召喚聖女は無事に帰還したい〜眼鏡は視力そのものです〜
ビンタシーンがあります。苦手な方はお手数ですがブラウザバックをお願いします。
石川依莉は図書館にいた筈だったのに、気がつけば真っ白い空間の床に座っており、目の前に白い髪にアメジストの様な瞳の白磁の女神像のような女性が立っていた。
『石川依莉さん、貴方はローライシア大陸のアスガル皇国の聖女に選ばれました。アスガル皇国は度重なる天災と荒れる海によって、穀物の実りは無く海からの恵みを受ける事も出来ず疲弊しています。石川依莉さんの生まれた世界、地球に住む地球人を含め地球に生きる全ての生物は魔法を使う事が出来ません。その為、地球には太古より使われず溜まるばかりの魔力が溢れています。アスガル全ての魔力を集めても、ローライシア全ての魔力を集めても、地球の魔力の一割にも満たないのです。石川依莉さん、貴女はその有り余る魔力を使って聖女として1年間平和を祈り、アスガルを救って下さい』
長台詞を一気に言い切った白髪の女性の前に座っていた石川依莉は眼鏡の奥にあるクリっとした目をキュッと細めた。可愛い系の童顔なので、拗ねた子供にも見える。
『石川依莉さん、私の言葉の意味が理解出来ませんか?』
女神像の女性が柔らかな微笑みを湛えながら、首を傾げて依莉に問いかける。それに対して口角をキュッとあげた依莉は口を開いた。
「美人のお姉さん、貴方随分お綺麗だけど、顔に似合わず誘拐犯やってんの?」
女性の口が間抜けにもパカッと開いた。
◆◇◆
石川依莉は身長148センチ体重38キロの童顔18歳の高校三年生だ。時々大人っぽい小学生にも間違われるのが悲しい。過度の近視で裸眼はどちらも0.025、純粋な近視で乱視が入っていないのが救いだと思っている。「視力が0.1無い人ってジャンケンで何を出されたのかわからないんでしょ?」と聞かれる度に「大体の形はわかるから」と答えるのが鬱陶しいと思うお年頃。
18歳高校生と言えば、人生の岐路の時期だ。よって、今、依莉は女性が着ているローマ時代のトガ形状の服の胸ぐらを掴んでいた。
「誘拐犯のお姉さんさあ、私は受験生なの。訳のわからないお芝居には付き合ってられないの。受験、わかる?受験生に一年無駄にしろって言うのがどれだけ異常な事だってわかる?わかんないからやってんの?私には頭がハッピーセットになってるお姉さんに付き合ってる暇は無いの。どうやってここに連れて来たのかは知らないけど、出口まで案内してくれない?」
がっくんがっくんと揺すられる女性。依莉は生まれてからずっと平均よりも小さな体をしていた。その上可愛らしい見た目のせいで、変態紳士に追いかけられたり、痴漢に遭ったり、野郎どもにしつこくされる経験が豊富である。実に要らない経験だ。
幼稚園児の時小さな子供が大好きな変態紳士に追いかけ回され、少林寺拳法を習い始め健康と護身術の向上の為楽しく通い続けている。師匠の教えは逃げるのが上策で攻撃は最後の手段というものであるが、いきなり謎の空間に誘拐され、現役大学受験を諦めろと訳のわからない事を言われれば、相手が女性でも胸ぐらを掴み揺さぶるのを許されると思う。
『受験が何か知りませんが、全てのアスガル皇国民の平和に比べれば』
「ぶっ殺すよ?」
可愛い童顔からは想像も出来ない様なデスボイスが依莉の口から発され、女性は黙った。
「知らない世界の知らない国の人間がどうなろうが私の受験を邪魔する権利は無いよねえ」
『え、依莉さん。貴女しか救世主は』
「だから嫌だって言ってるでしょ。断る」
『しかし、地球の魔力をアスガルで使う事が出来るのは依莉さんしかいないと星の動きが示しているのです』
「だから知らないし。言っとくけど、こういう状況をラノベやアニメで見た事あるけどね、そのアスガルとやらに送り込まれても私は祈らないからね。逃げるから」
『でしたら、1年間祈っていただければ依莉さんが今までいらした同じ時間の同じ場所にお戻しします。それで納得いただけますよね?』
「いーたーだーけーまーせーんー。1年間受験勉強以外の事をやって、ブランクが空いたらせっかく今まで覚えたものを忘れちゃうかも知れないでしょ」
『そこはきちんと記憶と能力が残るようにしますから』
「そこまで出来るんなら、貴女が勝手に地球の有り余ってる魔力を使って、アスガルとやらを救えば良いでしょ」
『私はアスガルの守神ですので、地球の魔力を使う事は出来ません。地球人である依莉さんだからこそ、アスガルの地で地球の魔力を引き出して自由に使う事が出来るのです』
『だからさー、勝手に誘拐して来て帰してあげるから言う事聞きなさいって言うのがおかしいって事がわかんないかな?誘拐なんて普通しないの。誘拐した時点で、守神さん?だろうが何だろうが、マイナス査定。マイナス100点。元に戻してプラスマイナスいいとこゼロ。でも誘拐で余計な心労を私にかけたから、元に戻ったとしてもマイナス100からマイナス50程度になるだけ。私には損なだけ。わかった?」
『おかしいですね、過去に呼んだ地球人は皆さん優しく聖女になってくれましたが』
「そんなスナック感覚でホイホイ誘拐してんの?頭大丈夫?昔の人は知らないけど、私は嫌だから」
『ではこうしましょう。一年祈っていただけたら、依莉さんの願いを一つ叶えます。世界を滅ぼすとか危険なものは無理ですが、一生遊べる程の財産や大病をしない体や詐欺師を見抜く目といったものなら叶えられます』
「ふーん」
依莉は頬に手を当てて考えた。大病をしない体に出来ると言うのなら視力を回復させて貰えば良いのだ。この鬱陶しい眼鏡を使わなくて済むし、壊れた時の予備を心配しなくて良いし、旅行先の露天風呂でも景色を堪能出来る。
文句を言い続けても、この自称守神は私を日本に返してくれ無さそうだし、RPGゲームの王様並みに『勇者よ世界を救ってくれるな?』「いいえ」『そう言わずに。勇者よ世界を救ってくれるな?』「いいえ」『そう言わずに。勇者よ世界を救ってくれるな』並のループを繰り返すだけになっている現状を抜け出すには、諦めて申し出を受けるしか無いだろう。
『アスガルが気に入ったら残って暮らす事も出来ますよ。残っても地球の魔力は引き出せますから、王侯貴族よりも尊い存在として幸せに暮らせますよ』
「いやそれは要らない」
誘拐犯に受け入れ先は素敵な場所と言われても、と思いつつ、視力回復の為に我慢するしかない、と依莉は半眼で女神を睨め付けた。
◇◆依莉◆◇
自称守神が大きく両手を広げると、次の瞬間真っ白い柱の立ち並ぶ建物の中に立っていた。隣に自称女神が立っていて、目の前には立派な服を着た多くの人が平伏している。
『私は女神ラーテル。大切なアスガルの祈りに答え、聖女を遣わします。聖女依莉が一年の間、朝晩天に祈る事により、天候大地海は回復し、疫病も寄せ付けないでしょう。聖女依莉を大切に扱いなさい。一年後に迎えに参ります』
言うだけ言って自称女神ラーテルは消えた。
本当に迎えに来るんでしょうね?来なかったら脱走でも何でもやってやる。と、嫌な気分になった時、私の体からぶわっと光が漏れ出た。自称女神ラーテルの声が頭に響く。『大丈夫です、必ず約束は守ります。貴女の体から漏れたのが地球の魔力です。安心して下さい』
詐欺師の口から出る安心並みに安心出来ないけれど、大喜びする人達に囲まれた。王様とか王妃様とか魔法使いの偉い人とか王子とか大臣とかあれやこれや。金銀赤青緑灰、カラフルな髪と瞳。正にラノベとかアニメの世界。
女神から遣わされた聖女と言う事でお城の離れに部屋が貰えて危険な事以外なら何で願いを叶えてくれるんだって。誘拐の次は軟禁かー。
◇◆第一皇孫ヒースクリフ◆◇
聖女エリを初めて見た時25歳の私より10以上歳下の12歳程度だと思った。黒髪黒眼でアスガル人よりも凹凸が少ないけれど、庇護欲をそそる可愛らしい顔に不安な表情が浮かんでいるのを見て、私が守ってあげなくてはと強く思った。
ただ、エリにはたった一つ問題がある。メガネという物で視界を覆っているのだ。「シリョクを矯正する」と初めて聞いた時、シリョクが視力とはわからなかった。アスガル人は五感が衰える事が無い。成長したのち怪我や病気で破壊されない限り、弱るという事が無いのだ。全く使えないか、使える。その二択しかない。だからエリの可愛らしい顔にある異物、メガネは要らない物だ。時々汚れを拭ったりする為にメガネを外したエリは本当に可愛い。
エリは「これが無くなると本当に困る。目が見えないのと同じになる。一年後に女神に視力を回復させて貰う」と言っているので、1年間は時々見れる可愛い顔で我慢しよう。
私が王宮の廊下を歩いていると、離宮から本宮に向かう廊下を護衛を連れた聖女エリが歩いていた。何やら護衛はエリを止めている様だったが、みだりに聖女に触れてはいけないので、完全に止める事が出来ず困っている様だ。
「聖女エリ、どうされたのだ?何か困っている事などあるのだろうか?」
「「ヒールクリフ殿下にご挨拶申し上げます」」
「こんにちは殿下。私は図書室に行きたいだけなのです。貴方も私を止めに来たのですか?」
「そんな事か。私が案内しよう」
エリはその瞳を輝かせながら読書が好きなのだと語った。朝晩のお祈り以外、これと言ってやらなくてはならない事が無いので、侍女に本を頼んだのだが気に入った物が少なく、王宮内の図書室で自分で本を選びたいと思ったのだそうだ。護衛や侍女たちはエリを守り、余計な人物を近寄らせない様命令を受けていたので、許可を受けていない図書室行きを止めていたのだ。
エリが図書室と運動の為の中庭の出入りを希望していたので、私から皇王陛下に伝えて許可を約束すると、破顔して手で口を押さえた。可愛い笑顔に私も嬉しくなった。
図書室の中では本の探し方や分類を説明しながら、依莉の世界の物語、童話というものの話を聞いた。エリの国には王も貴族もいないけれど、童話には多くの王子様が出て来るのだそうだ。
エリと話をするたび、アスガルの貴族令嬢には無い魅力を感じ心惹かれていく。いつも微笑みをたたえた柔和な表情も好ましい。エリは一年後にチキュウという世界に帰る。しかし、エリがアスガルに残る事を希望すれば帰還は無くなる。エリが私を愛してアスガルに残るのなら、側妃や愛妾として迎えたい。正妃は無理だ。エリはアスガルの王族の立場や身の処し方を知らないし難しい役目似合わないからだ。けれど、王政では無い国から来たエリならば正妃には拘らないだろう。
そして、無限ともいえるチキュウの魔力を使える聖女のエリと結婚出来れば、私の王位継承権は皇王の第一皇子である我が父を抜いて一番になるだろう。
可愛いエリ、優しいエリ、奥ゆかしいエリ、聖女のエリ。エリの世界の物語に出て来る王子は、金髪で碧眼が多いそうだ。私もその王子達と同じ輝く金髪と碧眼を持っている。一年後、アスガルに残ったエリを妻に迎えよう。姫は王子といつまでも幸せに暮らすものらしいからな。
◇◆護衛騎士マクシミリアン◆◇
私の父は皇王の近衛騎士団団長、クラウス・ラズル・バーレイ侯爵。次男である私は第三皇孫ラーハルト殿下の近衛騎士団の団員を務めている。
近年、災害続きだったアスガル皇国の王家は女神ラーテルを祀る神殿と力を合わせ、聖女エリ様を召喚した。エリ様の護衛を選ぶにあたりエリ様が知らない世界で萎縮されない様、歳の近い者という規定を設けた結果19歳という若輩の私が護衛の一人として選ばれた。ラーハルト殿下は大喜びでエリ様の信用を得て殿下との仲を取り持つよう、私に言いつけられた。
初めてお会いしたエリ様は、小さな子供と言ってもおかしく無い見た目なのに、話してみるととても真面目でアスガルの状況を出来るだけよく知ろうとしてくれた。朝晩の祈りは食事の前に30分程度なのだけれど、身体中から魔力が溢れ出て国中に広がっていくのがわかる。
エリ様はメガネという器具を鼻の上に載せている。チキュウの方々は一定数視力が弱いのだそうでメガネはその矯正器具との事。騎士団員も皆メガネに違和感を持っているが、エリ様にとってとても大切な物でもし壊れてしまったら生活そのものに支障が出ると聞いて、気にしない様にと通達された。
食事と祈り以外にやる事が無いので、チキュウでの趣味である読書と運動をしても良いかと相談された。読書については図書館がある事を告げた所、許可を得る前に図書館に向かってしまったがヒースクリフ殿下にお会いしてその場で許可を得る事が出来た。ヒースクリフ殿下もエリ様に興味がある様で、図書室で会うたび護衛に距離を置かせて話し込んでいる。
いつもおっとりとしたエリ様なので、運動と言われて貴族の令嬢の様に庭の散歩等を考えていたら、ショウリンジケンポウという格闘技の稽古だった。基本的に組み手で行う様で、私を含めた護衛騎士に「知らない武術に付き合わせてごめんなさい」と言いながら丁寧に技の説明をしていただけた。小さなエリ様に体の大きな護衛騎士が相手をするのは、怪我をさせてしまいそうで怖いとお話しすると「護身術としてやっているので、自分より強く大きな人を相手に出来ないと意味が無いの」と可愛らしく笑われた。
勝つ必要は無く、逃げられない状況で技を掛けて相手をいなし隙をついて逃げるのが基本。というエリ様の言葉に、自分には考えられない発想だと驚くのと共に感心した。
他にもチキュウのお菓子を作りたいとエリ様ご自身でクッキーやケーキを作って「良かったら皆さんも召し上がって下さい」と配って下さるし、護衛勤務外で騎士団の鍛錬に出ている私達が怪我をすると、直ぐに貴重な治療魔法で治して下さる。我々も初めは断っていたのだけれど「守ってくれている人達が怪我をしていたら困るもの」と優しく微笑み次の瞬間には治療が終わっているのだから、みんな大人しく治療魔法を受ける様になった。
王宮の図書館と離宮とその中庭。狭い世界で退屈しませんか?と聞いた時「でも街に出たら皆さんが大変ですよね」と小さく微笑まれる姿を見て以来、一年の祈りの期間が終わったら私が広いアスガル皇国のどこにでもご愛案内したいという気持ちがずっと心の中にある。聖女であるエリ様とただの護衛騎士で、侯爵の息子でも後継では無い次男の私には大きな身分差があるが、エリ様の事を一番近くでずっと守っていきたいという気持ちは誰にも負けないと思う。
そして、これだけ優しく純粋なエリ様なのだからアルガルの民を守る騎士団が苦しんでいたら、ローライシアのどこにいても私と一緒に駆けつけ団員を癒してくれるだろう。
◇◆女神ラーテル神殿大司教孫ラドクリフ◆◇
陛下と共に祖父が行った、異世界の聖女降臨の儀式はラーテル様の御力により大成功を収めた。祖父に紹介された聖女エリ殿は尽きる事の無い魔力を持ち、18歳という実年齢よりも幼く見える清楚な微笑みが印象的な娘さんでした。それ以上にメガネという彼女の可愛らしさを阻害する物が気になりましたが。しかし、その邪魔な物はエリ殿にとって生活必需品で彼女の世界では日常に溢れているのだそうですし、見た目で惑わされない様にというラーテル神の啓示やも知れません。
21歳で助祭として神殿の修行をしている私は、ラーテル様の僕である神殿の人間としてエリ殿が王家に伝え辛い不満や悩み等を解消し、聖女エリ殿を私的利用しようとする者があれば祖父に報告し、ラーテル様の名において神殿から訓告を与える為の存在として数日おきに拝謁を行なっている。
名目上拝謁と言っても、エリ殿の世界の信仰について話したり、困り事は無いかの確認をしたり、アスガルの生活や文化の話をしたりと、雑談的なものが多い。エリ殿はチキュウの魔力を使ってアスガルの平和を祈っているので、ラーテル神の教義を学習したり、聖なる祈りの修行をする必要は無い。
私としては、元の世界で学生をしていたというエリ殿が一年という時間を心穏やかに過ごせれば良いと思っていたのだけれど、神殿側の総意としては一年過ぎたのちも元の世界に戻らずにラテール神殿の聖女になっていただき、アスガル皇国の平和を守り神殿の権威を高めていただきたいと考えている。
大司教の祖父と大司祭の父がエリ殿と挨拶した際、エリ殿は常に優しげな微笑みを絶やさず、神殿の話を興味深そうに聞いていた。彼女と一緒に神殿を守って行けたら幸せだと思う。
◇◆宰相クレウガ公爵孫エーリヒ◆◇
聖女エリ嬢をサポートする様にと祖父と父から厳命されたが、僕がエリ嬢に出来る事など殆ど無かった。僕は18歳のエリ嬢と同じ歳だけれど、昼間は貴族学園に通って将来の為の交流をしなければならないし、将来どの皇孫が王位についても側近として務められる様に鍛錬も座学も習得しなくてはならない。
エリ嬢の側にはいつも護衛騎士がいるし、ヒースクリフ殿下は空き時間の度にエリ嬢に会いに来る。神殿もエリ嬢を取り込んで勢力を強くしようとしており、ラーテル神から遣わされたエリ嬢の相談に乗るという名目でラドクリフ助祭が通って来ては雑談をして帰って行く。
それでも、何もしないでいると祖父と父がうるさいので、毎日短時間でも顔を出す様にしているのだけれど、護衛騎士達がやたらと圧をかけて来るし、殿下がいらっしゃると来たばかりでも退室を促される。ラーテル神の代理である助祭は僕より優先度が高いし、少々手詰まりといった感じを受けていた。
エリ嬢が召喚されて2ヶ月程、祖父と父の追及がしつこくなって来た頃に、エリ嬢から願い事をされた。アスガルの皇都や地方の地図、挿絵の入った各地の資料が欲しい、というものだった。
「エリ嬢、どの様な事に使われるのでしょうか?」
「召喚されてから、ずっとお城から出られないから、せめてアスガルがどんな所か知りたいの。地球では年に何回も旅行に行って、見た事も無い景色を見たり、その土地の名物料理を食べたりしていたので、気分だけでも味わえるかと思って」
柔らかく微笑むエリ嬢の顔には、メガネという飾りが付いている。アスガルには無いこの飾りのせいで、エリ嬢の可愛らしさは違和感に隠れてしまっている。エリ嬢はアスガルの女性には無い、奥ゆかしさや子供の様な純心さがあって、城に軟禁されている状態を何とかしてあげられたら、心から喜んでくれるのだろうけれど、僕にその権限は無い。
せめて少しでも喜んでもらえればと思い、地図や資料を揃えて渡すだけでなく、祖父から皇王陛下に許可を願い出て、城の物見台に登れる許可を得た。早速エリ嬢を物見台に案内すると大喜びであちこち眺め始める。
「エーリヒ様、遠くを見る道具は無いのですか?」
「魔法を使えば良いのですが、エリ嬢は遠くを見る魔法はお使いになれませんか?」
「平和の祈りしかわかりませんから。望遠鏡があれば良いのに」
「ボウエンキョウ、ですか?それはどんな物なのでしょうか?作り方を教えていただき、材料がアスガルにあるものであれば、作ってみます」
「本当に?ええと、凸レンズが二枚あれば良いはずだったけど…」
エリ嬢は、少し尖らせた口元に手を当てて、軽く眉間にシワを寄せた。護衛のマクシミリアンが、僕達の会話を邪魔しようと口を開こうとしたが、僕は口に人差し指を当てる。エリ嬢が欲しい物を考えている、と気が付いたマクシミリアンも口に手を当てる。
「絵を描いた方が早いですよね。部屋に戻ったら描きますから、マクシミリアン様にお届けをお願いしても良いですか?」
「勿論です。エリ様の世界にある道具と同じ物が出来ると良いですね」
普段は無表情のマクシミリアンもエリ嬢には笑顔を向ける。騎士団に囲い込まれない様に気をつけろ、というのも祖父から注意されている。一年後、エリ嬢にはアスガルに残っていただき、国内のバランスをとって貰いたいというのが我が家の願いだ。
頼まれたボウエンキョウは単純な作りであったけれど、細工師曰くガラスで作るレンズに少々手こずったらしい。成る程、ボウエンキョウがあれば、いちいち魔法を使わずとも、視界は狭くなるが直ぐに遠くを見る事が出来る。この様な原理を知っているエリ嬢の世界だからメガネという物を思いつくのですね、とエリ嬢に言うと、難しい原理は私もわからないのだけれど。と、恥ずかしそうな微笑みを浮かべた。
◇◆依莉◆◇
やっと一年、遂に一年。明日になったら地球に帰れる。受験勉強は嫌いだったけど、軟禁されたり周りの様子を伺って気を使ったり、軽いセクハラを受けるよりは遥かにマシだってわかった。受験日まで頑張って、良い結果が出れば晴れて大学生。軟禁状態になってしみじみ思った。私はあちこちに行きたいんだって。だから、戻ったらもっと英語に力を入れて、大学ではそれ以外の言語を身に付けて旅行や通訳みたいな仕事をしたいと思う様になった。
最終日はパーティーを開くらしい。お手伝いさん達が大量のドレスやアクセサリーや靴を持ち込んで来て、私に着せようとして来る。何でわざわざ帰る日に動きにくい格好をさせようとするのかな。大体、誘拐された時には制服を着てたんだから、制服で帰らないと困るに決まってるでしょ。ドレスを着て帰ったら、明後日学校に来て行く制服が無くなっちゃう。
お手伝いさん達は、制服は足が出ていてハシタナイとか言うんだけど、頭おかしいよね。ドレスは肩や鎖骨やデコルテが露出するんだから、私からすれば、よっぽどハシタナイもん。
偉い人が何人も来てドレスを着ろって言うから「大切な制服が着られないと地球の魔力がうまく使えなくて、一番魔力が必要な女神を呼べないかも知れない」って言って泣き真似をしたら、制服を着ても良くなった。
この部屋ともお別れ。クローゼットの前に貰った贈り物を纏めておく。結構面倒だったのよね。王子から贈られたドレスやアクセサリーは、少なくとも一回は身につけないと失礼だってお手伝いさん達に言われるし、宰相親子からはお菓子が多かったというか多すぎて、護衛騎士さんやお手伝いさんに配りまくっても余ってて、日持ちするやつが何箱も残っている。欲しいものを聞かれてお菓子が好きって言ったのがいけなかったんだけど、王子みたいに高価なものを貰っても困るからね。後、お花もいっぱい。
貴族の人達からも贈り物が結構あって、確認はしてお礼状は出したけど使わないまま送り主のカードをつけて置いてある。送り主が分かれば、私が帰った後に送り返せるよね。神官さんから貰った綺麗なお祈り用のアクセサリーや燭台や本は、テーブルの上に纏めた。流石に床には置けないよね。
明日の夜のパーティー会場に女神が現れるらしい。私以前の聖女達も、一年の祈りの終わりのパーティーの最後に女神が降臨して、約束の願いを叶えた後、元の世界に帰るか残るかを聞かれたんだって。で、みーんな残ったっていう事を、入れ替わり立ち替わり、いろんな人が力説して来る。要は、私にも残れって言いたいらしい。残る訳無いでしょって言い返したかったけど、それで帰るのを邪魔されたら困るから曖昧に笑っておいた。
本当にこの一年、微笑んでばっかりだったな。知らない世界に誘拐されて、毎日二回祈れって言われて、もしやらないって言ったら何されるかわかんないんだもん。逃げたら追いかけられるだろうし、こっちの世界の女神は誘拐犯でここの味方でしょ?生殺与奪って言うんだっけ。私の生死を握られてる様な状況だし。閉じ込められて祈らなかったら拷問だってしてくるかも知れないよね。誘拐しても良い、祈るのが当たり前って思ってるんだから。もう適当に笑って誤魔化すしか無いよね。
それにしてもほんっとうに嫌だった。みんな私が残ると思い込んでるみたいで、一年の祈りが終わったら結婚してくれとか言って来るバカまでいる。王子と宰相の息子だけど。人の手とか腰とかベタベタ握って来るし、こっちが逃げられないからってセクハラパワハラ酷すぎ。幾らイケメンでも好きでも無いセクハラ野郎はお断り。
あー、もう思い出すだけで鬱陶しい。早く寝ようっと。
◇◆◇
聖女依莉が一年の聖なる祈りを終わらせた結果、この一年アスガル皇国には天災も疫病も無く、畑は豊作、海は常に凪ぎという平和が続いた。祈り始めて直ぐに、海の荒れと異常気象が無くなったので国の備蓄を切り崩しながら国土が回復するのを安心して待つ事が出来た。
更に、依莉が来てから三ヶ月目には王家の直轄地で輝石鉱山、宝石の鉱脈が発見された。これにより、他国への輸出、外貨が入って来て減った備蓄を国外から輸入して元の量に戻す事が出来た。輝石鉱山は永遠に掘削出来る訳では無いけれど価値が高いので、技術者が調べた所数年安定して産出出来そうな見通しがつき、その間国庫を潤す事が可能になった。
王座からパーティーを楽しむ貴族達を眺めていた皇王は、少し離れた所に設けた聖女の神座に目を向けた。聖女依莉はチキュウのセイフクの上に美しい金糸銀糸の刺繍の入った白の聖女用のローブを羽織り、優しい微笑みを湛えてパーティーを眺めている。
エリが今夜アスガルに残る事を選べば、たった一年では無くエリが祈りを捧げる限り、アスガルの平和が続く。過去の聖女もアスガルの為に残って祈り続けたのだし、慈悲深いであろう聖女エリならば、必ずやアスガルに残る筈だ。
第二王位継承者である孫のヒースクリフには、エリの心を手に入れ、結婚という形で皇国に繋ぎ止める様に厳命したがどうだろうか。王家の力を強める為にはヒースクリフと結婚するのが一番良いが、エリが残るのであれば他の者と結婚しても良い。その時には王家の養女にしよう。
皇王はエリの力による皇国の更なる繁栄を思い浮かべ、ニヤリと笑った。
パーティーの終盤、遂にその時が来た。会場である城のホール、大理石で出来たホールは半分は大きなバルコニー形状をしており、北側半分がドーム状の庇に覆われ王座と神座が設えてあり、南側は昼は太陽の夜は月と星の光を浴びる。最南端には幅の広い12段の大階段があり、降りれば第二会場として使われる大理石床を囲んだ庭園となっている。
ホールには公爵、公爵、高位伯爵が、庭園に囲まれた部分にはそれ以下の貴族等が集まって、空から光の柱が降り注ぎ女神ラーテルが降臨する様に歓喜した。依莉達からは見えないが、城の周りにもアスガル皇国民が集まり、女神降臨の光に手を合わせたり跪いている。
『石川依莉さん、1年間聖女としての務めを果たし、アスガルに恵みをもたらした事を守護神として感謝します。そして、石川依莉の願いと、アスガルに残るか、元の世界に帰るかの選択を聞きましょう』
大増量イカれクリスマス盛り盛り電飾レベルに無駄に輝く光と神々しいラーテルの姿に、依莉以外が歓喜に包まれ、感涙の涙に咽ぶ。依莉の小さな舌打ちは直ぐ側にいた護衛騎士マクシミリアンにも聞こえない。
来るのが遅い。どうせならパーティーが始まって直ぐ来れば、王子やその他の野郎共にしつこくダンスに誘われる地獄の様な時間を過ごさなくて済んだのに。の、舌打ちである。1年間の間、何度もアスガルのマナーとダンスの教師を送り込まれ、外反母趾育成ハイヒールとしか思えない靴を履かされ、「チキュウでは20歳まで成長を阻害するとしてハイヒールを履かないんですう。だから、マナーもダンスも20歳超えてからにしてくれないと、お祈り出来なくなっちゃいますう」としょんぼり風の微笑みで撃退していたのだ。鬱陶しい事に!
だからダンス出来ないって言ってるのに、「私がリードする」とか「音楽に合わせて体を動かすだけで良いんだ」とか「その御手に触れる光栄を頂きたいのです」とか明後日の方向のお誘いを受けたのは、ラーテルが勿体ぶって最後に登場したせいだ。
しかし、ここで約束を反故にされては困る。エリは必死にイライラした気持ちを抑えつつ、神座から立ち上がりホール中央でイカれ電飾風スポットライトを浴びた状態になっているラーテルに近付いた。
「待ってくれ!1年間という短い時間だったが、聖女エリの美しい姿と慈悲深い心に私の心は全て奪われてしまった。慈しみ深き聖女エリ。私と結婚してこれから先ずっとエリを守る栄誉を与えてくれないだろうか」
ヒースクリフが依莉とラーテルの間に割って入った。行手を塞がれた依莉は必死に笑顔をキープする。邪魔だ退け。心中はこの一言だけれど。
「女神ラーテル様、私、アスガル皇国皇孫、ヒースクリフは聖女エリを心から愛しております。是非私に聖女を賜りますようお願い致します」
「お待ち下さい。私、エリ様の護衛騎士の任を賜りました、マクシミリアン・ラズル・バーレイも、日々優しきエリ様の御心に触れ、心よりお慕いしております。どうぞ私の真心をお受け取り、私の手を取っていただけないでしょうか?」
「女神ラーテル様の降臨に臨む事が出来、我が信仰心は更に揺るぎないものとなりました。信徒ラドクリフ、女神様の御名において、エリ殿を神殿にお迎えし、真実の愛を捧げたいのです。聖なるその力を民に、神聖な愛を僕に授けてはいただけないでしょうか?」
「慈悲と、叡智を兼ね備えたエリ嬢、このエーリヒ・ラウル・クウレガの気持ちを受け入れて頂きたい。エリ嬢には公務などに煩わされず、その優れた知恵から湧き上がるアイデアを一緒に形にしていきたい。このアスガルで自由に暮らせる事をお約束します」
依莉の前に、特に付き合いの多かった四人が跪き、その他のお年頃の令息達もずらりと跪く。
あれか?選ばれたらお得って感じで並んでいるのかな。と、苛つく依莉の視線の先には、あらあらまあまあ素敵と満面の笑みを浮かべたラーテルが女神力なのか床から50センチ程浮いた状態で目を輝かせている。どうでも良いから早く視力回復と帰宅を頼みたい。
『さあ、石川依莉さん、願いを』
「取り敢えず皆様、足を痛めてしまいます。立って頂けますか?そして私を女神様の前に行かせて下さい」
流石聖女様、なんて優しい。とざわざわしつつ、依莉にとっての障害物が左右に割れた。が、例の四人がペタペタとくっついて来る。果てしなくウザい。しかも、腕に手を回したりして来ている。これはホールドされている状態だろうか。ストレートに視力回復して帰ると言っても、腕力で引き止められるかも知れない。言い方を考えなくては。依莉は必死に頭を働かせる。
「ラーテル様、先ずは地球に帰る為の道を開いて頂けますか?帰る帰らないは別として、帰還も出来るという約束を目に見せて頂きたいのです」
『わかりました。残るか帰還するかを決めて良いという約束を果たしましょう』
ラーテルの左側に光の渦が出現した。帰還ゲートです、とラーテルが指し示す。依莉を掴む四人の力が強くなった。
『では願い事を叶えましょう。先にも伝えましたが不老不死など人の枠を超える願いは叶いませんが、財産、健康、才能等、言葉にしてみるのです』
「では視力の回復を」
『視力回復。その目が常に健康である様に、で良いのですか?』
「ではこれはもう要らないな!聖女エリ、やはりこの様な薄汚い装身具とも呼べぬ物は、其方に似合わない!」
「人の目を取るなああああ!殺す気かあああああ!」
スパーンっ!!!
依莉の平手打ちがヒースクリフに炸裂した。
「何をっ!」
「それはこっちのセリフです!やだ、吹っ飛んでヒビ入ってる⁉︎」
依莉が視力回復の願いを言葉にした次の瞬間、ずっと邪魔な物体である眼鏡をヒースクリフが依莉から毟り取ったのだ。しかも、無造作に、レンズの位置も気にせず、フレームの歪みも考えず、鷲掴みで。
両眼0.025の依莉にとって、眼鏡を奪われるのは視力を奪われるのと同様であり、眼鏡を破壊されるのは眼球を怪我するのと同様である。しかも、両眼。世界はにじんで膨張してぼやけた色の集合体になり、帰還ゲートの光とラーテルを照らす光の境目も判別出来ない。
依莉から有り得ない絶叫を聞いた四人が咄嗟に手を離した次の瞬間に炸裂する平手打ち。そして流れる様に確認した眼鏡の歪みとヒビ。依莉は気がついた。小学生の頃から徐々に低下した視力。それに寄り添ってくれた眼鏡。今後いつの日か来るであろう、老眼にもきっと大活躍をする眼鏡。確かに、かけていて邪魔な事も多いけれど、そこにある安心感。ずっといつも側にあった、信用出来るパートナー。
「今すぐこれを直しなさい!そして、今後視力が落ちても、老眼になっても、どんな状況になっても使える魔法の眼鏡にして頂戴!」
依莉はラーテルの胸ぐらを掴んでがっくんがっくん揺すぶった。出会いの行動、再びである。
『え、依莉、何を言っているの?もっと素晴らしい願いが幾らでも』
スパーンっ!
『痛っ!』
「早く魔法の眼鏡にっ!今直ぐ!」
『でも』
スパーンっ!スパーンっ!
「やれって言ってんでしょ!」
往復ビンタをかまされ、揺すぶられるラーテルが必死に眼鏡に手を翳す。キラキラとした光が眼鏡を包む。依莉の為の魔法の眼鏡。
「じゃあ、帰るから。もう二度と呼ばないでよ⁈この誘拐実行犯と、誘拐受け入れ集団!」
慈愛に満ちた微笑みを絶やさず毎日敬虔に祈りを捧げていた聖女依莉が、今まで一切見せた事のない怒りの表情で、皇子と女神にビンタをかました衝撃で、アスガルの誰もが動けない。
「あ、私だけじゃなくて、地球に迷惑かけんな!この誘拐魔!これからは地球から人誘拐すんな!」
スパーンっ!スパーンっ!スパーンっ!スパーンっ!
ダメ押しの往復ビンタをラーテルにかます依莉。
「それから、お前ら!ベタベタベタベタキモイんだよ!お前らが何歳で成人して何歳で結婚するか知らないけどね、こっちの18歳は殆ど皆んな学生か働き始めたばかりなんだよ!恋人にもなってない相手を触ったら変態痴漢野郎なんだよ!死ね!」
依莉は一気に叫んでから光の渦に飛び込んだ。
◆依莉◆
目の前にはテーブルに載った参考書、ペンケース、ノート、バインダー、ルーズリーフ。
「帰って来たあ!」
「「「「「「「しーっ!」」」」」」」
「す、すみません」
私は小さな声で謝罪して頭をペコペコ下げた。うん、大丈夫。受験勉強の内容はちゃんと覚えてる。あの誘拐犯も約束はきっちり守ったんだね。それに、今までよりも眼鏡がすっごく見やすくなってる。
外して見ても埃一つついてない。普通は静電気とかでちっちゃい埃が直ぐ着いちゃうのに。試しに普段は絶対やらないけど、レンズを指で挟んでみた。
「凄い、指紋がつかない」
私は眼鏡を掛け直して窓の外、空を見上げた。うん、これなら温泉に掛けて行っても曇らないよね。
◇アスガル◇
「何て事だ!」
皇王の叫びがホールに響き空に抜けていく。依莉が消え、ラーテルも頬を腫らしながら消えた。今のアスガルに憂いは無い。しかし今後、膨大に魔力が余っているチキュウからの召喚をする事は難しい。あれ程、大人しく優しく慈愛に満ちて、不満も一切漏らさずアスガルの為に祈り続けた聖女が、ずっと怒りを溜め込んだ上に、守護神に暴力を振るったのだから。
しかも、前途有望だと思っていた皇子を筆頭に、貴族の令息達が、軽蔑しきった表情の聖女に変態痴漢野郎と罵倒され、心をばっきばきにへし折られてホールに転がっている。そして、それをみる貴族の令嬢達が皆、涙目だ。アスガルの貴族は婚約してから愛を育みながら結婚を迎える形となる。それを敬愛していた聖女に「恋人でも無い相手を触るのは変態痴漢野郎」と切って捨てられたのだ。
既に頭を切り替えて、受験に向けて参考書を開いている依莉の知らない所で、依莉の言葉が呪いの様に響いているのだった。