袖振りあうも多生の縁ー英国パブ・オーナーの恋心
キングサイズのホテルのベッドから妻が声をかけた。
「お願いがあるの、うちに帰ったら日本語の勉強辞めてちょうだい」
立っていたバルコニーの眺望は、はるか遠くのアトラス山脈に始まって、山裾から街に迫るほどの砂漠、ローズ・ピンク色の旧王都の家並み、目の前には庭のオレンジ並木。
二階だというのに、西陽を浴びて丸く輝く果実には今にも手が届きそうだ。
モロッコはマラケシュに来ていた。
朝は煩いほど小鳥がオレンジの樹冠に戯れていたのに、日の翳り出した今はひっそりとしている。
ゆっくりと振り向いてベッドに近付くと、妻はブロンドの髪を肩に遊ばせて上目使いに見ていた。
「週に2時間10ポンドの家庭教師、ダメかい?」
「お金じゃないわ、あの娘、あなたに惹かれているから、会わないで欲しいの」
「先生が? 歳が10も離れてる。あり得ないよ」
「日本語続けるなら私が他の先生探すわ。彼女も元々私が見つけてきたんだし」
これ以上話を続けると、恋に落ちたのは先生ではなく自分だと認めるハメになりそうだ、早めに会話を切り上げようとした。
「いいよ、じゃ、あの先生はこれで打ち切りにしよう。別に何回来てもらうって約束したわけじゃなし、実際いろいろ教材くれて消化できてないしね。ま、誰かあてがあればまた紹介して」
今日は朝から「南の真珠」と呼ばれる古都マラケシュの観光スポット、メナラ庭園やスルタンの墳墓を巡り、スークで所狭しと軒を連ねる雑貨屋たちをひやかした。
王侯気分を満喫しようと大枚はたいて予約した五つ星ホテルに戻り、シャワーを浴びて気持ちよくバルコニーに出た矢先の会話だ。
久々のバカンスにエキゾチックな砂漠の国に来たというのに、何と場違いな話だろう。
それ程危機感を持っているということか。バスルームを出たらその足で、ベッドの上の妻に直行してやればよかったのか。
頭を拭いていたタオルをソファに投げて、シーツ一枚かけて肘をついている妻の隣に横たわった。
手は自然と彼女の腰のくびれに伸びる。2歳下、40に達したというのに、眩しいほどのナイス・バディ、典型的な砂時計型だ。
一糸も身に着けていないらしい。アラビアンナイトのシェーラザードの衣装を着せたらどれ程セクシーか、想像してしまう。
問題はここにあるのかもしれない。どうしてだか、妻の裸に興奮してことに及ぶ力が、私にはもう残っていない。自分にできることは優しくかき抱いて安心させてやることくらいだ。
うとうとまどろみ休憩した後、夜8時か9時にでも有名なジャマエル・フナ広場を散策すればマラケシュは堪能したと言えるだろう。
明日は地中海を渡ってジブラルタルに入る。
ロンドンから飛行機でラバト着、フェズ、カサブランカと廻って7日間、アラブ系の自己主張と抜け目のない文化に少々辟易してきた。
飛び地とはいえ自国領である対岸に戻れば、ほっとしてしまうに違いない。
「もう二度と会えないんだな」
そんな言葉が心に浮かんだ。
「先生」は大声でまくし立てもしなければ、何をして欲しいとねだることもない。
応接の斜め横に静かに座って母国語の文法を説明しようと懸命に単語を探す。その真摯さ、謙虚さ、穏やかさ、それでいてそこにしっかりとある存在感。
残念ながら心が動いてしまった。惚れてしまったから手を離さなくてはならない。
妻に言われなくてもこのままでは、早晩彼女に迷惑をかけてしまう。心情を吐露してしまうか身体が勝手に反応するという恥ずかしい形で。
現に家庭教師の時間に妻に外出していて欲しいと願う自分がいる。
もう電話もメールも無しだ。次の授業のスロットを予約することはない。それだけで彼女は自分の人生からいなくなる。
ーーーー心からは消せないとしても。
バカンス後、クロフォードの街に戻りぼんやりすることが増えた。
若い頃頑張ったお蔭で、街中に4軒の店舗用不動産を所有している。
不況の煽りでテナントの出入りは激しくても、賃貸料収入の途切れはない。かなりのん気にしていられるわけだ。
4軒のうちのひとつがスワンという名のパブで、私の出発点。
20年前、経営不振に陥ったところを安く買い取りがむしゃらに働いた。
2階に住み込んで、オーナー兼マネージャーであると同時に、ビールも注げばトイレ掃除もする雑役係。
街の中心という立地も手伝って、数年後には経営を立て直すことができた。その後はスワンが生み出す利益を順次、他の物件に投資していっただけ。
自分のパブで一杯飲むのが私の楽しみだが、オーナーがうろつくと従業員がやりにくいだろうから、極力入り浸らないようにしている。
妻は顔が広い。私立中学校の寄付金集めの仕事をしていたせいか、いろんなイベントを仕切るのが得意だ。
スワン・パブの集客力が高まったのも、彼女がライブ・ミュージックやクイズ大会などを催し、老若男女を惹きつけたからだとも言える。
ある日妻がフランス人の若い男を連れてきた。
中学校で「現代語学」を教えているという。この授業では、仏語も独語もイタリア語も、ほんの基本的な会話だけ教えるのだそうだ。おはようとか駅はどちらか、とか。
自分も含めてイギリス人の外国語が苦手な訳がわかってしまった。
彼、ティエリーは大学で中国語と現代語学を修め、欧州言語ならそつなく教えることができるらしい。
「日本語は?」と訊くと、「日本のアニメのファンで、字幕を見ながら我を忘れて憶えた」と言う。得意なのは「行くぞー」とか「死ねー」とかいった掛け声の類いだと赤面した。
試しに「先生」が書いてくれた教材の1つ、「ロックコンサートで」という文章を渡して読んでもらうとたどたどしくて聞けたものではない。
彼女は、コンサート開始のざわめく会場、最初のギターの音を聞いてしんと静かになった中に鳴り響くドラムの音を、まるで散文詩のように書いてくれたのだ。
ロック・ファンの自分としては、貫き留めた玉飾りのように思っている言葉の連なりだった。
ティエリーは言う、
「これはネィティブのレベルですよ。日本人以外には教えられないでしょう」
それを聞いて安心した。変に知ったかぶりされても困る。私はひらがななら全部読めるし、日本語で自己紹介もできるのだ。
そしてまた退屈な日々が続いた。
クロフォードの街は人口が6万5千人程度だが、ショッピングモールで「先生」を見かけることさえない。
住所は知っているから訪ねていけば会えるのだろうが、そうする理由がない。
10月の誕生日に妻がスワン・パブにお気に入りのバンドを招いてくれた。AC/DCやR.E.M.などのヒットナンバーを奏でるトリビュート・バンドだ。
そればかりではなく、クロフォードに隠棲する往年の世界的ロック・ドラマー、クリストファーが客演するという。
「いくらご近所だからといって、そんなビッグネームを呼んでは採算がとれないだろう、うちのパブの限られたフロアスペースでは集客力に限りがないか?」
と妻に言うと、ただ微笑み返されただけだった。
いずれにせよ、パブのオーナーというのはいいものだ。ビール片手にカウンターの端っこの特等席に腰かけ、若い頃心躍らせた曲に酔いしれた。
ビートに身体を揺らすこの街の若者たちはクリストファーを知らない。
今や70才近いだろう彼が、スキンヘッド、黒地に日本の漢字らしきものが白抜きになったTシャツ、黒のスキニージーンズという姿で他の客に混ざってビールを注文していても、サインを貰おうとさえしない。
クリストファーはカウンターで一杯飲みながら自分の出番を待っているようだった。
彼はやはり、ドラムキットの向こうに座っているのが一番似合う。
彼の演奏が始まると、私の身体は急に火がついたように熱くなった。
熟したスティック捌きは飾り打ちが減ったのか、更に洗練されたように聞こえる。
さして太くもない剥き出しの両腕は、ドラム演奏に必要なだけの筋肉が、多過ぎず少な過ぎずついているのだろう。
クリストファーの胸を飾る漢字は何と読むのだろう?
もし今隣に先生がいてくれたら、この音楽のシャワーの中声を届かそうと最接近して、黒髪に見え隠れする耳朶に言葉を落とすのに。
「先生」が欲しいのはもの珍しいからだけなのか、憧れた日本という国の人だからなのか?
ーーーー小さな骨格、平たい身体、長い黒髪。全てが妻の裏返しだ。
先生は、一度だけうちのパブのロック・ライブに来てくれた。
混んでいたからすぐ隣に立ち合わせて、私の腕の中に引き込むほど接近して「何飲む?」と訊くと「ハーフ・サイズのシャンディを」と答えた。ビールの炭酸割り。
それで酔う筈もないのに黒目がちの目尻を少しうるませて、ここにいた。
クリストファーの客演曲目は終わったようだ。バンドのオリジナルメンバーに戻る。
挨拶にいかなくては、とカウンター・スツールから滑り降りた。
「ありがとうございました。若い頃活躍されていたバンドのファンで、こんな光栄なことはありません」
「奥様から今日はお誕生日だと聞きました」
ロック・ミュージシャンにありがちな尖った虚勢もなく、セレブとしての気取りもない、好々爺というには早すぎる人懐っこさで笑いかけられてしまった。
「アイツ、そんなことまで話したんですか……」
「今日のドラムのスティックにサインしてお渡しすると奥様に約束しましたので、これ、どうぞ」
予想もしていなかった。妻がここまで私を思いやってくれているなどとは。
「そんなことまで……。うちのは、どうやってあなたを引っ張り出したんですか?
この街にお住まいなのは知っていましたが、こんな小さなパブでドラム叩いてくれなんて、私だったら言い出せません」
「ご縁があったんですよ」
笑顔で発せられた「コネがあった」という平坦な英語は、「先生」が教えてくれた日本語表現に脳内変換されていた。
「僕たち、どーそーせい、らしくて……」
クリストファーの言った日本語の意味が分からないまま、スティックのお礼を再度告げ、パブのドアを出た。
無性に外の空気が吸いたくなった。
「どーそーせいって何?」
「僕たち」は聞き取れたのに、とスティックを握り締めた。
辺りに目をやると10月の夜空は澄み渡り、街灯が破線を引くように公園の横の道を照らしている。
その灯の下にスポットライトを浴びたように、小さな女性の後ろ姿が浮かび上がる。そして消える。次の街灯を浴びてまた浮かび上がる。
左に曲がれば駅に続く道だ。
ーーーーああ、行ってしまう。「先生」が自分の人生から抜け出していく。
破線にそって紙が切り取られるように、景色がふたつに分かれていく。
いや、あの姿が本当に彼女で、日本に帰ろうとしていたとしても、もう私は引き止めないだろう。
そういう自分を認めてしまった。
追いかけはしない。
だって、恋患いを恋愛に高めていく気力がもう、見つけられないのだから。
「先生」が自分を好きだと言ってくれてもそれは変わらない。
クリストファーならいくつになろうとビートを操るように、自分の心拍数も巧みに御していけるのだろうか?
私はと言えば、彼と比べて見る影もない不器用で平凡な42才。
今日から43才か。
人生をかき乱すより手の中にあるものを大切に温めるべきだろう。
さて、パブに戻るかな。後片付けが済んだら、妻と連れだって帰ることにしよう。
―了―