第16話
(な──ちょ、ええ?)
〜旅行初日の夜にて〜
最悪な旅行になってしまった。姉と仲直りできず、ずっと気まずい思いをして、けれど向こうが悪いという気持ちも捨て切れなかったから素直になれず...
そして迎えた旅行初日の夜、家族全員が広い和室で川の字で眠っている時、誰かの気配を感じて目が覚めた。
姉だ、姉が俺の枕元に座ってこちらを覗き込んでいた。心臓が飛び出るかというぐらい驚き、何も言えなかった。
「……………」
その姉がゆっくりと顔を近付けてきたので──。
「…な、何?」
「──っ!」
姉が素早く離れ、俺はついその手を掴んだ。
掴んでしまえば肚に蟠っていた怒りも消え失せ、そのまま部屋の外へ連れ出した。幸い、母も妹も眠っている、気付かれた様子は無い。
老舗旅館の立派な待ち合いロビーまで連れて行き、常夜灯の明かりに照らされたソファに姉を座らせた。俺もその隣に腰を下ろし、相手の様子を窺った。
姉はこちらを見ようともしない、揃えた足に手を置き、そこをじっと見ているだけだ、照明が暗いこともあって顔色も分からない。
何と声をかければ良いのか、あれだけ怒った手前無視した手前、適当な言葉が思い浮かばなかった。
「…………」
「…………」
暫く何も言わずにいても、姉は自分から離れようとしない、きっと俺の言葉を待っているんだと思い、こう言った。
「ごめん、言い過ぎた」
姉は何も言わず、ゆっくりと頭を振っただけ。
「ごめん、無視して」
また姉は何も答えてくれず、鼻を啜っていた。
ソファから立ち上がり、姉の前にしゃがみ込む。
はっとさせられた。
姉は黙って大粒の涙を流していた。声を殺してただ、ぼろぼろぼろぼろと。
──本当にこの人は卑怯だと思った、やっぱり勝てない、けれど泣かしちゃいけない、そう思った。
宝石のような涙を勿体ないぐらいぽろぽろと落としながら、俺のことをじっと見ていた。
「…変な事させてごめんね、俺が倒したんだよね、あのお酒、姉ちゃんが掃除してくれたんでしょ?変な事させてごめんね」
どうしてこんな事しか言えないんだろうと自分でも嫌気が差したけど、あの時泣きそうになっていた姉が、溢したお酒を一人で掃除していたのかと思うと胸が締め付けられ、謝らないと気が済まなかった。
姉はその瞳にまだまだ沢山の宝石を閉じ込めていたようで、俺がそう言うとさらに溢れさせ、口をへの字にして堪え、その唇が震えて、何度も被りを振って、ぽろぽろと落としていた。
姉がようやく、俺の言葉に応えてくれた。
「そんな事…どうでもいいよ…」
ぼろぼろに泣いて、それでも笑顔を作ってくれて、俺はここまで泣かせてしまったんだと今さらになって激しく後悔し、「これからはあなたの奴隷として生きます」とこんな時ですら冗談を言いたくなる口を塞ぐためにも、俺は姉に抱き付いた。
「ほんとごめんね…ほんとにごめん──っ?!」
姉も抱きしめ返してくれたけど、まるで力の加減がなっておらず、背骨がぽきりと鳴り、このまま万力のように締め殺されるのではないかと思った。
(あ!あ!──いやでもまあ、もういいや、このまま殺されても文句言えない)
不謹慎だけど、姉の胸に頭を預け、その姉に頭を抱えられるように抱きしめられているこの状況に、とても安らかな気持ちになった。
それはこの人が家族だからなのか──それは分からない。
◇
長かったようで短くも感じたあの安らぎの時間の後、落ち着いた姉の方から手を離し、今はひたすら鼻をかんでいた。
「ティッシュ足りる?ダンボールで買ってこようか?」
「…あんた、こんな時ですら冗談を言うその口何とかできないの」
「ごめん、何とかする」
姉がまたずびーっと鼻をかんでから、
「怒ってたあんた、ほんと怖かった。話しかけても無視られるし」
「うん、それはごめん」
「それは、何だ?」
「俺も怒ってたからさ、あれは酷いよほんと」
「…うん、ごめん、私もやり過ぎた。──ねえ、眠気ある?」
「ううん、全然ない」
「私も。ちょっと旅館の庭園を見て回らない?このままじゃ部屋に戻れないわ」
「いいよ、外出用の割烹着がロビーにあったはずだからそれを取ってくるよ」
「いいよ私も行く、そこまで気を遣わなくていいから」
「分かった、一緒に行こっか」
「あんたセンス無さそうだから自分で選びたい」
「その余計な口も何とかならないの?」
姉がふふっと無邪気に笑った。
ひっそりと静まるロビーを離れ、一種類しかなかった割烹着をお互いに羽織って表に出た。
途端に冷えた空気が俺たちを襲う、けれどしんとした夜はどこか美しく、のっぺりと広がる真っ暗な山もそれだけで幻想的に見えた。
隣にいる姉がすっと体を寄せ、俺の腕を取ってきた。
「え?」
「あ…ごめん」
「いや違──さっきはあんなにす、スキンシップ?を取ったから…ほら、ああいう事した後は嫌なんでしょ?だから驚いただけで…」
そうなのだ、だからあまり触れないように気を付けていたのに、その姉が当たり前のように腕を取ってきたからつい身構えてしまったのだ。
その姉は腕から手を離し、子供顔負けの拗ねた顔つきになっていた。
「ふん、だったらいい」
「え〜怒らないでよ、ごめんって」
「ふん」とは言いつつも、お互いの肩は触れ合っている。
今度は俺から腕を取る、「そこまでしなくていいよ」と口を尖らせてはいるが、手を払うような事はしなかったのでそのまま引っ張って歩き始めた。
老舗旅館の敷地内には立派な庭園があり、薄ぼんやりとした灯りを灯籠が放っていた。
頼りない灯りの下、俺たちはゆっくりと庭園内を歩く、会話するわけでもなく、丁寧に整えられた庭を見るでもなく、お互いの息遣いを確かめ合うように。
木々も寝静まり、世界全体が眠りに付いたように思わせる遅い時間帯でも、俺たち以外の宿泊客が庭園にいた。
それは一組みの老夫婦であり、互いに手を取り合わなくても俺たちより親密に見え、揃って庭の小さな池を見ていた。
男性が先に気付き、俺たちに向かって軽く会釈をしてくれた、慌てた俺と姉が揃って頭を下げ、そしてそれから再び池を見やっていた。
二つに分かれた道を、老夫婦がいる池の方とは反対側へ歩き出す。
「どう思われたかな?」
息を潜むようにそう尋ねてくる姉に答えた。
「妻の機嫌を取ってる情けない夫に見えたんじゃない?」
「何よそれ」
薄ぼんやりとした視界の中でも、作り込まれた植木が良く見えた。
それらを見るともなしに見ていると、姉がくいっと俺の手を寄せて、こう尋ねてきた。
「結婚について考えたことある?例えば、こんな人が良いとか」
「う〜ん…姉ちゃんは?」
「私?そうね〜…この性格でも傍にいてくれる人かな。あんたなら分かるでしょ?」
「命懸けの返答ですね、それは」
「はいはい。…で、あんたは?」
「う〜ん…一緒にいて落ち着く人かな〜」
「………」
「いやでもさ、さっきはこのままでも──あ、やっぱいい、忘れて」
「どうして言うのを止めるの?」
「湿っぽい感じになりそうだったから」
「いいよ別に、今なら」
「今だけなんだ」
「いいから」
「…さっき、姉ちゃんに謝ってさ、抱きついたでしょ?「うん「その時姉ちゃんも俺の頭を抱えていたでしょ「そうね「そん時はさ、ああ、このまま死んでもいいやって思えた」
灯籠から離れて行く度に闇の濃さが増していく、だからなのか、自分の胸のうちを伝えても恥ずかしくはなかった。
「もうこのまま一生泣いててくれないかなって──ああ、これ冗談だからね、それくらい離れたくなかった、あのまま眠りそうになったくらい」
ある一定の間隔で置かれた別の灯籠が見えてきた。その灯籠は庭園の入り口から一番遠く、庭を囲う石壁の向こうは手付かずの森が広がっており、人の気配もまるでない、そんな寂しさを覚える所にあった。
姉が言う。
「…また、してほしいって思う?」
俺は素直に答えた。
「うん」
姉が先に前を行き、手を伸ばしてきた。
「こっちおいで」
姉の手を掴み、引っ張られる、この時ばかりは何も考えられず、ただ引っ張られた。
灯籠の横に姉が立ち、濃くて暗い影を落としている。その陰影が今日見てきたどの景色よりも素晴らしく、さらに俺の思考を奪っていった。
姉が腕を広げ、「いいよ」と言う。
童心に帰った俺はその体に身を預け、姉の細い肩に顔を埋め、ゆっくりと息を吸い込みながら手を回した。
姉も俺の背中に手を回し、優しく、別人のように優しく、そっと抱きしめてくれた。
暖かった。冷たい世界の中でここだけが暖かった。
閉じていた目蓋を薄らと開ける、姉の肩があって、どんなに暗い影よりもなお濃い姉の髪の毛があって、それが自分に途轍もない程の安心感を与えてくれて、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
旅館の匂いだ、姉のものではない、けれどそれすらも愛おしく──。
このまま、このまま時が止まればいいのにと、進み続ける世界を呪いながら姉の温もりを感じ続けた。
◇
「怒ってない?大丈夫?」
「それ、これから毎回訊かれるの?」
「いやだって〜怖いんだもん」
「ちょっと鬱陶しいぐらいだから」
「やっぱり。──いやでも、昨日のあれでちょっとなら…」
「何?まさか変な事しようって考えていないわよね」
「俺はいいんだけどね?将来の旦那さんは絶対困ると思うよ、だって子作りが命懸けなんだもん」
「そりゃ命を作ってるんだもん、命を懸けないと駄目でしょ」
「うわあ…」
「何で引くの?」
翌る日、暑がりの母が夜中に暖房を消してしまったために俺は早くに目が覚める羽目になり、どうせならと朝風呂をかましてきた後だった。
それから部屋に戻る気にもなれなかったので、食堂になっている大広間の前の椅子に座ってスマホを触っていると、この姉がとことこやって来た。
きっかり椅子一つ分空けて隣に座っている。スキンシップを取った次の日はウザくてしょうがないと言ってた姉が、だ。気を遣ってしょうがない。
「姉ちゃんの機嫌パラメーターとか誰か作ってくんないかな、見える化してほしい」
自販機で買ったホットミルクティーに口を付けていた姉が咽せた。
「……あんた、私の事何だと思ってるの?」
「…………」
「スルーすんな。そういうあんたも昨日はずっとスーハースーハーしてたからキモかったよ。絶対将来の恋人に引かれるから止めた方がいい」
「そういう事言わないでくれる?しょうがないよ、生き物って匂いを嗅いで安らぎを覚えるんだから」
「キモ、言い方がキモい」
「…………」
「無視すんな」
「いやというか鬱陶しいなら俺の隣に来ないでよ、気を遣うんだけど」
「それが男の役目でしょ、諦めろ」
「ええ〜〜〜」だったら最後までやらせてよと言わずにそっと胸にしまった俺を誰か褒めてほしい。
「ねえ、今日は北に上がるんでしょ?」
「──え?ああ、うん、そうだよ。そこでゴンドラに乗って景色が眺められるから」
潮が引いた時に現れる海の道として有名な観光地を回り、二日目の宿がある風情満載な温泉地へ行く予定だった。
「そん時に股の下から景色を眺めるとゲン担ぎになるらしいから、スカートは止めた方がいいよ」
「え?そうなの?」
「ううん適当に喋った」
姉が肩パンを放ってきた。
自分は触れられるのを嫌うくせに、触れるのはオッケーとか身勝手過ぎる。
「…昨日、手を出しておけば良かったよ」
「やれるもんならやってみろ」
「何だと…」
「やーえっちー実の姉に発情するとか拗らせ過ぎでしょ」
「…………」
「いやちょっとは否定してくんない?普通に怖いんだけど」
「よく言うよ!自分から誘ったくせに!自分から安らぎを与えたくせに!」
「わ、分かったから!他の人もいるから!」
「いいよって、こう腕を広げていいよって!」
「や、止めなさいって!少しは羞恥心を覚えろ!」
姉が俺の隣に座り、口を塞ごうとしてきた。恥ずかしがる姉が面白く、さらにふざけようとするが、「あらあらあらあらまあ〜」と誰かが近寄ってきた。
母である。嘘ではない。そういえば一緒に来ていた事を忘れていた。妹もいた。
「昨日の仲の悪さが嘘のようね〜お母さんの心配に利子を付けて返してほしいわ〜」
「仲直りしても文句言われなきゃいけないの?」
「え…何があったの…?昨日はあんなだったのに…」
ぽかーんとした表情を浮かべ俺たちを見ている妹、寝起きだからかなと思ったけどそんな事もなく、スイッチが入ったようにしゅば!と動き、俺に体当たりしながら座ってきた。
「──痛い!」
「こ!ねえ!きょ、今日はここに行くんだよね?!ゴンドラに乗るんだよね?!危ないから一緒に乗ってほしいんだけど!」
「一人用だからそれ」
「私の膝の上に座ればいいよ!「何でそうなる?」
「あららら、三人に引っ付かれたらお母さんの居場所がなくなっちゃったわ、もう今から帰ろうかしら「帰れば?「──あかり!冗談でもそんな事言ったら駄目でしょ!」
三人揃って椅子に座っているだけで年甲斐もなく嫉妬した母が姉の隣に座り、マジで嫌がる姉も何のそのとちょっかいをかけ、朝食の時間になって現れた別の家族に「仲良しさんだね〜」と言われて全員揃って顔をさっと赤くしたりと、
まあ、天国にいる父がこの光景を見たら、羨ましいと感じるくらいには仲良くなれたと思いたい。
◇
天国の父に羨ましいだろうとエールを送った後、旅行二日目の朝食が始まった。
手前からお刺身、湯葉入りのスープ、海苔、そして卵焼きにウインナー、お次は水炊きのお鍋にお頭入りの味噌汁である。
量こそ少ないが、不思議と旅館の朝食は腹が膨れる。全員席に着いてから旅館の従業員が炊き立ての白飯を配膳してくれた。
「もしお代わりが必要であればお声をかけてください」
母が皆んなの分をよそい、合掌した。
「いただきます」×4
昨日はそれどころではなかった、姉と喧嘩したままだったし、せっかくの夕食の味もまるで覚えちゃいない。
だからお酒も呑まなかった。お頭入りの味噌汁を口に含んだ途端、無性にお酒を呑みたくなった。
テーブルに置かれていたメニューを手に取ると、姉が間髪入れずに突っ込んできた。
「このアル中め」
「昨日一滴も呑まなかったんだもん」
「朝からもうお酒ってさすがにどうなの?」
「呑まんわ」
母が突然、「こら」と真面目に怒ってきた。
「食事中ぐらい仲良くしなさい」
「え?」
「え?」
「え?」
俺たちの反応が意外だったのか、母もおうむ返しのように「え?」と言った。
「喧嘩しているんじゃないの?」
「いやこれ普通の会話なんだけど」
「うん」
「分かり辛いわね〜あんたたちって日頃からそうなの?」
「そうだよ」
「うん」
「見える化してもらえないかしら、頭の上にパラメーターとか付けて」
「分かるわ〜「いやあんたの事も入っているのよ?」
さすがは俺の母、同じ事を言う。
つまらなそうにしていた妹が「そんなに仲良くしていたら結婚できないよ」と言葉を挟んできた。
「離婚間近の奴が言うと説得力あるわ」
姉の暴言に妹が「何をう?!」と食ってかかった。
「あかり、止めなさい」
「ふん」
「全く…相変わらず仲良しね」
「どこが?」
「どこが?」
(息ぴったり)
それから暫く箸を動かす手だけが進み、姉妹の二人が食べ終え、俺が最後のお皿に手を付けている時に母が尋ねてきた。
「つぐも、恋人は?」
「唐突にも程がある」
「あかりと一緒に暮らしているのも、結婚するまでの間という約束なんでしょう?」
「そうだけど」
姉は自分も話に入っているのにスマホを横に持ってログインを消化していた、妹もテーブルに肘を付きながらスマホを弄っている。二人とも素知らぬ顔だ。
俺の視線を先読みした母が言った。
「あかりとたまねは心配ないけど、あんたはヤバいんでしょ?」
妹がさっと顔を下向け、肩を小さく震わせている。
「ヤバいって何が?」
「女っ気がないって事。さすがにその歳で女慣れしていないってどうなの?どこまでお母さんはあんたの心配をすればいいのかしら」
今度は姉がさっと顔を横に向け、肩を震わせた。
「え、そういう話をここでするの?いいの?」
「つぐも、誰に向かって口を聞いて「宮島さん「ああそうね!また今度にしましょう!」
母弱し。
やっぱり聞いていた姉妹が「え?」と反応を示した。
「宮島さんって誰?」
「…………」
「お母さん?宮島さんって誰なの?」
「…………」
「お母さん、今言いなよ」
スルーできないと悟った母が観念し、再婚を考えている相手がいる話を伝えた。
妹が真っ先に反対した。
「私反対なんだけどお母さん。いや私がね?こういう事になってて妬んでいるとかじゃなくて、知らない人が実家にいるのはちょっと無理って事。だから反対」と、いうのが妹の意見である。
対する姉はとくに顔色を変えずにこう言った。
「今は反対とも賛成とも言えないわ。たまねの件もあるし、私たちが気兼ねなく帰れる家は必要、かと言ってお母さんの人生を私たちの都合で縛るわけにもいかない。そんな感じかな」
「そうね〜…私もあんたたちに気を遣わせてまで再婚しようと思っていないわ」
「お兄ちゃんは?」
「俺賛成派」
「なら私は反対派」
「なら私の意見でお母さんの人生が決まるのね」
「嫌な有権者だこと…「何だって?「まあ、話が逸れてしまったけど、あんたたちが家庭を持ってしまえばそれっきりって事だから、言っている意味は分かるわよね?」
「まあ〜…孫の面倒は見てやるけど、私たち子供はもうお母さんから卒業って事なんでしょ?」
「そうよ、だからこの三人の中で一番結婚から遠いつぐも「おい」つぐもを結婚に導けばひとまず安心なのよ」
「で?さっきは何が言いたかったの?」
母がきりっとした表情で俺にこう宣言した。
「つぐも、あんたの恋人はお母さんが作ってあげるわ!」
もう姉妹がテーブルをばしばし叩きながら爆笑するものだから、旅館の人に注意されるわさらに周りの目を引きつけるわで必要以上に恥をかかされてしまった。
✳︎
母最高。
(あれはないわ〜私たちの前で恋人作ってあげるはないわ〜)
朝食を終え、身支度を済ませてから旅館の駐車場で母たちを待っていた。
さすがにあの二人の仲の良さには嫉妬したけど、母が全部持って行ってくれた。
私と姉は決して仲が良い方ではない、それでもあまりの可笑しさに二人して手を取り合い、お腹が捩れるほど笑った。
他の三人はチェックアウトを済ませている、私の代金は母持ちなので私だけ駐車場に来ていた。
天気は晴れ、山間の中に旅館があるので寒いのは寒い、けれど旅行日和と言える晴天に恵まれたので気にはならなかった。
やっと私たちの旅行が始まった、そんな気分だ。
──だと言うのに、私が、私だけが『曽根崎』であるが故に邪魔される羽目になった。
母が一人で駐車場にやって来た。
(はあ〜…こんな朝から電話をかけてくるなんて…)
母は何も言わず車の扉を開けて運転席に座る、中から「あんたも入りなさい」と言ってきた。
私が助手席に座ると、すこぶる機嫌を悪くした母が言った。
「これでケリを付けるわ、あんたも覚悟しておいて」
「…うん」
スマホに曽根崎家から着信があったのだろう、母が折り返しの電話をかけていた。
「──帰島です。このような時間にお電話をいただくことが迷惑だと分からないのですか?」と、開口一番キレかかった。
「何度も申し上げていますように、娘の所にもそちら様の息子さんからの連絡は──連絡があった?」
般若も青ざめるほど怒っていた母の顔つきが変化した。
「──でしたら、まずは当家と貴家の離婚について──いいえ、それはそちらの問題です、うちの娘は一切関与しておりません──それを明確にする為にも夫婦揃って──娘のたまねも了承しています。──たまね」
母が私にスマホを渡してきた。
何だこの展開はちくしょう...
さっきまであんなに楽しかったのに、ここだけ別世界のように息苦しかった。
「もしもし…」
数度しか耳にしたことがない夫の父親の声が耳に飛び込んできた。
「たまねさん!あなたは琢磨を見捨てると言うのですか!」
(そ、そんな言い方しなくても…)
年の功などまるで感じさせない、切羽詰まった中年男性の声が矢継ぎ早に飛んでくる。
何で私が、という理不尽な思いと、どうして私にスマホを渡すのか、という意味を込めて母に視線を寄越した。
「────」
母は私のことをただ睨んでいた、「お前が全ての元凶だ」と言わんばかりに、怒りを宿した目で睨み付けていた。
ぼっぼっと、胸に"怒り"の火が灯った。
(何で私やねん!!)
相手が息継ぎをする間を狙って、その怒りをぶつけるように言い切った。
「──既に決めた事です、これ以上のお付き合いは考えておりません」
そう言っただけでどっと疲れを感じ、後は私からスマホを引ったくった母がこの話し合いを締め括った。
「離婚の意志がある相手方の親族に対し、一方的な金銭の要求が果たして法の内に留まっていると言えるのか、それは第三者の仲介が無ければ私でも判断できかねます。──ですから、先ずは夫婦間の間柄を明確にすべき必要があると考えます、さもなければ両家揃って裁判所に赴かなければなりません。それはそちらにとっても望ましい結果ではないでしょう?──ええ、ご了承いただき感謝致します」
電話を切った母が「──旅行中に電話をしてくるなと言ってるでしょう!!」と怒りを爆発させながらスマホを後部座席に放り投げた。
「はあ〜〜〜やれやれだわ。たまね」
「何」
「よく言ったわ、さっきのあんた、女にしておくには勿体くらい凛々しかったわよ。お母さんがこの歳になってようやく得られた非情をあんたはその歳で得られた、自信を持ちなさい」
「………っ」
「話し合いの場はお母さんが整えるから。あと一踏ん張りよ、気張りなさい」
(ほんと、変な所で褒めてくる、さっきはあんな目で──)
──いや、母はきっと、私が情に流されないようわざと怒らせたのだ。
頭が上がらないとはこの事だ。
「……で、連絡があったっていうのは?」
「あんたの夫とようやく連絡が取れたそうなの、けど本人は作った借金に対して大丈夫の一点張り、自分たちの息子が信用ならないからまだ私たちに執着しているのよ」
「向こうは多額のお金が手に入ったんでしょ?何でまだこっちに執着すんの?」
「だから信用していないからって言っているでしょ。向こうは何が何でも自分たちの資産を崩したくないの、私たちはただの保険なのよ」
「はあ?借金でぱあになったから私たちに支援しろって言ってきているんじゃなかったの?」
母が心底馬鹿にしたように「そんなわけないでしょ」と言ってから、
「自分のドラ息子の不始末をこっちに擦り付けたいだけ、その妻があんただからただ執着しているだけなの。あっちは借金を作っただけで資産はたんまりとあるはずよ」
「なーんじゃそりゃ!返せるお金があるならさっさと返せっての!」
「言ったでしょうに気にする必要無いって、お母さんが言ってた意味が分かったでしょ?」
「は〜〜〜馬鹿ばかしい…」
「今だから言うけどね、確かにあんたが競馬に誘わなければ曽根崎家は今も安泰だった、あんたの夫もお金に追われる日々を過ごさずに済んだかもしれない」
「で?」
「けどね、お金に汚い人間はいずれお金で身を滅ぼす。上手い話があるからと詐欺にかかっていたかもしれないし、知人友人に騙されて搾取されていたかもしれない。どっちにしたって、人よりお金を選ぶ人間に良い結末が待っているはずがないわ、現に今がそうだから、あんたみたいな立派な人間に見捨てられているもの」
「急に褒めてこないで、普通にびっくりするから」
「ふふ、それだけ言えれば心配なさそうね「もうちょっと心配してくれてもいいよ「嫌よ、あんたの方が凛々しいって分かったもの。お母さんが手を貸すのはこれが最後よ」
そろそろあの二人を呼びましょうと、母が後部座席に投げたスマホに手を伸ばした。
それからそう時間もかけずに姉と兄はすぐにやって来た。
「はいおつかれー」
「はいお疲れ」
そして、その二人がかる〜い感じで私の方へ色んな物を投げてきた。
お菓子、飲み物、得体の知れないマスコットキャラクターのストラップ。
「…何これ?」
受け取り切れず、ぽろぽろと座席の下に落ちていく。
「だから何これ」
私へ渡してきたくせに、二人は理由も言わずさっさと後部座席に乗り込み揶揄ってきたではないか。
「帰島たまねへプレゼント」
「こら、今は曽根崎たまねでしょ」
「あれ、まだ離婚してなかったの?」
「向こうの家がいたく気に入ってるって」
「そりゃ競馬を教えてくれたからね〜ゲン担ぎになるんでしょ」
「あ〜だから今から北に上がるのね」
「たまねも大変だね〜人様の家まで馬券を当ててこないといけないんだから」
「いやあのさ」
「人ん家の馬券当てるぐらいならこの家裕福にしなさいよ」
「あのね?」
「馬券当てる前に俺の恋人当ててくれない?そっちの方が嬉しい」
「聞いて」
くるっと振り返って、
「全然面白くないから」
姉と兄がさっと頬を染め上げた。
運転席に座っていた母が一言。
「妹から笑いすら取れない自分たちを恥じなさい」
今日の運転手は母だ、その母が運転している間、後ろに座っていた二人はずっと「お前が悪い」と滑った原因を互いに擦り付け合っていた。
ほんと、遠回しな励ましである。
(素直じゃないなーこの家族)
ちらりと映ったサイドミラーの私の顔は、言葉とは裏腹に微笑んでいた。
次回更新 2023/4/1 20:00




