第壱話 井戸端のペンギン
雫紅と言う名の女武士がいる。
通り名は【一刀無双】。
たったひと振りの凡刀で刃毀れ無く、幾百の鉄塊をも斬り刻む。
剣術技巧の達人である。
この禍の国に武士は多くいる。
しかし「剣豪」と謳われるは彼女を含め指折りで数えきれる程度だ。
それだけでも、充分に傑物の証左。
だのに、優れているのは剣の腕だけでなく。
老若男女を問わず惹きつける端麗な顔立ちであり、一笑で千金を稼げるほど。
肢体は程よく引き締まって、たくましき力強さと洗練された美しさが共存している。
――「苛烈にして流麗。圧巻威容の絢爛華舞踏。武と美を共に極めた蓋世の女傑」
彼女の姿を、そして立ち回りを見た者はそう語る。
仮にこの語りが過ぎた誇張であったとしても。
語る者の活気と興奮を見れば、それだけ誇張したくなるほどの存在を見たのだと想像に容易い。
……して、その実態は。
「……重圧が辛みの極致」
口から臓物が出てきそうだ……とすら思える。
そんな深い深いそれは深い溜息と共に、雫紅はがっくりとうなだれた。
顔色は悪く目は死んでいても、その尊顔はうわさ通りに美しい。
馬の尻尾のように束ねられている長い総髪も、漆を塗ったように艶やかで見事なもの。
……だがしかし、いくら見目麗しくとも。
さすがに「袴姿のまま用も無しに厠で便器を跨いでしゃがみ込んでいる」と言うのはいかがな状態だろうか。
これは雫紅の癖のようなものだ。
気分が沈むと、小も大も無しに厠で引き籠る。
傍目をはばかって独りでウダウダしたい時にはうってつけなのだ、厠。
……臭うのは、ちと難点であるが。
「いや、まぁ拙者ならばできますけれども……可能と得意は違うのですよ……」
そう力無くつぶやいて、雫紅は再度、溜息を落とす。
何がここまで彼女を憂鬱たらしめているかと言えば……御役目、だ。
今日も今日とて、雫紅は「【一刀無双】と名高き稀代の女武士」としての御役目を果たさねばならない。
具体的に言うと――この蛙断の領の領主様、その御前で試合を行う。
しかも、今回は殊に特別。
隣領・剋叱の領より来賓もあるとの事。
御前試合。
武芸者にとって無上の誉れ舞台。
雫紅だって「光栄な事だと思うべきなのでせう」と理解はしている。
だがしかし――重圧がきっつい。期待が重い。
――「かの剣豪、一刀無双。一体どのような絶技をば見せてくれるものか」
……期待の視線が、ほんと辛い。
期待に応えられるだけの腕前は自他ともに認めるものがあっても、だ。
人は、時にしくじる。
サルとて木から落ち、河童様ですら川を流されてしまう事があると言う。
だとすれば、人がしくじるのも無理は無いだろう。
しかし、武芸者として。
御前でしくじる事はできない。
仮に天が落ちたとしても。
もしも地が飛んだとしても。
決して無様は演じられないのだ。
それが御前試合に臨む武芸者の職責。
そんな精神的な負荷が、いかんともし難い。
さらに、正味な話。
雫紅は、刀を振るのが好きではないのだ。
父の意思で武芸の道に入り、父の遺志を尊重して技を極めはした。
しかし、それはあくまでも浄土の父に忖度しての事。
彼女の趣味はもっぱら「柔らかなものを触る事」に尽きる。
猫の肉球なんぞ癒しの塊。
幼少の頃、時間の許す限り触り続けたせいで、飼い猫のにゃん太郎はめっきり帰ってこなくなった。
そんな性分で、刀を振り回す事に楽しさを見出せるはずも無し。
要するに、だ。
武芸稼業は不承不承ながらも親孝行のため。
幸い、父譲りの才覚と勤勉さに助けられて上達はしたが……し過ぎたとも言える。
雫紅は、武芸者としての誉れとかまったく興味が無い。
しかし、武芸者として誉れ高き舞台へと日常的に引きずり出される。
無論、浄土の父と世間様の目を考えれば、その舞台を穢す訳にはいかない。
好きでもない仕事のために。
途方も無い重圧と職責を負わされ続ける日々。
疲れ果てもする。
「……あ、竈馬……」
ふと雫紅の目に入ったのは、別名「便所コオロギ」。
でっぷり太った腹が柔らかそうな黒い小虫。
今の時節は春先。
そろそろ飛蝗などと共によく見かけるようになる虫でもある。
まぁ、そんな事はどうでもいい。
即座に。
雫紅は目にも止まらぬ挙動で竈馬を鷲掴みにした。
しかして一刀無双が誇る技巧の面目躍如。
凄まじい速度でありながら、乱暴とは対極。
柔らかな竈馬を握り潰す事は無く、繊細に捕獲してみせた。
余りにも丁寧かつ優しい捕獲であったが故に。
当の竈馬ですら「あれ? もしかしてワタクシ捕まりまして?」と気付く事すら数瞬遅れるほど。
「柔し……柔し……柔し……柔し……」
雫紅はぶつぶつと呪詛がごとくつぶやきながら、竈馬のでっぷりした腹を優しく揉みしだく。
竈馬は「あ、ゃん、なにこの子、繊細にして過激ッ……!」とピクピク長い脚を震わせて、彼女の技巧に翻弄されるがまま。
「……ふぅ、感謝いたします、竈馬殿。元気をばいただきました!」
にゃん太郎の愚をくり返すまい。
まだ指二分目ほどの満足感ではあったが、雫紅は竈馬を解放。
千金ものだと言われる微笑と共に、ぺこりと一礼。
「ええ、元気がみなぎりましたとも。――元気とは人が持ち得るおよその力の根源。であれば、思考の力も鮮明になり、なおかつ洗練されて然るべき」
礼に頭を垂れたまま、雫紅は目を伏せた。
そして自らに言い聞かせるようにつぶやき続ける。
「冷静に考えれば明白。ぐだぐだと嘆きくれようと御役目は無くならぬ事。重々、承知していますとも」
だけど、たまにはこうして腐りたくもなるのだ。
そして、充分だ。
竈馬から、活力を得た。
故に雫紅の思考は答えに到る。
「御役目の重圧から解放される術は唯一無二。さっさと御役目を果たしてしまうのみ!」
まぁ、どうせすぐに次の御役目が回ってくるのだが「そこはあえて考えない」と言うのも答え。
雫紅は勢い良く立ち上がり、ぴしゃりと自らの頬を平手で打った。
指先にまだ残る、柔き竈馬腹の感触を噛みしめるように。
堅く拳を握りしめ、気合まかせに天を突く。
「今日も一日、がんばりますッ!」
日課の厠籠りはこれにて終い。
毅然とした足取りで、雫紅は厠を後にした。
厠を出てすぐに、立派な屋敷が眼前に現れる。
雫紅の住まいだ。
雫紅以上に優れた武芸者であった父が領主様より賜った屋敷。
今は雫紅が独りで暮らしている場所。
「さて……」
屋敷に入り、御役目に向かう支度を――する前に、と雫紅は踵を返した。
まずは厠の裏手にある井戸で、顔を洗おうと思い立ったのだ。
「…………おや?」
カコン、カコン、と、軽くて高く響く音が聞こえる。
これは――水くみ用の木桶が井戸に投げ込まれ、井戸の内壁に打ち付けられながら落ちていく音……?
雫紅に確信を与えるように、ぽちゃん、と木桶が着水する音も聞こえた。
誰ぞが、井戸を使っている。
妥当に考えれば、侍女だ。
この屋敷には通いの侍女がいる。
しかし、違和感。
丁寧に吊り落としていけば、木桶は井戸の内壁にぶつかったりなどしない。
つまり、先ほどのカコンカコンと言う音は「木桶を雑に投げ入れた」ことを意味している。
侍女が、そんな事をするだろうか?
木桶ひとつと言えど、勤め先の物品を雑に扱うなんて。
あの侍女は確かに特殊な出自故、世間一般の侍女とはほんの少しずれた所はある。
しかし、それを加味して考えてみても……。
――無いでしょう。
だとすれば……曲者?
身に覚えは無い……つもりだが。
世の中、どこで誰の恨みを買っているかわかったものではない。
雫紅の場合。
御前試合が日常茶飯事。
敗者の逆恨みと言うのも(仮にも御前に招かれるような武芸者がそのような意地汚い所業を働くとは思いたくないが)、絶対に有り得ないと否定できはしない。
理不尽な報復を果たさんとする輩が、何らかの理由で井戸を利用しているとすれば?
……井戸水に何かを仕込んでいる?
その可能性、有り得る。
「……………………」
不審がりながらも、さすがは剣豪と謳われる強者と言ったところ。
年頃の女子らしく怯える素振りなど、微塵も無し。
端麗な顔を凛々しく引きしめたかと思えば、即座に足元の小石をつま先で蹴り上げて、拳に握り込む。
――堅い、柔くない、可愛くない感触。
どうせ触るなら柔らかいものが良いが、それでは意味が無いと妥協。
刀を取りに屋敷へ戻る……のは悪手。
その間に逃げられては、今後に不安が残る。
さすがの一刀無双も安眠中は少しばかり防備が甘くなる。
そこを狙われてはまずい。
もしも害意ある曲者であったならば――この場で、確実に殺そう。
人だろうが虫だろうが、生類を慈しむ性根の雫紅ではあるが……それは基本姿勢。
即ち、時と場合によって例外も生じる。
……雫紅は幼少期、父に「修行でちゅよ~☆」と密林に放り込まれた経験がある。
それも、ただの密林ではない。
猛獣どころか化生の類まで跋扈するような場所だ。
そこで、彼女は学んだ。
外敵は確実に殺さなきゃあ駄目だ、と。
殺す気でかかってくる相手に加減をしていたら、こちらが殺されるだけ。
食らわれる前に食らうくらいの気概が無ければ、あっさりと死んでしまう。
雄大にして苛烈な大自然が教えてくれた。
一生ものの教訓である。
故に、雫紅は石くれを握りしめる。
拳の隙間を埋め、掌の肉を押し固める事で、素拳の殺傷能力を限界まで高める。
最後に、目が合ってしまったら即座に飛びかかれるように気構えをして。
厠の陰から井戸の様子を伺う。
「…………、……ッ……!?」
井戸を雑に無断使用する者の正体を目の当たりにして。
雫紅は思わず、握り込んでいた石くれを落としてしまった。
――あ、あれは……!?
井戸の前には――ぷるりぷるぷると実に柔らかそうに震え弾む、翡翠色の何かが!
大きさは成獣の家猫ほどか。
だが、二足で直立している。
それに、嘴があると言う事は、鳥類。
その全体的な形質に、雫紅は見覚えがあった。
幼少の頃。
余りにも剣の修行ばかりをさせられている雫紅を憐れんだ領主様が、一度だけ【才唖華凄】と言う南蛮より寄港した芸人一座へ連れて行ってくれた事がある。
一座は見世物として珍奇な生物も多く連れていた。
その内の一匹が、あのように立ち歩く鳥であった。
色は緑ではなかったし、あんなにぷるりんともしていなかったが……姿形は間違いなくあの生物!
確か、名は――片吟。
極寒の凍土に暮らすと言う、「泳ぐ鳥」!
間違い無くペンギンだ。あれは。
しかし何故、禍の国にペンギンが?
それとやはり、記憶にあるものと色と質感がまったく異なる気がするのだが……。
正直、今の雫紅には些事でしかなかった。
――な、なんて……なんて柔らかそうな生き物ッ!!
ぷるるん……! ぷるるん……!
雫紅を誘惑するように身を震わせる翡翠のペンギン。
ペンギンはその特徴的な振羽を手のように器用に使い、井戸に落とした木桶の紐を一生懸命に手繰っている。
――ああ、ああ……ぷるん、ぷるりんと……ああ、もう、ああ……ッ……!
彷彿とさせるは水餅!
もはや抹茶味の大きな水餅にしか見えない!
水餅……かつて雫紅は水餅を食んだ時、唇に伝わったその余りの柔らかさに思わず絶頂を覚えた!
そして抑えようも無く嬌声をあげてしまった事がある……!
それほどに、水餅が愛おしい!!
その水餅が……水餅ペンギン(抹茶)がッ!
今、雫紅の前で!
雫紅を誘惑するように!
雫紅のために揺れている!!
気付けば、雫紅は走り出していた。
落としてしまった石くれを粉々に踏み砕き散らすほどの脚力で、疾風迅雷。
雫紅が、井戸へと突進する。
「くぁ?」
雫紅が音速を越え空気の壁をぶち抜いた「スパァンッッ!!」と言う破裂音に気付き、抹茶水餅ペンギンは振り返ろうとした。
しかし、間に合わなかった。
「柔わァッ!!」
「くぁぁぁあああああああッ!?」
確保。
雫紅は抹茶水餅ペンギンを決して抱き潰さぬように丁寧かつ迅速に捕獲。
井戸も破壊せぬよう地を蹴りつけて跳躍。
井戸も木桶を吊る柱も悠々飛び越えて、縦にくるりくるりと回転しながらスタッと華麗な着地を決めた。
「くぁ……く、あ? あ?」
抹茶水餅ペンギンからしてみれば、「背後から超高速で接近してきた何者かにしっかりとしかして優しくふわりと抱き締められた後、ぶわっと空を舞って何回転もさせられた」状態。
そりゃあ、愕然とぷるぷるもする。言葉も出ない。
そのぷるぷるが、雫紅を焚き付ける。
「柔らかか貴様ァァァァ!? 揉まァァァァアアア!! オアァァッ!!」
「くぁ!? きゅ、んッ、くあん!? んッ、きゅああああああああ!?」
正気を失ってもなお、一刀無双の技巧は健在。
雫紅の超絶揉み技巧が抹茶水餅ペンギンに容赦なく襲いかかり喘ぎ倒させたのは、言うまでも無い。