第拾話 猫は看取らせニャい
あたしは、猫と遊ぶのが大好きだ。
「にゃん太郎はふかふかだねー」
「やめれ。ワシに触んニャ」
うちのにゃん太郎は黒猫。
長生きしてるからとっても頭が良くて、人の言葉を話せるようになったんだって。
あたしに取っては生まれた時から傍にいてくれた一番の友達。
頭やお腹を撫でると「うっとうしいぞ、このアマ」とか文句を言うけれど、なんだかんだずっと撫でさせてくれる。
にゃん太郎は頭が良いし、とっても優しいのだ。
今日もあたしは日向の縁側に座って、膝に乗せたにゃん太郎をわしわし撫で回しながら一緒におしゃべりする。
「にゃん太郎ってさ、何かやりたい事とかある?」
「あーん? それ猫に訊く事か? まぁ、そうさニャ……ワシは米が食いてぇニャ」
「猫さんは御魚を食べるんじゃないの?」
「バッカやろう。魚はおかずだニャ。そんな事もわからニャアから人間は猫に米を食わさニャア」
にゃん太郎は舌も肥えてる。
にゃん太郎いわく「違いがわかる、ひとつ上の猫」なんだって。
「ところで、ニャんで急にそんニャ素っ頓狂ニャ事を訊きやがる?」
「おとと様が昨日の夜ね、『おまえは将来、父をも超える大剣豪になるのだァーッ!!』って」
「あの親父さんを超える剣豪って……人間が成れるもんニャのか?」
「わかんない。でもとりあえずね、あたし、将来の事とか今まで考えた事が無かったから。みんなはどうなのかなー……って気になって」
「だからって猫に訊くニャし」
やれやれだぜ……とにゃん太郎は呆れた様子で大きな欠伸。
「将来……将来かぁ……まぁ、ワシにゃあもう、大して……」
「ん? にゃん太郎、何か言った?」
「……別段。どーでもいい独り言だ。気にすんニャ」
「なんて言ったの? にゃん太郎の独り言、気になるにゃー♪ って、わぶふ」
にゃん太郎はふさふさの尻尾をあたしの鼻っ柱にもふっと叩きつけてきた。
たぶん、「だまれ」と言う意思表示。
「うっとうしい。誰ぞの独り言を聞こうだニャんて、趣味が悪い。無粋はいけニャアってもんだ」
「むー、気になるのにー……ん?」
「どした?」
「おとと様が帰ってきたみたい」
おとと様の気配は大きいから。玄関から離れたこの縁側でもよくわかる。
「ああ、そうかい」
「? にゃん太郎はまたわかんなかったの?」
「うっせ。興味が無かっただけだ」
少し前まで、にゃん太郎はあたしなんかよりずっと気配に敏感だったのに。
最近、目に見えて鈍ってる。
ごはんの食べ過ぎなのかな?
それとも、何か疲れてるのかな?
「おとと様、帰ってきたら今後のしゅぎょー? について話があるって言ってたから、行くね。戻ってきたら肩揉んであげる」
「ニャんでだよ。確かに年寄りだが、年寄り扱いすんニャ」
「はは、意味わかんなーい!」
……そんな、一見他愛の無い会話から、二年が過ぎました。
その頃にはもう、「父を超える剣豪になるための修行」は本格化していて。
あまり家に帰れず、にゃん太郎とおしゃべりする機会もめっきり少なくなっていました。
「よう、久しぶりだニャ。またデカくニャりやがって」
「うん……あ、じゃなくて、はい。拙者、もう齢七つになりましたので」
「けッ、喋り方も一丁前にしようってか? 人間は訳わかんニャア事にこだわるよニャ」
そう言って、にゃん太郎は拙者の膝に乗ってきました。
何だか、ずいぶん軽くなってしまった気がしますね。
拙者が鍛えられて、軽く感じるようになっただけ、なのでしょうか。
「で? 今回はどこに放り込まれてきたんだ?」
「北の大陸、壊染は御存知ですか?」
「聞いた事はあるニャ。禍の国を構成してる三大大陸のひとつ、だったか?」
「はい。そこの雪山にて、自給自足の生活を」
「雪山で自給自足ぅ? おま、よく生き残れたニャ……」
「冬籠りに失敗した熊がそれなりにうろついていたので、食糧問題は割と平気でした」
「……二年前までワシを夜小便に付き合わせていた娘が……ずいぶんとまぁたくましくニャったもんだ……」
「あはは。でも実は、今でも夜の厠は少し恐いです」
「ニャッニャッニャッ。そか。普通の年頃だニャ」
にゃん太郎との他愛の無い話は、とても楽しい。
特別、何か笑えるとかではないけれど、とにかく心が軽くなるのです。
――それに、柔らかい。
二年前より肉が薄くなってはいるけれど、にゃん太郎の毛皮は柔らかい。
撫でると、とっても可愛い感触がします。
この感触もすごく癒しです。
にゃん太郎と過ごす時間は、拙者に取ってかけがえないものでした。
……しかし、そう間を置かず。
また、拙者は父に連れられて修行のために家を発つ事になりました。
「……………………」
深い密林の奥地で、ふと、にゃん太郎の感触を思い出して自分の掌を眺める。
……厳しい修行の中で酷使したせいで、皮が分厚く、白みを帯びた無骨な手。
当然、全然、柔らかくない。
「……拙者の手、可愛くないなぁ……」
歳の近い女子の手は、もっとぷにぷにしています。
数少ない友達のお澪ちゃんの手はすごくぷにぷにでした。
にゃん太郎ほどじゃあないけれど、あの感触も好きです。
それに比べて、拙者はどうでしょう。
掌だけでなく、体中、肉が筋張って、でこぼこのかちんこちん。
どこもかしこも、可愛くない。
……拙者も、女子だのに……。
「ぐるるるる……!」
「……!」
ふと、獣の唸りが聞こえました。
拙者とした事が、物思いに耽り過ぎて無防備に接近を許してしまったようです。
急いで立ち上がり、父から渡されていた脇差を引き抜き、構える。
茂みから現れたのは、白と黒の斑点模様が特徴的な大山猫。
禍の国と交友が深いお隣の大大陸・大天華帝国から渡来して野生化してしまった種類だと聞いています。
在来種の山猫よりふた回りも大きくて、何より獰猛!
……ただ、やはり……猫の類……毛並みが、柔らかそう……。
……ッ……!? 拙者は、何を考えて……!?
こんな時に何をバカげた事を……!
相手は山の大獣。
にゃん太郎のように好意的に撫でさせてくれるはずが無い。
……ああ、でも……黒い部分、どうしてもにゃん太郎を彷彿としてしまう……。
…………今回の修行、もうどれくらいの日が経ったのでしょう。
枝葉の天井に遮られて陽がまったく差し込まないせいで、時間の感覚はとっくの昔に狂ってしまいました。
もうずっと、永劫がごとき長い時間、にゃん太郎に会えていない気分です。
父に「本当に無理だと思った時以外、弱音は吐くな」と言われたので控えていたけれど……正直もう、心も体も限界近くまで擦り減っていました。
辛い、ほんとにもう、辛い。
でも、父の期待には応えたいから頑張りたい。
でもやっぱり辛いものは辛い。
にゃん太郎に癒して欲しい。
この重く沈み切った心を軽くして欲しい。
この際、お澪ちゃんでも良いから。
わずかな事でも良いから、癒しが欲しくて、仕方無い。
……いや、でもさすがに、こちらを殺しに来ている獣を撫でるのは無理が……。
………………待ってください。
どのみち、拙者はこの獣を殺します。
向こうは敵対心むき出しだし、こちらは可能な限り栄養豊富な食糧が要るのですから、殺して食らうが止む無し。
つまり……殺したあと、食すために解体するまでは、撫で放題なのでは?
「ぐるるるる…………る?」
「……ふ、ふふ……あはは、あふふふふ……」
そうです、そうですよ、撫でられるじゃあないですか。
殺してしまえば、安全に撫でられるじゃあないですか!
光明ッ!
この酷く荒んだ心身を癒せる光明ッ!!
にゃん太郎、許してください。
これは浮気ではなく、精神衛生上、必要な事。
「あははははははははははははははははははは!!」
「ぐるぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
「おう。また一段と、たくましくニャって帰ってきやがったニャ」
にゃん太郎はそう言って、座布団の上で気怠そうに頭をもたげていました。
「悪ぃが、今日は体調が悪くてニャ。撫でてぇんなら、自分で膝に乗っけてくれや」
「…………………………」
言われた通り、にゃん太郎を膝にのせて、撫でる。
……ふぁああ……この感触だよう……ほんともう……あの獣たちも悪くはなかったけどにゃん太郎は次元が違うぅぅ……。
「……ニャーんか、前よりねちっこい撫で方にニャってニャいか? 妙にスケベしいと言うか……」
にゃん太郎が柔らかいから。にゃん太郎の感触が可愛いから。
……毛皮だけで、その辺の獣とは一線を画すこの癒し……。
だとしたら、あの場所は?
拙者は今回の修行中、ある事を発見しました。
それは……毛皮よりも、柔らかい……獣のある部位の存在。
「……にゃん太郎……肉球、触っても良いですか?」
「あぁん? んニャもん触って何が楽しいんだ? まぁ、勝手にすりゃあ良いんじゃあニャアの?」
そう、肉球。
今まで知らなかった事を後悔して止まなくなるほどに、鮮烈な柔らかさを内包する部位。
にゃん太郎にも、肉球がある。
――ひとぷにしただけで、世界が変わった。
気が付けば、陽が落ちて昇り直してまた沈むまで、拙者はにゃん太郎の肉球をぷにり倒していました……。
「ひッ、はぁ……はぁ……お、ま、……い、ぃ加減に、し、ろや……死ぬ……」
「……ぇ?」
にゃん太郎の掠れ声で、ようやく拙者は正気に戻りました。
「あ、あぁああッ!? ご、ごめんなさい! にゃん太郎! 大丈夫ですか!?」
「おまえの方こそ……よくもまぁ……水の一滴も飲まずに……ぐへぇ、枯れるぅ……」
「み、水ですね!? わ、わかりました! 今すぐに!!」
その事件の後、謝り倒しはしましたが、ろくに償いをする暇も無く。
また拙者は修行のため、しばらく家を空ける事になりました。
「ほ、本当にごめんなさい……帰ったら、おいしい御米をたくさん炊きますから! どうか機嫌を……!」
「別に、怒ってニャアよ……めっちゃ引いたけど……だが、米を炊くってんなら、食ってやるさ」
「はい! 絶対に!」
「……まぁ、その頃まで持つかは、微妙ニャ所だけどニャ……」
「持つ? 何がですか? 御米? 大丈夫ですよ、御米は長持ちしますし、何なら新しく買ってきますから!」
「いや………………ああ、そうだニャ」
にゃん太郎は少し、不思議な間を溜めて、
「どうせニャら、新しいもんが良い。駄目にニャっちまった古いもんはさっさと忘れて、新しいもんに替えちまうのが、一番良いさ」
「じゃあ、約束ですね!」
「……おう。いってこい。気を付けて、ニャ」
「はい!」
約束を交わして、にゃん太郎に見送られながら、拙者は修行へと向かいました。
――でも、その約束は果たせませんでした。
にゃん太郎は、いなくなってしまったんです。
泥を墨代わりにして、紙きれに肉球で何らかの書き置きを残して。
にゃん太郎は、忽然と消えてしまった。
……きっと、本当はすごく、怒っていたんだと思います。
そりゃあ、そうですよね。
にゃん太郎の事なんて考えず、その制止の声もろくに聞かず、死の寸前まで追い詰めるほどに肉球を揉み倒す。
……そんな危ない奴と一緒になんて……暮らせませんよね。
機嫌さえ取れば許してもらえるだなんて、浅はかな考えも癪に障ったのかも知れません。
そう思えるくらい、猫文字で記されたにゃん太郎の書き置きは、怒りに震えた痕跡がありました。
猫文字はまったく読めません。
でも、なんとなくわかります。
きっとこの書き置きには、拙者への不平不満罵詈雑言が書き連ねられているに違いありません。
しかも、書き置きの紙には点々と、水滴で濡れて乾き縮んだ痕跡も。
にゃん太郎はこれをしたためる際、怒りの余りに涙までもがこぼれていたのでしょう。
……拙者は、取り返しの付かない事をしてしまったのです。
「……ごめん、なさい……」
心の底から謝った所で、もう手遅れ。
にゃん太郎は、どこにもいない。
拙者に愛想を尽かして、出ていってしまった。
「……ッぅ……ごめんなさい……!」
泣き崩れた所で、誰が許してくれるはずもない。
これは、罪科です。
未来永劫、この背から降りる事の無い、最低最悪の罪科。
どれだけ償いをしたとしても、許されはしない、取り返せはしない過失。
……だとしても、償わない訳にはいきません。
もう二度と、同じ過ちを繰り返さないために。
己の罪を忘れないために、償い続けるべきなんです。
拙者は、何をするべきか。
もう柔らかいものを揉まない……そう誓いを立てるのは、簡単でした。
……しかし、誓いを守り抜く事は、とても難しく。
禁欲から半月ほどで拙者は正気を失い、父に力づくで止められなければ、お澪ちゃんにとても酷い事をしてしまう所でした。
……拙者は、あまりにも弱い。
そもそも、にゃん太郎の肉球を揉み過ぎてしまった諸悪の根源も、拙者の弱さ。
あの程度の修行で正気が濁り、無我夢中で癒しを求めるほどに軟弱な精神力が発端。
まずは、鍛えなければ。徹底的に。
どんな苦痛にも、耐えられるように。
例え苦しくても、ひとしきり悶えたらすぐ立ち上がれる。そんな強い者にならなければ。
……でも、多分どれだけ心を鍛えても「もう一切、何も揉まずに生きていく」と言うのは無理な気がします。
にゃん太郎への罪悪感故、頑張りたいんですが……頑張ったんですが。
我慢すればするほど、反動が凄まじい事が判明しまして。
このまま行くと、父でも止められない完全狂獣化しかねない自負があります。
行き着いた答えは、加減。こまめな発散。
癒しをいただきつつ、相手に苦痛を感じさせない塩梅を見切る力。
それさえあれば、揉んでも問題無い、はず!
心気を鍛えて、癒しを必要とする頻度を減らし!
心眼を鍛えて、良い塩梅の癒しで留めるように努める!
え。あ、はい……その、悪い言い方をすれば妥協です。
……うぅ……だって、柔らかいもの完全我慢はほんとに理性トんじゃうんですもん……。
他の事は一生懸命に頑張りますから、必死で強くなりますから……これだけは大目に見てくださいよう……。