プロローグ
体の節々が痛んだ。
燐光を放つ地衣類。
ゆらゆらと青白い炎を揺らす松明。
ピシャピシャという肉を叩くような音。
獣のうなり声。
苦悶に満ちた悲鳴と、狂気を孕んだ笑い声が、同時に聞こえた。
意識が次第にはっきりとしてくると、周囲の様子が視界に飛び込んできた。
黒と赤と白。それが蠢いている。
何が見えているのか、最初は分からなかった。
頭がそれを理解することを、拒否しているのだ。
「ひっ」
祭壇を思わせる、台形の石舞台の上で、私は悲鳴を飲み込む。
赤は血と臓物。
黒はヌラヌラとして脈動する壁面と、全身毛むくじゃらの猿……みたいなモノ。
白は女性たちの裸身だった。
悲鳴も笑い声も、彼女らのものだ。
それが、像を結ぶ。
「生贄、生贄、生贄、生贄、生贄……」
組み伏せていた女性から、貪り喰っていた臓物から、顔を上げて、猿みたいなモノが、私を見ながら小躍りして唱和する。
私はその光景を見て、ふぅっと意識が遠くなるのを、やっとこのとで踏みとどまる。
――ここは、『迷い家』の胎内だ。
それが、本能的に理解できた。
記憶が鮮明になってゆく。
七ツ沢の畔で戦闘になった。
茶畑三十郎さんのおかげで、危機を脱し、怪異の根源である『迷い家』に入る事が出来た。
でも、そこは、想像を絶する異界だったのだ。
空間はねじ曲がり、時間の流れすら、怪しい。
まるで、この『家』自体が悪意を持っているかのように、瘴気が充満していた。
細く薄く、撓う帯みたいな金属に襲われたところまでは覚えている。
誰なのか分からなかったけど、神人の一人が、まるでなますの様に刻まれたのは、チラッと見えた。
その瞬間、私の足元は消失したのだった。
必死に私を掴もうとする権六の姿が最後の映像だった。
私は、管の中を転がり落ちていったのだ。
壁面に叩きつけられる度に、激痛に意識が遠くなり、巫女装束がズタズタに裂けるのを感じていた。
手にした樒は、いつの間にか消えていた。
そして、地面に叩きつけられ瞬間に意識を失ったのだった。
巫女装束の残骸を、あわてて体に巻きつける。
舐めまわすような、猿を思わせる獣人の視線に、竦み上がってしまっていた。
う~う~と唸りながら、全裸の娘が、私の方向に這い寄ろうとしていた。
髪はおどろに乱れ、体中にひっかき傷や痣が出来、激しい暴行の痕跡が見える。
恐怖と嫌悪に私の体が瘧にかかったように震え、ガチガチと歯が鳴った。
娘が後ろから足を引っ張られ、獣人に引きずり戻されるのが見えた。
その娘は地面に爪を立て、金切声を上げて抵抗していたが、メリメリと爪が剥がれて、獣人の凌辱が再開されるのを見て、また、気が遠くなる。
「たすけて」
声がこぼれる。
何だろう、この感覚。
誰かが、私の口を借りて、何かをしゃべっているような、そんな感覚。
獣人の動きに合わせて、ガクガクと揺れる、さっきの娘の体から、ふうっと力が抜ける。
死んだ。
今、彼女が死んだのが、私にはわかった。
「こわい、くるしい、たすけて、たすけて、たすけて」
小さな蛍火が、彼女の体から遊離して、ふわふわと私の周囲を漂う。
どっと感情が流れ込んできた。
それが、私を気絶から踏みとどまらせた。
ここに満ちているのは、黒羽の矢で選ばれたり、神隠しにあった娘たちだ。
それが、理解できた。
その瞬間、私の胸に灯ったのは、闘志だ。
恐怖も、痛みも、霧散する。
ずっと、死者の魂に寄り添ってきた。
自分に、どうしてこんな能力が備わっているのか、ずっと疑問だったけど、今、自分の使命を理解できたような気がする。
なにも、こんな死に方をしなくても良かった娘たち。
悪しき、七ツ沢の因習。
それを断つために、私は生まれたのかも知れない。
「いいよ! おいで! 導いてあげる!」
パンと柏手を打つ。
音の広がりに合わせて、床が、壁が、天井が、蠕動した。
貪られていた死体から、生き地獄を味合されている娘から、死体となった今でも、冒涜されているからだから、小さな蛍火がふわりと浮かびあがる。
悲鳴を上げて、獣人が逃げてゆく。
音の広がりに飲み込まれた個体は、糸の玉のように解けていき、芯になっていた蛍火が、漂い流れる中に加わる。
今は、私の周囲を光の渦が回っていて、どす黒い赤光から水面の青色へと変わり、やがて太陽の黄金色に輝き始める。
「おいで、おいで、一緒に還ろう」
光の粒が私に触れ、くるり、くるりと舞う。
もう一度、柏手を打つ。
光の粒に包まれるようにして、失くした樒の束が運ばれてきた。
それを掴む。
さっとそれを一振りして、祝詞をあげた。
歓喜に光の粒が揺れる様だった。
「行きましょう」
そう宣言して、祭壇みたいな岩舞台を降りる。
地の底から響くような唸り声が私の耳に届いたのは、その時だった。
◇ ◇ ◇
「おっと、地震かよ」
どんと突き上げるような振動が、薄暗い廊下を歩く二人の巨漢をよろめかせた。
板敷廊下。壁は、白の漆喰。天井は、およそ三間はあろうか。横幅も二間はある。
白壁に手をついて、揺れが収まるのを待っているのは、七ツ沢の怪異に挑むために招聘された剣士、茶畑三十郎だった。ぎょろ眼の凶顔で無精髭とくれば、まるで達磨様の顔だ。
この男、正体不明の怪剣法『深甚流』の使い手にして、腰に刷くは人間では発音できない古い神が宿る呪刀『似たり神』。加えて、天竺渡りの秘術『擁我』という怪しい術を使う。
腰を低くして、衝撃を逃がしているのは、行方不明になった巫女の星子の付き人だった男、権六という。
『獣憑き』の呪われた血を持つ男だが、星子に救われ、人喰いから足を洗っている。
「誰だか知らんが、たいそうお怒りだぜ」
ふっふと笑いながら『似たり神』の柄に肘を預けて、三十郎が歩きはじめる。
袖で涙と鼻水を拭いながら、悄然と権六がその後ろに続いた。
星子を助け損ねてから、ずっとこの調子だった。
「ええい、辛気臭いやつめ! あの巫女さんなら、大丈夫だよ」
がりがりと頭を搔きながら、三十郎が言う。
「きっと怖い目にあわれています。早くお助けしないと……」
そう言って、権六が鼻をすすった。
「あのなぁ、あの巫女さんは、自分でも気づいてないが、そうとうなタマだぞ。むざむざと喰われるものかよ」
三十郎のその言葉に、権六の眼に新たな涙が盛り上がる。
ため息をついて三十郎は再び、廊下を歩きはじめた。
見渡す限り直線が続く、まるで無限回廊だった。
◇ ◇ ◇
――今日も男どもが来ない。
女は、躾けられたとおり、身を清め、香を焚き込んで、拷問部屋で待つ。
丸太を組んだ木馬や、縛り付けるための格子や、おぞましい道具が並べられた十畳ほどの部屋。
待ちくたびれて、女がよろりと立ち上がった。
「この甘い臭いのする香を嗅ぐと、理性が飛んでしまう。思考など白く塗りつぶされて、まるで獣のようになる」
香炉に蓋をして、女が一人ごちた。独り言は、彼女の癖だが、自覚症状はない。
丸二日、待ちぼうけになっている。
毎日、慰み者にされる生活。どれほど長い間繰り返されてきたか、もう、記憶すら定かではない。
――何か、大事なものを忘れているような……。
それが、どうしても思い出せない。
香を嗅いだ瞬間だけ、少しの間感覚が鋭敏になる。
その時に、何かとても大事な大事な何かを、取り上げられてしまったような、焦燥感にかられるのだ。
だが男どもに嬲られているうちに、何を考えていたのかすら、思い出せなくなる。
今は、それがない。
「何だっけ? 何だっけ? 何だっけ?」
小さくて、柔らかくて、いい匂いのする、何か。
とっても大事な、すごく大切な宝物だった。
そんな事が、女の壊れかけた脳を駆け巡る。
「ああ、ああ、何だっけ?」
女が髪をかきむしる。
連日、慰み者にされてなお、黒い練り絹のような美しい髪だった。
頭皮が裂け、血が滴る。
端正な女の額から鼻梁に血が流れた。
「星子! 星子!」
突然の悲鳴が、女から迸る。
音が漏れないように設計された拷問部屋からは、その絶叫は漏れなかった。
「星子があぶない。星子があぶなぁあああいよぅ」
女が閉ざされた牢に取り付く。
ぞわぞわと黒髪が蠢いて、鍵穴に侵入した。
カチン
音がして、錠が地面に落ちた。
「星子、星子、おかあさんが、たすけてあげる。いまいくいまいくまってて」
髪を振り乱し、白装束の女が、七ツ沢神社から、走り出て行った。