第23話
(どれがいいかな〜)
なし崩し的に妹の家に住み始めてから一週間経ち、暦の上では冬を迎えた今日この頃。新居の近くにあったスーパーの中、日本酒がずらりと並ぶ棚の前で俺は睨めっこをしていた。
(この浮世絵が描かれたのも気になる…安全牌でいつものを買うか…贅沢に二本買うか…)
一つは一度も呑んだことがない銘柄であり、説明欄を読む限りではどうやら甘口っぽい。
もう一つはいつもお世話になっている銘柄であり、何度口にしても一向に飽きない辛口の一品だった。
酒のあてならたんまりとある、後はそれを口に流す酒だけ。
こうして日本酒を眺めながらどれにしようかと悩む時間もまた贅沢である、中にはラスト一本の銘柄もあり、前々から目を付けていたのだが別のお客に取られてしまった。
その人はその瓶を大事そうに持ち、まだ次なる獲物を求めて店内を渉猟していた。
(くぅ〜〜〜あれが一番欲しかったのに…)
日本酒は種類が多い、それらを満遍なく取り扱うには一つの店舗ではもはや不可能であり、故に初めて見る銘柄も多かった。
"酒盗"という食べ物をご存知であろうか、酒盗は塩が良く効いた魚の内臓であり読んで字の如く、"お酒を盗んででも食べたくなる"という意味があるらしい。
つまり、日本酒なるものは人を狂わせる力を持っているという事である。
(それだけ美味いって事なんだよな〜)
あと一時間くらいはこうして過ごせるなと思いながら物色していると、姉からメッセージが入った。
あかり:今どこ?
つぐも君:スーパー
あかり:ちょっと手伝って
あかり:ベッド移動させたい
つぐも君:ちょっと待って、すぐ帰る
自分の名前に『君』が付いているのは全て姉の命令である、前に俺が敬語を使って接したことに腹を立て、「あんたも同じ思いをしろ」という事でこうなった。自分で自分の名前に君を付けるのは地味に嫌である。
結局いつもの銘柄を買って家に戻ると、ジャージ姿の姉が出迎えた。
「まーた酒か」
「そのアル中みたいな言い方するの止めてくれない?休肝日明けなんだけど」
「ま、私も呑むからいいんだけどね〜」
(じゃあ文句言うなや)
リズミカルに階段を上る姉の尻を追いかける。
リビングに入ると、姉の部屋にあった家具やら私物やらがごちゃ〜っと出されていた。
「なに、泥棒にでも入られたの?」
「違うわ。いやベッドがね〜部屋の真ん中にあるのがやっぱり気に入らなくてさ」
リビングからキッチンを通って姉の部屋に入る、あらかた荷物は退かした後でど真ん中にキングサイズのベッドが鎮座していた。
「これ重いよ、二人でいける?」
「いけるでしょ」
姉が中腰になってベッドの縁に手をかけた、そのまま押すらしい。
俺は反対側に回って引っ張ることにした。
「その姿勢は止めた方がいいよ、腰に悪いから」
「平気よ。ほら、せーの──」
言ったそばから姉が「あ゛あっ?!」と叫び、そのまま動かなくなってしまった。
急性腰痛、所謂"ぎっくり腰"になってしまった。
◇
「引っ越しした途端に離れていくんだもん、何の嫌がらせかと思ってたけどさ〜こういう時は普通に私を頼るんだね君たちは」
「このご恩は一生忘れません」
「言質取ったからね?」
津島さんこわ。
ヘルプで呼んだ津島さんはぷりぷり怒っていた、それでもすぐに駆けつけてくれたのでやはり優しい人である。
ぎっくり腰になった姉はベッドの上で沈黙している、ベッドに上がるのも一苦労だった。
「最悪…最悪だわ…横になっているだけでも痛いだなんて…」
さっきから同じ事ばかり言っている。
「ね?だから言ったでしょ、腰の痛みは怖いって」
「ええ…良く分かったわ…あんた、こんなのに耐えていたのね…」
「まあ、厳密には違うけどね」
髪をサイドに括ったポンチョ姿の津島さんが優しく姉の体を触り始めた。
痛みが酷い時は治るまで施術はしない、まるで姉の体を愛撫しているような感じだった。
そして一言。
「筋肉が硬い、経年劣化」
「言い方悪」
「ストレッチもせずにこんな重い物持ったらそらそうなるわ。痛みが治まったら病院に行きなよ、それから患部を氷水で冷やして、楽になるから」
「え、な、何もしてくれないの…?」
「痛みがある時に触ると悪化するの、だから痛む所を冷やしてあげて、いい?」
「わ、分かった…この痛みが和らぐなら…」
「…………」
「…………」
津島さんと一緒にキッチンへ行き、そして思っていた事を口にし合った。
「弱ってるあかりって…」
「こう、虐めたくなりますね」
「どうする?熱湯かける?」
「いや鬼畜過ぎる」
姉の為に氷水を用意する。○ックロックの中に氷を入れ、そと同じ量の水を入れてあげる。
「手慣れてるね〜保冷剤を選ばないのは偉い」
「俺も使うなって注意されましたから」
氷水はいずれ溶けていくので心配はないが、アイシングをする時に保冷剤を使うと凍傷を起こす危険がある、俺もそうだと教えてもらったことがあった。
ジ○プロックを持って行き、仰向けに寝ている姉の腰にあてがった。
「はい、ちょっと腰浮かして」
「ありがとう…」
「濡れるかもしれないけど」
「別にいいわよそれくらい…」
(めっちゃ弱ってんな〜悪戯して〜)
よし悪戯しよう。
ぎゅっと目を瞑り、痛みに堪えている姉の頭に手を置いた。本人には似つかわしくない柔らかい感触が手のひらに返ってくる。
「何してんの…」
「弱ってる今のうちに日頃の仕返し」
「何で頭を撫でるの…」
「歳下に頭を撫でられるのはムカつくでしょ?だから」
「好きにして…」
(おお!何も反撃してこない!)
ゆっくりと頭を撫でて続ける、姉は何もしてこない!
撫で飽きた後は頬っぺたを触り、耳たぶを引っ張り、鼻を摘んで、鼻を摘みながら口も閉じて(さすがに怒られた)、もう一度頬っぺたを触り、きゅいっと摘んでやった。
(楽し過ぎる!)
行為がエスカレートした俺は姉のお腹に手をやり、意外とあったその無駄肉を摘んでやった、むにむにと。
知らない間に背後に立っていた津島さんに首根っこを掴まれてしまった。
「──ぐえっ」
そして耳元に届く冷ややかな声。
「何してんの?」
「え、その、弱っている間に日頃の仕返しを…」
「腰を痛めているのに?その間に君はあかりを虐めていたの?それはさすがに外道に過ぎると思うんだけど」
「す、すみません…」
「こっち来て、あかりがゆっくり休めない」
そのまま津島さんにずるずると引っ張れていく。
リビングに戻ってきてようやく手を離してもらい、津島さんがずずいと俺に詰め寄ってきた。
「…何羨ましいことしてんの?私だって我慢してたのに〜「やればいいでしょ」できない!それだけはできない!やったら絶対エスカレートするから!」
ぷるぷる震えていた津島さんがやがて落ち着きを取り戻しキッチンに立った、それから冷蔵庫の中身を検分し始めた。
「お腹空いているんですか?店屋物でも頼みますよ」
「いい、私が作る」
「自分の分だけ…せっかくだから皆んなの分も「最初からそのつもりだわ!!」
全く...と言いながら津島さんが、冷蔵庫の中から食材を取り出しシンクに並べた。
見た感じ、豚キムチを作ってくれるらしい。
「そのキムチ、姉ちゃんが厳選して買ってきた物ですよ」
「別にいいでしょ〜これくらい〜診てあげたんだから。たまには対価を貰わないと良いように扱われっぱなしになっちゃう」
「確かに。俺に出来ることはありますか?」
それはご飯を作る上でのつもりだったんだが、
「言質取ったからね」
二回もそう言われてしまった。
✳︎
──弱っている今のうちに日頃の仕返し。
そう言って、弟は私の体をぺたぺたと触っていた、それだけだ、それの一体何が仕返しだというのか。
(ほんとわけ分かんない)
これは酷い、腰の痛みが酷い。それは痛さの度合いではなく、"無視できない"という意味での酷さだ。
世の中に、"腰痛に効く!"という謳い文句の薬やら食べ物やら温泉やらが沢山ある理由が良く分かった、腰を痛める今日この日まで私はそれらを馬鹿にしていたけれど、この痛さを味わってよ〜く思い知った。
(痛いのにこそばゆいし、腹が立つのに離れてほしくなかったし、もうほんと頭がおかしくなりそうだった)
ああいう意味の無いスキンシップに私はとことん弱い、ずっと触っていてほしいと思うし、その感触に全神経が集中してしまう。
──というのに腰が痛いという、まじで感覚がバグっていた瞬間だった。
弟と澪がキッチンで何やらやっている、それから炒め物をしている良い匂いが部屋の中にも届き、どうやらご飯を作ってくれているらしいと分かった。
(──はっは〜…さては向こうに男がいるな…だからこっちで時間を潰して)──ああ痛い痛い…最悪…」
また、仕返しに来てくれないだろうか...
✳︎
津島さんお手製の豚キムチ、小松菜のおひたし、納豆入り味噌汁(納豆だと?)、それから冷や奴を堪能させてもらった。
美味しいご飯を作ってくれた津島さんに深々と頭を下げた。
「美味しゅうございました」
「お粗末様です〜」
「全部でいくらですか?お金払いますよ」
「…………」
「それだけ美味しかったって事です。帰島家の冗談に慣れてください」
両手で湯呑みを支え、美しい姿勢でお茶を飲んでいた津島さんがゆっくりと口を開いた。
「私が払ってほしいのはお金なんかじゃなくて、君の答え」
「………え?それはどういう…」
「あかりから聞いたよ、紹介された女性がいるって」
「あ、はい…」
津島さんもほんと機嫌がころころと変わる、来た時はぷりぷりと怒り、ご飯を作っていた時は面倒見の良い姉のように、そして今は長年連れ添った夫婦のような感じになっている。
決して声を荒げているわけではないが静かに俺のことを怒っていた。
「上手くいってるの?」
「え、まあ…はい」
「それは良かったね。──私、まだ君の返事を聞いてないよ」
「返事というのは…」
「惚けるの?」
「すみません…旅行の時ですよね」
津島さんは湯呑みを両手で抱えながら、上目遣いでじっとこちらを見ている。
「私もね、だらしがないよ、でもね、告白を無かった事にはされたくない、それはさすがにあんまりだよ」
「は、はい…」
「それなのに君は違う女性とデートをするの?私には苦手だと言って気を引いておきながら?」
「え、でも、津島さんも別に他の人と会ってもいいって…」
「そういう都合が良い部分は覚えているんだね、それは私が一番だったらという前提があっての話だよ」
(何でこんな詰め方されるんだろう、まるでもう付き合ってるみたいな言い方)
「どうするの、私よりその人を選ぶの?」
「え、そういう言い方はちょっと…」
「私にキスをしてくれたよね?どれだけ嬉しかったと思う?」
「そ、それは…」
怖い、こわ!女性云々関係なく、こう、全く意思疎通ができない会話を一方的にされるのは戸惑いとある種の恐怖があった。
津島さんは続ける。
「…いいよ別に、言ったように私もだらしがないから。ねえ、今度はちゃんと私にキスして、してくれたら許してあげる」
自分は全く悪くないと思っていても、そう言われると何故だか許されたような気分になってしまう。あるいは、この空気から早く逃れたいと、逃れられるなら「それぐらいなら…」と思ってしまった自分がいた。
「ちゃんとというのは…唇にって事ですよね…」
「そう。その人とキスはしたの?」
「い、いいえ、まだです…」
「それはどうして?仲が上手くいっているんでしょ?誰に気を遣っているの?」
ここで「あなたです」と言えば少しは機嫌が戻るだろうか──と。
まるで誘導尋問のようであった。
言うか言うまいか、自分の気持ちより「早く抜け出したい」という気持ちが勝ちかけた時、キッチンカウンターに置かれていたスマホに着信が入った。俺の物ではない、津島さんの物だ。
津島さんが素早く立ち上がり確認しに行く、そして電話に出ずに戻って来た。
「で、出なくていいんですか?」
「うん、仕事より今は君の気持ちが優先だから」
再び鳴る電話、部屋でノックダウンしていたはずの姉が出てきて、壁伝いに手をつきながらこっちにやって来た。
動いて大丈夫なのか、ご飯を食べに来たのかと見守っていると姉がキッチンカウンターに置かれたままになっていた津島さんのスマホに手を伸ばした。
「──だっ「──もしもし?澪?いつ帰ってくるの?もしかしてさっきの事怒ってる?でもさ、澪が良いって言ったんだよ」
姉が勝手に通話ボタンをタップし、さらにスピーカーモードに切り替えていた。
そのスピーカーから流れてくるのは男性の声であり、そして何かあったのか津島さんに縋っているように聞こえた。
「ねえ、もう我が儘は言わないからすぐに居なくなるの止めてく──」そこで津島さんがスマホに手を伸ばしぴたりと声が止まった、そしてそのままリビングから階段を下りて一階の玄関へ走って行った。
姉は何事もなかったように部屋へ戻ろうとしいる、だが、やっぱりまだ腰が痛いのかゆっくりと歩いていた。
「肩貸すよ」
返ってきた返事は「ありがとう」でも「別にいいわよ」でもなく、「自惚れんな」だった。
「あんたの為にやったんじゃない…電話の音が鬱陶しいかっただけ…」
「分かったから」
「何その口の聞き方…あんたに気遣われるぐらいなら仕返しされた方がまだマシ…」
姉はベッドに戻るまでの間、ひたすら文句を言っていた。
(さすがに分かるよ)
単なる照れ隠し、もしくは俺に気を遣わせないためにわざと言っているのだ。
──けれどそれはそれ、そこまで付き合ってあげられるほど俺は大人ではない。
「で、腰の方はどう?」
「…今見てたでしょ、歩けるくらいにはなった」
「氷水取ってくるから、それと津島さんがご飯作ってくれたからまた食べておきなよ」
「うっさい…」
姉をベッドに座らせキッチンへ戻る、氷水を用意する前についと階段下を覗くと津島さんはまだ電話をしていた。
二度目のジップ○ックを持って姉の部屋へ戻った。
姉は最後の最後まで文句を言い続けていた。
ほんと、素直じゃない。
✳︎
澪が囲っている男を弟に暴露させ、その後は三度ほど氷水が入ったジップロッ○を替えてもらい、そうこうしている間に腰の痛みも引いてきた。
まだ痛むが眠れないほどではない、このままキッチンへ行ってご飯を食べても良かったけれど、弟の前では何故だか躊躇われた。
弟はまだ起きているようだ、扉の向こうから気配がある。それから澪はついさっき帰ったようである、弟と何事か話をしていたようだがここからでは聞き取れなかった。
人はとかく現金なもので痛みが治れば腹の虫が騒ぎ出し、思うように寝付けなかった。
時間はあと少しで日付けも変わろうとしている頃だ、寝室の引き戸から漏れ出ていたリビングの明かりが消え、ようやく弟も自分の部屋へ引き上げたようである。
(明日にでも澪にお礼を……)
遅い晩御飯を取ろうとすると、引き戸がするりと開いた、自分の部屋へ引き上げたと思っていた弟が入ってきたのだ。
私は動きを止めて、期待に胸を膨らませて寝たふりをすることにした。
弟の気配が私の枕元にあり、最初はじっとしていたけれど頭にふわりと暖かい感触が生まれた。
──仕返しに来たのだ。
弟は暫くの間、私の頭を撫でて続け、昼間やってみせたように悪戯をしてみせた。
頬を触り鼻を摘み耳を引っ張り、昼間はしなかったけど唇を指で摘んだり、される度に腰の痛みが引き、えも言われぬ甘い感覚が全身を浸していった。
堪らなかった、ただ嬉しい、理屈ではない、ただ体を触られるのが嬉しかった。
それから弟は悪戯の対象を顔から体に向け、胸以外の至る所を摘み始めた、たまに痛い時があって手が出そうになったけどそれは根性で何とかした。
上半身に飽きた弟は、股間以外の下半身にも手を出していた。甘い感覚が下から上へ競り上がり、もう、どうにでもしてほしいとさえ思った。
そう思うと同時に自分がいかに歪んでいるか思い知らされ、激しい自己嫌悪にも見舞われた。
けれどその自己嫌悪も甘い波にさらわれ全てがどうでも良くなり、今すぐ寝たふりを止めて弟に抱かれたいとさえ思った。
だが、今起きてしまえば弟は二度とこんな事はしないだろう、それは確信であり私にとっては耐え難い苦痛でもあった。
だから寝たふりをし続け、甘い波に揺られながら意識が遠のき始め──
──人生の中で一番の眠りについてしまった。まだまだ起きていたかったけれど、強くて多幸感にも近い眠気に抗えず...眠ってしまった。
✳︎
「……………」
ヤバい何これちょー楽しい、反撃しない姉に悪戯をするのがこれ程楽しいとは思わなかった。
何か、初めの方は起きている気配があったけど途中で眠ってしまったようだ、試しに胸を一揉みしたけど反応がなかった。
また悪戯しよう、最高のストレス解消だ。
翌る日、早速悪戯をしようと姉の部屋へ行く。
姉はベッドに腰をかけた状態で既に起きており、部屋に入ってきた俺に向かって「朝這いか」と言ってきた。
「何やねんそれ初めて聞いたわ」
「何しに来た」
俺は黙って姉の隣に座り、ゆっくりと背中をさすってやった。
「…………」
まだ本調子ではないらしい、黙ってただじっとしていた。
さすっていた手を止める、今度は背中に人差しを立てて文字を書いてやった。
「……………」
書いた文字は「ばか」である。
姉は即座に「お前がな」と言ってきた。
今度は「あほ」である。
姉がまた「お前がな」と言ってきた。
最後は「すき」である。
姉は何も言わなかった。
ダメ押しに「へたれ」と背中に書いた。
すっかり腰の痛みが引いたらしい姉が血相を変えて追いかけてきた。




