第弐話 河童様の事情
てこてこと走る小娘。
動き易さを求めてか、着物の袖と裾を大胆に切り落とし腋と太腿を露出している。
しかして、色気は無い。
何故なら、小娘は非常にちんまいからだ。
ちんまい小娘の名は瑞那。
とある剣豪に侍女として雇われた――元・乱破者。
即ち、元・女忍者である。
その経歴故に愛想は余り無い。
鉄面皮、と言う奴だ。
「焦燥。私とした事がお寝坊をかましてしまうとは。何度目かの一生の不覚。二度寝願望のその先は現実的悪夢」
小娘らしからぬ淡々とした口調で独りごちりながら、瑞那が無表情のままぴょーんと高く跳んだ。
元とは言え、乱破者ならば大人二・三人分の高さを軽々と跳べて当たり前。
勤め先の屋敷、その高い塀の上に一瞬だけ手を着いて、手を軸に小さな体をぐるりと回して塀の向こう側――即ち敷地内へと飛び込む。
「窮地。しかしまだ諦めない。嬢様に気付かれる前に台所に入り、さも『定時には入って支度を始めておりましたが?』と素知らぬ顔をしてしまえば、私の勝利」
侍女としていかがなものだろうかと言う発想だが、元の本職が乱破だから仕方無い。
「……ん?」
敷地内に無事着地し、瑞那が走り出そうとしたその時。
「柔ァ! 柔わァ! 柔わわァァッ!!」
「ん、あ……きゅ、ぅううう……も、らめぇ、くふぁぁぁ……!!」
奇声と嬌声の合唱。
その発生源は、井戸の方向。
端正な顔立ちを悦楽に歪ませた変態が、緑色の丸くてぷるぷるした何かをこねくり回している。
「………………やれやれ。呆れの極致」
瑞那は大きく溜息を吐いた。
そして、もそもそっと裾の所から荒縄をするすると取り出し、
「不健全ッ!」
変態の後頭部へ向け、全力で投擲。
「にゃごッ」
荒縄はまるで生きたヘビのように虚空を這い回り、変態の首に噛みつきくるりくるり。
一瞬にして気道をきゅっと締め上げ、変態はその場にぶっ倒れた。
「辟易。まったく。嬢様は剣豪などと謳われていても一応は年頃の女子。品性を重んじ節度を弁えるべしと常日頃から釘を刺しているのに、どうしてか学ばない。不可思議」
もういっそ、釘ではなく物理的に手裏剣でも刺した方が良いのだろうか?
そう思った瑞那が荒縄に続いて手裏剣を取り出そうとした、その時、
「くぁぁ……きゅう……だ、誰だか知らないが、助かったんだぜ……! もう少しで色々と戻れなくなっちまうかと……!」
「…………は?」
倒れ伏した変態の腕の中から、翡翠色のぷるぷるした……まるで抹茶味の水餅みたいな生き物が、這い出してきた。
しかも、今――
「……喋った……?」
「くぁ? 応。喋るぜ。おれは」
「――げ、げほぁ、ぶはッ!? 空気! 空気ッ!!」
と、ここで、変態こと雫紅がガバッと飛び起きる。
「くぁッ」
それにびくびくぷるんッ、と反応した翡翠色の喋る水餅。
素早く、瑞那の背後へと隠れた。
「首がきゅって! 首がきゅって! 今の感触は瑞那さんですね!? おはようございます!」
「嬢様。おはよう」
「それはそれとして! いきなり酷いではないですか! あと一回くらい絶頂したらやめようと思っていた所だのに、消化不良ですよう!」
「失笑。そんな事より」
「そんな事より!?」
「質問。嬢様、この生き物は一体?」
「この生き物……あ!」
「きゅあッ」
雫紅と目が合った途端、翡翠水餅はまたしても大きくぶるるんッと震えた。
「そうです、拙者はその柔き生き物を揉まなければならぬのです!」
「…………不健全?」
「あ、はい。控えますでそうろう」
瑞那がジトッとした目つきで睥睨しつつ新たな荒縄を取り出したのを見て、雫紅はおとなしくその場に正座。
「再質問。この不可思議な生き物は、何?」
「拙者にもよくわかりませぬが、以前、南蛮の見世物で見た片吟なる水鳥の類かと」
「くぁあ! 誰がぺんぎんだコノヤロー! おれは【河童】の翠戦様でぇい!!」
怒りにぷるぷると震えながら、嘴を大きく開いて――水餅が、叫ぶ。
「……え、喋っ……えぇ!?」
「いや、気付けよ! おめーにさんざ揉みくちゃにされている間も一生懸命やめろやめろって言っただろ!」
「らめぇ、らめぇと珍しい声で鳴くものだとは思っていましたが……」
「そんな情けねー声、出してねーし! くぁーっ!」
ぷるぷる振羽を振り回して抗議する水餅。
「……確認。先ほど……河童、と?」
「応。おれは河童の翠戦。他の誰でもねーおれが言うんだから間違いねー!」
「河童と言うと……あの?」
河童……水にまつわる仙物の類だ。
仙物とは神物に次ぐ高位存在。
即ち、とてもご立派で縁起良く、偉大な存在。
しかし、
「拙者……『河童は、ぶ厚い肉に覆われた巨体を誇る』……と聞き及んでいるのですが」
河童と言えば無双伝説。
角力を好み、その巨体由来の超絶膂力で一〇〇人の力士を連続で投げ飛ばしたなんて逸話も聞く。
……この、せいぜい大きめの家猫程度のサイズしかなく……先ほどまで、雫紅に好き放題されていた、か弱い生き物が?
「くぁ……おれだって元はそうだったさ。だがよぉ~……事情ってもんがあるんだぜ。……そいつを説明する前に、水をもらえねーか? さっきから喉がカラカラでよぉ。干乾びちまいそーなんだ」
「干乾びる!? その素敵なぷるんぷるんが!? そんなの駄目! 嫌、嫌ァァア!!」
雫紅は発狂したように井戸に飛びつき、滑車が壊れかねない勢いで木桶を吊るす紐を手繰り始めた。
「……なぁ、あの娘、何かの病気なのか?」
「肯定」
「アアアアアアアアアアアアアア!!」
◆
「――ま、そうしておれは【皿】を失っちまって、こ~んな、みじめな格好になっちまったっつぅ訳よ」
木桶の水に肩まで浸かりながら、河童の翠戦は「ふひー、いきかえりゅぅ~」と脱力感のある吐息。
それに合わせて全身がぷるりんと揺れる。
「……つまり、河童様は今、すごく柔らかいと」
「おめーの頭はそれしかねーのか?」
「無視を推奨。嬢様は脳幹が半分は腐っている」
やれやれ、と瑞那は溜息を吐き、
「総括。即ち貴方は『仙物として、ある強大な邪悪と対決。それを討ち果たしたものの、代償として河童の力の源である皿を失ってしまい、その水餅めいた姿になってしまった』と」
「応。そう言う事った」
瑞那の大雑把な総括に、翠戦がぷるんとうなずく。
「……つぅか、それなりに大きな娘よりちんまい小娘の方が話が通じるって、人の世も末だな」
「全力否定。嬢様を人間として見ないで。これは変態であって人ではない、名状しがたき化生」
「侍女が辛辣!」
「かつて侍女の尻を無許可で揉みしだこうとした武士に対する扱いとしては妥当」
「うにゅぅう……まだその話を……」
「本当に脳みそ腐ってんのな」
「河童様まで辛辣に!」
がーん、と雫紅は傷心してむせび泣く。
限りなく自業自得だが。
「あ、あの頃はちょっと忙しくて、ろくに揉めてなかったせいで正気が濁っていたんですよう……最近は色々こまめに発散しているので、あのような暴走はしませぬ」
「あ?」
「ごめんなさい。拙者ついさっき河童様を無我夢中で揉みくちゃにしました。辛抱たまりませんでした。本当にごめんなさい。あと最高でした」
被害者に対し、加害者は地に頭をすり付けて土下座。
武士に取って土下座は最上級の懇願。「この願いを汲んでくださるならば、こうして垂れ差し出した首をそのまま断ち切っていただいて結構」と言う意思の表現。
それだけ許しを乞うと言う事は、反省はしているようだ。
「……まぁ、今回は大目に見てやんよ。おれは人間が嫌いじゃあねーし、それにまぁ……何と言うか、悪くはなかったし……」
「? 後半、ごにょごにょと聞き取れなかったのですが……」
「うるせー! とにかく不問にしてやるってんだい!」
ザパァッ、と翠戦は木桶からあがり、ぺたん、と地におりた。
反動で、ぶるるるんッとその御身が揺れる。
「……ッ……」
雫紅は懲りずに生唾を飲み込んだ。
そしてそれを察知した瑞那がすぐさま、雫紅の全身に荒縄を這わせて制止。
「ぉごッ!? な、何故にいきなり緊縛!? しかも結構ぎちぎちに!? 拙者ですら引き千切るのに数秒かかりそう!」
「不健全察知」
「ちょ、未遂! 未遂だのに!?」
「語るに落ちた。『未遂』と言う事は、止めなければイく腹積もりだったと言う証左」
「げぇーッ!? しまったァーッ!?」
「よって圧を上げる。不健全必滅ッ!」
「ぁだだだだだだ!? 食い込んでる! 色々と駄目な所にも食い込んでますこれぇ!!」
「縄を千切って逃げたら、嬢様の事を心から嫌いになる」
「精神的にも縛ってきた!? おのれ瑞那さんんんッ……!! おぉう……地味に喉も……脳に、酸素、が……」
「ゴキゲンだな、おい……」
愉快な人間たちに呆れ半分の苦笑を向けつつ。
翠戦は風呂上りの犬のように、ぶるるるるんッと勢い良く身を震って水気を払う。
「苦言。そこ、嬢様を無闇に誘惑しない。場合によっては貴方にも不健全判定をする事になる」
「……柔ぁぁ……(血涙)」
「そんなつもりはねーんだが……」
本当にやべーなこの人間、と翠戦は全力で引く。
「ま、まぁ、ともかく、だ。水、ごちそーさん。おれはそろそろ行くぜ。代替になる皿探しの旅によぉ~」
「世辞。武運を祈る」
「世辞かよ!」
「柔柔柔柔柔柔柔柔柔」
「ごめん、今なんて!?」
……そんな平和なやりとりをしていた時だった。
唐突、「ズガッ!」と言う衝撃音と共に、横合いの塀に大量の亀裂が走る!
「ぬ」
一番最初に反応したのは、さすが元乱破、瑞那。
「失礼承知。とう。そして、とうっ」
瑞那は即断即行。
荒縄で縛られて身動きが取れなくなっている嬢様を蹴っ飛ばして塀から遠退け、翠戦を抱きかかえて跳ぶ。
「にゃがすッ」
「な、なんだァーッ!?」
雫紅の蹴られた痛みに悶える悲鳴と、翠戦の混乱から来る悲鳴。
それらを塗り潰すように、ギュィィィィィイイイイン!! と言う謎の怪音が響き渡った!
「…………機械……?」
「あ、あれは……!?」
塀が砕かれ、舞い上がる白い粉塵。
その中に佇んでいたのは、鈍色の金属光沢を放つ巨体!
大まかには人の形をしているが、並みの大男より巨大。
姿勢はかなりの猫背にして、がに股。
爪牙は獣のそれよりも獰猛!
棘の目立つ長い尻尾まで生えている。
「ギギギギ……ギッヒッヒッヒ……!」
下卑た部類の笑い――いや、嗤い声。
発生源は、鈍色の巨体からだ。
牙まみれの大きく裂けた口を開いて、巨体が笑っている!
「見つけたゾ、河童野郎ォ~!!」
赤く光る眼光が見据える先……そこに在るのは、瑞那に抱かれてむにゅっと変形した翠戦だ。
「……質問、お知り合いのようですが」
「知り合いっつぅか……まさか【悪機帝国】……!? んなバカな! おめーらは確かにおれが壊滅させたはずだぜ!?」
「確認。悪機帝国……と言いますと、先ほどの?」
雫紅はろくに聞いてもいなかったが、その名は先ほど翠戦の身の上話に登場したものだ。
翠戦が仙物としての誇りにかけて、大きなものを犠牲にしてまで討ち払ったと言う邪悪!
それが悪機帝国!
話によれば。
いずこかより突然に現れて、この禍の国を侵略しようとしていたのだとかッ!
それを察知した翠戦が単身で悪機帝国の本拠地に乗り込み、無双の限りを尽くした!
そうして迎えた悪機帝国の帝王、悪鬼大帝との決戦にて皿を失った!
以上が先の話のあらましだ!
「ギヒヒ! まさかも何もその通りダ! 我は悪機帝国が羅刹四将! 晶殻の泰厭紋!」
「ら、羅刹四将……? し、知らねーぞ、そんな奴ら!」
「当然! 我ら四機がこの地に到達したのは、つい先日故ナ!」
「ッ、おいおい……増援がいたって事かよぉ~!?」
「ああ、そうサ。愕然としたゼ……大帝のために馳せ参じてみりゃあ、連絡を受けていた拠点にゃあ残骸しかネェときタ! 残骸から記録共有して貴様の事を知ったんだゼ~! 貴様の生体反応も記録されていたからこうして見つけ出す事もできたって訳ダ! さぁて、許すまじ河童野郎! 我らが帝王、震沌大帝のカタキをば取るゼェェーッ!」
「ぷるとん……ぷる……何やら柔らかそうな名詞が聞こえましたが!?」
雫紅が、尻に火を付けられたような勢いで飛び上がり、全身を縛っていた荒縄を引き千切った。
「やい、そこのすっごく堅そうなあなた!」
「おめーはまず質感に言及しないと気が済まないのか!?」
「恥ずかしながら性癖なので!」
「本当に恥ずかしーな!?」
「ギヒヒ、活きの良い娘だナ。震沌大帝の御名が気に入ったカ? 良い趣味してるゼ!」
「それほどでも!」
「渾身否定。それの趣味は最悪」
「ある意味、邪悪な悪機帝国にゃあお似合いかもだがよ~」
「侍女と河童様が辛辣ッ!」
「笑止。そんな事より」
「またそんな扱いなの拙者!」
さすがにそろそろイジけますよ!? と涙目の雫紅。
そんな雫紅に、瑞那は懐から取り出したある物を投げ渡した。
それは、鍔の無い短刀。
いわゆる「匕首」。暗器だ。
「進言。事情はいまいち不鮮明ながら、どうにもこの機械の兵士は仙物の河童様を狙っている罰当たり。つまり倒すべき敵の様子。嬢様の出番」
「はい、それはもちろん承知しておりますとも!!」
からんからんと音を立てて、匕首の鞘が地に落とされた。
抜き身になった短い刃を構え、雫紅が静かに腰を落とす。
瞬間、雫紅の表情が豹変。
凛々しき武士ならばかくありきと言った面持ち。
「お、おい!? クソ変態バカ人間! 何考えてんだ! そんな武器で、しかも人間が! 悪機に敵う訳ねーだろ!?」
「ギヒヒ! そうだゾ、趣味の良い人間。河童野郎の言う通りダ。自殺願望かヨ?」
「拙者の名は美川雫紅。通り名は一刀無双。柔らかいものが大好き」
「ハ? なに言ってんダ?」
雫紅の名乗りに、感情は無い。
ただ淡々と、敵対者を死に追いやる事だけを考えている……そんな無情無慈悲の声。
「柔らかきものに仇なす悪党すべて……この一刀無双が斬り殺す」