阿修羅を宿した少女は魔物が蔓延る世界で月夜に嗤う
思い付きで一日で書き上げました。
少しでも楽しんでもらえたのなら幸いです。
──いつから世界はこうなってしまったのか。
夜空の浮かぶ紅く染まった下弦の月が地上を仄かに照らし、その僅かな月明かりに浮かぶビル群は高く聳える灰色の墓標の如く異質な光景を作り出していた。
その墓標の間で、光さえも呑み込む程の美しい黒髪の少女は夜空を見上げながらに想う。
少女の足元には夥しく散った血痕が広がっており、墓標を思わせるビルの壁面には無数の肉片がこびり付いている。
「いつになったら世界は平和になるの……?」
ふと独り言ちた少女は辺りに広がる鉄錆臭に気を留める事なく仄暗い夜道を歩き出す。
「うん、分かってる。あたしはその為に生きてるんだもの」
まるで誰かがそこに居るかの如く呟く少女の背後の空間が揺らめき、そこから出現した巨大な腕が少女の前方の道路を激しく殴り付ける。
その瞬間、蜘蛛の巣状にひび割れるアスファルト。
しかし巨大な腕が殴った衝撃はそれだけに留まらず、更には直径10m程のクレーターをその場に作り出していた。
『あと……少しで……殺れた、のに……』
自らの異能で作ったクレーターに近付く少女。
見れば、そのクレーターの底では異形の化け物が半身を肉片へと変えて死んでいた。
それは、まさしく異形であった。
見た目は人間と変わりなく見えるが、良く見ればその顔には豚の鼻が付いており、突き出た下顎からは巨大な牙が覗いている。
形の残っている半身を見れば、その体はぶよぶよに肥大していた事が分かり、その事から、辛うじてシャツと分かる布切れは巨大な腕に潰される前から既に裂けていたと分かる。
しかし、そのぶよぶよの体とは反比例するかの様に腕や脚は異常に発達した鋼の筋肉に覆われており、もしもその腕で殴られたとしたら首の骨が折れる程度では済まない程の威力があった事だろう。
「また、豚鬼憑きか。この間は小鬼憑きだったし、どうなってんのかしら。でも、今夜はこれで終わりね、きっと。明日も学校だし、夜更かしはお肌に悪いから早く帰って寝なくちゃ」
クレーターの底で死んでいる異形を目にした少女はため息を吐くと踵を返した。
一人と言えば良いかは分からないが、とにかく一人の人間らしき生き物の命を容易く奪ったその少女は肌荒れを気にしながらも家路へとつく。
少女を紅く照らしていた仄かな月明かりは、いつの間にか柔らかな光に変わっていた。
☆☆☆
『昨夜都内の路上で発見された複数の遺体は【魔物憑き】と見られ、警察は遺体の状況から豚鬼憑きと見て捜査をする方針です。では次のニュースをお伝えします。先月から続く女性の行方が分からなくなる事件について、警察は目撃証言から罪状を誘拐及び殺人の罪として切り替えて捜査に──』
朝の情報番組から聞こえてきたのは、少女が始末した昨夜の魔物憑きに関するニュースである。
「はぁ〜あ。今日の授業、また護身術じゃん。ホント、嫌んなっちゃうなぁ。人間だって少しは魔法とか使える様になったんだしさ、体ばっかり鍛えたって魔物憑きに対処出来るわけないじゃん」
情報番組を聞き流しながらそんな愚痴を言う少女の名は【朱桜 神那】。
身長は165cmと日本人女性としては平均的であり、体重は秘密としている埼玉県に住む17歳の女子高校生である。
悩みは発育の悪い胸だろうか。他人が見たならば可もなく不可もなくといった所だが、本人は本気でどうすれば大きくなるかについて考えていたりする。
慎ましくも僅かに主張する胸の上に目を向ければ、そこに付くのは当然顔である。
カンナの顔付きは美人顔と言うよりは可愛い顔付きなのであるが、特筆すべきはやはりその美しい髪の毛であろう。
光さえも呑み込む程の美しいその黒髪は背中の真ん中ほどの長さであり、それを学校の規則としてポニーテールにまとめている。髪を結うリボンは白色だ。
パジャマから、黒い長袖のシャツと同じく黒いパンツルックというラフな私服に着替えながらカンナは思う。
何故にカンナの通う学校には制服が無いのか、と。
髪型は校則で決められているのに服装は自由という事に若干の不満があるカンナだが、学校自体は好きな為に大人しく従っているのだ。
学校の支度を終え、簡単に出来る朝食としてトーストを齧りながら砂糖たっぷりめな甘いコーヒーを啜る。
砂糖の甘さと、僅かに残るコーヒーのほろ苦さにほぅ、と一息つくカンナ。
カンナにとって穏やかな朝食はちょっとした幸せな時間であった。
ちなみに両親は世界を飛び回る生物学者である為、カンナは一人で暮らしている。
「はぁ、しゃーない! そろそろ行きますか!」
朝食を食べ終えたカンナは自らを鼓舞する様に両頬を掌でパンパンと叩く。
もはや儀式と化しているその行為をしなければ心が落ち着かないのだ。
だが、決してMっ気がある訳ではない。むしろカンナはSっ気がある方だろう。
昨夜の出来事を考えれば自ずとSっ気だという答えは出るはずだ。
『──昨夜も現れたみたいですねぇ、例のモンスタースレイヤーは。ええ、私はそんな奴なんて信じてませんけどね? 第一、魔物憑きなんて恐ろしい奴らは警察や自衛隊に任せればいいんですよ。現に──』
「うん、テレビも消したし、それじゃ、行ってきまーす!」
リモコンのボタンを押してテレビが消えた事を確認し、カンナは元気良く家を出ていく。
もちろんしっかりと鍵は閉めている。
カンナの通う高校は十年前に出来たばかりであり、日本では唯一の魔法を学べる高校として世界的にも有名となっている。
高校の名前は【国立高等魔法学校】、通称【魔学】である。
魔学の所在地は、東京の都心部からは少し離れるが北区と足立区の境目にある。
カンナが住む埼玉県のK市からは自転車通学出来るほどの距離だ。
チリリンと自転車のベルを鳴らして、道幅いっぱいに広がって歩く子供達にカンナが近付く事を報せる。
自転車に気付いた子供達は少し慌てた様に道路の端に避けた。
「うん、えらいえらい! 気をつけたまえよ、少年たち!」
子供達の脇を通り抜けざまに声を掛けるカンナ。
子供達は口々に文句を言うが、馬の耳ならぬカンナの耳には念仏である。
そうこうしてる内にカンナの乗る自転車は魔学へと辿り着く。
今日も遅刻せずにいつも通りの時間に登校だ。
「おはよう! スオウは今日もいつも通りの時間だな」
「おはようございます、【鬼頭先生】! あははは、あたしの取り柄は真面目くらいですからね。無遅刻は当たり前なのですよ」
自転車から降りて校門を抜けると、毎日の門番を日課にしている男性教諭から声を掛けられる。
名前を【鬼頭 猛男】といって、担当する授業は魔力を使った体術である。
190cm程の長身とボディービルダーもかくやという程の体格を誇っており、魔力で体を強化しなくてもその辺の魔物憑きくらいならばあっさりと殺せるだろうというのが生徒達からの評判だ。
鬼の様な顔付きも然る事ながら、その類い稀なる体格を誇る為、件のモンスタースレイヤーは鬼頭先生じゃないかとも言われていたりする。
「今日の授業も頑張れよ!」
「……はいぃ。頑張りま〜ス……」
そんな会話を鬼頭先生としつつも校舎へと入り、カンナは教室に向かう。
途中、友達である【斉藤 詩織】の背中が見えた。
「シオリー! おっはよォ!!」
「──ッ!? なんだぁ、カンナか……。朝からビックリさせないでよ、もう!」
「あははは、ごめんごめん! 一緒に行こ?」
「うん」
挨拶を交わし、二人で教室まで他愛ない会話をしながら進む。
話題はもっぱら魔物憑きの事……ではなく、誰それが付き合ってるだのという内容だ。
何だかんだ言ってもカンナは女子高校生である。その手の話題は大好物だったりするのだ。
「あ、そう言えばカンナ、あの噂聞いた?」
「ん? 田中君と鈴木さんが付き合い始めたって事なら既に知ってるよ?」
「え!? 嘘ッ!? わたし田中君の事好きだったのに〜! う〜、ショック〜……。……じゃなくて! 魔力持ちの中から魔物憑きが現れるって噂の事よ……!」
「……シオリって田中君の事が好きだったんだ。うん、頑張って。あたし、シオリの事応援するね? ……と、冗談はこれくらいにして。……だからそんなに睨まないでよ、シオリ! で、その魔物憑きの噂は誰から聞いたの?」
「あまり大きな声じゃ言えないけど、ほら……あのお父さんが政治家だっていう【灰谷 晃】君が言ってたのよ。誰にも言うなよって言って……」
「あ〜、あのインテリ眼鏡ね。確かに父親は政治家みたいだけど、そういうのはあんまり信じない方がいいよ? そんな事言ったらさ、あたし達の中から魔物憑きが現れるって事になるじゃん」
魔学に通うという事は、カンナとシオリも当然魔力持ちという事だ。
となれば、噂が事実であればカンナもシオリも魔物憑きになる可能性がある。
だからこそカンナはシオリに注意を促したのだ。
感情の起伏が激しい歳頃の魔学の生徒の中には、もしかしたらその噂を鵜呑みにしてしまう者もいるかもしれない。
そうなれば、多大な被害を齎す事件を引き起こす事も考えられるのだ。
カンナとシオリは大丈夫だとしても、自暴自棄になった魔力持ちが魔法を街中で発動してしまったら、下手をすれば数百人の罪なき人間が死んでしまう事態になりかねないのである。
ここで、魔力と魔法について説明しよう。
現在、地球の総人口の内の半数の人間に魔力がある事が分かっている。
そしてその魔力持ちが確認されたのは今から三十年程前の事だ。現在が西暦2055年であるから、三十年前となると2025年頃か。
切っ掛けはテレビ番組のマジックショーであった。
その時収録中だったマジックは、定番中の定番である、炎に包まれた密閉空間からの脱出である。
その脱出マジックを収録中、それは唐突に起こった。
脱出の為のトリックが全く作動せず、マジシャンが炎に包まれた密閉空間でそのまま焼かれる事態となってしまったのだ。
番組制作スタッフは当然慌てた。
今まで怪我人さえも出した事がなかったのに、それが今回は死者を出してしまった、と。
その後、番組スタッフ一同及び緊急救命隊によってマジシャンを何とか助け出す事に成功したが、そのマジシャンは全身に激しい火傷を負って既に虫の息。いつ命を落としてもおかしくない状態であった。
しかしその時、一人の女性が奇跡を起こした。
その女性の手から暖かな光が溢れ出すと、何と、その光を浴びたマジシャンの激しい火傷が綺麗に治癒したのだ。
そう、まさに奇跡である。
まるで魔法を見ているかの様に治っていくマジシャンを診ていた救命隊員によってその事実は国に報告され、それと同時に、その奇跡以外の事例も世界各国で確認され始めた。
ある者は手から炎を噴き出し、またある者は思いのままに宙を舞った。
世界中で確認されたそれらの者達は学者達から格好の研究の餌食とされ、その結果、やはり学術的にも説明がつかないそれらの事例は【魔法】であると定義されたのだ。
その後、どの様な者達が魔法を使えるのかが学者によって徹底的に調べられた。
そして分かったのが、魔法を使える者の血液中に既存の構成とは異なる物質……霊的物質と言えば良いのか、とにかく不思議な物質が流れている事だった。
後に、【魔力】と定義付けされる物質の発見であった。
魔力は目には見えないが、確かに血液中を流れていると確認する事は出来る。
偶然の産物であったが、名も知られていない学者がレントゲン撮影の為のエックス線を間違えてガンマ線にしてしまった事で魔力を視覚化出来たのである。
とは言え、エックス線だろうがガンマ線だろうが長く照射すれば普通の人間にとっては害にしかならない。
しかしその事が魔力持ちを判別する唯一の方法であった。
偶然を切っ掛けに新発見に繋げるとは、さすがは人間といった所か。
そのガンマ線を用いた魔力の視覚化から一年余り。人間は体に害の無い魔力視覚化装置を作り上げる事に成功する。
それによって潰れた企業や成り上がった企業があるのは歴史の教科書にも載るだろう。
ともあれ、そのガンマ線を用いた新たな検査機材の開発によって、その人間が魔力持ちかそうでないかを調べる事は可能となった。
それから十年の歳月を掛けて世界中の人間を調べた結果、約半数の人間が魔力持ちだと分かったのだ。
そしてこの頃からだ。魔物憑きが世界中で確認され始めたのは。
魔物憑きの姿が初めて確認されたのは、奇しくも初めて魔法が確認された日本であった。
場所は富士山の麓に広がる富士の樹海、つまり青木ケ原樹海である。
毎年恒例となっている自殺者の捜索活動をしていた警官隊によって、魔物憑きが発見されたのである。
その時現れたのは、カンナが昨夜殺した豚鬼憑きではなく大鬼憑き──通称『オーガ』。
身長が3mもある筋骨隆々の大男であった。
しかし最も特徴的なのはその体の大きさではなく、両側頭部から生えた二本の角であろうか。
他にも特徴を挙げるならば歯が全て牙になっている事だろうが、ともあれ。
オーガと遭遇した警官隊の人数は10人。
その警官隊は一人を残してオーガにあっさりと殺されてしまう。
その残った一人も重傷を負ったが奇跡的にも生き残り、事件の発覚となったのだ。
その後、事態の異様さに気付いた山梨県警本部は直ちに国へと連絡。
国は警官隊9人が犠牲となった事を踏まえ、自衛隊の派遣を即座に決めると、直ぐに出動を命じた。
これによってオーガは捕獲、もしくは始末されるだろうと関係者は思っていた。
しかし事態は急変する。
オーガだけでも警官隊の手に負えなかったのに、更に無数の犬人間が現れたのだ。
その数、およそ100体。
オーガが王様であるかの様に100体の犬人間は行動した。
その動きはまるで、訓練を受けた自衛官の様でもあった。
だが、オーガを含め、犬人間達は何も武器らしき物を持っていなかった為、自衛隊の銃火器によって次々と仕留められていく。
事件発生から三日で終息を迎えるスピード解決であった。
オーガが日本で発見されてからというもの、世界各国で犬人間や小鬼憑き──通称ゴブリンや、豚鬼憑き──通称オークの姿が続々と目撃される様になった。
その対応に追われる各国首脳と国軍。
もはや核兵器の使用も辞さないという所まで人類は追い詰められていく。
それ程までに異形の化け物達は次から次へと出現し続けていたのだ。
しかし、核兵器の使用に待ったを掛けた者がいる。
当時の日本の首相である。
魔物憑きは銃火器でも殺せるが、何故なのか効きが悪い。
だからこそ、増え過ぎた魔物憑きを全滅させる為に核兵器の使用も考えられたのだ。
だが、その魔物憑きは実にあっさりと殺せるという事が日本の首相より発表される。
魔物憑きには魔法が良く効いたと言うのだ。
その発表を聞いた各国首脳は首を傾げたが、物は試しと魔物憑きへと魔法使いをあてた。
すると、日本の首相の言う通り、実にあっさりと魔物憑きを仕留める事に成功したのである。
そしてそのタイミングで、日本の首相はある事実も発表した。
『魔物憑きは人間が何らかの原因により変異したものである』
世界を激震が走った。
日本の首相の発表を受けて、世界各国は魔物憑きの研究に没頭し始める。
しかし、未だ研究の成果は出ず、今日に到るのである。
「だからこそ魔学が出来たんでしょ?」
「そうよ、シオリ。魔物憑きには魔法で対処するって各国が法律で定めたくらいに有効だからこそ、各国は魔法学校を創ったのよ。魔学の卒業者の内半分は警察に就職してるしね。それなのに、その魔法を使える魔力持ちから魔物憑きが現れたってなると、それこそ核兵器が使われちゃうかもしれないじゃない。だから、この事はインテリ眼鏡……じゃなくって、灰谷君にも話を広めない様に注意しないと」
「うん、分かった」
そんな事を話してる内に教室へと着いたカンナとシオリ。
魔学の二年生であるカンナ達二人の教室は、校舎の最上階である三階にある。
教室に入って、窓際にある自分の席に荷物を置いて着席するカンナ。
窓から外を見れば、朝日に照らされた白い神殿を思わせるビル群が天を貫いて連立しているのが確認出来る。
いつも通りの景色と、いつも通りの学校。
今日もいつも通りの授業が始まろうとしている。
……鬼頭先生による魔力を使った護身術の授業が無ければ最高なのに。
そんな事を考えつつも、カンナはその日の授業をしっかりとこなしていく。
魔力を増やす為の瞑想の授業に始まり、魔法属性の座学、空想の産物であった物語と現在の魔法についての類似点と相違点の考察の授業、そして魔法学校とは言え高校である為に普通の教科も学ぶ。
そして、その日の午前中の授業が終わり昼休みのチャイムが鳴った。
「はぁ〜あ。午後の護身術の授業、無くなればいいのに……」
「……カンナ、護身術の授業、嫌いだもんね。確かに鬼頭先生の見た目は怖いけどさ、結構良い先生だと私は思うよ? あの顔に似合わず面倒見がいいしさ」
昼食として学食販売で購入したサンドイッチと紙パックのコーヒー牛乳を手にカンナとシオリが向かった先は、校舎の屋上にある休憩スペースである。
東京都心に向けて設置されたベンチに座り、サンドイッチを頬張りながら二人は会話を楽しむ。話題は今日の午前中に受けた授業の事が大半だが、午後の護身術の授業についての愚痴なども含まれる。
話している内に乾いてくる喉をコーヒー牛乳で潤しながらもサンドイッチを食べ進め、気付けばあっという間に完食していた。
「うん、よっしゃ!」
パンパンと両手で頬を叩くカンナ。
その表情を見れば、午後の護身術の授業に対する気合いは十分だろう。
「……頬、真っ赤になってるけど痛くないの、それ?」
「え? 何が? あたしが両頬を叩いてるのは気合いを注入してるからであって、気合いを注入するのに痛いとか痛くないとかは関係ないのですよ!」
「……あ、そう。カンナが痛くないなら別にいいけどさ。あ、そろそろお昼休みも終わりだから、早く更衣室に行って着替えないと!」
真っ赤に染まるカンナの頬はさておき、シオリの言葉で昼休みを締め括る。
二人は一目散に更衣室へと向かった。
「今日の護身術は、魔力を体に意識して巡らせる事で発動する〈身体強化〉についてのおさらいと、〈身体強化〉を発動しながらの組手だ!」
僅かながらも確保されている魔学の校庭の真ん中で、護身術担当教諭の鬼頭先生が声を張り上げる。
校庭で鬼頭先生の授業を受けるのはカンナとシオリを含む二年三組の生徒達だ。
クラス委員としてインテリ眼鏡こと、灰谷晃──アキラが出欠を取り、鬼頭先生へと報告は済ませている。
「それでは! 〈身体強化〉、始め!!」
「「「「「はい!」」」」」
鬼頭先生の合図で〈身体強化〉を発動させる二年三組の生徒達。
その中の一人であるカンナも例外なく〈身体強化〉を発動させる。
「うーむ。スオウは真面目なんだが、やはり魔力が弱いのがネックだな……。良し! 組手は先生が相手になろう。先生ならば〈身体強化〉レベルをスオウに合わせる事も出来るし、そうすれば生徒間での事故の防止にも繋がる。うむ、我ながら良い案だ!」
一人一人の〈身体強化〉を見ていた鬼頭先生はカンナを見て一人で納得顔で頷く。
「うげ……。あ、あの、鬼頭先生? あたし、シオリと組むので鬼頭先生が相手してくれなくても良いですよ……?」
誰が見ても明らかに嫌そうな表情のカンナ。
確かにその気持ちも分かるというものだろう。
何せ相手はあの鬼頭先生だ。その顔付きはオーガもかくやという程の強面である。
いくら魔物憑きを瞬殺出来るカンナとは言え、普段は花も恥じらう17歳の女子校生だ。教諭とは言え鬼頭先生の様な強面な男性とは出来るだけ近付きたくないのだ。
……イケメン教師ならばその限りではないが。
「何を言う、スオウ。これは先生にとって必要な処置なんだぞ? 生徒達に勉学を教え、心と体の健康を見守り、そして安心安全の元に生徒達を卒業させていく。まさに聖職者と言っても過言ではないと先生は自負しているんだ。だからスオウは安心して先生から組手を習えばいい! じゃ、スオウ以外は二人一組になってから組手を始めろ!」
「「「「はい!」」」」
結局カンナの主張は認められず、嫌々ながらも鬼頭先生との組手をカンナは始めるのだった。
「はぁ…………酷い目に遭ったよ……」
「そう? カンナ、案外楽しそうだったけど?」
「楽しくないよ!? 危なく胸とかお尻とか触られそうになったんだからね!?」
「……楽しそうに受け身を取ってたじゃない……」
「必死だったの!」
放課後、教室に残って他愛ない会話に勤しむ二人の女子生徒。
その二人とはカンナとシオリの二人である。
机に突っ伏しながら愚痴を言うカンナに対し、シオリはカンナを宥めながらもどこか白い目で見ている。
「とにかく! 次の護身術の授業の時は、絶っっっっ…………対に鬼頭先生との組手は回避してやる!」
「……無理じゃない?」
「どうしてよ!?」
「だって、鬼頭先生ってカンナの事えらく気に入ってるじゃない。だから、諦めてわたし達の為に尊い犠牲になりなさい!」
「嫌よ!? 代わってよ、シオリ!」
「無〜理〜。あ、そろそろ帰らなくちゃ。それじゃまた明日ね、カンナ」
泣き付くカンナに取り付く島も与えず、シオリは手をヒラヒラと振りながら教室を出て行った。
「…………はぁ。しゃーない、今日の鬱憤は今夜の魔物憑きに晴らしますか」
そう、ボソリと呟くカンナ。
どこか遠くを見る様なその瞳は微かな狂気を孕んでいた。
☆☆☆
深夜二十五時、西池袋の繁華街を外れた通り沿いにその者は居た。
いや、居たと言うよりも徘徊していた、が正解か。
「ぐふふ、神よ、あなたの望むままに捧げましょう」
ブツブツと呟きながら歩くその人物を怪訝な眼差しを向けながらも避けて歩く人々。
中には露骨に嫌悪の表情を浮かべる者も居るが、その人物はそういった者には目もくれずに何かを探して通りを彷徨う。
「──ッ!! 見ィつけた……。今夜で十人目だ。あの女を我が神へと捧げれば、俺はこの世の神として世界に君臨出来る……!」
その怪しげな男は一人の女性に目を付けると、こっそりと後をつけ始める。
女性の年齢は二十代半ばくらいだろうか。
初夏という事で薄着であるその女性。買い物帰りなのか、某デパートのロゴの入った紙袋をその女性は手に持っていた。
しかし、深夜二十五時というこんな夜遅くまで買い物とは考えにくい。
恐らくその紙袋は日常的に私物入れとして使っているのかもしれない。
紙袋を持った女性は繁華街から遠ざかる様に街灯の届かない暗がりへと向かっていく。
女性としては家までの近道をしているつもりなのだろう。
確かにそれは近道かもしれない。……但し、死の世界へと通じる近道だが。
「ぐふふ。悪いが、お前は選ばれたんだ。だからその命を貰う。おっと、抵抗は無駄だ。辺りに人が居ない事を見計らって話し掛けたんだからな……!」
「え……!? きゃー! 誰かァーッ!!」
「ぐへへ、無駄だって言ってるだろう? ああ、オーカス様! 今こそその尊いお姿をお見せ下さい……!」
怪しげな男を見て悲鳴を上げると同時に逃げ出す女性。
その際、少しでも逃走の役に立てばとその手に持っていた紙袋を男に投げ付ける。
紙袋を片手で防いだ男は、身長190cmを誇る巨体に有るまじき速度で逃げる女性の背後に迫ると、貫手による一撃で心臓を抉り出す。
男の手に握られた、ビクビクと脈を打つ女性の心臓。
僅かながらも内部に残っていた血を吐き出したその肉塊は、微かな痙攣の後に静かに止まった。
そして心臓の動きが止まると、まるでリンクしていたかの様に女性の体も地へと倒れ伏す。
その顔は恐怖によるものと、苦痛によって醜く歪んでいた。
暫く恍惚とした表情で掌の上の心臓を眺めていた男は狂気を目に宿すと、抉り出した心臓へと齧り付く。
クチャクチャと暗闇に響くは、男の口から発せられる咀嚼音。
心臓を平らげた男は口元を真っ赤に染めながら夜空へ向かって口を開いた。
「おおお、神よ! 今こそ我が魂を捧げる。されば、その尊きお姿を顕し下さい。我が体を依代に顕現せよ────オーカス!!」
その言葉と共に、怪しげな男の体は変貌を始める。
ただでさえ巨体だった体格は更に巨大化し、筋骨隆々の引き締まった体付きは脂肪の鎧に覆われていく。
更に、骨格ごと異形へと変わっていく男の体。
肩からは更に二本の腕が生え、腰から下はまるでケンタウロスの様に四足歩行の獣形態へと変わった。
鬼の様な風貌と怪しげではあったが、まだ人間らしさを残していた顔も変化していく。
鼻が天を向き、頬が脂肪でだらしなく垂れると、更に両側頭部から太い角が生えてきた。
その巨体の体長は5mは超えているだろうか。
腕は四本あり、腰から下も巨大な豚そのものである。
両側頭部から角を生やし、豚と人間が合わさったケンタウロスの様なその姿は、まるで物語に出てくる魔王の姿そのものであった。
「ぐふふ……! 神のお告げを聞いてからコツコツと命を捧げた甲斐があったぞ。俺は今、この世の神となったのだ!」
着ていた服は肥大化と共に弾け飛んだ為に怪しげな男……オーカスは裸でそう叫ぶ。
厚い脂肪の為に局所は隠れているがそれはともかく、今までに確認された事のない凶悪な魔物憑きがここ、西池袋の地にて誕生した。
「ぐふふ、『火よ、邪魔な虫けらを燃やし尽くせ!』」
オーカスが第一右腕を前方に向けて振ると、その腕から猛烈な火が放たれる。
猛烈な火はアスファルトをコールタール状に溶かしながら燃え広がり、やがてビルやマンションをも炎に包む。
辺りには突如発生した火災による悲鳴と、誰かが呼んだ消防車のサイレンの音が響いていた。
「この力があれば、スオウも間違いなく俺に惚れるだろう。あの娘だけは妃として生かしておく。そして、来たるべき新世界にて俺は新たなる神となるのだ! グハハハハ!!」
「嫌よ、そんなの。あたし、先生の事は嫌いじゃなかったけど、好みじゃないんです。だけど先生が魔物憑きになったおかげで、あたしも先生を好きになれそうです、生け贄的に……!」
炎によって噎せ返る程の熱気の中、オーカス……いや、鬼頭先生の言葉に応える少女の声。
動きやすい様にか、それともどうせ汚れるからと面倒だったのか、昼間と同じ黒い長袖のシャツに同じく黒いパンツルックという出で立ちで姿を現したのはカンナである。
そのカンナは燃え盛る炎の上を無造作に歩き、鬼頭先生……オーカスと化したタケオの傍まで近付く。
カンナの頬は僅かに上気し、どこか恍惚とした表情は欲情を覚える程に艶があった。
「そうか! 先生も嬉しいぞ。そして共に新世界の神となろう!」
「だから、それは無理です、先生。あたしが好きだって言ったのは、生け贄になった先生なんです。だからァ……その魂をあたしに捧げて下さい!」
「何!? ぬぉおおおおお!?」
カンナの背後の空間が揺らめくと、そこから巨大な二本の腕が現れた。
腕の大きさはそれぞれが直径5mの大木程もある。
それがカンナの意思を受けてタケオへと殴り掛かったのだ。異形の魔王となったタケオとて、受け止めるので精一杯であった。
「く……く……く……! スオウ、お前も神に選ばれた人間だったのか! だが、何故だ!? 昼間のお前は僅かに魔力がある程度の、むしろ魔力持ちとしては最下級の力しかなかったはずだ! それが、どうして……!?」
「気付いてないの、先生? この辺り……そうね、半径100mくらいかな? とにかくこの辺りはあたしが張った結界〈修羅道〉の中なの。そしてあたしはこの結界の中ではちょ〜強いんだよ? 先生もそのくらいは気付いたでしょ? だって、あたしの軽い攻撃を全力で耐えてるんだから」
カンナの背後から伸びる二本の巨大な腕を必死に防ぐタケオはその恐ろしき膂力に耐えながらも辺りを見回す。
すると、いつの間にか炎は消え去り、静かに月明かりだけが降り注ぐ世界へと変わっていた。
そう、紅い月明かりの降り注ぐ世界へと。
「この世界はね、先生。異世界との融合を果たして生まれ変わろうとしてるんだよ? 先生も言ってたじゃない……新たな世界で、と。だからあたしも頑張ってるんだよ? 先生みたいに魔物憑きになった者の魂を集めて生け贄にすれば、あたしに宿った神────阿修羅王が新たな世界の秩序になるの! 素晴らしいでしょ? 先生もそう思うよね? うん、アスラもそう言ってるもん。そう、もうすぐだね。もうすぐ次の段階に進むよ。三十年も待ったんだもん、ワクワクが止まらないよ……!」
タケオを見ている様で見ていないカンナは恍惚の表情を浮かべる。
顔だけを見れば、まるで恋する乙女の様であった。
「だから……最後に好きになったけど、先生とはここでサヨナラしないといけないの……。────生け贄としてその身を捧げよ! 汝が魂は新たな世界の礎である! さよなら、先生────『混沌たる涅槃』」
「な、何だ!? ぐわぁあぁぁあああ!! 体が!? 肉が!! 魂が削られ……ッ────ッ!!」
カンナが操る巨大な二本の腕に罅が入り、そこから黒い光が溢れ出す。
次第にタケオの体に纒わり付く黒き光。
すると、黒き光はタケオの体を侵食し始めた。
それは皮膚から始まり、脂肪を蝕み、筋肉を溶かすと、タケオの体内はおろかその魂までをも削る様に吸収していく。
「ふふふ。くふふ、あははは。あははははははは!! ようやくここまで魂が集まった! 次は何を出そうかなァ? やっぱり、ダンジョンかな? 楽しみだよねぇ、世界を変えていくのってさぁ……!」
魔王となったタケオを肉片すら残さずに吸収したカンナは、紅く染まる下弦の月を見ながら嗤う。
その目は狂気に取り憑かれ、恍惚な表情を浮かべる艶のある唇からは一筋の涎さえも垂れていた。
「うん、そうだよね。次はァ……ダンジョンで決まり! あははははははは! あっははははははははは!!」
紅く染まる月明かりは消える事なく一人の少女を照らし、その月明かりに照らされた少女は声をあげて嗤う。
その日の明け方──
──日本各地で謎の洞穴が発見された。
お読み下さり、ありがとうございます!
m(*_ _)m