月の見える窓
それから毎晩テオドールの部屋を訪ねていたシーラは、本を借りたついでにテオドールと一緒に本を読んで、あっという間に6冊あった雪山生活記をすべて読み終えていた。
そして今日は、最後の一冊を貸してもらえる晩だ。
彼の部屋を訪ねると、シーラはいつもと違う光景に目を奪われた。
大きなテーブルの上にたくさんのしょっぱいものが並んでいたのだ。
色々な種類の干し肉、珍しい乾燥キノコ、カリカリ桃梅、ピクルスの瓶、缶詰めなどの様々なツマミ。
「食べたいか」
シーラがコクと頷くと、テオドールは少し満足したような表情を見せた。
「いいだろう、お前にも分け与えてやる」
彼はシーラにソファに座れと促してくる。それから雪山生活記の最終巻を手に載せてくれた。
これが旨い、とテオドールは雪イノシシの腱を干したものをシーラに取ってくれた。
シーラは貸してもらった本をソファの空きスペースに置き、受け取った干し肉を齧ってみる。
おいしい。じんわり塩気が広がって、噛めば噛むほど肉肉しさが味わえる。
シーラの知っている雪イノシシは大抵橇を引いているので、食べたことはなかった。
シーラがモグモグと口を動かしていたら、テオドールがそっと立ち上がった。
自分の文机の後ろで何かごそごそやっている。
大きな缶を抱いてソファに戻ってきた。小麦チョコレートの大缶だった。
この人は大缶に入った小麦チョコレートを机の下に常備しているのか、と見つめていると、テオドールの不機嫌そうな声がした。
「なんだ」
「甘いものがお好きなんですね」
「好きというか、しょっぱいものを食べると甘いものを食べたくなるだろう」
こんなことを言っているが、実はテオドールは結構甘党なのかもしれない。
夕食後に時々タルトやパイをパクパク食べているし、コーヒーに蜂蜜とミルクをたくさん入れて飲んでいる。
確実にシーラよりは甘いものを食べている。
「私はしょっぱいものを食べたら、もっとしょっぱいものを食べたくなります」
「変な奴だな。病気になるぞ」
「好きな物の食べ過ぎで死ねるなら本望です」
「フン。お前は碌でもない野心を持っているんだな」
テオドールは小麦チョコレートの大缶を片手に抱えて、足を組んでソファに体重を預けている。
そんな彼に好きな食べ物はあるのかと聞いたら、食べること自体がそんなに好きではないと返された。
シーラも食べること自体に執着はないが、しょっぱいツマミだけは食べ始めると止まらなくなってしまう。
流石に死ぬまで食べたいというのは冗談だが、ぼんやり干し肉やカリカリの桃梅を食べる時間は素晴らしい。
横を見ると、テオドールが心なしかソワソワした様子でチョコレートを食べていた。
彼がソワソワしているのは珍しくない。シーラはしょっぱいものを楽しみながら、ゆっくり過ごしていた。
ポリポリ……
カリカリ……
「おい」
「おい……見ろ、今日は月が見えるぞ」
テオドールがおもむろに上を指さした。
食べる手を止めて、シーラもつられるように天窓を見上げる。
なるほど、そういうわけだったのか。
彼はシーラに、月を見ろと言い出すのに時間がかかっていたらしい。
夜に一緒に月を眺めるのは、一緒にお茶を飲んだりしょっぱいものを食べるより、僅かにロマンチックだから言い淀んだのだろうか。
寒い夜に一緒に外に出て、雪山の間に浮かび上がった月を見に行くデートも定番だと言うし。
「本当ですね。綺麗です」
「少し欠けている。満月まであと3日くらいか」
「私はあと2日だと思います」
「まあどちらでもいい」と言うテオドールの声を聞きながら、ソファに全身の体重を預けながらシーラは天窓の向こうに浮かぶ月を見上げる。
今日は雪雲が薄く、明るい月がその合間に見える。月の光に照らされた雪は細やかに光って美しい。
シーラは月を見るデートが人気な理由が少しわかった気がした。
月や星が綺麗なのは勿論、吸い込まれそうな夜空を見上げれば、そこには世界に自分たちだけしかいないという錯覚ができる。
そんな月の横、雲の隙間でシーラはチカチカと執拗に輝く星を見つけた。
その星は次の瞬間しゅんと流れて消えた。
「あ、流れ星です。とりあえずお願いをしなくては」
「お前、そんなもの信じているのか。あれはただの光るゴミだぞ」
「良いではないですか。タダでお願いが叶うのです」
「フン、貧乏性なやつめ。……で、何を願うつもりなんだ」
「病気になりませんように、とかでしょうか」
「怪我しないようにも加えておけ」
「欲張りですね」
シーラが小さく笑うと、テオドールはムスッと眉間にしわを寄せた。
次の流れ星が流れた時、シーラは「実家の母や友達や従者たち、それからついでにテオドール様も怪我にも病気になりませんように」と願った。
お願い事の1回目を唱え切る前に、流れ星はすうっと消えてしまった。
わざわざ追加したテオドールの名前が長いから間に合わなかったのだ、とシーラは心の中で小さく文句を言ったが、それはただの照れ隠しなのかもしれなかった。
怪我にも病気にもなりませんように、と願うくらいには近く思っているのを認めるのは少し気恥ずかしい。
流れない星たちは、相変わらずチカチカチカチカ輝いている。
神頼みとは縁のなさそうなテオドールは何かを願っている風ではなく、何かを考えているようだった。
「……明日も見に来るか?俺の邪魔にならないようにするなら、嫌々だが許可してやる」
慎重に探るように口を開いたテオドールは、天窓からテオドールに視線を移したシーラに気が付いたのか、そんなことを言った。
不遜な態度で鼻を鳴らしている。
……テオドール様がいつも嫌そうなのも、文句を言うのも、何となく分かってきたような気がします。
「では明日も月を見に来ます」
「フン、適当なしょっぱいものでもまた見繕っておいてやる」
ありがとうございますとお礼をしてから、シーラは天窓に視線を戻した。
戻した時に盗み見た、彼の横顔が心なしか嬉しそうに見えた。
……興味なさそうな顔をしているように見せかけて、喜んでくれているように見えなくもないような……
気づかれないように笑ったシーラは干し肉を、気づかれないように何食わぬ顔を装っているテオドールはチョコレートをそれぞれ摘まみながら、ソファに寝転がって月と雪を楽しんだ。