189.繋がり繋がる
「ここは余弦定理ですか?」
「そう。角度とその対辺が分かっている時はまず疑う」
放課後の教室で八乙女に勉強を教える。
頭は悪いが、根は真面目だから教え甲斐がある。
「30・45・60°の三角関数はよく使うから、即出せるようにしとけ。
こればっかりは正攻法しかないから、何度も繰り返すしかないけど」
「スポーツと一緒ですね! 反復練習は大事です!」
「そうだな」
この季節になると、陽が落ちるのも早い。
限られた時間を有効に活用する為、屋外競技の部活は活気付いている。
本来なら、八乙女だってそこにいたはず。
(……やりきれねぇな)
「怜太先輩! できました!」
「おう。……あー、惜しい。求め方は合ってるけど数値が違う。
後でもう一回やってみるか」
「はい!」
今の状況をどこまで受け入れて、どう考えているのかは分からない。
俺に出来ることは少ないが、悪い方には行かないように。
その為にできることがあるなら全力を尽くす。
これは八乙女のケアであり、透を付け上がらせてきた俺の贖いだ。
「勉強も意外と楽しいですね!
走れない間は勉強を精一杯頑張ります!」
「ん、了解」
それなら俺も頑張らなきゃな。結果を出すのは八乙女次第だが、
その支援は俺にもできる。だから、放課後に呼ばれた訳だし。
「ところで怜太先輩。勉強とは別に伺いたいことがあります」
「何だ?」
「その……透先輩って、どうされてます?」
抽象的な質問。これはどう見るべきか。
明らかな加害者である以上、名前すら出したくないと思ってたんだが。
「どうしてるか、ねぇ。見た感じいつもと変わらん。
あの後は普通に食堂行ってメシ食ったみたいだ」
「本当にすいません、昼食の時間を潰してしまって……」
「気にすんなって。後輩が怪我してそれを放置できる方がどうかしてる」
あの時に透を呼び止めたらどうなっていたんだろうか。
ここ最近のことを考えると……逆ギレの可能性があるな。
それか、さも自分は何もしてないかのようにして、上辺だけの心配をするか。
いずれにしても、食堂に向かわせたのは正解のはず。
「あの日は、久々に透先輩をお誘いしようと思ったんですよ。
今はこの通りなので、当分できなくなっちゃいましたけどね」
「……リハビリの手伝いが必要だったら、言ってくれ」
「はい。あと、お願いがありまして……」
ここで言葉を区切り、場に静寂が流れる。
続きを促すことはせず、じっくりと待って継がれた言葉は。
「……透先輩がリハビリの手伝いをしに来るのを、止めて頂けますか?」
意外だ。これは全く予想していなかった。
八乙女自身が透と距離を置くことを望んでいるとは。
「別にいいけど、何でだ?」
「その……透先輩は、多分わたしのリハビリを手伝いに来ると思います。
ですが……今、とても気まずい状況にあるんで……」
なるほど。加害者である透と顔を合わせにくいと。
こう言うのも変だが、これはむしろ好都合だ。
あいつがリハビリの手伝いに加わった所で、まともにやる訳がない。
体育祭での古川先輩とのことを考えれば、何をしやがるかの想像は容易い。
「分かった。その辺は上手く立ち回っておく」
「ありがとうございます。それでは、よろしくお願いします」
八乙女が未だに透のことを気遣っているというのは、何だかなぁという感じだが、
結果としてプラスに働くのであれば、そうさせてもらおう。
(あと、陽司にも頼むか)
そもそもとして、何らかの理由で透と八乙女が二人きりになったらまずい。
回避の為のストッパーは多い方がいいし、勉強終わったら、許可取るか。
透のことは陽司に任せて、八乙女のクラスへと向かう。
今日は俺と雫の二人で。茅原先輩はバイトがあるらしい。
「それにしても、茅原君も大胆なことするね」
「俺も驚いたわ」
まさか、透をサッカー部に連れ込むとは思わなかった。
山内先生から代わった顧問の先生はサッカー経験が無く、
指導や練習内容の殆どをキャプテンである陽司とマネージャーに任せているとか。
つまりは放任主義だから、一人くらい知らん奴をブチ込んでもバレない……らしい。
部活の兼ね合いもあるし、透を止めるのは難しいかと思っていたら、
まさかその部活を利用して強硬手段に出るとは。
当然、透は断るかと思ったが……
「そして、神楽坂君はいつも通り」
「……まぁ、正直その策で十分だなとは思った」
陽司がとったのはネズミ捕りと同じ方式の勧誘作戦。
『最近、サッカー部に可愛いマネージャーが入った』ということを伝え、
体験入部がてら見に来ないかと誘い、サッカー部に呼ぶ。
後は今日は休みだったとか別のとこに用事あったとかで誤魔化して、
日数を稼げる限り稼ぐ……透が女好きであることを利用した作戦だ。
「ところで、本当にサッカー部にマネージャー入ったの?
時期的には中途半端だと思うんだけど」
「分からん。春に入った奴を最近入ったということにするとか、
方法はいくらでもあるだろうけど……っと、着いたな」
八乙女には毎日、放課後に迎えに行くと連絡をしている。
移動の補助とメンタルケアの両方でサポート。
リハビリが始まったら、その手伝いも(出来れば)していく。
「怜太先輩! 水橋先輩! いつもお世話になってます!」
「ん。それじゃゆっくりと立ち上がれな」
「ちょっと待って。渡したいものがある」
放課後に取り出した3冊の本。
何だろうと思っていたが、暇つぶし兼ヒーリングの為の書籍らしい。
どんな本を渡すかについては古川先輩と相談したとか。
こういう形で、数ヶ月の間で生まれた繋がりが活きてくるとは思わなかった。
「時間が空いたときに読んでもらえれば。
私も読んだけど、八乙女さんにも読んでもらいたい」
「ありがとうございます! 丁度この通りヒマしてたんで、今日にでも!」
本当は図書室の本の又貸しってダメなんだけどね。
これぐらいなら、図書委員会も目を瞑ってくれるだろう。
八乙女の教室から図書室までは階段を2階分上る必要があるし、
松葉杖なしで歩けるレベルに回復するまでは、避けた方が安全だ。
「お医者さんから聞いたんですが、歩くだけなら来週にでもできるそうです!
サポーターは当分つける必要があるそうですがね!」
「そうか。けど、それってあくまで当座の回復ってことだろ?
間違っても無理に動いたりするんじゃねぇぞ」
「勿論! というか、動きたくても動けません!
わたしの部屋って2階にあるんですけど、ここ数日はリビングで寝てますから!」
「それでいいと思うよ。RICEは続けてるよね?」
「家中の座布団とクッションを集めた上に足を置いてます!
お父さんもお母さんも心配してるんで、早く治さないといけませんからね!」
八乙女の家庭環境は良好な様子。
これで門倉みたいな親だったらどうしようかと思ったが、何よりだ。
「ところでその本ってふりがな振ってありますか!?
お父さんが読んでる本を借りたら、ふりがなが無くて頭が爆発したんで!」
「そこは注意した。全部振ってあるから安心して」
「安心しました! わたし『拍子』をこの前まで『拍手』と読んでたぐらいには
漢字が苦手なものでして!」
「今度、漢字の練習しよっか。中学生用のテキスト使って」
(……うん、雫も八乙女のことをしっかり理解してる)
本の内容だけなら古川先輩に任せればいいんだけど、渡す相手が八乙女だとな。
こっちの関係もいいものを築けているようで、本当に何より。