初めての朝3
「もういい、さっさと済ますぞ。ボーっとせずに早く来い」
ガタッと立ち上がったテオドールに急かされてシーラが立ち上がると、まず手始めに、食堂の横にある磨かれた厨房に案内された。
この家で食べた美味しい料理を作ってくれた場所だ。
テオドールが厨房の戸を開けると、太った男性とひょろりと背の高い男性、背の低い二人の男性がシーラを出迎えてくれた。
スーシェフだとシェフである太った男性に紹介された、背の高い若い男性はシーラの侍女のミラの夫だ。優しそうな笑顔の人である。
挨拶が済むと背の低い2人の男性は仕事に戻り、二つの鍋でグツグツ何かを煮込み始め、トントン野菜を切ったり、ボコボコお湯を沸かし始めた。昼食や夕食の下準備の為だろう、いかにも活気あるキッチンと言った音が聞こえ始める。
どこからかシンプルな木の丸椅子を引っ張ってきたシェフは、シーラとテオドールに座るよう勧めた。
シェフは腰かけたシーラに苦手な食べ物やアレルギーなど詳しく聞いて、ぴちっと揃えてバインダーに留められている紙にびっちりメモしていた。
シーラが質問攻めにあっている間、テオドールは椅子に座らず立ったままで、スーシェフと何やら他愛ないことを話しているようだった。
ようやくシェフから解放されて厨房を後にする。食堂と繋がっている居間のような部屋を横切っている時、テオドールが口を開いた。
「お前の声が大きすぎて嫌でも耳に入ったのだが、お前、甘いものは好きではないのか?」
「そうですね、あまり好きではありません」
シェフとの会話でシーラが甘いものが苦手だと言ったことが聞こえたのだろう、そう質問してきたテオドールにシーラは正直に答えた。
甘いものは食べると胃が気持ち悪くなって頭がぐらぐらしてくるので、シーラにとって進んで食べたい物ではない。
あまり好きではないというか、嫌いな食べ物だ。
「何か好きな食べ物はあるのか」
「干し肉とか、しょっぱいものなら何でも好きです」
揚げ芋や干し肉のようなしょっぱいものは好きだ。食べ始めると止められない。
シーラは、肉食獣のように食いちぎって食べるしかない干し肉や、大酒飲みのオジサンが好むような揚げ芋が大好きだ。
「干し肉か。お前は変なものが好きだな」
テオドールは形の良い顎に細長い指をあてて、そう言った。
……やっぱり、干し肉が好きな女の子ってどうでしょう。ちょっと怖いでしょうか。ガサツでしょうか。
いえ、食べ物の好みは人それぞれですから、怖いと言われたところで変えられるものではありませんが……
「それでもって、私、干し肉に直接噛み付いてバリバリ食べるのが好きだったりします。手で持ってそのまま食べたりします」
そこまで言う必要はないのに、シーラは半分無意識に、念を押すように呟いていた。
咄嗟に、干し肉を齧っているところを見て驚かれるより、事前に免疫をつけておいてもらおうと思ったのだ。
「そうだな。干し肉をナイフとフォークで食べていたらおかしいだろ」
シーラがテオドールの反応をちらりと窺えば、振り返った彼はあっさり頷いた。
颯爽と前を歩くテオドールは、その間にも次々に扉を開けてシーラに部屋の説明を続けている。
呆気ない返事が返ってきて、シーラは小さく安堵した。
女の子らしくないシーラにウンザリするロベルトのことが頭の片隅に残っていて、少し考えすぎてしまったのかもしれない。
「……そうですよね。ナイフとフォークで食べる干し肉は、きっと美味しくないですよね」
シーラは、歩くのが速いテオドールに小さく駆け寄った。
近すぎず遠すぎず、適度な間隔を空けてテオドールの横を歩く。
「フン。干し肉なら確か貯えがあったはずだ。後で貯蔵庫も見せてやる」
少し歩くスピードを緩めて次の部屋に向かっていくテオドールに、シーラは楽しみですとコクコクと頷いた。
以前ロベルトと婚約したばかりの時に、シーラは彼に女の子に人気の街のお菓子屋さんに連れて行かれたことがあった。
「これも美味しいよ、あれも可愛いよ」と勧めてくれた彼は、シーラの為に綺麗なケーキをいくつか注文していた。
宝石のようなケーキとシーラを見比べたロベルトに「ケーキを食べる可愛い女の子っていいよね」と微笑まれた。
きっと女の子の喜ぶものを知っていて優しく微笑むところも、彼が女性に人気のある理由なのだろうなと思ったが、この時のシーラは少しだけ窮屈だった。
女の子は、甘いケーキが好きな可愛い子でなくてはならない、と暗に言われているみたいだった。
……思えば、ロベルト様とはそんなことばっかりでした……
音を立てずに大きなため息をついたシーラは、気を取り直してテオドールの各部屋の説明に耳を傾けた。
食堂の隣にあった簡易の居間より豪華な居間、来客用の広いサロン、書斎、ドライフラワーと洗濯物で溢れた乾燥した小部屋、何の部屋か分からない空き部屋、リネン室、物置、広間、小さな螺旋階段。
天井まで本が詰まった書庫は2つもあった。
「螺旋階段の上にも天窓があるのですね」
「ああ」
「ここは何の部屋でしょうか」
「知らん」
「この部屋には変なものがたくさんありますね」
「フン」
「ここは、本がたくさんありますね!」
「それはそうだろう。書庫だからな。……お、おい。そんな服ではしごを登ろうとするんじゃない」
テオドールが使っている浴室や彼の両親が使っていたという部屋の扉は開けなかったが、テオドールは小窓のある屋根裏部屋や資材置き場まで案内してくれた。
そして長かった屋敷内の旅の最終地点、厨房の隣にある半地下の貯蔵庫。
扉を開けたテオドールは、ぎゅうぎゅうに並べてある瓶や缶、吊り下げられたハムを眺めて「ハムと熟成肉しかないな」と呟いていた。
テオドールの後ろから中を覗き込んだシーラは、ほうと大きくため息をついた。
「大きくてすごいですね。リシュタインの家の小さな貯蔵庫とは違います」
ブルーナー伯爵家の貯蔵庫は、リシュタイン子爵家のの貯蔵庫より一回りも二回りも大きい。
屋敷自体が大きいのだから当然ではあるが、大きな貯蔵庫というのはそれだけで市場の中にいるような楽しさがある。
シーラは見るだけで楽しい気持ちになったが、テオドールはムスッとしていた。
「大きい癖に、干し肉はないらしい」
「そうですね。そういう時もあります」
シーラは普通に相槌を打った。
確かにシーラは干し肉が好きだが、無いなら無いでいい。
シーラは昔から、我儘を言ったり甘えたりするタイプの女の子ではなかった。
諦めは良い方だし、割り切ることは得意だ。
「食べたくないのか」
「ふむ、無ければ食べないだけです」
「……」
一通り眺めて楽しんだあとは貯蔵庫から離れ、目的もなくとりあえず食堂へ引き返すことにした。
その道すがら、相変わらず眉間にしわを寄せているテオドールが、シーラに振り返ることなく声を発した。
「俺は、今日はすることがないから……お前の買い物に付き合ってやってもいいが」
「私の買い物ですか?」
「ああ」
「はて、何を買うのでしょうか」
欲しい物や買い物の話をしているわけではなかったので、突然の質問の意図が読めないシーラは、テオドールの背中に向けて質問する。
「……干し肉に決まっているだろ。お前はあれば食べるんだろう」
振り返ったテオドールが目を細めてシーラを見ている。背の高いテオドールはシーラを見おろす格好だ。
「でも、干し肉だけをわざわざ買いに行くことはないのです」
「だが、俺が行ってもいいと言ってるんだ」
「気を遣わないでください」
「……別に、お前なんかに気は遣っていない」
シーラが辞退すると、吐き捨てるように言って顔を背けたテオドールは、何も喋らなくなってしまった。
ふと、後ろから見える彼の耳が、困ったように赤くなっていることに気が付いた。
テオドールは多分、シーラを気遣ってくれた。買い物に行こうと誘ってくれた。
では、ここはお言葉に甘えるところだったのではないか。
折角提案してくれたのだ。遠慮するのではなくて、ありがとうと喜ぶべきだったのかもしれない。
「ありがとうございます、やはり買い物に」
「!」
こちらを見ようとしないテオドールの注意を引こうと、彼の服の袖をクイクイと引っ張ると、テオドールはびくっと驚いて振り返った。
「行きませんか」
シーラよりも背の高いテオドールを見上げながらもう一度提案すると、ハッと気を取り直したテオドールに全力で睨まれた。
睨まれるようなことをしただろうかと不思議に思いながら、シーラがその鋭い視線を真っ向から受け止めていると、震えたような怒った叫びが降ってきた。
「お、お前、頼むから考えなしに勝手にベタベタ気安く触るな!」
「む?ベタベタは触ってませんけれど」
「考えなしに勝手に気安く触ったりするな!」
「考えはあったのです」
「勝手に気安く触ったりするな!」
結局、買い物に行こうと再提案したことは流され、真っ赤な顔のテオドールに怒られて終わってしまった。
袖をつかむ手を振り払われることはなかったので、シーラは自ら手を放し、そのまま黙った。
袖が解放されて自由になったテオドールは、プイッとそっぽを向いた。
……むっ。
少し触ってしまっただけなのにいきなり怒られて嫌がられて、そっぽを向きたいのはこちらの方だ。
シーラだって別に好きで触ったわけではない。
好きで近づいたわけではない。さらに言うなら、好きで結婚したわけではない。
「そんなに嫌なら、もう触ったり近づいたりしないように気を付けますけれど」
「……誰も嫌とは言ってないだろ」
「でも避けられました」
「……避けてない」
「それに怒られました」
「フン、あんなもの怒った内には入らん」
「いいえ、客観的に見て、怒っていました」
「主観的に見て怒ってなどいない」
「それでも触るなと言われました。そんなに私が嫌なら、別の人と結婚すればよかったのですよ」
押し問答の末に、シーラが言い放つと、テオドールはキッと眉を寄せて声をあげた。
「……ば、馬鹿なことを言うな!他のやつなんかと結婚するくらいなら、お前に触られた方がましだ!」
焦っているテオドールを観察すると、彼の頬は更に赤くなっていた。
熱いのか、手の甲でひっそり触って、シーラには気づかれないように冷やしているようにも見える。
……見ていれば何を考えているか手に取るように分かる、とセバスたちは言っていましたが……
何となく責め立てる気も無くなって、シーラは首をひねった。
それから気を取り直したシーラは、同じく気を取り直したテオドールの案内のもと、雪の積もった広い庭と、庭を少し歩いた先にある来客用の離宮を見学した。
前を歩くテオドールは歩くのが早かったが、時々言い聞かせるかのように速度を緩めて、後ろを歩くシーラに合わせようとしてくれた。
相変わらず、シーラの方を見ようとはしてくれなかったが。