雪山での遭遇3
「いいか、あいつらは俺に任せろ。お前は騎士団に協力を要請してこい」
テオドールは前に出ていこうとするシーラの手を、ぐいっと強い力で引っ張った。
思いのほか強い力で、シーラは振り払うことができない。
「騎士団は御者さんに呼びに行ってもらいましょう。私もここに残ります。貴方は強いですが、肉弾戦に持ち込まれたら危ないでしょう」
「接近戦は確かに俺の得意分野ではないが、お前のような雑魚はいない方がましだ」
「雑魚かどうかは私の戦いを見てから決めてください。私は前で戦います。貴方のところには一匹たりとも行かせませんから後衛に集中してください」
「お前は群れる魔物の怖さを知らない。お願いだから俺より前に出ないでくれ」
再度前に一歩踏み出したシーラを引き止めたテオドールに懇願された。
彼は魔物の怖さを知っている。騎士団は細心の注意と周到な準備、過酷な訓練と緻密な連携によって犠牲を最小限にとどめ、多くの魔物を屠ってきた。
だがそんな完成された戦略があっても、事故は起きる。どれだけ有利でも勝ち切れないこともある。
テオドールは怪我をした同僚や亡くなった上官を見てきたのだろう。
心配になる気持ちも分かる。なぜならシーラも今不安だから。
「あんなに強かった父も魔物に殺されました。怖さは知っています」
シーラは振り返った。目を細めて笑う。
蜂蜜色の髪が揺れ、その美しい碧色の瞳に掛かる。
「大丈夫です。私が前に出るのは適材適所なのです。2人で戦った方が2人とも生き残れる可能性は高くなります」
確かにシーラが魔物と戦った経験は、テオドールに比べたら無いも同然だ。
しかし、前衛がいてこそ本領を発揮するテオドールには、前で戦えるシーラが必要なはずだ。
シーラには自信があった。
蒼い顔をした御者とテオドールを残して、テオドールが御者を庇いながら魔物の進軍を食い止めている間に自分が騎士団に救援を求めに行くより、御者に助けを呼びに行かせて自分が残った方が遥かに勝算があると。
もし仮に勝算が全くなかったとしても、あんな気持ちの悪い魔物どもとテオドールを一緒にこの場に残してこの場を離れるつもりなど微塵もない。
父に続いてまた大事なものが奪われるようなことになったら、どうしてくれる。
「私とテオドール様で騎士団到着まで時間を稼ぎます。そしてあわよくば、あの魔物たちを一体でも多くすり潰します」
シーラは乾く唇を舐めた。
「やめろ」
低い声が地に響く。
黒色の夜を集めたような瞳がシーラを強く睨む。本気で怒っているようだったので、思わずゾクリとしてしまったシーラだったが、顔色を変えずにテオドールの視線を受け止めた。
「やめないです」
「こんな時に我儘を言うな!」
「いいえ、よく考えたら私は雇われ従者ではありませんか。貴方のために戦います」
「俺の為?笑わせるな、俺にとってはお前が無事でいることが一番大事だ!」
過去の話をシーラが蒸し返したことに、喉元に刃物を当てられているのではないかと思うような鋭い視線がテオドールから返ってきた。
しかし、シーラは少しばかり別のことに気を取られてしまっていた。
……はっ。今、テオドール様の口から一生聞けるかどうかわからないような結構貴重な台詞が聞こえましたね。緊急事態にはこういうところでも思いがけないことが起こるのですね……でも、テオドール様は特に気づいていないようです。ふむ。
って、いえいえ、いけません。今は魔物に集中しなければ……
「聞こえなかったのか?お前はさっさと騎士団の奴らを呼んで来い」
テオドールが早く、と喋りも動きもしないシーラを急かした。
しかし我に返ったシーラはそれに抗って、その場に居座る。
「貴方は群れる魔物の怖さを知らないのでしょうか。魔物に致命傷を与えられないあなたの魔法では全部止めきれないかもしれませんよ。……それでもしも、もしも私だけ無事な事態になったらどうするのでしょう」
「舐めるな。大丈夫だ」
「舐めてません。むしろ、テオドール様なら私のような経験不足の前衛でも上手く使ってくれると思っています」
首を振ったシーラは諭すように言った。
シーラはテオドールを残して自分だけ安全なところに逃げたりしないと決めたので、テオドールをできるだけ早く説得するために畳みかけた。
「もし私だけ一人残されたら、引き籠ったり発狂したり鬱になったりするかもしれません。もしくは昔のように単身雪山に乗り込んで仇討ちをしようとする暴挙に出てしまうかもしれません」
「……それは」
「ここで、この状況で私に貴方を置いて逃げろと言うことはそういうことです。それでいいのでしょうか?」
「……わかった」
シーラがテオドールを覗き込むと、低い声が聞こえてきた。
「俺が引けと言ったら絶対に引けよ」と念を押したテオドールの声がフルリと震えた。
「はい、従います。背中はお任せしました」
研がれた空気を纏うテオドールの横に並んだシーラは薄く唇の端を持ち上げた。
白い息をすうと吐いたシーラの前に、固まった雪の床ができた。
テオドールの魔法だ。
これでシーラは雪に足を取られることなく戦える。銀色が続く限りシーラはテオドールの援護を受けられる。
御者の前にも道ができた。
テオドールの魔力が続くところまでしか走りやすい道はないだろうが、行けと檄を飛ばされた御者は尻でも叩かれたかのように騎士団を呼びに走り出した。
シーラはぎゅっと拳を握った。構える。
雪イノシシの肉だけでは満足できない魔物達が、他の獲物を探すため動き始めた。
何体かはまだ雪イノシシの血を啜っていたが、他の何体かはシーラとテオドールの方へザクザクと近づいてくる。
「いいか、覚えておけ。お前の我儘に付き合えるのは俺くらいだ」
真っすぐ立って手袋をぎゅっと引いているテオドール。銀の世界を見据える黒く鋭い目を、シーラはこの上なく頼もしく思った。
「しかと心に刻みました」
シーラが深く頷くと、強い声がシーラの後押しをした。
「行け、援護は任されてやる」
凛としたテオドールの横顔を視界の端に見てから、シーラは固まった雪を蹴り、跳び上がった。
丁度欲しかったところに雪山のような高い踏み台ができたので、それを利用し身を反転させる。
宙を舞うシーラの蜜色の髪が、白い雪の光を反射した。
その間をテオドールの鋭い氷の魔法が飛び、向かってくる魔物達を牽制する。
彼の魔法は魔物達の足場の雪も操り、奴らの蜘蛛のような足の自由を奪う。
そして跳び上がったシーラの真下には、突然口に雪を大量に詰め込まれて彼女に齧りつくことができない魔物がいた。
その一瞬の隙があれば十分だ。
シーラはその頭蓋に思いっきり踵を落としてやった。
足元で魔物の爛れた皮膚が縮み、脆い骨が割れる音がする。