引き止めた」
「──夜を楽しむため?」
今まで見せたことがない本当の魔女のような、半月になった目を俺に向けてきた。
「良く分かってるじゃん。そういう君だってあかりのことを気にしているんでしょ」
「まあ…はい」
「紹介された子はどうすんの?ストック?」
「ストックって…千鶴さんに言われた通りにするつもりです」
「縁を切るの?君に切れるの?私は無理だと思うけどな〜」
「…………」
「現にこうして私と仲良くしてくれているんだから、自分に出来ない事は無理にする必要は無い、と私は思う」
「じゃあどうすれば…」
津島さんがわざとらしく俺に近寄り、「私と同じ事をすればいいんだよ」と耳打ちをしてきた。
やっぱり津島さんを見ていた千鶴さんがさっとキッチンへ来て、そしてそのまま食事会の幕が下りた(千鶴さんがキレたとも言う)。
突然二人っきりになった俺は困ってしまった。
「じゃあね〜」
「ご馳走様でした」
「大学の件、よろしくお願いしますね」
「お邪魔しました」
「丁寧なあかりが気持ち悪い件についてリターンズ」
津島さんの冗談を全員が無視し、俺も姉も津島さん宅を後にした。
「…………」
「…………」
冬本番を前にした夜は夏と違ってどこか空気が澄んでおり、外廊下から見える街の景色がはっきりと目に映っていた。
それだけ空気が乾燥しているという事であり、湿気も無いという事である。
こんなどうでもいい事を考えているということはつまり、姉とどう接すればいいのか分からないので現実逃避しているということであった。
俺はてっきり姉は一人ですたすたと帰るものとばかり思っていたがそんな事はなく、すぐ後ろを歩いている。
エレベーターに乗り込んで姉と向かい合わせになった時、ついと言葉が口から出ていた。
「大学の件って何?」
思っていた通りの反応──ではなく、すぐに返事があった。
──だからこそ戸惑うのだ。
「今度、大学で就活生に向けたセミナーをやるから良ければ来ないかって誘われたの。私みたいに店長の経験がある人ってなかなかアポが取れないらしくてね」
「へえ〜」
「日和ちゃんと同じ大学らしいね、彼」
「千鶴君って言わないんだ?」
「あんた嫌がってたでしょ」
(だったら何でさっきまで)
到着したエレベーターから降り、マンションのエントランスを出ると一気に冷たい空気が押し寄せてきた。
言葉を交わしたからなのか、それとも機嫌が直ったからなのか、姉が肩を並べてきた。
それでも姉は何も言わず、俺の言葉を待っているかのようだった。
マンション前の道から大通りに出る、途端に人と車で溢れ返り、年末特有の騒がしい空気がそこにはあった。
人の話し声や車の排気ガスの匂い、それからビル下に並ぶテナントから漏れ出る食べ物の匂いがごっちゃとなって俺たちを包み、いくらか気まずい雰囲気を和らげてくれた。
──気まずいと思っているのは自分だけかもしれない。
(人を好きになるのって大変だ)
高架下の信号に差しかかった時、姉の方から話しかけてきた。
「日和ちゃんとはどうなの?」
「どうって?」
「そのままの意味よ。ちゃんと仲良くしてる?」
「この間はマザコンとか言ってなかったっけ?」
「そうだっけ?忘れたわ」
「…………」
「…………」
信号が変わり、人混みに紛れて歩き出す。
沢山の人だ、俺も姉も自然と距離を詰め、とんと肩が当たった。
それだけでまた心臓が跳ねた。
信号を渡った先にも、美味しそうな匂いをダクトから吐き出す店が並んでおり、一番手前にあったラーメン屋の暖簾を見て腹の虫が鳴ってしまった。
「お腹空いた」
「──はあ?さっき食べたばかりじゃない」
「いやさ、胃が元気になったって分かると今まで我慢してきた物を食べたく──」そこでふと、姉の機嫌が悪かった理由が分かってしまった。
「──もしかして、ご飯作ってくれてた?」
姉は「はあ!」とか「もう!」とか言いながら何度も被りを振り始めた。
「全くっ!今頃それ気付くの?」
「ごめん、ほんとごめん!あれ、でも今日姉ちゃんの当番じゃなかったよね?」
「早めに終わったから作ってやろうって、それであんたが澪の所にいるとか──ああもういいわよ!というかなにニヤニヤ笑ってんのよ!」
「い、言ってくれたら良かったのに…」
「うっさい!」
気まずい雰囲気も、冬の澄んだ空気のお陰であっという間に空へ上っていった。




