27.女神の啓示
「ふ、藤田、君……は、悪く……ない」
途切れ途切れに、搾り出すようにして。
水橋は、俺の行為に問題があったことを否定した。
「かぐら……君が、…………み物を……ぼし……、たから」
『神楽坂君が、飲み物を零したから』。
声にもならなくなりつつあるが、唇の動きから伝わる。
事の原因が透であることも、口にした。
たった、それだけ。
それだけ、だったのに。
「……その、悪かった。だよな、怜二のせいじゃないよな」
「私も、藤田君を批判する必要はなかったわ。ごめんなさい」
「悪ノリが過ぎたわ。怜二、本当にすまん」
あれだけ俺を責めていた三人は、全員、俺に対して謝りだした。
「いや、俺に謝る必要はないって。顔上げてくれ」
「……鞠、ケーキ台無しにしちまってごめんな」
「大丈夫だって。ほら、普通に食べられる所もこんなに残ってる」
よく見れば、濡れた範囲はあまり広くは無い。
人数分に分けた時、誰か一人の分の一部が湿っている、という程度。
俺が持ってきた紙コップが小さめだったのが、不幸中の幸いか。
「じゃ、みんなで食べよっ♪」
いつもの明るさを取り戻し、笑顔で。
空気が弛緩し、雰囲気も明るくなった。
「そうだな。鞠、やっぱり濡れたとこは俺が食うよ。
俺がやらかしちまったんだし」
「んじゃ俺はこの辺プリーズ!」
「分けたら一緒なんだから、少し位待ちなさいよ」
何はともあれ、場はまとまってくれたらしい。
とりあえず、よかった。
だが、俺の心中は穏やかではない。
予想外どころの騒ぎじゃないことが起こったのだから。
(水橋……)
突然の叫び。
普段の水橋にはありえない行動。
これは一体何を思っていたのか。
そして、周りはどう思ったのか。
「はい、雫ちゃんの分!」
「……ありがと」
今はいつもの、受け身なコミュニケーションがやっとの水橋。
とても、さっき叫び声を上げた人間と同じとは思えない。
……色々気になるけど、一旦後回しにしよう。
まずは、この勉強会をやり通すか。
勉強会が終わってから、少し後。
水橋に電話をかけてみた。
「はい。雫です」
「よう。勉強会お疲れ。それと、ありがとな」
どういう言葉をかけるべきか悩みどころだが、まずは礼だ。
俺のことを気にかけてくれたんだし、それが礼儀ってもんだ。
「あ……うん……」
この反応は、『不安』で間違いない。
今までの自分のイメージが、大きく崩れかねないことをやったんだからな。
「大丈夫だって。あの後も、別におかしな感じにはならなかっただろ?」
「うん……そうだよ、ね。大丈夫だよね」
あの後。
購買事件のような、水橋を避けたりする流れにはならなかった。
あったことと言えば、水橋に教えを乞うのに穂積が混ざったくらい。
途中、透がちょっかいを出したが、俺のアシストをうまく受けながら流し、
勉強会において、水橋は八面六臂の大活躍をしてくれた。
「あぁ。っていうか、ありがとな。水橋のおかげで助かった。
勉強も、あの時のことも、両方な」
「ん。なんかさ、気づいたら声を上げてたんだ。
ボクがどう見られるかより、藤田君のことをどうにかしたい、って思って」
俺の為、か。
勉強会が俺の立ち回り次第だなんて、自惚れだったな。
助けようと思った相手に助けられるなんて、脇役失格だ。
「藤田君、あのね」
「ん?」
「藤田君は、もっと藤田君の為にいるべきだと思うんだ。
神楽坂君をかばったり、ボクの手助けをしたりするんじゃなくて、さ。
……あ、でもボクの手助けはもうしばらくしてもらいたいけど……その、
えっと……何ていうのかな。……藤田君、いい人すぎるから」
「そんなことねぇよ。ご存知の通り、俺は脇役だ。
こういうことは、とっくの昔に慣れてるっての」
カメラは、脇役を映さない。
映るとしても、主人公の引き立て役か、添え物として。
そういう役回りが来てしまった以上、受け入れるしかねぇんだよ。
「……ねぇ、藤田君。藤田君は、ずっとこのままでいいの?」
「……? どういう意味だ?」
「藤田君は、これからも自分をごまかしていくの?」
「別に、ごまかしてるとかじゃ……」
これが俺の役目であり、俺に与えられた宿命。
だから、これは仕方のないことなんだと、ずっと思っていた。
……が。
「ボクには、藤田君の意思が見えないんだ。
やりたくないことも、おかしなことも全部受け入れて……
これじゃ……藤田君は脇役じゃなくて、奴隷だよ」
そこまで言われて、俺は気づかされた。
(…………奴隷)
透の幼馴染としての俺。
TPとしての俺。
脇役の俺。
そこに、俺の意思は存在していただろうか。
今日だって、本当なら俺自身が透に言い返すのが当然なのに、
俺はただ、場を収めることだけを考えて、謝罪の言葉を口にしようとした。
現状を変えようともせず、理不尽な目に合っても受け入れるだけ。
それは、脇役補正を理由にして諦めてるだけじゃないのか?
何か、抵抗したか?
『脇役』ではなく、『藤田怜二』として行動したことはあったか?
透の身勝手に振り回されたり、そのせいで迷惑がかかったヤツのフォローをしたり、
色々とやってきたが、それは全て俺の意思でやったことか?
俺は、考えることを放棄していたのかもしれない。
理由をつけて、無理やり合理化し、自己暗示にかかったふりをする。
それは、水橋の言う通り……怠惰な奴隷、そのものだ。
(……俺は、何やってんだ?)
水橋を彼女にすると決意した時の俺は、どこに行った?
脇役補正や、透を理由にしないと決めた時の俺は、どこに行った?
俺は……変わるはずじゃ、なかったのか?
結局、俺は『変われたらいいな』程度の願望を持っただけで、
本気で変わろうとしていない。
自分の居場所や役目はここしかないと勝手に思い込んで、
足掻くこともせず、とりあえずの居場所に満足『したことにする』。
水橋が変わろうとした時、俺は初手を大きくしくじった。
変わろうと思ったら、リスクを伴うのは当然。
……こんな半端な考えで、何が変わるっていうんだよ。
「ボクは、ボクだけじゃなくて、藤田君にも変わってほしい。
優しさにつけこまれて、奴隷になんてなってほしくない。
藤田君はいい人だけど、『都合いい人』じゃないでしょ?」
(……あぁ、そうか)
心のどこかで、思っていたのかもしれない。
俺は『いい人』であることがアイデンティティであり、存在意義だと。
自分のことより他人のこと。自分が何か望むのは贅沢。
波乱より平穏。変化より現状維持。いつも通り、いつも通りに。
その結果が、『都合いい人』。そして、俺は尚もそれを受け入れていた。
アイデンティティそのものが、変わってしまったことにも気づかず。
水橋は、俺が変わることを望んでいる。
あの時、透に言い返したのは水橋。本当なら、言い返すべきは俺なのに。
俺は……何てことを……!
「……俺は、変われるのか?」
「変われるよ。藤田君は、いい人なんだから。
その優しさを、自分自身に向ければいいだけだよ。
何なら、ボクも手伝う。というより、手伝わせてほしい。
藤田君が、今までの自分から変わるお手伝い」
……水橋、ありがとう。
お前のおかげで、俺はやっと、スタートラインに立てた。
今から、やり直しだ。
俺は『変わりたい』んじゃない。『変わる』んだ。
「まず、藤田君は優しさのかけ方や、かける相手を選ぶようにして。
あの時のボク、神楽坂君に相当イラっと来てたし」
「マジで?」
「だって、あれどう見たって神楽坂君が悪いでしょ?
それなのに藤田君が悪いことにするなんて、いくらなんでもおかしいよ。
皆も皆で、神楽坂君に乗っかるし、藤田君を何だと思ってるんだろ」
「別に、そんなに気にしなくても……」
「ボクが気にするの! 藤田君が藤田君のことを気にしないなら、
ボクが代わりに気にするから!」
かつて、脇役にこれほど寄り添ってくれた人がいただろうか。
いい子すぎるだろ、本当。
「うん、うん……ふふっ」
「何で笑うの!?」
「いや、何か可笑しくなって……ははっ!」
「もー! そういうところがダメなんだからね!
藤田君自身も、もっと自分を大切にすること! いい!?」
「あぁ。分かった。本当にありがとな」
いいのかね。今の俺、幸せ過ぎて大分浮かれてる。
笑いながら涙出るなんて、ネジが外れてる証拠だろ。
脇役補正を理由に諦めるのはやめるけど、水橋に報いないとな。
俺自身の為でもあるし、脇役の貢献先は、ヒロインってこともあるんだ。
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スマホをベッドに置いて、壁にもたれる。
特に意味も無く部屋の灯りを見つめて、電話の内容を思い返す。
「言い過ぎちゃったなぁ……」
藤田君が、奴隷だなんて。
頑張りを否定するようなことを言ってしまった。
けど、それはボクの正直な気持ちであることに違いはない。
藤田君は、自分のやってることがおかしい、と思っていない。
末期の奴隷と同じ思考に陥ってる。
ボクは、藤田君は報われるべきだと思う。
藤田君が今の自分をどう考えてるのかは分からないけど、
少なくとも、このままでいてほしくない。
(ボクの手助けは、してもらいたいけど……)
……エゴ、なんだよね。
自分でどうにかすることを、藤田君にお願いするなんて。
そんなことをしておきながら、藤田君に変わってほしいなんて。
結局、ボクも藤田君を都合いい人扱いしてることに変わりはない。
藤田君。
ボクのわがままに付き合いきれなくなったら、ボクを見捨ててもいい。
それで、藤田君が奴隷じゃなくなるなら、ボクは……