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第2話

「ええ〜嘘でしょマジ?二日連続って…マジ?」


 マジである。

 有給を取消してまで仕事を終えた俺に待ち受けていたのは、二日連続の運転見合わせという仕打ちだった。マジ?

 周囲にいる人たちも昨日と比べて剣が強い、当たり前だ、二日連続で足止めを食らってしまったんだ。

 中年の人が駅の係員に何事か!と詰め寄り怒鳴り声を上げている始末、決してあの人が悪いわけではないのだが、さすがに二日立て続けに起これば怒りたくなる気持ちも痛いほど分かった。

 どうしようかと頭を悩ませつつも、俺の指はしっかりと『帰島あかり』の履歴まで指を進めていた。

 後はかけるだけである、けれど二日連続はさすがにと思い留まらせた。


(どうせなら向こうからかけてくれないかな)と都合良く考え五分ばかり待ってみるが、勿論そんな気配は一切なく、結局自分から姉に電話をかけた。

 思いの外、ワンコールですぐに繋がった。


「もしもし?」


「あ、その…きょ、今日も、いいですか?」


「何で敬語なのよ。別にいいよ」


「あ、ありがとう、ほんと助かる」


「買い物も済ませてあるから、昨日よりまともな物を出せると思うわ」


「本当にありがとう…」


「だから気にしなくて良いって。あんたの泣き顔を見ながら酒を呑んでやるから」


「好きなだけ肴にしてください」


 姉が電話口でころころと笑った。



「お帰り、って言えばいい?」


「ただいま、って言いたくなるね」


 姉がそう冗談を言いながら出迎えてくれたので、俺も冗談を言いながらまたお邪魔させてもらった。

 今日の姉は綺麗である、具体的にはその長い髪だ。昨日は少しぼさぼさっとしていたように思うが、艶があって枝毛もなく整えられている。

 ああ、ぼさぼさだったのは今日が休みだったからかと一人合点した。


「明日は仕事なの?」


 そう尋ねると、姉が少し驚いた様子を見せながら振り返ってきた。


「そうだけど、何で分かったの?」


「髪が綺麗だから」


「何それお世辞?」


「いや見たまんま言っただけど…」


 どうも、と姉がクールに返して先にリビングへ入った。

 「今日はまとも」だと言っていた料理は何と驚いたことに、


「おお…」


「あんた、驚き過ぎじゃない?」


「いやだって…」カレーである、さらにもう一品ついている!あれは唐揚げだ!これでテンションが上がらない仕事帰りの男性はいない。


「もうほんと至れり尽くせりって感じ」


「どうせお酒もあてにしてるんでしょ」


「いやまあ…そう言われると…」


 姉がまたニヒルな顔で答え難いことを訊いてきた。


「私の家に来たのも案外お酒が目当てだったりして?」


 うう〜ん、と少しだけ迷うが白状することにした。


「ううん、どっちかっていうと姉ちゃん」


「はあ?」


「もうちょっと喋りたかったって思ってたから。実家にいた時も仲良くなかったし、俺てっきり嫌われてるのかなって、でもこうして泊めてくれるしご飯まで作ってくれるし」


「そりゃこっちの台詞。そもそも──ううん、何でもないわ。またお酒出してあげるけど、私は早く眠るからね」


「うん、また朝ご飯作るよ」


「ありがと、あんたのご飯美味しかったよ」


「ど、どうも…」


 普段はクールでちょっぴり近寄りがたい雰囲気がある姉、けれどお礼を言う時は照れ臭そうに笑いながら真っ直ぐ言ってくれる。

 俺は知らないけれど、学生時代はさぞモテたことであろう。

 では早速と、カレーと唐揚げを頬張った。


「うんま〜」


「あんたも一人暮らししてたら分かると思うけど、ご飯が自動で出くるのは有り難いよね〜」


 コクと辛味が利いたカレー、それから塩胡椒で味付けされた汁たっぷりの唐揚げをごくんと飲み下してから答えた。


「言い方、自動って」


「だってそうでしょ、自分で用意するのってほんと大変じゃない?」


「分かる」


「朝でも昼でも夜でも、誰かがご飯作ってくれるのってほんと偉大」


「分かる〜」


「仕事終わってから料理ってほんと面倒だし、だからといってコンビニで済ませてたらあっという間にお金が飛ぶし」


「分かる分かる」


「私が一人暮らしを始めて真っ先に困ったのが食べ物ね〜。あんたは?」


「俺も似たようなもん。一人暮らしって全部自分でしないといけないでしょ、掃除も洗濯も、面倒だって放置しても誰もやってくれないし」


「分かる〜」と、話が弾み始めた辺りで姉が早速一升瓶を取り出した、しかも昨日とは違う銘柄である。


「ん!ふぉれはっ!」


「食べながら喋るな、行儀悪い」


 そのお酒もとても有名なものである。昨日呑んだものと比べて酸味が強く、どこかワインに似た味ではあるがこれもまたすうっと味が引いていくのだ。

 日本酒には甘口、辛口とあり、一般的に酒度が低いほど甘く、高いほど辛くなる。この時の"辛い"とは辛味のことではなく、俺的に"すうっと引く"ことだと思っている。俺的にね。

 甘いものほど舌に残り、辛いものほど残らない、俺は辛口が好みだった。姉も辛口のお酒が好みのようだった。

 その姉が、招き猫が描かれた湯呑みに日本酒を注ぎ、一口だけ呑んでから俺にこう言った。


「あんた、私と一緒に住まない?」


「──ごっほ、げっほ!」


 そのあまりに唐突な誘いに、カレーを吹きかけてしまいむせてしまった。

 一緒に住まないって?俺と?


「……住むって、俺と?」


「そ」


「恋人とかいないの?」


「いないわ。そういうあんたは?いるの?」


「ううん、いないけど…」


「だったらどう?私とあんたで一緒に暮らすのは」


「どうって言われても…そんな急に…」


 あれだけ美味しかった食べ物の味が途端にしなくなった、いきなり同棲を持ちかけられて心臓が舌の働きを奪ったようである。


「いやね〜昨日も言ったけど一人は寂しいし、それにあんたが作ってくれた朝ご飯も貧相だった割には心に染みてね〜、ああ…美味しいなって」


「そりゃどうも」


「だから私とあんたで二人暮らし、互いにご飯を作ってお酒を呑んで駄弁って。あんたもここに住んだ方が職場も近くなるし良いんじゃない?」


「え、ここで二人暮らし?」


「このマンションが嫌なら引っ越しするわよ。って、プライベート空間が無いもんね、ここでは無理か」


「部屋がというより…」


 姉はいつも真っ直ぐだ。


「私が嫌?さっきは私が目当てって言ったくせに?」


「いやそういう意味じゃなくてね、数年ぶりに再会していきなり同棲しないかって言われるのが戸惑うって言ってんの」


「そんなもん慣れろ」


「無理言わないで」


 姉は片肘をついてニヒルな笑みを浮かべている、湯呑みで唇を湿らせてから言った。


「あんたに嫌われていないって分かったんだし、私も仲良くしたいの」


「いやあの…止め刺さないでくれる?」


 あっは!と笑ってから、


「なら決まりね」


「恋人できたらどうすんのさ」


「そん時に決めればいいでしょ。先に結婚した方が家を出る、残った方が家を引き取る。というか、あんたには恋人ができるあてでもあるの?」


 ない。マジである。この方恋人ができたことは一度もない、恥ずかしいのでそんな事絶対言ったりしないけど。


「ない。姉ちゃんは?」


「ない」


 いやそんなはっきり...


「嘘、絶対モテるでしょ」


「そりゃあね、モテはするけど恋人にまでは発展しないかな〜。私、面倒臭い性格してるから」


「分かる〜」


 姉のデコピンが迫ってきたのでお皿を持って避難した。



 結局もらったデコピンのせいで痛むおでこを摩りながらお風呂へ向かう。お酒を呑む前に済ませておけ!と姉に怒られたからだ。

 コンビニで買ってきた下着類を取り出し(さすがに二日連続同じ下着は無理)、服を脱いで入る。

 お風呂場には所狭しと見たこともないボトル類が綺麗に陳列され、とても良い匂いがした。


(何でこんなにフローラルな香りが)


 早くお酒が呑みたいのでささっと済ませる。

 ボトルの一本を取ってみると韓国製のシャンプーだった、裏側にはハングル文字で何やら書かれている。


(こんなの何処で買ってくるんだろう。少なくとも近所のスーパーには売ってないよね)


 どうせ使ってもバレないだろうとそのシャンプーを使わせてもらい、ついでにリンスも使わせてもらい、これまた外国製のボディソープも使わせてもらった。

 全身くまなく良い匂いである。


(ほんと女の人ってこういう物沢山持ってるよね)


 さささ!と済ませて脱衣所に戻り、高そうなドライヤーで頭を乾かしリビングへ戻った。

 リビングでテレビを見ながら湯呑みを傾けていた姉から一言。


「早。ちゃんと洗ったの?」


「大丈夫」


「いや洗ったかって訊いてんの、何が大丈夫なのよ」とすっかりご機嫌の姉がくすくすと笑っている。

 何を見ているのかと尋ね、ただテレビを付けただけだと返事を返された。

 俺もテレビを見る習慣はなかったので画面には目もくれず、テーブルの上に乗せられた酒瓶に手を伸ばした。

 その手をぱちんと姉に叩かれた。


「先に言う事あるでしょ」


「いただきます」


 お許しが得られたので自分の湯呑みにお酒を注ぎ、早速ちびりと呑んでみた。


「んま〜〜〜」


「あんたそればっかりね」


「だって旨いんだもん」


 昨日再会したばかり、小さな頃から数えてもう一〇年以上は疎遠になっていた姉と肩を並べて座り、二人とも見るともなしにテレビを見ながらお酒を呑み合う。

 ほんと、人生はどうなるか分かったものではない。一昨日の自分が今の状況を聞いたら耳を疑うことだろう。

 姉はスマホを弄りながらお酒を呑み、俺もスマホを弄りながらお酒を呑む、テレビはただのBGM代わりだ。


「これ見て」


 姉が自分のスマホを俺に差し出してきた。

 そこには学生服姿の若かりし姉が映っていた。

 やはりこの時から美人である、というか知ってるし家で見てたし。

 この時はもう赤の他人のような関係だったので一度も口を利いたことはなかった。

 素直に「綺麗だね」と褒めたくなかった俺は冗談を口にした。


「誰この綺麗な人」


「見れば分かるでしょ、私よ私」


「この写真が何?」


「私ね、高校の時は演劇部に入ってたのよ。それでこの写真は三年最後の時に演劇をやった写真。皆んな演技が上手くて結構ウケも良かったんだから」


 言われてみれば確かに姉の周りには手作り衣装を着た人たち、それから黒板にでかでかと「マヂ最高!」みたいな言葉がチョークでカラフルに書かれていた。


「絵に描いたような文化祭だね」


「あんたは何してたの?」


「俺?俺はテニスやってたよ、それに女子が全然いない工業系の高校に通ってたからこういう文化祭とは縁がなかったかな〜」


「テニス?ラケットなんかうちにあった?」


「ううん、三年間部室に置きっぱ」


「強かった?」


 もう呑んでしまい空になった湯呑みにお酒を注ぐ。とくとくと耳触りが良い音が鳴った。

 そして、俺はちょっと偉そうにしながら姉の質問に答えた。


「県大会準優勝!」


「本当に?結構強いじゃない!」


「そしてその後は腐ってレギュラー落ち!」


 それはダサすぎ〜!と姉が豪快に笑い飛ばした。

 お互いに知らなかった高校時代の話をしながらお酒を呑み続け、気が付いたらあっという間に遅い時間帯になった。


「あやっばもうこんな時間。そろそろ寝るわ」


「うん、おやすみ」


「明日はどうすんの?自分の家に帰る?」


「う〜ん…起きてから考える。明日こそ休みにしたから三連休だし」


「あっそ。おやすみ」と言って、姉が自分の部屋へ入って行った。



 その日は幼い頃の夢を見た。

 俺と姉、二人仲良く遊んでいた時の夢だ、追いかけっこをしたり隠れんぼをしたり、中学から仲が悪くなることも知らず、日が暮れるまで遊んでいた。

 起きたのは昼を前にした時間帯だった、今日は生憎の雨でどんよりとした空からざあざあと降りつけていた。

 姉は出勤して既にいない、キッチンに置かれたテーブルの上にはラップがかけられたお皿がある、その隣にはこの家の鍵も置かれていた。


「あちゃ〜」

 

 朝食まで作ってくれた、これでは帰るに帰れない。

 有り難くご相伴に預かり、姉から受け取った鍵をポケットに入れて良く知らない街へ繰り出した。今日の晩飯は自分が作ろう、それぐらいの恩返しはしなければならない。

 遅い朝食を済ませて身支度を整え、降り頻る雨の中家を出た。

 傘立てにあった一本のビニール傘を広げてマンション前の通りを歩く、ここへ来る時はいつも夜なので周囲に気が付かなかったけど、どうやら商業施設が軒を連ねる所らしい、いかにも都会っぽい街並みだった。

 ぶらぶらと辺りを散策しながら歩き、これではスーパーが見つけられないとスマホを取り出し現在位置を調べる。


(あ、近くにスーパーあるじゃん)


 ズボンの裾を濡らしながらそのスーパーへ向かう、少し歩くと全国展開している有名なチェーン店の看板が雑居ビルの向こうに見えてきた。

 有料の駐車場が地下に埋め込まれたスーパーに到着した、結構大きい、店内に入ると色んなお店が小ぢんまりとしたスペースに詰め込まれ、その奥にこの大型店舗を支配するチェーン店の食料品売り場があった。

 見るともなしに店内をぶらつき、それから食料品売り場へ向かった。

 お昼を前にした時間帯からなのか、沢山の人がレジに並んでいた。


(さあて、何を作ろうかな〜)


 姉に何が食べたいか訊いてみようかとスマホを取り出すが、これでは恋人同士みたいではないかと再びポケットにねじ込んだ。


(今日も呑ませてもらう前提なら和食かな〜魚とか最近食べてないし)


 地元で大変お世話になっているスーパーとは比べものにもならないほど、綺麗な鮮魚コーナーにやって来た。

 外国産、国産の魚が活き活きとした目でトレイにパック詰めされており、しじみやあさりも生きた状態で売られていた。あれ一度も買ったことがない。


(あれどうやって調理するんだろう)


 しじみの味噌汁とかも飲みたかったけど諦め、俺はそのままお肉のコーナーへ向かった。


(あ、ハンバーグ、ハンバーグにしよう)


 唐突の閃きに任せ、一〇〇グラムいくらで売られているミンチのパックを手に取った。そうと決まれば後は野菜に調味料、買う物が決まってほいほいと買い物カゴへ放り込んでいく。

 スーパーで買い物を終え、姉のマンションに戻ったのは正午を過ぎた辺りだ。雨はその勢いを衰えさせることなく降り続け、雨雲もどんどんその濃さを増している。

 晩御飯作りまでまだ時間はある、ニ宿ニ飯のお礼に家の掃除でもしようと袖を捲った。


「あれ、洗濯物とかってどこにあんの」


 キッチン、それからリビングには何も無い、となると残るは一度も入ったことがない姉の部屋だ。さすがに寝室に入るのは躊躇われた。

 キッチン横のパントリーに置かれていた掃除機(何か高そうなコードレスタイプ)を玄関先から始めてリビングまでかける、それから自分が使った食器を洗い、たまたま目に入ったインスタントコーヒーの瓶があったのでそれを飲ませてもらった。

 時間はまだまだたっぷりある、見るわけでもないのにテレビを付け、淹れたてのコーヒーをずずずと啜った。

 と、そこで唐突に「今日もここに泊まっていいんだよね?」と不安になったので姉にメッセージを入れた。


つぐも:今日も泊まっていいんだよね?


 仕事中かなと思ったけど、意外とすぐに返事があった。


姉:b


 やっぱり仕事中らしい、"サムズアップ"を表すBの小文字だけが返ってきた。

 さらに返事があった。


姉:鍵渡したでしょうが



 ソファでうたた寝をして起きたのが夕方頃、そして俺は晩御飯作りのためキッチンに立った。


(よし!今日こそまん丸に焼いてやる!)


 ハンバーグの何が難しいって、綺麗に焼くことである。一人暮らしを始めたばかりの時に作ったハンバーグは半焼け、これでは食べられないとサイコロ状にカットしてサイコロハンバーグに仕上げたものである。

 買ってきた玉ねぎをみじん切りにしてフライパンへ、きつね色になるまで火を通して後は冷蔵庫へぽい、冷えた後にミンチ、パン粉、それから玉ねぎと肉の臭みを取ってくれるナツメグ、最後に牛乳を入れる。

 使い捨てのビニール手袋をはめてボウルの中でかき混ぜる、それから形を整えて出来上がったハンバーグの素から空気を抜くため手のひらに叩きつける。これをやらないと焼く時に空気が抜けてしまい、ハンバーグがぱっかりと割れてしまうのだ。

 後は焼くだけになったハンバーグの素を寝かせるため冷蔵庫へ再びぽい、何故寝かせるのかその理由は知らないが寝かせた方がいいらしい。

 ひと段落したところでスマホにメッセージが入った、姉からだ。


姉:車の運転ってできるよね


つぐも:できる。迎えに行った方がいい?


姉:来てくれたら助かる、この雨はめんどくさい


つぐも:車持ってるの?


姉:持ってる


つぐも:鍵は?


姉:げかん


姉:玄関、赤いヤツ


つぐも:職場どこ?


姉:[画像を送信しました]


つぐも:何時くらいに行けばいい?


姉:一九時くらい


姉:m(_ _)m


 まだ仕事中らしい、言葉は片言だし脱字もあったし、了解と送ったメッセージに既読が付かなかった。

 

(都会の運転怖、何であんなに車線多いの)


 寝かしておいたハンバーグを取り出し、IHのフライパンを温めいざ勝負!

 無事にこんがりと焼き上がり、サラダも作って晩御飯の支度を終えた。

 時間はもう一八時を回ろうとしていた、夜になっても雨はしつこく降り続けている、きっと色んな人が車で移動するんだろうなと思ったので早めに家を出ることにした。

 マンションの裏手にあった数少ない駐車場には赤い車が何と三台も停まっていた、側から見たらどれが姉の車なのか分からない。

 有り難いことにスマートキーだったので離れた位置から解錠ボタンを押すと、一番手前に止まっていた軽自動車のハザードランプがちかちかと灯った。

 

(これだよね)


 不安に思いつつ運転席に乗り込む、ドアポケットに『乗入許可証』と書かれたプラカードが入っており、そこに姉の名前があったので一安心した。

 姉が働いている職場の住所をカーナビに入力しいざ発進、マンション周囲の道路は静かなものだが幹線道路に出ると、


「うわ〜凄い渋滞」


 雨で少しだけ煙る道路にはびっしりと車が列をなしており、見える範囲で空いている所は一つもなかった、早めに出ておいて正解だった。

 都会の街並みに碁盤の目のように設置された信号に目と足を取られながら、予定より数十分も遅れてようやく姉が働くショッピングモールに到着した。

 そこは高速道路のインターチェンジから程近い場所にあり、他府県からやって来る人も多いのだろう、先を走る車のナンバープレートは県外のものを示していた。

 ショッピングモールのロータリーも大渋滞である、停車する場所なんかない、これはぐるぐる回らないと駄目かなと考えていると、お城のような佇まいを見せるモールの入り口で立っている姉を発見した、タイミングばっちりだ。

 

つぐも:着いた、今ロータリー、姉ちゃん見えてる


 そうメッセージを送ると姉が途端にきょろきょろとしだし、そしてすぐにこちらを見つけてぱっと顔を輝かせた。

 衰えるどころかさらに強く降る雨の中、姉がビニール傘を片手にこちらに駆けて来た。

 姉が助手席の扉を開けると雨の音が一気に増した、傘を差していたはずなのに肩はびちょびちょだった。


「いや助かるわ〜ありがとう」


「この雨はひどいね」


 仕事着姿の姉はさらに別嬪だ。長い髪を首筋辺りでお団子にし、化粧もばっちりしているので広告に出てきそうなモデルのように見えた。

 姉が濡れた肩やら袖やらをハンカチで拭い、車が進み始めたのでゆっくりとアクセルペダルを踏んだ。


「いつもはどうしてんの?」


「最寄りの駅からバスで通ってる、でもこの雨だからバスも混むだろうし、かといって数十分も歩いてらんないし」


「変な所にあるね、このショッピングモール」


「それでも人気なの、インターチェンジから近いから他所からもやって来るし。ほんとあんたがいて助かったわ」


「そりゃどうも」


「晩御飯は?もしかして作ってくれてたとか?」


「渾身の出来のハンバーグ──わっ」


 停車していた車に横入りされないよう車間距離を詰めて走っていると、突然わしゃわしゃと、まるで犬を撫でるかのように頭を撫でられた。

 姉だ、あの姉が俺の頭をわしゃわしゃと撫でてきた。


「でかした!」


「もう!恥ずかしいでしょ!止めて!」


 姉は子供っぽく笑い、恥ずかしがる俺に構わず頭を撫でてきた。



「うんま〜〜〜」と唸っているのは俺ではない、お風呂上がりの姉だ。それに味もちゃんとしているらしい、喜んでもらえて何よりである。


「送迎に晩御飯まで、一人暮らしではできない贅沢ね〜」


「恋人作れば全部してもらえるじゃん」


「それがそうもいかないのよ」


 経験済みですか。


「その人とはもう別れたの?」


「気になる?」


 家に帰り姉が速攻お風呂へ直行し、その間俺が食卓を整えて一緒に晩御飯を食べていた。

 恋人の話になった姉は、またいつものニヒルな顔で俺を見ていた。


「ん〜〜〜そこまででも」


 すっと顔を引いた姉が意地悪を言ってきた。


「なら今日はお酒は無しね」


「あ!気になる気になる!凄い気になる!」


「嘘くさい。そういうあんたは?恋人はいたの?」


 サラダを突いている姉にそう訊かれ、俺は言葉を濁した。


「う、うん、まあ…」


「いつ?高校の時?あんた確か専門学校にも行ってたわよね」


「え、まあ、うん、そん時かな」


「いやどっちなの、専門学校?」


「そうそう」


「ふ〜ん…」


 姉は興味を失くしたようにハンバーグを口に運び、また「うま〜」と唸った。

 ハンバーグを平らげサラダは少しだけ残し、満腹になった姉が再び恋人の話をしてきた。


「いつだったかな、あんたが前に来た後ぐらいに別れたの、だから五年前ぐらい?」


「そんなにいないの?」


「別れた後に店長を任せられるようになってさ、そこから仕事にまっしぐら、恋する暇も無かったわ。仕事にかまけ過ぎても駄目ね〜それまでの友達とは疎遠になっちゃうし帰っても一人っきりだし、いやマジで寂しいだけだわって思ってる時にあんたから連絡があったのよ」


 今日の姉はお酒を呑んでいないにも関わらず良く喋る。


「そりゃ最初は私も何で今頃って思って戸惑ったけどさ、うちにやって来たあんたの疲れた顔を見たら自分と同じじゃんって思って」


「そんなに疲れてた?」


「うん、それに寂しそうな顔をしてたよ」


「…………」


 それは意外だ、俺も一人は寂しいと感じていたのかもしれない。

 けれど、独りは楽でもある。プライベート空間に他人がいないから気を使う必要も無いし、自由を維持するための苦労はあれどやはり気兼ねしないのは良い。

 だからといって、それが充実感に繋がるかは別の問題でもあった、それは俺も一人暮らしをして十分思い知った。

 他人と共にいる苦労とストレスは即不幸とはならない、寧ろ、その苦労とストレスを抱えなければ得られない充足感があることを知った。まさに今である。


(姉と同棲か〜…まあ、それも悪くないかな〜)


 姉が食後のコーヒーを淹れるため席を立ち、「あんたも飲む?」と尋ねてきたのでその背中に答えてから、昨日持ちかけられた同棲の話をした。


「…俺もここに住むよ」


「え?何?」


 声が小さかったらしい、いや小さかったか?

 訊き返されたので今度ははっきりと答えた。


「姉ちゃんと一緒に暮らすよ」


「え?それ決まってた話なんじゃないの?だから鍵受け取ったんでしょ」


 決まっていたらしい。

 いやー頭が上がらないな〜と、淹れてくれたコーヒーに口を付けた。



✳︎



 長年音信不通で、連絡のやり取りなんか殆どしてこなかった弟が目の前にいる、不思議な気分だ。

 その弟が先日、突然家に泊めてほしいと連絡を寄越し、慌てた私は散らかっていたリビングの片付けをして衣服などを自分の寝室に放り込み、落ち着かない気分で弟の到着を待っていた。

 数年ぶりに再会した弟は、さっきも言ったようにとても疲れ、そして捨てられた子犬のように寂しそうな顔をしていた。

 その時に考えが変わった、あ、こいつは別に私の事を嫌っていたわけではなかった、と。

 嫌っている人間に見せる表情ではない、それに弟は私が作った貧相な野菜炒めを半泣きになりながら食べたのだ。もっと良い物を作ればよかったと後悔した。

 そんな弟とこれから同棲する、互いに恋人がいないから楽だし、それに何より家族が自分の傍にいるというものは安心感がある。

 その弟は私が淹れたコーヒーを啜りながら、ちらちらとお酒が入ってる棚に視線を寄越していた。

 そういうのはあまり好きではない。


「何?そんなにお酒が呑みたいの?」


 少し語気を強めて尋ねると、弟が細い肩をびくりと震わせた。


「そ、そんな事ないよ、何言ってんのさ」


 私と似た目元に小さな鼻、この子は昔から童顔だがそれは今も変わらないらしい、それに身長も私より低い。


「どうだかね〜あんたが私と同棲するのもお酒を呑みたいだけかもしれないね〜」


 つい、これは昔からの癖でつい意地悪な事を言ってしまう、そうやって何度も弟を困らせてきた。


「だから違うってば。──コーヒーご馳走様、片付けは俺がやるからゆっくりしてて」


「──ああ、うん、ありがと」


 見た目はあまり変わらないが中身は成長したらしい。小さな頃は意地悪を言うと私に縋ってきたが、今の弟は軽くあしらう程度だ、これではどっちが上なのか分からない。


(まあ…いいか、ゆっくりやり直せば…)


 誰が悪い、という事は無かったと思う、あれは事故だ、けれどその事故のせいで私たちは疎遠になってしまっていた。

 片付けをする弟の背中を見ながらコーヒーを飲む。向こうは意地でも張っているのか、その後はお酒の話を一つもせず一滴も呑まず、その日はそのままお互い眠りについた。

 眠りにつく間際、弟が私に言った言葉を思い出していた。


 ──俺もここに住むよ。


 本当は聞こえていたけど、私は「え?」と訊き返していた。

 そして弟が...


 ──姉ちゃんと一緒に暮らすよ。


 そう、言ってくれたのだ。

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