第10話
「たまねの家は広いねー」
最寄りの駅から徒歩二〇分、少し遠い、市内を血管のように通っている幹線道路から離れた住宅地の中に妹の家があった。
玄関から入ってすぐにある狭い階段を上った先に生活空間がある、所謂メゾネットと呼ばれる所だ。
リビングは姉のマンションより倍近くあり、キッチンの裏手に寝室、それから引き戸が収納されて分かりづらいがリビングにもう一部屋あるようだった。
「お母さん元気そうだった?」
「元気だったよ、たまねによろしくって言ってた、多分たまには帰って来いって意味だと思うけど」
「そのうちねー」
妹はキッチンに立っており、作り置きの料理を温めているところだ。
ロングTシャツに短パンというラフな格好、エプロンも付けており新妻って感じがした。
「旦那さんに言ってあるの?俺が泊まること」
「ううん、言ってないよ」
「ええ?それ大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、家族をうちに泊めてるだけなんだから」
妹がくるっと振り返り、「気にし過ぎ」と微笑んだ。
(まあ…いいのかな。いや、それよりも…)
キッチンカウンターなるものがこの家にはあり、そのカウンターには空になった酒瓶が置かれているのだ、それも結構な銘柄物が。まるで居酒屋だ。
「旦那さんも日本酒が好きなんだね」
ヘアピンで前髪を留めている妹が「ちょー好きー」と答え、「旦那に教えてもらって私も呑めるようになったんだよ」と言った。
「へえ〜良い旦那さん」
「お互いにね、好きな事を教え合ってるんだよ」
「なんか、理想の夫婦って感じだね」
「そんなんじゃないよ」
晩御飯の用意が出来たので有り難くご相伴にあずかった。
キッチンカウンターの前に置かれた小ぢんまりとしてテーブルに座り、妹が作った料理を食べる。
「どう?」
「これ絶対店屋物でしょ」と言いたくなる我が口を封印し、「美味しいよ」と言う。妹は嬉しそうに笑った。
もし、姉に対して「美味しいね」と言うと「馬鹿にしてるのか」と謎にキレてくる。だから姉に対しては「これ絶対店屋物でしょ」みたいな冗談を言うようにしている、謎にそっちの方が喜ぶからだ。
「良かった──わっ」
「たまねのご飯が食べられると思うと嬉しいよ」
あんまり嬉しそうに笑うものだから妹の頭を撫でた。褒めたら褒めた分だけ嬉しそうにするからもっと褒めたくなる。
「…………」
猫だったらごろごろと喉を鳴らしそうなほど、にこ〜っと目を細めていた。
ご飯を食べ終えお風呂に入らせてもらい、お洒落なボトルに並んで『気分爽快!』という男物のシャンプーがあることに安堵し、すっかり疲れを取ってから入浴タイムを終えた。
リビングに戻ると収納されていた引き戸がその姿を現し、四畳半ほどの部屋が出現していた。
「ここでいい?」
「うん、十分だよ」
「同じ部屋でも良かったんだけど…」
「い、いや、それはさすがにね、旦那さんに悪いよ」
俺もそんなベッドで眠りたくない。
それから妹と酒呑みタイムである、自分の肝臓がそろそろ心配になってきたが酒呑みタイムである。
テレビとスマホを交互に見ながら過ごし、またいつものようにお喋りを続けていた。
「夜勤って大変だよ〜体内時計が狂うし」
「旦那も前まで夜勤してたけど、同じ事言ってたな〜」
「まあ、お偉いさんがいないから楽なんだけどね、自分のペースで仕事できるし」
「ふ〜ん…」
「ああでもね、この間夜勤中にさ──どうかしたの?」
妹がじいっと俺のことを見ていたので気になった。
「ううん。それで?」
「ああ、うん、それでね、夜勤中に野良猫が工場の中に入って来てさ、皆んなで追いかけ回したことがあったんだよ」
「え〜猫可哀想〜」
「いやいや、工場の中って危ない所もあるからさ、猫が怪我しないように捕まえようとしたんだ」
「ふ〜ん…」
妹の歯切れが悪い、疲れているのかな。
全く頭に入ってこないテレビ画面から目を離して妹を見やる、また俺のことをじいっと見ていた。
「もしかして疲れてる?」
「ううん、どうして?」
「元気がなさそうだからさ、今日はもう寝る?」
「ううん」
(え、どうしてほしいんだ?)
妹は足を組んで俺にもたれかかっている。綺麗な足が眼下にあり、下着を付けていない胸元も目の前にあった。
困った顔をしていたからだろうか、妹の方から「羨ましいなって」と言ってきた。
「何が?」
「その猫が、きっと撫でられたんだろな〜って。どんな風に撫でたの?」
いや撫でてないんだけどとは言わず、
「……こんな感じに撫でたかな〜!」
二重構造になっている洒落たグラスをテーブルに置き、少し緊張しながら妹の顔を両手で挟んだ。それからぐりぐりとしてやると、嬉しそうに微笑んだ。
(良かった)
妹はくすぐったそうに目を細め、顎をついと上げてきたので今度はその顎下を撫でた。
今度は左耳を向けてきたので耳を触り、お次は逆の耳、最後は上目遣いになったので頭をゆっくりと撫でてあげた。
手を離すと妹は満足そう、頬も赤くなっていた。
「猫だね、たまねは猫だよ」
酔っているのか、妹が「にゃ〜」と鳴き真似をしてきた。
「いやそれはもう完ぺき猫だよ〜!」ともう一度同じことをしてあげた。
✳︎
「いや〜お兄ちゃんヤバいって、マジで私のこと猫扱いしてくるんだけど、あれはちょっとやり過ぎだって、顎も撫でるしさ耳も触ってくるしさ〜私耳弱いのに」
「知らないわよ」
「しょうがないから付き合ってあげようと思ってにゃーって言ってあげたの、そしたらまーた同じことしてさ〜恥ずかしいって歳考えなよ!みたいな」
「どうせあんたが無理やりさせてるんでしょ?あんま調子乗ってるとつぐもに言いつけるわよ」
「え〜追い出したくせに〜?そんな人の言う事信じるかな〜?」
(ちっ)
妹は私の休憩時間を知っている、だからそこを狙って電話をかけてきたのだ。
妹のたまねは昔からこう、とにかく私に自慢してきた。
弟からあれを貰ったこれを貰った、あんな風にしてもらったこんな風にしてもらったと言ってくる、子供の時もそうだった。
腹が立って妹を叩こうものなら、その場で大仰に泣いてみせ弟に抱き着きに行く。そして、絶対私に叩かれたとは言わないのだ、もしそんな事を言えば何故そうなったのかと訊かれ自分の行動を疑われてしまう、だから言わない。
妹はこと自分の兄に関しては徹底的に計算し自分を偽り甘え倒す。
良い皮肉が思い付いたので妹に言ってやった。
「猫被りするあんたを猫可愛がりするのは当たり前じゃない?」
「ちっ」
妹も遠慮なく舌打ちをし、そのまま電話を切っていた。
(は〜めんどくさっ早くあいつをこっちに戻さないと…)
もうハンバーグ弁当も飽きたのでゼリー食を食べている、スマホの画面には競馬情報が表示されていた。
あれから何度か調べていくうちに、この競馬と呼ばれるものがいかに奥深いものなのか知り、時間がある時は調べるようになっていた。
(馬単、馬連…競馬場の良し悪しにオッズの付けられ方…ほんと良くできてるわ〜)
別にやりたいわけではない、しかし弟も妹も賭け事をしているとあればさすがに無視することができなかった。
「お疲れ様です」
休憩室に良く働く後輩が入って来た。
「お疲れ様。──ねえ、あなたって賭け事とかしたことある?」
「──え!あ、はい、え?賭け事、ですか?」
入ったばかりの新人だ、私の馬鹿げた質問にもさっと顔を赤くし真面目に答えてくれた。
「あ〜…私はやりませんが、その、おと──ち、父が!やっています!」
父親をお父さんと言いかけ、それを恥ずかしがってさらに顔を赤くしている。
「そう。いやね、私の家族が競馬をやっているって最近知ってね、それでどういうもなのかなって調べていたのよ。あまり賭け事には良いイメージがなかったから私は疎くて」
実家暮らしなのか、子供が使いそうな可愛いらしい弁当の包みを開けようとしていた後輩が「私もです!」と言った。
「母も止めるように父と喧嘩したことがあるくらいです!私もギャンブルはどうかと思います!」
ずっと欲しかった同意を得られた私は、
「そうよね〜!あなたもそう思うよね〜!いえね、妹から賭け事ぐらいは当たり前なんて言われてたから自分の価値観に自信を失くしちゃって。──そうよね〜!」
「はい!」
気分を良くした私は食べずに残していたデザートを後輩に渡し、それから休憩室を後にした。
✳︎
「ただいま〜」
「お帰り〜」
妹の家で生活するようになって迎えた週末、すっかりお馴染みとなった挨拶、それは妹を撫でることだった。
頭を撫でて耳を触り、顎下に手の甲を当てる、それだけで妹はにっこり。
この挨拶をしないと妹の機嫌が悪くなる、いや、捨てられた子猫のようになってしまうのでやらざるを得なかった。
(でもまあいっか〜猫みたいに可愛いし)
撫で撫でを堪能している妹は目をぎゅっと瞑って嬉しそうにしていた。
「〜〜〜♪あ、明日のお昼ご飯はどうする?良ければ私が作るよ」
「いいの?じゃあお願いしてもいい?」
「うん!」
明日は休日、妹も休みなので競馬場へ遊びに行くことになっていた。
ここから少し距離はあるけど、競馬場の近くには有名な繁華街や劇場などがある、遊ぶには困らない所だ。というか俺の職場がある駅の先にあった。
妹が「今から下拵えだ!」と張り切りキッチンに立つ、「その服しかないの?」と言わんばかりに今日の服装も肌の露出が多い短パンだ、上はキャミソールにカーディガンを羽織っただけ。
「…………」
その点姉はきちんとした服装が多かったように思える、肌が露出してもせいぜいお風呂上がりくらい、火照りがおさまったら必ず長袖の物を着用していた。
言っていい?はっきりと言って目のやり場に困る。いくら妹とはいえ、ああも素足や無防備な胸元を見せられるのは堪えた、男として。
だがしかし、妹に注意できない、あんな悲しい顔をされるぐらないならぐっと堪えることを選ぶがそろそろ限界である。
「えーと…」
言葉を慎重に選ぶ。
「夜は冷えるみたいだから、あったかい格好をした方がいいよ」
リズミカルに野菜を切っていた妹がこちらを見向きもせずに「平気ー」と言った。こっちは平気じゃないんだよ!
「風邪引いて明日行けなくなるのも嫌だからさ、ね?」
「…………」
包丁を置いた妹がゆっくりとこちらに振り向き、「分かった」とだけ言って寝室へ行った。
(あ〜良かった…)
長袖の服に着替えた妹が下拵えの続きを再開し、俺はお風呂に入った。
今日はお酒は無しである、所謂休肝日だ、何でも週に二日連続させるのが好ましいらしいがまあ無理である、明日の夜はきっと呑んでいることだろう。
お風呂から上がり、姉なら絶対にしてくれないお水を妹が用意してくれていた。
キッチンカウンターに置かれたミネラルウォーターで喉を潤し、さあ今日は早めに寝ようとすると、「ねえ、お兄ちゃん」と妹に呼ばれた。
「うん、何?」
「私の部屋ね、広いんだ」
「う、うん…それで?」
「節約のためにエアコンをつけてなくてね、いつもは旦那と一緒に寝てるから寒くないんだけど…」
「…………」
「今日は一緒に眠ってくれない?ほら、風邪引くのもあれだし」
(それは駄目って言えねー!)
今世紀最大の自制心を働かせ「うん、いいよ」と言った、言わざるを得ない。
妹と共に寝室へ入る、キングサイズのベッドが鎮座ましましており、旦那さんと思われる私物が部屋の至る所にあった。罪悪感半端ない。
先に妹がベッドに上がり、そして俺は白状した。
「ごめん、やっぱ無理」
「…え、な、何で?」
思っていた通り妹が悲しそうな顔をする、だがしかしここは負けていられない。
「緊張する。たまねさあ、ちょっと無防備過ぎない?自分の姿、鏡で見たことある?いくら妹だからって可愛い人と一緒に眠るのはさすがに無理だよ」
「……………」
悲しそうな顔からぽかんとした表情になり、そのままベッドに突っ伏した。
小刻みに揺れる肩、あれは泣いていない、さすがに分かる。
「たまね〜分かってよ〜明日は楽しみにしてるんだって〜寝不足は嫌なんだよ〜」
顔を上げたたまねの瞳には涙が溜まっていた、余程面白かったのだろう。
「ねえ、あの悲しそうな顔、演技だよね?」
「悪い?」
そう、妹が言った。
「やっぱり…あれわざとだったんだね」
「うん、だってお兄ちゃんが優しくしてくれるからさ、お兄ちゃんが悪いんだよ?ちょっとくらい突っぱねてもいいのにさ」
「俺にそんな事できないって知ってて言ってる、それ」
「…………」
「たまねは妹だもん、突っぱねるわけにはいかないじゃん」
「………」
「お前の泣き顔を見るのが一番辛い、演技だと分かってても優しくしないといけないんだよ」
「………ごめん」
今度こそ妹はしゅんとした、辛そうにしながら視線を下向けていた。
そんな妹の頭に手を置いた。
「分かってくれたらそれでいいよ」
妹が上目遣いで、
「やっぱ一緒に寝て」
と、言ってきた。
「聞いてた人の話」
「うん。でも寝てほしい、一人は寂しいもん」
「ええ〜」
「いいじゃん別に!お兄は意識し過ぎなんだって!そっちの方が恥ずいよ!」
「何もしない?」
「それ女の子が言うセリフだかんね?分かってる?」
「うう〜〜〜ん……」
「ねえ…いいでしょ?お願い」
「分かったよもう、今日だけだからね?」
「やった!子供の時以来!さ!早くこっちに!」
「お酒呑んできてもいい?」
「だめ〜」
「え〜素面でたまねの隣〜?生殺しって言葉知ってる?」
妹が遠慮なく笑い声を上げた。
「それ妹に向かって言う言葉じゃないかんね?!変態にも程があるよ〜!」
「変態じゃねえし、もやもやさせるたまねが悪い」
「はいはい、いいからこっちに来て」
そういう押しの強さは姉と似ていた。
妹の隣に寝そべり、思っていたことを口にした。
「強引な所は姉ちゃんそっくりだね「お姉ちゃんの話はしないでくれる?「マジギレしないで怖いから」
くっくと妹が笑い、俺の肩甲骨辺りに手を置きながら寄り添ってきた。妹の顔が肩に当たっている。
「寝れるかな〜」
「別にいいよ、手を出されても、お兄なら気にしない」
「そういう事言うの止めてくれる?良かったよお酒呑まなくて、酔ってたら手を出してかもしれない」
「ええ〜お酒を呑ませたら良かったな〜」
「はいはい」
妹の頭を撫で、手をそっと握られ、そして思いの外早く眠りにつくことができた。
✳︎
──油断していた、そう言わざるを得ない。
あとはそう、唐突に始まった一人暮らしにも慣れてきた、ということも関係しているのかもしれない。
つぐもが家を出て迎える週末、連日のコンビニ弁当に飽きていた私は白ご飯だけ用意をし、少し遠回りになるがスーパーで半額のお惣菜とサラダを購入して帰宅。
食事を済ませて入浴中にスマホを弄っていると、SNSにある投稿があった。
『競馬レース予想!』という見出しが付いた動画だった。
「…………」
ネット世界は実に誘導されるようにできている。Cookieがその個人の情報を収集し、興味がある分野を別のSNSでも反映させる仕組みなのだがまあそれはいい。
私はその動画を視聴した。投稿者は実に分かりやすい説明を交えながら明日開催されるレースの予想を語り、そして私はその解説を聞いて「そうはならないだろう」と思ってしまった。
「それなら…」
と、自分自身も順位を予測してしまい、明日開催されるらしいレースに無関心ではいられなくなってしまった。
入浴を終えて寝室へ戻る、弟が見たらさぞ目玉を剥くことだろう、それ程に散らかっていた。
(いやいや、いやいや、ギャンブルなんてするものじゃない、後輩も言ってたじゃない…そう、観戦するだけ、観戦よ観戦)
数字だけで言うならば、私が立てた予測は『1-7-6』である。馬券の買い方で言うならば、『三連複』だ。一着から三着まできちんと順位を当てなければならず、その分当たった時は配当金も高くなる。勿論馬券は買っていない。
(どうせ外れるどうせ外れる、それでこれはもうお終い)
悶々としながら、謎の焦りを感じながら寝返りをうっていると澪からメッセージが入った。
澪:たまねちゃんにつぐも君取られた〜
(──ああ、澪の所に行っていたのね)
あかり:大丈夫よ、元からあんたものじゃないから
澪:確かに。添い寝してあげよっか?
あかり:今すぐ来てくれる?
澪:めんとぐさいからいい
「何じゃそりゃ」
その日はあまり寝付けず、深夜を回ってからようやく意識を手放せた。
✳︎
『1-7-6』
第一レースの結果が、マルチ画面ターフビジョンという超大型モニターに表示されていた。
私たちは競馬場に着いたばかりだ、馬券なんて買ってないからどうでも良い。
あんなものより隣にいる兄だ、兄は初めて訪れた競馬場をくまなく観察していた。
「すご。さっきの通りもまるで王様になった気分だった」
「展示されてた所?あんなにまじまじと見てたのお兄ちゃんくらいだよ」
「だって初めてなんだもん、そりゃ見るでしょ」
「私の寝顔も見てたもんねー──ふふっ、痛い痛い」
もうどうでもいいわ競馬場なんて凄くどうでも良い。
私は朝からずっとふわふわしていた、一番気持ちが良い朝を迎えられることができた。
昨日、兄と本音で話し合ってから接し方に変化が起こっていた。
兄は良く冗談を言うようになったし、私もあまり自分を偽る必要もなくなった。
今もそうだ、私の冗談にお兄ちゃんが腕を優しく抓ってきたのだ。
これが楽しくないはずがない、もうなに?無敵って感じ、兄は私に対して優しくしてくれるし冗談も言うようになった、そして相性もいいし隣にいて疲れることもないしいるのが当たり前。
私が思い描いていた青春の日々が、お互い大人になってやっと訪れた。
「機嫌がいいねー」
がっちり腕をホールドしている兄がそう言う。
「まあねー。あ…お兄ちゃんは楽しくなかった…?」
「その顔止めてって言ったよね?たまねも怪我をしたら血が出るでしょ?それと同じ事だからね」
「いやー例えが重いなー」
これは癖のようなものだ、気を付けていてもついやってしまう。
それから二人、競馬場を見て回る。
レース馬を直近で見られるパドック、勝利したレース馬だけが入場を許されるウィナーズサークル、他にはターフィーショップや屋外ステージなどもあった。
敷地内には噴水広場もあり、そのベンチで早めの昼食を取った。私のお手製だ、兄は一つずつ丁寧に「美味い」と褒めながら食べてくれた。
その兄が──。
「…………」
「ん?どうかしたの?」
「──ううん、知り合いに似た人がいたから」
レース場の入り口へ視線を向けていた。
それからまた食事を再開し、私にこう言ってきた。
「これ絶対店屋物でしょ」
「何それ、せっかく作ったのにそんな言い方しなくてもいいじゃん!」
兄なりの冗談だろう、けれどたまには怒るのも悪くない。
兄は面白いくらいに慌て出した。
「ああ嘘うそ!嘘だから、それくらい美味いって意味だから!ね?」
「はいはいどうせお惣菜を詰め込んだだけですよ」
「冗談だって!機嫌直して!」
「自分から言ったくせに!ふん!」
「悪かったって〜あ!そうだ、また作り方教えてよ!」
「スーパーの人に訊いてくださーい私はただ詰めただけなのでー」
「たまね〜」
(ふふふっ)
悲しそうな顔をしても冗談で返されてしまうが、拗ねると兄はこれでもかと構ってくれる。
その後は兄が私の腕を取り、ターフィーショップという、まあ、所謂お土産屋さんに連れてってくれた。
「何でもいいよ、買ってあげる」
「なら、料理の腕があるレシピ本でも買ってもらおうかな〜」
「…………」
さすがにヘソを曲げ過ぎたか、兄が少しだけ面倒臭そうに眉を顰めた。
やり過ぎは良くない。
「二度とあんな事言わないでね?冗談だと分かってても傷付くことがあるんだから」
「うん、分かった、言わないよ」
ターフィーショップを見て回り、メインレースが始まる時間になった。他の人たちもぞろぞろとレース会場へ向かう。
「お兄ちゃんはどうする?せっかくだから買ってみる?」
「ううん、もうこれ以上ギャンブルは覚えないって決めてるから。会社の人にも誘われたことがあるんだけど全部断ったし」
「あ、そう?なら私もいいや、一人ではやらないって決めてるから」
「偉いね」
「のめり込み防止でーす」
馬券を買わず二人でレース会場へ向かう、メインレースだけあって結構な賑わいだ。
「うわーこれワクワクするねー」
モニターは出場するレース馬が人気順に表示され、各配当を表す組み合わせも映し出されていた。「予想するのはタダだから」と言い、私と兄でそれぞれ予想も立てた。
「早!馬早!」
いちいちリアクションを取る兄が面白い、私は隣でくすりと笑みを溢し──鞄に入れてあったスマホの着信音に気がついてしまった。
「………」
こっそりと画面を確認すれば、
『曽根崎 琢磨』
私の夫からだった。
✳︎
──ごめん...旦那が帰ってくるって。
そう言われてしまったらこれ以上迷惑をかけられない。競馬場を後にし自分の荷物を取りに帰り、そして駅の改札口前でたまねと別れていた。
とても悲しそうだった、自分のせいではないと分かっていてもやはり心に来る。
(旦那さん…帰省してたんだよね…)
さて、こうなったらもう姉の家に帰るしかない。肚を括って電車に乗り込み最寄り駅まで向かった。
姉の家に真っ直ぐ帰らずスーパーに寄り、持てるだけの供物(食べ物飲み物酒類におつまみ)を買った。これで機嫌が直るとは思わないが無手で帰る勇気がなかった。
約一週間ぶりに帰ってきた、鍵は没収されていないので一応住む権利はまだ残っている、はず。
そろりと扉を開ける、玄関はひっそりとしていた。
姉はリビングにいるようだ、薄暗い廊下に明かりが落ちている。
リビングの扉も開ける、かちゃりと。
「た、ただいま〜…」
ソファに座っていた姉が素早い動作でテレビを消し、そして俺を出迎えた。
「お、お帰り」
姉の様子が変である、全く怒っていないどころか罰が悪そうにしていた。
それに、姉もテレビは見ないと言っていたはずだ、俄然気になった。
「何見てたの?」
「何でもない」
「…点けてもいい?」
「どうして?何も見てないわよ」
「いや見てたよね?」
「見てないってば。──ほら、その荷物預かるからこっちに渡して」
「何見てたの?」
「しつこい」
「テレビから競馬って聞こえてきたんだけど。何見てたの?」
「…………」
そうだそうなのだ、間違いなくこの姉は競馬ニュースを見ていたのだ。
姉がさらに罰の悪い顔をし、これはやったなと確信した俺はとりあえず荷物をテーブルに置き、もう抵抗しない姉からリモコンを奪って点けた。
「──やっぱりそうじゃんか!!」
堰を切ったように姉が言い訳を捲し立ててきた。
「──違うの違うから!あんたもたまねも競馬やってるって言うからどんなものか気になっただけで!見てただけよ!」
「嘘こけ!」と言い、テーブルの上に置かれていたノートを指差した。
「めちゃくちゃ勉強してるじゃん!うちの会社にもここまでやる人いないよ!ガチ勢じゃん!」
「これも違う!頭の整理に使っただけで今日が初めてなの!!」
「何回当てたの?」
「………六レースぐらいは…」
「めちゃめちゃ当ててんじゃん!!──で、いくら賭けたの?」
姉がきっと睨みつけてきた。
「賭けてない、断じてお金は賭けていないわ」
「いやそこ格好良く言っても無駄だからね?俺に何て言ったのかもう忘れた?そんな事ないよね」
「…………」
「今時馬券もネットで買えるの。で、いくら賭けたの?」
「………一〇〇円だけ」
「でしょうね〜〜〜!!だからガッツポーズしてたんでしょう〜〜〜?!なーにがギャンブルやる奴は人でなしだよふざけんな!!」
「違うの!お願いだから聞いて!私だってやるつもりで調べてたわけじゃないの!信じて!」
俺は見逃さなかった、あの小さなガッツポーズを。
「自分の言い訳より先に言うことがあるんじゃないの、この一週間どれだけ悩んでたと思うの、たまねのお陰であまり気にせずにはいられたけどさ、ここに帰ってくるまで何回吐きそうになったと思う?」
「………ごめん」
「何?聞こえない」
「私だってあんたがいなくて寂しかったわよ、でも自分のせいだからメッセージも送れなかったし帰ってこいとも言えなかったし。それで競馬を知ってあんたたちの趣味を理解しようとしたの、それでまあ、こんな感じになった」
「言っておくけど俺競馬やらないからね?」
姉がぽかんと口を開けて「はあ?」と言った。
「いやでもギャンブルやるって…」
「それはパチンコ屋さんの話。痛い目見たからもうこれ以上ギャンブルは覚えないって決めてんの」
「何よそれ〜はあ〜何よそれ〜………あんた立派じゃない、何でそれ先に言わないのよ〜」
脱力したように姉がソファに突っ伏した。
「言ったわ!!聞かなかったのはそっちでしょ?!何回も言ったわ!!」
「ごめん、悪かったわ、ひどいことを言って」
「もう怒らない?」
「怒らないわ。……お帰りなさい」
◇
仲直りしてしまえばあとはいつも通り、俺も随分とドライになったものである。
「え〜?競馬場でたまねの旦那さんを見た?それ本当なの?」
「うん、なんかそんなっぽい人見たんだよね」
「帰省してるんじゃなかったの?」
姉は俺がしこたま買ってきたお菓子に手を付けながら話をしている。
「それがさ、今日突然帰ってきたらしくて、本当はまだ先のはずだったんだけど…」
「ふ〜ん…まさかたまねに隠れて競馬をしていた…とか?」
「一週間帰省するって嘘まで吐いて?それはどうなの」
「知らないわよ」
「え〜俺に隠れて競馬してた人がしらを切るの?」
「…………」
これは面白い、あの姉が文句の一つも言い返さないなんて。
「まあいいけど。旦那さんの件、たまねに言った方がいいと思う?競馬場で見かけた時は知り合いかもって嘘吐いたんだけど」
「う〜ん…様子見でいいんじゃないかしら、下手に干渉するのは良くないと思うから」
「まあ〜そうだよね〜…部屋入るよ」
「いや何でよ」
「どうせ汚れてるんでしょ、掃除するから」
「いやいや…いやいや…それはさすがに悪いからいいわ」
「代わりに姉ちゃんがご飯作って」
「──分かったわよ。私の下着で変なことしないでよ」
「自惚れんな!パチンコのリーチの方がよっぽどドキドキするわ」
結構な強さで頭を叩かれ、それから俺は一週間ちかく掃除されなかった家中を綺麗にして回った。
姉が作ってくれたのはいつかのシチューだった、それから海鮮サラダに野菜とベーコンたっぷりのポトフスープ、やはり豪勢な食卓になった。
出来たてのシチューを一口。
「美味しいね」
「はあ?そこまでして機嫌を取ろうとしなくていいわよ鬱陶しい」
「…………」
やっぱりこれである、しかしこちらも負けていられない。
「あのね、人を褒めるのも勇気がいるんだよ?いくら照れ隠しだからってそれはないんじゃない?」
姉強し。
「分かっているんならわざわざ褒めなくてもいい。私はあんたが傍にいればそれで十分なんだから、いつまでも長続きしない褒め言葉より冴えない冗談を聞いている方が落ち着くわ」
「………分かった」
見事に返り討ちにあってしまった。
く〜恥ずかしい...面を上げられない。
それでも姉は「ありがとう」と言い、ずっとニコニコしながらご飯を食べていた。
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