89.喜翔転倒
スタートラインの前に立ち、俺の右足と水橋の左足を結び、準備完了。
肩から首筋を繋ぐラインに、そっと手を置く。……水橋、首細いな。
本当に、どこから見ても文句のつけようが無い。
こんな近く、どころか密着した状態で水橋の横顔を見られるなんて。
サルには感謝しないとな。前までだったら、多分透を推してただろうし。
作戦は唯一つ。水橋を信じて、全力で走る。
水橋は、何かと突飛だ。何を考えているかは分からねぇ。
けど、俺が信じなくて誰が信じるっていうんだ。
結果的なことではあるけど、水橋は俺を選んでくれたんだ。
……いや、二人三脚の相方としてね。大それた意味は無い。
「一歩目を合わせられたら、後は全力で走って」
「分かった」
大きく息を吸い、覚悟を決め、前を見る。
どんな結果であろうと、全力で行く。
「位置について……ヨーイ!」
乾いた銃声が、スタートの合図。
大事な一歩目は、同時に踏み出せた。
何も考えず、無心のままにコースをひた走る。
他の組が声を出しながら走っている中、俺と水橋は無言で走る。
だけど、足並みは一切乱れていない。
(何でだ……何で、こんなにピッタリ合うんだ……?)
隣にいる水橋がどんな顔で、何を思って走っているのかは分からない。
コーナーの入り口に入ったら、考える余裕も無くなった。
ただただ、コーナーを曲がり、ゴールを目指す。
意識が戻ったのは、ゴール前の直線。
ゴールテープはまだ張られたまま。つまり、このレースは……
「ゴール! 一着、1組!」
放送委員の声を聞いて、実感する。
俺と水橋のぶっつけ本番二人三脚は、最高の結果を収めることができた。
「……ありがとう、ボクを信じてくれて」
こそっと、囁くようにして。
隣にいる俺だけが、その声を聞き取ることができた。
「お疲れー! お前らすげぇな!」
席に戻ろうとしたら、出迎えてくれたのは翔。
俺の肩をバンバン叩くことで喜びを表現。ちょっと力強過ぎねぇか?
「ぶっちゃけビリじゃなきゃいいって感じだったけど、1位取るかね!
何、もしかして秘密の逢引でも?」
「んな訳あるか。ぶっつけだっての」
「ほほう、初体験だったのか」
「二人三脚はな」
「男女共に初めて同……」
「黙らんと首絞めるぞ」
「ずでに゛じま゛っ゛で!」
「え、ちょっと!?」
意味深に取られかねない言い方をするんじゃねぇよ。
幸い気付かれなかったっぽいけど、水橋の前で男子ノリをするな。
「あ゛ー……喉仏へこんでない?」
「安心しろ。ガッツリ出てる」
「藤田君、どうしたの?」
「何でもない。いつものことだ」
「いつもこんなんでたまるかよ……って、あれ? 水橋、藤やんの名前知ってたん?」
……忘れてた。水橋の交友関係、若干は広がったけど、男子は未着手だった。
これはどうしようか。
「クラスメイトだから、名前ぐらいは」
「んじゃ俺の名前は?」
「前島君」
「正解! へー、水橋って俺の名前知ってたのか。ほうほう……♪」
元々がおかしなイメージ持たれてただけで、名前を知ってるぐらいは自然なこと。
こういう時の対処もノーアシストでできるようになってたのか。
いい感じだな。
「ま、この後も宜しく頼むぜ! スウェーデンリレー勝てば優勝だしよ!」
「結構やる気なのか」
「俺は勝つことが大好きなんだよ。他力本願で」
「最低か」
水橋、このノリにまではついてこれなくて大丈夫だからな。
というか、ここまでできる水橋はちょっと見たくない。
素の感じ見ると、ここまで来れてしまうポテンシャルは秘めてるけど、
どうかずっと秘めたままであって欲しい。
「……遅ぇな」
二人三脚が終わり、パン食い競争が始まった頃。
1000m走から帰ってきた陽司が、出入り口を見ながら呟いた。
「何が?」
「長距離だけどさ、古川先輩だけまだ来てねぇんだよ。いくらなんでも遅過ぎる。
途中から歩いたとしても、もう着くと思うんだが……」
時計を見ると、1000m走組の出発時刻から10分以上が経過している。
開始に多少のズレがあったとしても、明らかに遅い。
「怜二、お前何か知らねぇ? この前、先輩に呼ばれてただろ?
それと何か関係してねぇか?」
明かして……いいか。内外共にイケメンの陽司なら、悪いようにはならんだろ。
「先輩、1000m出るつもり無かったんだよ。誰かに勝手に変えられたみたいでさ。
それ聞いて門倉に掛け合ったけど、直前変更は認められない、と」
「それマジ? ……そんなとこじゃねぇかとは思ったけどさ。
明らかにインドア派だし、長距離向きじゃねぇだろ」
「1000mを嫌がった誰かが押し付けた、ってとこじゃねぇか?」
「だろうな。見た目で判断するのもアレだけどさ、古川先輩って引っ込み思案だろ?
そう考えると、お鉢を回されたか……」
「歩いてもいいって言ったんだけど、やっぱり何とかするべきだったな……」
「怜二は悪くねぇよ。生徒会に言ってもダメなら仕方ねぇ。
……俺、ちょっと見てくるわ。今日暑いし、ヤバいかもしれん」
「行ってらっしゃ……待て、来たぞ」
完全に歩行のスピードで、古川先輩が戻ってきた姿が見えた。
後はスタート地点に戻るだけだから、ほんの数十mでゴール。
それにしても、めちゃくちゃフラフラしてるな。息も荒いし。
何か、疲れたというより、もっと別の……
「ぜぇ……はぁ……あっ」
プツンと、糸が切れたようにして。
顔から地面に倒れ、動かなくなった。
「先輩!?」
陽司の叫び声で、俺も事の重大さに気付く。
何も考えられないまま、グラウンド入り口へと駆け出した。