初めての仕事
ブルーナー家に来てから、時間はゆったり過ぎた。
シーラはブルーナー家についてテオドールから話を聞いたり、結婚に関する雑務をテオドールと共に片付けたりしてそれなりに慌ただしく過ごした。
ブルーナー家での生活にも段々と慣れてきた。とても暖かくて快適で、慣れてしまうのが怖いくらいだ。
シーラも段々慣れてきて、テオドールとの会話も徐々に広がるようになってきた。
彼は何か聞けば、ぶっきらぼうだが必ず返事はしてくれるし、不愛想だが何かとシーラに話しかけてくれる。
話している時はあまり目を見てくれないが、ふとした時に目が合うようにもなった。すぐに逸らされるが。
そんなこんなでテオドールが休みを取った二週間はあっという間に過ぎて、今日。
テオドールはシーラと朝食を摂ってから仕事に行った。そう、今日はシーラが初めてテオドールを仕事に送り出した日である。
不機嫌そうな顔のテオドールと玄関まで一緒に行き、いってらっしゃいと挨拶をすればフンとそっぽを向かれ、早く部屋に帰れと赤い顔で追い払われたので、上手く送り出せたのかはよく分からない。
今日の朝食を終えたシーラは自室で、雪が静かに降っている窓の外に目をやった。
文机の椅子に座ったシーラが窓の外を見つめ続けていると、背中側にある扉がノックされた。
入室を許可するとミラが上質な紙の束と大きな木箱を抱えて入ってくる。
今日からシーラはシーラで、ブルーナー伯爵夫人としての初仕事を始める。
結婚して最初の仕事、それは狂ったように書簡を書きしたためる仕事だ。
結婚をしたと言う知らせを、ありとあらゆる友人知人に知れ渡らせるための書簡を書きまくる仕事だ。
婚約破棄から突然始まった実感のない結婚のための仕事だが、だからといってシーラは手を抜く気はない。
「ここから地獄が始まりますよ、シーラ様」
「はい、骨が折れそうです」
神妙に言ったミラから手渡された長い紙を、真剣なまなざしで受け取るシーラ。
それには、宛先の家一覧が記してある。読んでも読んでも、一覧はだらだらと続いていた。
社交場で挨拶をするだけの仲の人の家から、親しい友人の家まで。
テオドールの友人でシーラの直接の友人でなくとも、ブルーナー家に入ったシーラは今後彼らとも付き合っていくことになるので、彼ら宛のものも全部シーラが手書きしなければならない。
ちなみにこの結婚報告の書簡、使用人に代筆させるのも、印刷するのもスタンプを使うのもご法度である。
みんなに結婚を祝ってほしい妻が、丁寧に一枚づつ感謝をこめて書かなくてはならない物だからだそうだ。
「逃れられないことは分かっていますが、それでも全部手書きでって辛いですよね。この報告を書く作業で体調を崩す方もいるそうですよ。汚い字で返信を書くと社交会で噂されたりするし、お姑さんがいると、ここぞとばかりにお姑さんにいびられるらしいですから!」
自分のことのように心配そうに顔を歪めているミラは、胸の前で手を組んで訴えている。
「心配いりません。私、字は綺麗なのです」
「同じ文字を書き続けて、夢でもうなされるようになるらしいですよ!」
「ふむ、寝ていても書けるようになったら楽かもしれないですね」
力強くシーラを心配してくれるミラを頼もしいと思うと同時に、シーラは既に結婚した友人たちを思い浮かべていた。
手首に大げさな包帯を巻いて、文句を言っていた顔。
「再婚は絶対したくないわ。だってまたあの報告書簡地獄を味わわなきゃいけないんだもの!」
湿布を貼った手首を庇いながら笑う顔。
「でもあれをやると、ああ私この人と結婚できたぁっていう満足感があるわよね」
「これで公私ともに認められる、みたいな感じだわ」
文句を言いながらも、友人たちは満足そうな顔をしていた。
その時のシーラは他人事のように、幸せそうだけど大変だなあと思っていたのだ。
残念ながら、シーラは結婚した今でも、皆にこの結婚を祝ってほしいと張り切る高揚感はない。
彼女たちが言っていたように、やっと結婚できたぁ、という感動もない。
しかし、お嫁に来た責任を持って仕事はしっかりしよう、丁寧に書き上げよう、そう思ったシーラは小さく腕まくりをした。
抱えていたブルーナー家の家紋入りの紙を文机に置いたミラは、ペンと特殊な青いインクも用意してくれていた。
優しい色合いの木の文机の上が、紙でいっぱいになる。
……
それからシーラは頑張って手紙を書きまくり、一週間そこそこで全て終わらせた。
朝から晩まで毎日書いて、ようやく終わったのでちょっとした達成感があった。
ちなみに、夕食の席でシーラから結婚報告の書簡を書き始めたことや、手が痛いことの話を聞いたテオドールは、眉を寄せて「お前の手書きなど誰も喜ばない」と言っていた。
しかしミラが「シーラ様は旦那様との結婚を皆に祝福してもらうために頑張っているんですから」と口を挟んだら、「別にそんなもの必要ない」と小さく言い捨てたきり大人しくなった。
それから次の日には、テオドールが騎士団で使われている秘伝の軟膏を持って帰ってきて、シーラにくれた。
手に塗っておけとのことだった。
シーラの手首は最終的に何日も酷使したにもかかわらず、思ったより痛くならなかった。
テオドールがくれた秘伝の薬が効いたのか、ミラがこまめに湿布を取り換えてくれたのが効いたのか。
それとも、そもそもシーラの手首はその辺の女の子より頑丈なのか。