notopic~後篇~
「……こうして会うのは、最後になるかもしれないな―――」
彼女の声が聞こえる。
「楠も余計なことをする―――。あんな演出は背筋が寒くなるだけだと言うのに―――」
楠―――楓。彼女の声だ。
「といっても、今のお前に言っても意味はないだろうがな」
意識が朦朧としている。……場所はおそらくいつもの公園。だが、圧倒的に意識が足らないから、自覚出来ない。
「ああ、悪かった。今後はこういったことはしないつもりだ。許してくれ。後最後に一言言わせてくれ。―――好きだよ。真弥」
そこで、意識は途切れた。
◆
敵―――それは滅ぼさなければ自分の存在が危うくなるもの。
敵―――それは仕留めなければならないもの
敵―――決して相容れないもの
敵―――それは自分自身。
敵―――それは赤の他人。
敵―――敵――敵―。
その日は、何でもない日である筈だった。唯、一通の手紙が来ていたことだけが、少し意外だったくらいで。もうここにきて三週間が過ぎようとしていた頃の話だ。三週間の間は公園の少女と遊ぶ日々だった。
楠さんは……よくあの公園にいる。時間帯を問わずいることもあった。詳しくは聞いていないが、あまり学校への関心はないのだろう。
司さんの方をふとむくと、彼女の顔はこころなしか、引きつっていた。
「敵だ……」
進藤 司は無意識のうちにそう呟いていた。弟子である僕はその呟きをいつものジョークと同じニュアンスで聞いていた。
「突然どうしたんですか―――?」
手紙を開いた彼女は、眼を見開いたままこう呟いた。
「どうもこうもない。―――敵だよ」
てき―――?敵のことだろうか。
「敵って、司さんにそんな人居るんですか?」
「ああ―――まぁ、人並みに恨まれてはいるな」
それって、人並みとは言わないんじゃ―――、というのは置いておいて。
「やばいんですか?」
「そうだな……。意外な奴に目をつけられたものだ」
会話を遮る爆音。
そしてそれは唐突に現れた。
ばりん、と窓ガラスが割れる音。―――その数全て。一瞬にして粉々に変わった。その代わり、強い風が部屋の中に吹き荒れる。だがそれに動じることなく部屋のものはぴくりとも動かない。……理解した。これが、魔術なのか。
進藤 司を見る。司さんは何かを言っているように感じた。しかしそれは風にかき消され全く聞こえなかった。それが魔術の詠唱だと気がついたのは数舜遅れて。そしてその数舜の間に窓から敵が現れた。
―――それは、長身の男性だった。
それと同時に完成する魔術式。そう言えば司さんが言っていた。時間枠に影響するものならば魔術式として成り立つと。そして手段は多種多様だと。そういうことならば、これはマジックワードと言えるであろう。
途端、目の前を真赤な閃光が走る。それは高熱度を帯びた火の玉だった。びゅん、びゅん、と飛び交うそれは僕にサーカスを連想させた。
それがサーカスなら、相手はピエロだった。相手はそんな火の玉に臆することなく、それらを華麗に避ける。その代償に、家のトイレだった部分が火の玉によって死んだ。物凄い熱が途端向こうから伝わる。熱風だ。
「今更何の用だ? 私は国に管理されているし、規約を破ってはいないぞ。ちゃんとそっちの都合の良いように動いていたであろう」
すると長身の男が口を開く。
「そっちの坊やに用がある」
「真弥にだと?」
僕に?
「どういうことだ」
「詳しくは言えないな。だがしかし、確実にそいつだけは奪うように言われたんだ……。出来ればあんたとは穏便にことを運びたい。弟子をとる気まぐれもあるなら、差し出す気まぐれもあるだろう?」
「全く勝手なことを言う。……。悪いが、彼を渡すわけにはいかない。私には責任がある」
「司さん……」
思わず、じんとした。長身の男はさして残念そうなそぶりも見せずにやれやれと首を振った。
「……わかった。三日待とう。それが俺の中でも限度だ。その中で決めてくれ。争って持ってかれるか、それもと普通に持ってかれるか、だ」
何とも勝手な交渉だった。いや、それは脅しだった。それだけ伝えると、男はまた風のように消えていった。……これが魔術師……?
「僕には、さっぱり現状が理解できないんですが……」
「その割には冷静だね。もっとパニくるかと思ったんだが」
「突然続きでしたからね……。慣れましたよ」
「そうか、それは心強い」
そう言う司さんの額には僅かに汗が滴っていた。そういう僕も、唐突という名の出来事が通り過ぎ、安心と共に緊張が走った。―――僕が、狙われているという事実。
「彼の名前は神宮 修三。私と同じ一級品の魔術師だよ―――」
……聞いたことのない名前だった。それもそうか。僕が知っている魔術師は司さんだけなんだから。
「神宮は世界と繋がる術を手に入れた男だ。―――ハッキリ言って今の私では勝ち目はないな……」
「……さっぱり理解出来ません」
「以前、神の手の話はしたな……? つまりはそれの全身バーションだ。差し詰め神の体とでも言おうか。彼は世界に繋がる部分を多くしたことにより、より複雑な魔術式を解くことを極めた男だ。世界に影響する部分が大きいため、彼の魔術は果てしなく強い」
そう言うと、司さんは手を上に翳し、パチリと指を弾いた。とたんに直っていくガラス窓。……魔術とは、便利だな、とのんきなことを思った。
「それじゃ、司さんもそうやって魔術を使えば良いんじゃないんですか?」
私か?と司さん。
「私には無理だ。奴は奴の研究によって己の究極を求めた。その結果があれだ。私にはそんな成果はないし、想像もつかない。一夜で出来るほど簡単なものじゃないんだよ。魔術は」
なんだかよく解らないけれど、複雑な世界であることだけは理解した。
「何故僕を狙ったのでしょうか」
「……それが腑に落ちない点だ。何故真弥なのか……。甚だ疑問だ」
「司さんの弟子だからではないでしょうか?」
「……理由は?」
「つまり、司さんが何らかの研究をしていると仮定して、それは弟子である僕にも継がれると相手は解釈した。その結果、本人である司さんを捉えるより弟子である僕の方が研究結果を吐かせやすいと、そう考えたのではないでしょうか」
司さんは、長考をした。
「……無きにもあらず、だな。確かにそう言った線もないとは言い切れないが、時期が早すぎる。―――お前が使い物にならないうちに知識だけ奪い去ろうという魂胆か……? 駄目だ。現状で決めつけるには判断材料が少なすぎる」
僕としても、何を言っていいのか解らない。自分が狙われる理由……それは、もしかして記憶のことに関係があるんじゃないのか?
「司さん、もしかして僕の記憶の事で関係があるんじゃないんですか?」
「―――即決は出来ない」
……考えれば考えるほどこんがらがる中、事実だけ、事実だけが残った。それは、僕達には敵がいて、三日後には平凡な日常が敗れるのだと言うことだ。
「良いだろう。お前に魔術を教えてやろう」
そして、僕にとっても非日常の完璧な始まりの合図だった。
◆
「まずは腕だな。―――腕さえ出来れば、概念に干渉しうることが出来る。真弥、腕を捲れ」
言われたままに腕を捲る。そこに冷たい感触が走る。司さんが何かを詠唱しているせいだろうか。
「今お前に、概念に触れることの出来る手を作ってやっている。世界に触れる印だ」
そう言ったと思えば、司さんはまた詠唱に戻った。―――冷たい。唯ひたすらに冷たかった。冷たい感触は、あまり心地のいいものではなかった。むしろ、吐き気を催す。……それでも僕は我慢するしかなかった。……それが司さんのため、はては僕のためであるからだ。
「 」
「 」
「 」
司さんが数々の詠唱を唱える。そのどれもが耳に聞き覚えのない言葉なのかすらあやふやで、僕はそれを黙って聞いていた。……冷たさは、周りを凍てつかせるかと思ったくらい冷たかった。そしてそれもやがて終りを告げた。
「ご苦労。これで君も神の腕を手に入れた。……問題は使いこなせるか、だ」
司さんは一息つき、パイポを吸い始めた。僕はと言えば、儀式の終わった右手をわきわきと動かしていた。……これが、神の手……?もう唯の僕の右手では、ないのか。あまりの呆気なさに愕然とした。
「神の右手は概念そのものだ。たとえ切り落とされてもその効力は落ちない」
「それは心強いですね」
別名サイバーハンドと呼ぼう。
「使い方だがな……、世界は常に情報を排出している。その情報を掴み改変するのが魔術だ。まずはイメージしろ。右手を動かさずに右手を動かすイメージ。幽体だけが動くイメージだ」
言われるがままにイメージする。右手を動かすイメージ。幽体だけを動かすイメージ。すると不思議な感覚に見舞われた。
「なかなか筋が良い。そして今度は情報を掴むイメージをしろ」
情報を……掴む?とりあえず言われるがままイメージをしてみる。だけど、情報を掴むイメージングは全く出来なかった。
「やはり躓いたか……」
「そりゃあそうですよ。一夜でできないのが魔術なんですから」
そっくりそのまま彼女に言葉を返す。
「いや、解っている。私だって苦労した。君も苦労するはずさ」
……司さんが苦労するところは、想像できなかった。
相変わらず腕を動かすイメージをする僕。……これは、出来てしまえば簡単だった。不思議な感覚だが、次第になれる。第二本目の腕を動かしている気分だ。試しに、グラスをその手で握ってみた。
―――その瞬間、腕から怖気が伝わった……。
「うっ……わぁぁぁぁあぁああああああああああぁぁぁああああああああああ!!!!」
力の限り叫んだ。
「馬鹿、止めろ! コップという概念に惑わされるな! おまえの腕はガラスじゃない、コップでもない! お前の腕はお前のものだ!」
進藤 司さんが叫ぶ。
その言葉の通りに俺の腕をイメージする。そうすると、概念通しがくっ付いていた錯覚は消え、そして腕だけが残った。再度イメージする。今度は確固たる意志を持って、これは腕だと自覚した。……そして、コップを握りしめた。
ぱりん、と乾いた音が響いた。コップは粉々に割れてしまった。
「概念崩しだ」
ほ、と息を吐き、そう司さんは言った。
「概念崩し?」
「要するに力技を持って無理やりコップをねじ伏せたのさ。行きすぎたエネルギーを与えることによってその物体を破壊する術だ。……今ので世界に繋がるということがどういうことかは理解したな? 概念で武装しろ。文明で身を守れ。そして、その腕を持って改編するんだ」
その言葉は、とても重要なもののように感じた。その日一日は、公園へ行くこと無く、いやこれから三日間、公園へ行くことなどあるまい。ずっと魔術を司さんから学んだ。―――敵、その存在を意識しながら、不安な夜を過ごすのであった。
新しい日常は、過激だった。司さんいわく、これからは何をするにしても右手のイメージを忘れるな、と言っていた。それから僕は右手を概念で守りながら色々なものに触る練習をしていた。敵は待ってくれている。この事実だけが僕らの救いだった。正直僕がたとえこの数日である程度の魔術に長けようが、それはあまり意味のない行動なのだろう。そしてその疑問は司さんに言った瞬間、その通りだと肯定された。僕は第二の右手を動かす。……動作は前よりよっぽどスムーズになった。物を持ってもそっちの概念に引っ張られることも少なくなったし、なにより今の僕にはこれしか武装がなかったから、どれだけ進歩しても、まだ足りないくらいだった。暇があれば僕は腕を動かしたし、暇がなくても僕は腕を動かし続けた。……そのうち気がついた。この第二の腕は、疲れを知らないと。
「司さん、この腕って疲れないんですか?」
「ああ、物理的な実態がある訳ではないからな。言っただろう? 概念だと」
……司さんの説明はいつもよく解らない。まぁ、それはそれとして置いておくとしよう。魔術師としての正式な修行といっていいのか解らないが、そんなことを始めての一日目、僕は百枚の紙を渡された。
「これらの紙を如何なる手段を用いても構わないから十枚やぶけ。正し使えるのは神の手のみだ」
そう言い渡された百枚のうちの十枚は簡単だった。紙という概念に触れ、それをやぶくというのは単純作業だった。……しかし、次が厄介だった。
「今度は残り九十枚を黒く染めろ」
「黒く……ですか?」
「そう、黒くだ」
言われたままに紙に手をあて概念を読み取る……。読み取るのは良いけれど……これから何をしていいのか全く分からなかった。
「魔術は方程式を見極める。方程式を改編するのは常にイメージしなければならない。紙は元からこういう色だったのだと、自分の中で概念を作りだすんだ。それが紙に反映されればクリアだ」
言われたままに、眼を閉じ、概念に触れ、イメージをする。それは容易な作業ではなかった。
この紙はもとから黒かった―――。
艶のある黒
混沌の原色
果ては夜のイメージ
司さんと初めて会った公園……
そうして、今までのありとあらゆる黒という印象を紙一枚にぶつける。眼を開けると、そこには灰色がかった紙があった。
「やれば出来るじゃないか」
「へへ……」
それは初めて魔術というものを成功させた瞬間であった。
「だがまだ黒にはイメージが足りない残り八十九枚、頑張るんだな」
「はい……」
それから三日経つのは早かった。来る日も来る日も僕は紙の課題を出されて、本当にこんなことばっかやってていいのだろうか、と思うようにもなっていた。仕舞に僕は、また紙ですか、と呟くようになった。二日目からだ……。二日目の終わりにさしかかった頃、紙は完璧な真黒になった。それからは紙の課題を出されるどころか、他の課題すらでなかった。これで良い、と彼女は言った。
「元から護身用程度に身につけさせたかったものだ。さして役には立たない」
「……でも司さんは彼には勝てないと言う。僕はどうなるんでしょうか……」
「愚問だな。自分の身一つくらい、自分で守れ」
当たり前で、辛辣な言葉だった。
◆
三日目が終わり、日付がちょうど変わった頃、長身の男は、現れた―――。
「心の準備は出来ましたかい?」
なんとも興味なさそうに言う。魔術師とは総じてそう言う人種なのだろうか。そう言えば、僕の身近な人間とは、ほぼすべてがそう言った人種であった。
「ああ、決めたよ。君とは対立することになりそうだ」
司さんがそう言う。それと同時に二人は魔術を詠唱し始めた。そして僕は―――全力で逃げた。
それは約束事だった。
「いいか? 私が詠唱を始めたら、君はすかさず逃げろ。足手まといになる」
「でも、それって……」
「良いから逃げろ。守って戦うというのは辛いことなんだ」
そして僕はその約束通り、全力で逃げ出したのだ。
◆
下弦の月が照らす夜、二人の魔術師は対峙した。対峙した場所は彼女の住む家より離れた、寂れた空き地であった。子供の喧嘩じゃあるまいし、と長身の男、神宮は呟いたが、そんなことどうでもよかった。
「さぁ、始めようか」
男は待ちきれないと言った様子でそう呟く。一方女はと言うと、何の感情もこもってない声で一言、いいだろうと呟くのみであった。
「一つ聞く。何故彼を捕まえなかった」
それは当然の疑問。
「簡単なこと。お前を倒した後から俺が捕まえるからよ」
そして彼にとってそれは愚問であった。
「見くびられたものだな……」
風が、吹く。それを合図にお互い魔術詠唱を始める二人。
「 」
「 」
詠唱中は無防備になる。それをお互い知っているから下手な攻撃は出来ない。そう判断したのは神宮だった。しかし進藤はそれを見通してか“神の手”で反撃を繰り出した。それは、詠唱と同時に二つの概念を動かすと言う芸当。
「ちっ」
神谷は舌打ちをし、詠唱をキャンセルし、その腕を自らの腕で弾いた。そして一寸早く済んだ進藤の詠唱は魔術と昇華し、彼の敵を襲うのだった。
飛び交うは二つの炎。ストレートコースで時速は有に五百キロ出ていたであろう火の玉を、神宮は何時かの如く避ける。しかしそこに意味はなかった。
「追尾だと……」
男がその違和感に気がついたのはその時だった。進藤 司の詠唱が一つではないと気がついたのに。進藤 司は間違いなく一つの口を持っていた。だがそれは二つではない。
しかしそれを、二つ同時に詠唱を可能にしたのは、一重に彼女の才能が凡人を遙かに上回るものだったからだ。
歩が悪い……。彼はそう思った。スピード勝負ならば確実に彼は負ける。
(このままじゃジリ貧だし)
火の玉の追尾を避けながら、考える。いつの間にかそれは小さな空き地なんて舞台を踏み出し、もっと大きな街と言う舞台へ移行していた。
そして陰る月と共に彼は消えた。消えた彼を追って炎が迫る。しかし目標を見失った二つの炎はお互いにぶつかりあい、相殺されてしまった。それに相次ぐかの如く綺麗な詠唱。司の第二射だ。それは真空であった。しかしターゲットを見失った真空は唯そこら辺にある街頭をたたっ斬っただけだった。
(しまったな……)
視野が悪くなってしまったことに気がついた司。
そして闇に乗じる神宮は、完璧に司の隙をついていた。
その時神宮は完ぺきに司の背後を取っていた。一瞬のチャンス。彼は右手を振り上げ、司を仕留めようとする。それは無駄のない迅速な動きだった。
「 」
しかしそれは司の詠唱により、その右手が司に当たることはなかった。詠唱中は無防備になる、そのことを神宮は知っていた。それでも手を引き、身を引いたのは、本能が危険を告げていたからだ。そしてその予感は当たっていた。
瞬間煌めく閃光が司の背後を走る。司の詠唱の結果だ。
……それからの戦いは、まさに激戦だった。
司が一歩歩けば、その分神宮も一歩動く、そんな状態。それは持久戦といった。
火の粉が散り、風は舞い、真空が走る。それは神秘的な舞だった。
神宮は強烈な一手を―――繰り出す。司はそれに対し二手を持って対処する。そこに隙など存在しなかった。
「なるほど。噂通りの魔術師だ」
「噂―――? そんなものが私に定着していたのか」
「ああ、人はお前を天才と呼んでいるんだぜ」
「ありがたくない言葉だね」
本当に有り難くなさそうに、司は答えた。実際そうなのだろう。
月が姿を露わにする。……それと同時に異変を感じたのは司。気のせいか、神宮が霞んで見える。いや、それは錯覚ではなかった。
「俺の魔術は知っているな?」
「体の大部分を概念と化し世界と溶け込む……。まったく、君の方が天才にふさわしい。もっとも、君のは力技だがな」
そう言って、司は右手を概念へと変化させ、ありとあらゆる概念を改編した。そして彼、神宮も同じことを体全体で行った。どちらが浸食率が高いかは、一目瞭然。……神宮だ。ただ司もそんなことはわかっていた。だから司は“詠唱と共に”右手を使っていた。それは司にとって基本であり最終手段であった。同時に二つの概念を操るという高等技術は、奇跡の技とも言えた。それでも、世界は彼、神宮を優遇した。否、彼が世界を効率よく利用していた。
そして、お互いの技が炸裂する。
「展開……」
呟きと共に、司のまわりに無数の氷の矢が、数千本の氷の矢が現れた。対して神宮の周りには、無数の刀が現れていた。
「まさか……、そこまで具現化出来るとは……」
割に合わない、と司は心の中で呟いた。氷などの空気中の水分に干渉し、召喚する司の技とは違い、刀などという具体的な具現化には、よほど世界に浸透しなければ出来ない芸当だった。それは、イメージの書き換えに等しい。
「行くぞ―――!」
その一声と共に行きかう刃通し、ぎん、ぎんぎん、とお互いに相殺しあう。その間お互いの魔術が崩れないよう詠唱でカバーしあう二人。それは、美しい歌の旋律のようにも感じられた。
ソプラノとアルトの掛け合いは、しかしアルトの勝利に終わるのだった。
ぎん、ぎん。と金属音が消え、最後にずぷりという厭な音が聞こえた。……司の敗北の瞬間だった。
「僅か一本の差……ねぇ。流石天才だ」
そう、敵に称賛を贈り、倒れる彼女を見送る彼。ぐふ、と血と密度の高い空気を吐き出し、また聞き心地の悪い音を奏でる司。―――司は、倒れた。
その結果だけ見たら、彼は本来の目的に戻ることにした。
そう、三木谷 真弥を捕えることである。
◆
僕は悟っていた。進藤 司は神宮には勝てないと。それは短いながらも付き合いで把握した事実であった。……だって彼女は本当に大事なことに対して嘘をつかないから。一流の戦いには、一瞬の隙も許されない。でも人間の受け流せる許容範囲などたかが知れている。きっと戦いは一瞬で片がつくのだろう。それは、自分が分析した結果であって、事実とは異なるのかもしれないが。
「兎に角、今は走れ……」
自分に言い聞かせる。どれだけ無駄な行為であろうと、彼女がくれた時間、無駄には出来ない。……否、無駄な行為などはない。自分に許されたのは、走ることのみ。
そんな時、一人の少年と出会った。
「真弥っ?!」
その声に反応してそっちを見ると、その少年とは最初、始まりの学校で出会った、あの少年、名前は確か―――佐藤 和彦であった。
「和彦だっけか?」
「あ、ああ、……どうしたんだよ、突然転校なんて……」
「転校?」
―――ああ、そうか、学校ではそういう扱いになっているのか。
「詳しいことは語れないんだ。その……親の都合で……」
「……記憶喪失だから?」
「信じてくれるのか?」
いいや、と首を振る彼。
「だけど、……何か真弥らしくないから、信じてもいいかなって……、その……ごめん」
どうやら学校での出来事で彼なりに困っていたらしい。悪いことをしたな、と今更ながらに思った。
「……ああ、そのことは良いさ。それより俺今変な奴に追われてるんだ、匿ってくれないか?」
「え、それは大変だ! じゃあ家にきなよ……! すぐそこだから」
それは有り難い提案だったが―――
「すまない、やっぱり出来るだけ遠くに逃げたいんだ。車かなんかで、もっと県外とかに……」
「―――それも記憶喪失のせい?」
胡散臭そうにこっちを覗き見る和彦。……確かに、関連性も突拍子もない話だ。県外だなんて、自分でも愚かなことを言う。国外とでも言っておけばよかった。そうすれば国が魔術師を管理しているから下手に動きは出来まい、と思うし。
「ああ、出来るだけ遠くに行きたいんだ―――」
「……解った。目的地は問わないよ。バイク持ってくる。実は僕、中型の免許持ってるんだ」
そう言いながら彼はこっちこっち、と手招きをする。そしてついた彼の家で待つこと数十秒、ぶるるんと激しくエンジン音を鳴らしたバイクと彼が登場した。
「さあ乗って」
言われるがままに乗る。それと同時に―――――――――
「見つけたぜ小僧」
と声がした。
振り返るとそこには神宮がいた。……そうか、司さんは負けたのか……。そう、他人ごとの様に思った。でもそれの意味しているであろう場所は、とどのつまり、死、であって。僕は暗い思考の渦に巻き込まれてしまった。―――司さん。優しかった人。でも、思いだそうとすればするほど思い出は淡泊になってゆき、どうしても他人事のようにしか思えなくなってしまう。……所詮、他人の死であることに変わりはなかった。―――それが、そう割り切れてしまう自分が悔しかった。
ぶるるん、と再度呼吸をするバイク。それと共にバイクは―――――――――走り出すことはなかった。一瞬で検討がついた。魔術だ。
「あれ、あれ、……? どうして……?! 早く逃げなきゃいけないのに、くそっ」
最終的には友達はバイクを降りて、神宮へと向かっていった。
「お前が変質者か」
そう言いながら殴りかかろうとする。びゅん、と跳ねる右手。しかしその手が届くことなく彼は倒れてしまった。―――なんてことはない。唯の肉体技だった。
「惜しかったな。流石に俺もバイクで逃げられちゃあ、追うのに時間がかかっちまう」
……それは決して厭味ではなく、純粋な、心からの発言であることに間違いはなかろう。
「僕を連れて行ってどうするつもりだ……」
男は大袈裟な素振りをして言う。
「さぁな。向こうさんの考えることなんてさっぱり解らない。場合によっちゃ、殺すぜ」
最後の一言、殺気を強く感じた。……おそらく本気なのだろう。それでも僕は……、いや、おそらくそれは義務。抗わなければ、司さんに申し訳が立たないし、……和彦にも、何か悪いし……。精々抗おう。それは軽い気持ちだったのかもしれない。
概念上の右手を動かす。
「お、流石弟子と言ったところだな。だがそれは蛮勇だぜやめときな」
空気に干渉する。そしてイメージする。氷の剣を……。水分を集めて……凝結させて……イメージを持って固定する。その間、相手は唯見ているだけ。僕にとってこれは初めての魔術行使。それを見守るかのように、彼はじっとしていた。
そして、剣は出来た。
「御見事。上出来じゃないか。司の数千分の一程度には上出来だ」
「その名前を口に出すな……。お前が言うと気持ち悪くなる……」
「言うねぇ……。でもそんな剣一本で何が出来る? そんなんじゃ、魔術を使うまでもないぜ」
それは好都合だった。使われたなら、間違いなく僕は殺されていたからだ。かといって、現状は一向に良くならず。―――まぁ、言った通り、僕は司さんの数千分の一なのだろう。
「多分僕はあなたに敵わない」
「解ってるじゃないか……。おとなしくついてくれば、別に悪い様にはしないぜ」
「それは無理だよ。……何故なら、そんな間抜けな人間を司さんは好まないからだ」
……好きだったよ。司さん。貴方と言う人間は、僕にとってかけがえのない友人だった。一瞬だったが、記憶をなくした馬鹿に生活を与えてくれてありがとう。でも、それも一瞬の夢だったね。
駆ける―――。切りつける。いなされる。それでも再度切りつける、受け流される、切る、受ける、切る、流す、切る、……当たらない。
僕の体は、こんな単純な動きで摩耗した。……予測通り。僕は勝てない。それでも、又再度同じ作業を繰り返す。切る、受ける、切る、流す、切る、切る、受ける、切る、流す、切る、切る、受ける、切る、流す、切る、切る、受ける、切る、流す、切る、切る、受ける、切る、流す、切る、……一向に当たらない。
「なぁ、いい加減あきらめたらどうだ、と!」
彼からの強烈な蹴りだった。……それを腹にもろに受け、思わずその場に屈み、嘔吐する。
「ごほっ……ごほ、ごほ」
駄目だ……、僕じゃ数分も持たない……。司さんの数千分の一?数億分の一の間違いだろう。
「なぁ、どうしたらあきらめてくれるんだ、と」
更に強烈な蹴り。胃酸が吐き出る。どか、どか、どか、どか、と確実なダメージを僕に与えるそれは……そのうちBGMへと変わり……、安らかな眠りを幻想させた。夢が現になるように……、不思議な感覚だった。―――情報が世界を満たす。いつかの如く幻想は昇華する。―――気持ち悪いものが、頭を支配する。白黒、反転する。それに担うように、夜は深みを増し、全体をブルーで染め上げる。地面から何かが浮き上がる。それは文字にも見えたし、あるいは根本的な何かの様な錯覚もする。その時唐突に理解した。
これら全ては、方程式なのだと。
がしり、と蹴りを受け止めた。火事場の馬鹿力ってやつだ。それは脳をフルに活用することによってなせる現象。
「いい加減、痛いぜ……」
呟く。―――おもむろに上げた顔。視界にまとわりつく式の数々。それらは確実に概念であった。
「見える……」
更に、そう無意識に呟いた。
「見える―――? あの世でも見えたのか?」
馬鹿が勘違いをする。
以前、司さんが言っていた。
我々は干渉することは出来ても、概念を見ることは出来ない。概念を見る、汲みとると言う行為は、脳が世界に干渉するということだ。それに耐えうる脳は未だかつてないし、それに誰もそんな神様の眼を持つことは許されなかったのさ。
「司さんも、嘘吐きだ……」
なんてこと、自分には確実にそれがそうであると理解してしまった。今まさに自分が見ているもの、全てが司さんの言う概念であるということに。―――式が見え、そしてそれらを容易に理解することが出来た―――。凄い……。
概念である右手を空気中の情報にかざす。そして軽く式を捻じ曲げた。―――それだけで相手の周りは真っ赤な炎に包まれた。
「……。そんな芸当ができるとは、意外だな」
男が声を上げる。―――その声すら、情報が見える。ありとあらゆるものに情報が見える。―――世界は情報に満ちている。情報を理解することが、世界を利用することに繋がる。つまりは、自分に利用出来ないものは存在しない。眼は常に概念に繋がっていた。今俺は世界の視点で周りを見ている。今の俺ならば、不可能はほぼ、ない。……もっとも、それは魔術的な意味において、だが。
「あ」
試しに声を出してみる。面白いことに共に情報が排出される。“あ”というものに込められた意味。それらが出現した。そしてそれは方程式で出来ていた。……声すらも、今は情報として現れる。―――俺は、取りあえず、全力で後に飛んだ。人間がハイになったとき、どれくらい飛べるかはしらないが、俺の脳みそは今リミッターを外していたから、ゆうに五メートルは後に下がった。一気に出来る間合いに自分でも驚いた。
「おおよそ、人間業じゃないな……」
それは矛盾。人間であるうちの限界の技であることは確かだ。唯それを俺が行うことが、異常だった。
「へぇ……、なんだ、そんな力を隠してたのか……。なら、少しは楽しめそうだな。ああ、そうだ、今のうちならおとなしく安全につれていってやるが、どうする?」
そんなの愚問だった。
「断る」
それが、戦闘開始の合図。俺は右手しか、この世界に影響を与える手段を持っていない。司さんがくれたこの腕……。これで屠るということが、大事だった。あくまで眼は、概念を捉えるだけ。―――途中式が見えるだけ。
相手が魔術を詠唱する。
「 」
それを情報としてとらえ、俺はその魔術式を未完にした。―――つまり、右手で途中式を改編した。イコールとして無となる結果へと導いた。それは、完璧に概念を捉えているからこそ出来る芸当。魔術は一方的な押し付けがましい行為だ。それは、科学がそうであるかのように。世界という名のブラックボックスに式を当て嵌める博打。でもそれを完璧に把握したなら……。式は簡単に崩壊する。
「な………に?」
相手が唐突に声をあげる。魔術が発動しないという事実が彼を震撼させた。なら、もう一度とばかりに、再度詠唱をする彼。
「 」
そしてそれをたやすく解きほぐす。トランプのタワーを崩すほど簡単な作業だった。
「何故だ……何故だ、何故だ何故だ!」
苛立ちは葛藤へと変わる。原因不明の魔術不能。その事実が彼を苦しめた。これで、フィフティ、フィフティ。立場は五分と五分だ。なんてことはない。お互いこれで普通の人間だということだ。魔術は俺が解きほぐす。詠唱中は無防備になるから。
「なら―――これで……」
彼の体が世界に溶け込む……。これが噂の、神の体ってやつか……。でも、神の目は無い。体が世界と共に溶け合い、方程式と化す。
そして俺は―――それすらも解除する。概念の右手で。
「何故だ……。何故、世界が拒む……」
「さっきからぶつぶつと何言ってやがる」
「……何故―――、まさか、お前が?」
「……」
返事はしない。唯代わりに、彼まで歩みより、全力で殴った。その際、概念上の右手で、確実に彼の体の式を捻じ曲げた。―――魔術の行使出来ると言う体の式を、強制的に元に戻した。それは死の宣告。
……しかし意外だった。それは拳が当たったこと。彼の身体能力なら、確実に避けれただろうに……。しかし、それには理由があることに、僕は数舜後に気がついた。……それは、僕の後に。
「ご苦労だったな、真弥」
唐突にそんな声が聞こえた。それは、聞きなれた、それでいてやわらかく温かみを帯びた声だった。
「司さん―――!」
「ああ、待たせたな。傷の治療に時間がかかった」
そんな彼女の存在が、彼にとって硬直状態として現れたのだろう。
「ここからは、私に任せてもらおうか」
「司さんが?」
「どうせお前じゃ勝ち目はないだろうしな。殴れたのが奇跡だ」
「……そうだね」
至極当然のことを言う彼女。そう、殴れたのが関の山だろう。これ以上望んだところで意味はない。
「……何故、世界が……」
一方片割れの魔術師はいまだにそんなことを呟いていた……。
「おい、説明しろ、奴はなぜ壊れている」
「……さぁ」
さっぱり理解出来なかった。
「今のアイツじゃ、殺してくださいと言っているようなものだな」
「殺していいんじゃないですか?」
人としては、まず間違った意見を言うが、奴にもらった蹴りの事を考えると、非常に不愉快なものが頭を支配する。それは単純に苛立ちだった。怒気で人を殺せたなら―――。
「行くぞ、神宮「 」」
合図と共に魔術を詠唱する司さん。一方無反応な神宮。―――本当に、処理って形になりそうだ。終わりは目に見えて解っていた。神宮は、死ぬだろう。
司さんの手のひらから氷の剣が出現していた。そしてゆっくりと神宮に近づく。
「神宮、お前がどうしたのかは知らないが、死んでもらうぞ。安全の為にな」
敵―――それは滅ぼさなければ自分の存在が危うくなるもの。
敵―――それは仕留めなければならないもの
敵―――決して相容れないもの
敵―――それは自分自身。
敵―――それは赤の他人。
「真の魔術師とは……なんだ?」
最後に神宮は呟いた。それは絶対的に自分が届かない何かを見せられて、落胆を通り越した、そう、挫折を連想させた。
ざしゅ、と嫌な音が響く。それは巨大な刃が、胸を貫く音。誰の―――?神宮の。それは確実に心臓を貫いていた。あたりがざわざわと騒ぎ始める。風が彼の死を慰める。しかしそれは大きなお世話であった。
「色々、大変なことになっているな」
司さんが呟いた。それもそうだ。近くには倒れている和彦、死んでいる神宮、衰弱しきっている僕。あたり一面は何故か、ちりぢりに焼けていた。
「処理は私がしよう。君は帰って休みたまえ」
そう言って、進藤 司は僕に近づき、軽く唇にキスをした。―――一瞬、思考が停止する。どういった意図でしたのかは解らない初めてのキス。それは、少し悲しい味がした。
「何故私が氷の刃で刺したと思う?」
唐突に彼女は問いかける。
「氷は溶けてなくなるから……かな」
「……その答え、採用させてもらおう」
最後にそんな言葉遊びをして、俺は帰路についた。自称魔術師は、おそらくこの程度のことであるなら処理出来るのであろう。さして心配することもない。真夜中になりつつある道を歩く……。本当に、僕は残らなくても良いのだろうか?唇の後をなぞる。とて、とて、とて、と歩く音だけが響く。
気まぐれからだ。―――僕は楠公園へと向かった。
◆
脆弱な世界観。僕の主観では世界はちっぽけで、弱すぎる。そんな世界の真っただ中、僕はポツリとベンチに座っていた。いつもいるはずの相棒犬キャニスはいない。
「来てしまったか」
突然、暗闇から声が聞こえた。この声は……楠さん。
「楠さんか?」
「ああ」
徐々に露わになるその姿。……それはベンチの後からだった。それを確認したと同時に、俺は前を向きなおした。……単に首が疲れたからだ。
「こんな時間に出歩くのは感心出来ないな」
「……そのくらい許せ」
「まぁ、俺がいるうちは安心か…」
「へぇ。お前って頼れる人間なのか?」
「人並みにはな」
「残念だが……却下だ」
ぷつり、と何かが首筋に刺さった。反射的に動こうと思ったが、その反射運動が全く効かなかった。
「何を……?」
「神経が麻痺する毒だよ」
冷静な口調で物凄いことを言った。
「ど………く………?」
声まで出なくなってきた。それを確認すると、彼女はおそらく持っているであろう注射器を抜いた。どういうことなのか……さっぱり理解できない。
「良いことを教えてやろう。楠はな、管理者だ。管理者とは、国が魔術師を管理する際、宛がう役職の事だ」
そこまで聞いて、俺の意識は―――落ちた。
◆
目が覚めたのは暗い牢獄のような場所で、ゲームとかにありがちなランプが俺の閉じ込められている一室に置いてあるだけだった。ランプの色はオレンジに近く、周りもオレンジを中心に照らされていた。俺はそんな部屋の中心でクッションの上に座っていた。……はっきりいって居心地の悪い空間だった。そんな空間でまず俺がしたことと言えば、完璧に幽閉されているかどうかの確認だった。
薬物のせいでピリピリとする体を動かして、一か所一か所出口がないかを確認する。……、結果はノー。全くと言っていいほど出口がない。入口すらない。嵌められた鉄格子に隙間はほとんどなく、向こうに人がいるのか認知するには多少不便だった。
「一体どうやって閉じ込めたんだ……」
そう思い、上を見ると、天井にとてつもなく大きな穴が広げられているのに気がついた。きっと上から放り込んで、クッションの上に落としたのだろう。……上ることは無理そうだった。
「あのがきが……」
「誰がガキだって?」
唐突に声。それは俺を幽閉した張本人、楠 楓の姿だった。
「早速だが、どうして俺を閉じ込める。俺は何かやったか?」
「お前は司という魔術師の弟子になってしまったようだね。その所為さ。司は不穏分子だ。その司が弟子をとるなどろくなことが起こらない。そんなこと楠では見逃せなかったのさ」
「お前、楠の家に随分順応してないか? 俺の知っている楓はそんなことはしない」
「それとこれとは別件だ。代々楠は魔術師の管理をしてきた。それに私は異論はない。……唯……、真弥が弟子になってしまったことがショックでたまらない。いや、知っていたんだ。最初から」
「つまり、最初の出会いは偶然じゃなかったということか。……三者面談とか、学校にいにくいとか、そういうことじゃなくて、ただ単に俺を見張ってただけだったのか!」
「……すべて嘘と言う訳ではないが、……ああ、そうだな。ずっと前から知っていた。君が記憶喪失になって彼女に拾われたあの夜から私はお前を見ていた」
「そりゃ随分前からだな」
「ああ、そうさ。会う度良心が傷ついたよ。君は、好きだった」
「―――司はどうしている」
「彼女は当面は放置だ。弟子を預かっているという手紙は出したが、同時に弟子に手を出すと国から狙われることになると脅しておいたからたぶんこないだろう。これで君は、私と一緒だ―――」
「なるほど。確かに司なら来そうにもないな。なら自力で脱出する」
概念上の右手を取り出そうとする。その直後、俺は落胆をした。
「……? 右手が……ない?」
「悪いが、その右手はこっちで中和させてもらったよ。君の右手は普通の魔術師がつけているものとは違って、刻印と言う名の寄生虫を宿らせることによって出来る疑似的な右手だったのさ。つまりは、偽物ってこと」
……なるほど。確かにあの儀式はあっさりしすぎていた。違和感があったのは、気が付いていたが。しかし、だ。
「都合が良くないか? ―――まるでこっちのことなぞ全てお見通しって感じじゃないか。それに、何故右手を中和出来た? それじゃ魔術師みたいじゃないか」
そういうと、彼女はくすりと笑った。
「勘違いしているな―――。 国が管理しているからって、管理者が魔術師でないとも限らないだろう? 確かに私達みたいのは少数派だがな」
合点がいった。
高確率で俺は逃げられない。
「こっちのことをお見通し? ああ、それは神様の皮肉ってやつだよ。言っただろ? 君は最初から監視下にあったと。その理由は単に司の弟子という理由ではない。君は、三木谷は楠の分家なのだよ」
……なんだって?楠の分家?
「君には魔術の素養があったのだよ。三木谷は優秀な魔術師の家系だったからな。だから記憶喪失の時には真っ先に楠に連絡があった」
魔術師の家系―――。それは驚きではあったが、自分にとって何故か当然の様な気がしていた。本能が、理解する。
「……理解した。だが司さんは家を訪問したらしい。その時になにもなかったとは思えないが」
「司は三木谷の名前を知っていた。何故なら魔術師とは少数派の人間で、少数派を覚えるのは簡単だったからだ。君を引き取ろうとした理由は解らないが、彼女が三木谷の家を訪ねたときなにもなかったとは思えないな。にも関わらず、三木谷はそれを許容した。解せないな」
俺にはそれが、すぐに検討がついた。
いつかの記憶を掘り起こす。
――――――ああ、そうだ。君の親御さんとも話はつけたよ。学校にも。この書類はそういったことに対する証明書のようなものだ
親は……居たのか?
あまりにまぬけな質問。でも、泣きそうになる。俺に親がいたと知ったと同時に、決別。……脳がついていかない。親との決別……、国が魔術師を許容していて、良いように扱っている。そして、僕が司さんの、弟子―――?
ああ、いた。ちなみに君は一人暮らしだったよ。色々ごたごたはあったが、そこは語りたくないね」――――――
――――――暗示とは、内側に秘めている優先順位というものを引き出す手段の一つだ。人間は願望に満ちている。たとえば、お金持ちになりたい、死にたい、等。後者は自殺願望と言うな。その一つにこの家に住みたい。働きたい。元の家から家出したい、等があるとしよう。暗示と言うのはそれらの願望をより強くしただけに過ぎないのだよ。君は例え暗示にかかっていたとしても、自分の意志でここに居るのに違いないのだよ。ちなみに、自分の意志を全く無視した選択をさせることを、洗脳と言う――――――
つまり司さんは、両親に洗脳を使ったと予測できる。ごたごたとはそのさいあった争いか何かのことだろう。―――全く乱暴な人だ。そう、俺は思った。
「三木谷は記憶に関して優れていた魔術師だった。君の記憶に障害が起こったのも魔術が関係してるおそれがある。ただまあ、こちらにむりやり引きずり込もうとしたのが悪かったのか、神宮を仕向けたのは色々な意味で失敗だった。―――それに彼が死ぬことになるとは、思わなかったし」
「情報が早いな」
「ここら一体を牛耳っているのが楠だ。皆それぞれ、街の住人は魔術師通しの争いを許容するという暗示にかかっている」
誇る訳ではないがな、と彼女は次いで言った。
そこで会話は途切れた。……聞くこともなくなったからだ。
「さて、俺は一体どうすればいいんだ?」
「……記憶を取り戻したいのならば、楠の力で取り戻させてあげる」
「へぇ……そんなことが出来るんだ」
「やってあげましょうか?」
「御免だね。俺は今を気に入っているんだ。いらない過去なんて邪魔になるだけじゃないか」
「もう、遅い」
そう彼女が呟くと同時に、頭痛に見舞われた。
「何をする……」
「あなたの最下層の記憶を取り戻させてあげる」
そう、何の感情もこもってない声で彼女はそう言った。―――全く、魔術師というやつは、そうじてこういう人間なんだから―――。
本日何度目かの気絶は―――、そのどれもより強烈な頭痛と共に陥った。
◆
―――体が徐々に覚醒へと近づく。それと共に脳が目覚める。否、それは完璧な目覚めだった。脳の容量の半分以下しか使っていないという人間の領分を遙かに超えている。それはほぼポテンシャルの全てを使っているという状態だ。それは快感だった。高速道路を三百キロくらいで走っている感じ。―――世界が情報に満たされてゆく。水のように途方もない情報の源を片っ端から脳みそは認識しようとする。―――コップから水が溢れるみたいで、なんだかそれは凄く勿体ない事をしているような……、ひどく、後悔した。
「目が覚めているのか……?」
唐突にそんな声が聞こえた。
「ああ、どうやらそうらしい」
口が勝手に走る。僕の意識レベルで出来る芸当じゃない。いや、僕じゃない。総合して僕と言う自我があるだけで、僕という部品は沢山ある。僕は、総合的な僕はそんな部品の代表者でしかない。つまり、今喋っているのは僕であり、僕にあらず。そこまで考えて、意識は吹き飛んだ。
「君は……真弥なのか?」
あの妖艶とした女が喋りかけてくる。口調がずいぶん違うが、恐らくはそれが本来の彼女なのだろう。
「どうかな……。君こそ何者だい? そう言えば名前すら知らない」
そう俺が尋ねると、彼女は一寸戸惑い、やがてそれを忘れるが如く、こう答えた。
「私の名前は進藤 司。魔術師だ」
それはおおよそ自分の理解の範疇を超える答えだった。
「私は答えた。なら君も答えるのが道理じゃないかね?」
そう魔術師は答えた。―――といっても、自分自身が何者かなんてこと、俺にはさっぱりわからなかった。当たり前のように存在する自分に名称を与えるのだとすれば―――。
「総合して三木谷 真弥と言う自我があるだけで、三木谷 真弥という部品は沢山ある。真弥は、総合的な真弥はそんな部品の代表者でしかない。つまり、今喋っているのは真弥であり、真弥にあらず」
そこまで言うと、彼女は驚愕といった感じの表情を浮かべた。
「君は……そうか、では、君は真弥でいうところのどの部品である?」
一つずつ咀嚼してから、魔術師は言葉を選んだ。
「―――脳だ」
「―――――――――ははっ、それは面白い。つまりは本体か」
魔術師は笑う。その笑い声は、本当に笑っていた。何の色もないが、確かに笑っていた。―――それがひどく不快だった。
「ならば本体、いや脳だったな。脳である真弥に問う。お前の記憶だ。脳であるなら解るだろう? どこへいってしまったのか。記憶の最下層か?」
「記憶なぞ―――元より無い」
「無い―――だと? 馬鹿なことをいうな。脳の容量を馬鹿にしてはいけない。忘れるという行為はあれど、失うことなど万に一つもありえない」
「では逆に聞こう。―――脳の容量以上のものを受け入れてしまったなら、どうだ? それはコップの水があふれるのと同じ。失うしかないだろう」
彼女の瞳が丸く開かれた。
「まさか……。三木谷が魔術師の家系であることは知っている。だがしかし、だ。それは大昔の話。今は専ら機能しているのは本家である楠だけだ。―――魔術でも脳というのはそう簡単には潰れないものだ。君は―――突然変異か?」
楠―――、三木谷―――、どれも耳障りだ。俺が俺である以上、奴らは関係ない。
「突然変異―――? ああ、それは言い得て妙だ」
「ふん……。認めるのか。なら君は記憶を代償に何を手に入れた」
―――――――――。
「言うならば、変質した、いや、完璧なideaだ」
「idea……?」
「永遠不変で、完璧な物質の情報の源。―――世界とは様々な方程式で出来ている。その方程式を見極めるのがideaだ。または式そのものではなく、イコールまでの過程を見ることに意味がある。つまり、だ。―――俺の眼は物事の概念を捉えることに特化した」
そこまで言って魔術師ははっとする。
「―――なるほど。勿論、プラトンが説いたidea論とは異なるものだろうが。―――神の眼か。いや、まさか―――、ついに現れたか、とんだ化け物が」
くつくつと魔術師は笑う。―――やはりその声は不快だった。
「ideaを受胎するその過程は俺にはわからない。―――それは唐突だった。しかしその結果俺の脳の大半はideaというソフトに持ってかれちまった」
「結果、記憶喪失、か。しかしそれはまさに喪失だった訳だ」
そういうこと、と相槌を打つ。
「しかし不味いことになったな。―――そんなことがばれれば国が黙っちゃいない」
「国が―――? 何故」
「ああ、詳しいことはのちのち説明するとしよう。―――君は危険な存在になってしまったということだ。魔術師が求める究極に最も近い存在と言う訳だ。それも踏まえて―――、君、ここで雇われる気はないか?」
―――そう、それが俺達の初めての馴れ合いだった。失った過去に興味はなかった。失ってしまった以上、親とは他人通しだ。それに進藤 司が俺をないがしろにする理由なぞない。―――結果俺はここに住むことを決めた。それが真相。脳が決めた、いや本能が決めた。最終決定事項。
そして、司さんは嘘をついていた。―――僕の記憶は―――戻らない。
◆
「あ―――――――――」
幻想は一気に現実へと昇華する。
……夢じゃなかった。
僕は、俺で、俺は、僕。
―――脳が僕を代弁していた。そうか―――、そうだったのか。司さんと住むことを何ら疑問に思わなかったのは、そういうことだったのか。―――まさしく僕は、俺は許容していた。本能が、認めていた。だから、僕は―――。
「記憶は戻ったのか? 真弥」
見当違いなことを、楠楓は言った。いや、でも彼女のお陰で記憶が戻った。それは脳が動いていた時の記憶。―――僕じゃなく、俺が動いてたときの記憶。
「ああ、お蔭で思い出した」
「―――そうか! なら、楠を認めてくれるな! 私とお前は一緒にいられる、そうだな」
実に嬉しそうな声ではしゃぐものだから、俺は弱った。彼女を傷つけることになりそうだたからだ。
「いや―――、記憶は取り戻せなかったよ。失ったものは二度と戻らない。思い出したのは、俺の行動のみ」
とたん彼女の顔に落胆という文字が見えた。
「―――嘘だ。真弥、そうだ、思いだすという暗示が足らなかったのだな。なら、少し辛いが強力な暗示をかけよう。そしたら理解してくれると思うんだ。楠のことも、私のことも。私達、友達だもんな」
「ああ、そうだな。―――俺たちは友達だ。でも、もう暗示はいらない」
そこまで言い切ると同時に、ガシャン、と音がした。それは外から。そして内側へと音が近づく―――。予想した。その音の主を。それは―――
「世話をかけさせるな。馬鹿弟子め」
間違いなく、進藤 司だった。
◆
「司さん、僕の記憶はもう戻らないんですね……」
まず最初に発した言葉がこれだった。
「……ああ。お前自身が言っていたことだ。間違いではあるまい」
そして肯定された。不思議なことに、そこに落胆はなかった。むしろ、清々しい。
「これからも、司さんのところに、僕はいて良いのでしょうか?」
「愚問だな。―――まぁ、巻き込まれたのは私なのかもしれないが、一応責任位は取ってやる」
まったくもってありがたい話だった。
「貴方が、司?」
楠さんが呟く。
「ああ、そうだ。私が司だ」
「てっきり男の人かと思っていたが、違ったか」
「名前だけで判断されても困る。司が女の名前でも珍しくもあるまい」
「それも、そうだな……。でも、彼を連れて行かれたら私が困る」
「君はよほど彼に執着しているようだね」
「貴方以上には愛している」
愛……ねぇ。愛の上に成り立つのがこんな監禁なら、僕としてはごめんだった。彼女とは、対等の関係でいたいからだ。司さんはそこら辺はきちんとしていた。
「愛している、か。笑わせる。恋は盲目といったな。まだ若いな。お前は」
「若い……、そうだ。若い。まだ十七歳だ」
―――そう、楠さんは答えた。十七?しかしその容姿はどう見たって中学生のものにしか見えない―――。
「十七歳にしては小さいな」
思ったままの事を口にした。別に、他意があったわけではない。
「……私の体質がそういう体質なんだ。お前に小さいと言われると傷つく」
「ああ、それはすまない」
そして素直に謝る。―――まだまだ僕には余裕があるみたいだ。
「いや、ちょっと待て。そしたら、おかしいじゃないか。公園であった君の知り合いは? あれはどう説明する」
そう、いつか出会ったツインテールの温和な少女。彼女はどう説明をつけるのだろうか。
「ああ、あれね……。あれは“演出”だ。あくまで中学生だと信じさせるための演出に過ぎない。―――だから困ったのだ。私はあんな子知らないと言うのに―――。全く楠はいつも勝手なことをする」
「……そうか」
道理で、あの時の彼女の仕草が怪しかったのか。でも現実の彼女の、おそらくは高校では、彼女はどうなのだろうか。―――それが少し、気になった。
「ところで司さん、余裕があるなら出してもらえませんか? 僕、右手の刻印ってやつ消されちゃったらしくて……」
ふん、と司さんはため息をついた。
「まぁ、急ごしらえのものだ。そうなるとは予想していたが、……と、いうかお前も妙なのに好かれたな。まさか楠にお前が監視されてるなんて思いもよらなかった」
……僕達はきっと出会うべくして出会ったと思う。お互い好いていたし、それは否定できない。まぁ、僕も意外だとは思った。色々なことが意外だった。魔術師の家系に生まれていたことを考えると、司さんともまさに出会うべくしてであったと言えよう。
「ところで司さん、僕を助けに来たってことは国を裏切るってことになるけど、良いの?」
「愚問だな……。少々厄介なことにはなったけれど、君という逸材を逃すのは惜しい」
「……素直に好きって言えばいいのに」
そういうと司さんは少し意地の悪い顔をした。
「―――――――――ああ、そうだな。私はお前のことが好きだ。そうでなければ助けには来ていない」
それは恋愛とか、そんな生ぬるい価値観の好きではなくて、純粋にお互いを好くと言う意味の好きだと、僕は思った。―――僕達は、素直じゃない。だから嘘を吐く。それでもたまには、本当のことを言う。それは大事なことだから―――。
「ふん、見せつけてくれるじゃないか……。だがな、私も好きなんだよ。真弥が……。だから、真弥が欲しい……。真弥を譲ってくれ……頼む……」
それは稚拙な少女の願い。おそらくの動機。―――僕は単純な願い一つでこの身を左右された。―――ああ、恋愛騒動なのだろうかこれは。毒物を仕込んだのもまた彼女の愛故、か……。何故だろう、笑える。
「無理だよ、それは……。だって僕はモノじゃないもの」
はっきり僕の口から伝えよう。それは無理だと。楠を理解するのは無理だと。彼女を受け入れるのは、無理だと。
「真弥……、私は楠の為に動いているのではない。楠は司の弟子であるお前を狙った。だが私は司の弟子であるお前に興味があるんじゃない。お前に興味があるんだ……。頼む、理解してくれ」
それは……でもなんとなくわかる。いけないのは、そう、もっと根本的な……。
「楠のやり方は気に食わない。……結局、現状に甘えてるだけじゃないか、楓さんは…」
初めて少女の名前を呼んだ。それは楠と区別をするため。
現状に甘えているのはお互い様だった。それを知ってなおこう言うんだから、僕はずるい。
「御託はもういいか? 私はさっさと真弥を連れ帰って平凡な暮らしに戻りたいんでね……」
司さんが呟いた。それは紛れもなく本心からの言葉だったのだろう。気がつけば手には炎を纏っている。
「司、あなたと遊ぶ余裕は私にはない……。悪いけれど、一瞬で終わらせてもらおう」
一方楓は、司と対をなす水、を形成した。こちらも一瞬の早業だ。……おそらくは、概念上の何かを使いこなしているのだろう。しかし、それを見て僕は落胆した。―――これじゃ、勝負にもならない、と。
神宮の方が、よほど強かったからだ。それはおそらく、楓にも解っていたことだと思う。なのに虚勢を張る様は、見ていて痛々しい。
そして、お互いの技が交差した―――。
交差した瞬間、なんとも形容しがたい音があたりに響いた。
水は一瞬で蒸発する。しかし火もまた消える。
司は、走り出していた。―――それに身構え、詠唱する楓。
だが、遅い。
それは肉体芸。と、いうよりは不良キック。司さんは勢いを殺すかの如く彼女の目の前で止まると、余韻を残さないまま、彼女を思い切り蹴飛ばした。―――魔術師なのに。
「この馬鹿者が―――。魔術の詠唱は古来より伝わる言葉の業。威力は高いが、その分隙だらけになる。魔術師は肉体も磨いてこそ魔術師。お前のような軟弱者に私は負けない」
完璧に、司さんが上手だった。否、彼女が格下過ぎた。耳を澄ませば、趣味の悪いことに彼女の嗚咽が聞こえた―――。
「……うっ……うっ……。私は…ただ真弥と一緒にいたかっただけなのに……」
「楓さんは楠を嫌いながらも、楠を利用した。その代償が、この有様なんだ……」
僕は呟いた。それは誰に言う訳でもなく、……自分に言う訳でもなく、唯現状を示す言葉だと思った。
司さんはと言うと、新たに魔術を詠唱し、鉄格子を破ろうとしていた。
僕はそれに身構え出来るだけ鉄格子から離れる。
楠 楓は妨害する気力もないのか、何かが抜け落ちた顔で、こちらを見ているだけ。
世界が一瞬ぐにゃりと曲がる。その違和感を鉄格子だけに残しながら、世界のゆがみは消え去った。―――とどのつまり、鉄格子だけが、曲った。大きな隙間が出来る。そこから僕は抜け出した。
「行くぞ―――真弥」
司さんは大して思い入れもないようで、さっさとこの場所を離れてしまう。僕はと言えば、逆に名残惜しさを感じていた。この場所にではなく、彼女に。
「楓さん、もし、僕達のことを思うなら、司さんの事はほおっておいて欲しいんだ。あの人は国を裏切る危険な人物にはならないよ」
―――全く、都合の良い言い分だと、自分でも白々しいほど思った。
◆
現実は甘くない。現状は常に変わる。―――変わらないのは甘えか?変わることこそが甘えか?まあそのどちらにせよ、僕の話は結局逃げることでしか成り立たないものになってしまった。何故僕はideaを手に入れたのか、それは解らない。―――何故僕なんかが、そんなものを手に入れてしまったのか。きっかけは、何もない。現実は甘くない。現状は常に変わり続ける―――。
ただし、これは急激に変わりすぎた話。
あの後のことだが、結局楠は、いや、管理者は僕達を国に売り払うようなことは止めてくれた。恐らく、楓さんがなんとかしてくれたのだろう。イエスをイエスと言う権利。ノーをノーと言う権利で。それでも安心しきれなかった僕らは、一般の世界から一度姿を消した。―――期間で言うと、およそ三か月程度。その間はキャニスと司さんと僕とで放浪の旅、もとい、観光旅行を楽しんでいた。
時にはラブホテルに泊まったりもしたが、僕が危惧するような事態にはならなかったし、なれなかった。単純に休むことを目的としたホテル通いだった。
司さんの傷は急ごしらえの治療だったらしく、実際は結構な大事だったそうだが、本人はそれを表情に出したりしないので、僕は迂闊なことに司さんのお腹に軽く拳を当ててしまい、とんでもない目にあったりしたのだが、それは置いといて。
そんな期間を過ごしたあと、僕達は安全だと保障された。―――そして、円形の魔術師邸にて。
「君がideaを手に入れた理由だが―――」
「はぁ、それはまた急な話ですねぇ」
「急でもないだろうに。自分のことだ。もう少し関心を持ったらどうだね」
呆れた声で司さんが言った。もっとも、正論なのだから仕方ないが。
「君は―――、概念としてideaをすでに持っていた可能性がある。つまり、起源としてideaに最も近い属性を備えていたと考えることができる。―――ただそれが矛盾を引き起こし、概念と概念のぶつかり合いによりそれまで相殺されていたと思われる。そして来るべき時に引き金としてideaが発動するときがあらかじめ決められていた、と推測される。そう、脳の成長に伴い、君はすでにideaと言うトリガーを引いていたのだ」
司さんの話はいつも小難しい。
「えーっと、要訳すると、僕は元からideaという素質を持っていた。でも子供の頃の脳の大きさじゃ足りなかったから具現化することはなく、大人になってから発動した、と?」
概念は具現化するものではないが、大筋は合っている、と彼女は言った。
「そしてideaの覚醒は同時に脳を一段階上のレベルに持ってこさせた。それが原因で誕生したのが、脳の人格だ」
「つまり、僕じゃなくて、俺のこと?」
「そういうこと」
そこまで言うと、司さんは言葉を切った。
「お前がその力をどのように使うのかは自由だ。―――あらゆる概念を見る眼だ。医者になれば悪病の原因が一目でわかるだろう。鑑定氏になれば、モノの価値観をひと眼で見破れるだろう。―――魔術師になれば、あらゆる手段を熟知することになるだろう。そのどれもが、君次第だ」
最後に司さんは、そう言った。でも僕はそのどれもに興味がなかった。
「―――結局僕にそんな能力はなかったんですよ」
自分に言い聞かせるように、僕は言った。司さんは、そうか、と相槌を打つ。
「当面は、司さんの雑用係が良いところですね」
「それを真弥が望むならば、私は責任を取ろう」
そしてお互い笑いあう。
◆
「―――おはよう」
別にそれが唐突だった訳じゃない。ただ僕は普通に挨拶しただけだ。
「お、おはよう」
そう返事をしたのはショートカットの女。始まりの教室で、初めてあった人間。そう、彼女だ。
ここは学校。―――あの後、司さんに頼みこんで転校を取り消してもらった。―――幾ら司さんの世話係だったとしても、何もせずごくつぶしの生活をするのは気が引けたからだ。そして現状。どうしたかというと、僕の存在は突然の転入生ということになっていた。皆の記憶から僕は存在しないことになった。―――記憶は一度僕に関してリセットされたということだ。これも司さんの仕業。―――いや、彼女のお陰。記憶が戻らない今、また仲良くやり直すというのは、苦痛だったからだ。ならばいっそのこと、全て最初からなら、そう思って司さんに僕が頼んだのだ。
と、言うことで今の僕は転入生。
でも実際はあまりなじめずに学校に通っていた。そうそう転入生が優遇されるってことは、少ないのだ。別に授業をさぼったりする訳ではないが、居辛い。それに今更学校を止めるとは言いだせないし。―――僕は結局何がしたかったのだろうか。たまにそう思うこともある。
つまらない授業を受け、ろくに会話にも混じれず、中途半端に生活していた。―――まぁ、それでも成績は良かった。不思議と暗記力が滅法強くなっていたから、対外の授業は楽だった。これもideaの影響であろうか。
ある日の午後―――。
「ねぇ、真弥君」
唐突にそんな声が聞こえた。
「―――和彦?」
「うん、そう。覚えていてくれたんだね。って、よく考えたらいきなり名前で呼ぶのって、失礼かな?」
それはいつぞやの会話とは全く真逆のもの。
「いや、そんなことないよ。僕も呼び捨てにしてるし―――」
「ああ、そうだね。へへ」
彼は笑った。少し恥ずかしそうにはにかむ様は、見ていてこっちも恥ずかしくなるけど……悪いものでもなかった。
僕達はそれから友達になった。思えば彼だけが、最後まで僕のことで悩んでくれた人だった。それは彼なりの友情だったのだろう。―――そして僕達の友情ってやつは、記憶とか関係なしに、続くのだ。―――それが少し誇らしい。
◆
ある日の午後―――2。
屋上でねっ転がり、空を眺める。―――雲は自由気ままに流れ、その自然な様を風に任せるだけ。思えばいままでの、否、今の僕もそんな様な感じかもしれない。
学校―――、その中でも特に屋上は安らぎの場所だった。
「こんな所で会うとは、奇遇だね」
「―――え?」
唐突にかけられた声。それに驚いた僕。声の主に視線を向け、又更に驚いた。
「……驚いたな」
「―――まぁ、それも仕方ないさ」
屋上に、二人だけの声が響く。ある意味、それはとても過ごしやすい空間だったし、僕はその声の主が好きだったから。その声の主とは、楠 楓。まさか、同じ学校に通っているとは思わなかった。そういえばこの学校、校長の名前が楠だったっけ。まぁそれを知ったのも最近の出来事。案外楠も、印象に残らない。理由と言えば、楠との直接のやりあいってやつは、なかったからだ。―――まぁ楓さんはほっといて。
「そういえば、君が抱えている問題って何なの? 学校で抱えてる問題ってやつ」
「……この体格だからな。単純に言っていじめだよ」
「いじめ? ―――でもそんなの君だったら、その……言い方悪いけど、復讐ってやつもお手のものだったんじゃないの?」
「……ふん。そんな邪道な手段をとるほど私は子供じゃないさ。……いつか……、君の前でだけ正直に話せるときが来れば良いと思ってた。でもそれって、単純に、簡単なことだったのね」
「……口調、そっちの方が可愛いよ」
「ふふ。そうかな? じゃあそういう喋り方にしてみるかな? 君の前でだけ、ね」
「で、そのいじめだけど、その後の具合はどうだい?」
「ああ、仲良くやってるよ。素直になってみたんだ。自分に。そしたら、意外と和解出来たんだ。それも君のお陰。―――君尽くしだな」
そう言って、彼女は笑った。僕も、笑った。―――さわやかな風が吹く。覗き込むようにして僕を見る彼女も、気がつけば僕の横に寝転がっている。少し、ドキドキする。―――それはそんな彼女の雰囲気が、年相応だったからだ。
「ねぇ、……こんなこと聞くのもなんなんだけどさ」
遠慮がちに僕は言う。
「ん? 何?」
彼女は眼を瞑りながらそう答えた。
「僕の何所が好きなの?」
「ばっ、―――そんなこと急に聞くな!」
顔を真っ赤にして、本当に発火したかの如く真赤にして慌てる彼女。その様は、何故か微笑ましかった。むー、とした顔をこっちにむけて、しばしば沈黙が流れる―――。
「……きっかけは、単純だったんだ」
彼女は、ゆっくりと語りだした。
「出会い頭が私達の絶対ではない。私はお前の事を監視していたからな。そう、司に拾われた日からだ。何故楠は監視に私を選んだのだろうか……。それは油断するから? いや、ロマンティックな言い方をすれば、私は運命だと信じたい」
「詩人みたいな事言うなよ。僕まで恥ずかしくなる……」
その証拠に僕の体温はぽかぽかと上昇していた。
「まぁ聞いてくれ。いや、やはり聞き流してくれ。……私としては、唯見ているだけだった。そうだな―――、初めてまじまじと見たのは、キャニスの散歩をしていた時かな。確か私達が出会う六日前程。その時に私はすでに君を知っていた。その頃から君はまぁ、興味深い人間だったよ」
「……褒めてないよな」
「ああ、そうだ。褒めてない。唯、酷く惹かれたよ。―――犬と無邪気に遊ぶ人間なんて―――、大人じゃ初めて見たよ」
「別にいいだろ?」
「ああ、お前はそれで良い」
「……さっきからなんか肯定されてばっかだ」
「そうだな」
そういって、また彼女は一つ、頷いた。
「君はそういう人間だったから、初めて話しかけた時は緊張した。私みたいな強かな女が話しかけて良いものかと」
「自分で強かと言うな。確かに楓さんは強かかもしれないけど。それにその言い方だとまるで僕が弱そうじゃないか」
「そうだ。お前は無知だったし、それに純粋過ぎて、壊れそうだった―――。それを思うと中々触れることなぞ、出来ないさ」
……中々、気恥しかった。僕はそんなに純粋じゃないと自分では思うからだ。―――だって、むしろ僕は、うん、下心だってある。こうして喋っているのだって、誰かに甘えたいっていうその線上の答えなのかもしれないし。
「―――なぁ、お前は私に、甘えてもいいと言ってくれたな」
「え?」
「ああ、いや、直接ではないさ。遠まわしにそう言ってくれた。言いたいなら言ってもいいけど、無理には聞かないよって。あれはつまりそういうことだろう? お前なら、もし私が言ったとすれば、全力で悩んでくれただろ? つまりはそういうことだ」
「そんな……他意はなかったんだけどな、悪いけど」
「お前はそうかもしれないが、私にとってあの一言は大きかった」
そんなこと言われても、僕は唯々、彼女の中の僕の大きさに戸惑うばかりで……。
「私はお前のどこを好きになったとか、そんなんじゃない。唯単純に、いや全てに惹かれた―――、そうだ、そうだよ。大好きなんだよ! あーもうお前は黙ってろ」
言われたとおり、黙りこくる。その方が、赤面した僕の気持ちを隠せるからだと思ったからだ。―――僕は、緊張して多分今喋れば声が裏返るかもしれない。じゃあ、黙っていよう。ん。楓さんには悪いけれど―――それは悪い気持ちでは、決してない。
「楓さん。僕達―――友達でいていいんだよね」
「……それはこっちのセリフじゃないのか? 私はお前に嫌われたのか、すごい心配だった。―――なんせ、毒針まで刺したしな」
「確かにひどい目にはあったけど―――、こうして無事なんだし、ちゃらにしよ」
「……なぁ、償いってやつをしていいか?」
「償い?」
「ああ、そうだ。償いだ」
「償いって、何―――?」
「こういうことだ」
そういうと、僕の視界は楓さんでいっぱいになった。―――空の代わりに彼女の目が視界をうめる。―――僕達は眼を開けていた。やがて青空に移り変わる。それは軽い接吻、もとい、償いだった。
「―――なっ」
「キスの時くらい、目を瞑れ」
「―――楓さんだって、開けてたじゃないか……」
「お互いさまだ。チャラだチャラ」
「―――償い、ねぇ……」
「乙女のキスだ。高いぞ」
「まぁ、そういうことにしとくか」
「そういうことにしといてくれ」
気恥ずかしくて、顔を向けることが出来ない。―――勘弁してくれ、こういうの、苦手なんだ。誰に言う訳でもなく、僕は心の中でつぶやいた。―――頭までバクッてきてる。
「僕達は―――うん、少なくとも、悪い仲じゃない。良い仲だ。それは、誇って良いと思うんだ」
しばらくの沈黙の後、彼女はやがてこう言った。
「―――上手い言い方をする。でもまぁ、そう、だな」
それからお互い、微笑しながらゆったりとした時間を過ごした。それは気恥ずかしかったけど、決して悪いものではなかった。
◆
―――――――――もう一人の自分の物語。
やがて眼が覚めた最初の夜―――。辺りは昏々としていて、否、自分が昏々としているからだろうか、夢と言う名の混沌が現実と入り混じり、そこは不思議な幻想世界を作り出していた。―――または、それこそが真実なのか……。
夢現……という訳ではなさそうだ。自分としてはこの上無いほど視界がはっきりとしている。しかしそこに意識は無い。
つまりは、俺の時間だった。
―――notopic―――
俺の、俺による、俺のための、時間帯。それを俺はnotopic(論題にならない)と名付けた。Not topic。まぁ、安易かな、とは思った。それでも、俺はこのnotopicでしか行動出来ないのだから情けない。
舞台は夜。―――静かな夜。俺は何をするでもなく、唯散歩に出かけた。それは、意味無き散策。―――新しさなぞ求めてもいない。
「おや、珍しい客人だ」
「客人―――? 一応お前は保護者なのだから、家族だろう?」
「ふ、そうだったな」
どこがおかしいのか、理解に苦しむが、彼女は笑っていた。
「思えば、こうして対面する機会はあまりなかったな」
「ああ、表だって活動することはないからな」
俺が表だって行動するようになれば―――それは、いけない。いや、俺が行動することに変わりはないのだから良いのかもしれないが、俺は真弥であって真弥にあらず。彼の時間を邪魔する訳にはいかない。―――だから、待つ。Notopicを。
「恋しいか? 自分の時間が」
「おかしなことを聞く。俺は真弥に違いないというのに……」
それもそうだな。と魔術師は一人納得をする。―――?俺は納得していないというのか。いや、そうなのかもしれないな。
「何故俺は生まれでたのだろうか―――」
「それこそおかしなことだ。人は生まれ出たときから多種多様な人格を孕んでいる。そのうちのどれが主体になるかは解らないが、それは確実に内包されているのだ。君は偶然仮とは言え所有権を得てしまった。それだけだ」
それだけ……ねぇ。一瞬、思考が途切れる。脳である俺がいうんだから、それは紛れもない停止であった。
「どうした?」
司が言った。
「あ、いや……」
俺はしどろもどろに答えるばかり。
「所有権を得た、といったが、偶然脳だったのか? それとも、必然だったのだろうか……」
「私は後者だと思う。Ideaが与えた影響は多大だ。それが脳に関わってきたのだろう。Ideaとは概念を見る眼ではない。確かに一考するとideaとはそうなのだが、肝心なのはそれを租借し理解する脳味噌が必要なのだ。つまり、君は選ばれたのだよ―――。または、真弥には自己を優れさせたいという無意識下の願望があったのではないか? それが結果で君という願望が産まれたのかもしれないな」
「俺が……願望?」
「ああ、まぁ、あくまで仮説だがな。君の存在はあまりに希薄であるからな」
「希薄……か。そういえば、真弥は俺になっている間の記憶があまりないようだ。俺は脳だから真弥の記憶を引き出すのは容易だが……。どうやらこれもideaの影響らしい。Ideaを使うとどうやら記憶の一部に欠落が出るらしい。それが真弥の記憶だ。脳みそは真弥と俺と、両方の視点で記憶する。その片方が潰れる。それだけの話だ。だから真弥は俺を認識することが出来ないんだ」
やがて眼が覚めた最初の夜―――。辺りは昏々としていて、否、自分が昏々としているからだろうか、夢と言う名の混沌が現実と入り混じり、そこは不思議な幻想世界を作り出していた。―――または、それこそが真実なのか……。
夢現……という訳ではなさそうだ。自分としてはこの上無いほど視界がはっきりとしている。しかしそこに意識は無い。こういう状態のときは決まって金縛りになるものだったが、そうではないようだ。第一、金縛りの時に見える目の裏側から見える血の塊、もやもやがないし。
ああ、まあそんなことは兎角どうでも良いか。
取りあえず、喉が渇いていた。自分は飲み物を求めて体を起こそうとする。―――が、動かない。右手、左手―――不可。上半身、下半身、大まかな部位も動こうともしない。指先を動かそうと試みる。そうしたら、人差し指がぴくりと立ち上がり、続いて別の部位も動くようになった。上半身を再度動かそうと試みて、そこで自分は気がついた。
―――ここはどこだ?
見知らぬ天井、見知らぬ雰囲気、匂い、それらは夜が見せる瞬きの間の幻想。よくよく考えてみたなら、思い当たる場所であった。むしろ気がつかないのは可笑しかった。おかしくておかしくて笑える。なんだここは学校じゃないか。自分は自分のクラスの教室に横たわり、冷たくて固い床の上で体をガチガチに固まらせていた。
そこまで認識出来る程度に回復すると、今度は意識が完璧に覚醒した。
「何で僕はここに居るんだろう……」
……思い出せない。何か大事なことを忘れているような気がする。
―――そこまで考えて絶望した。
自分は、誰なのだろうか―――?
名前。
生まれ。
出身。
住所。
家族構成。それら全てが曖昧で、霧がかっていて、ああ、うん、つまり、だ……。記憶喪失ってやつだろう。
―――なのに、自覚できる自分の学校。
……右手の甲を額に乗せる。そして溜息を一つ。
「まぁ、良いか。警察に行けば何かわかるかもしれないし……」
どうやら思ったより自分は大丈夫そうだった。
学校から出てすぐのことだった。―――弱った。地理が全く解らない。自分の脳内で確認出来たのは、自分の学校のみ、だった。つまり、だ。僕の拠点となるのは学校であり、情報を集めるには学校を拠点にするしかなかったのだ。―――場合によっては、学校で寝泊まりするのもありだな、とそう思い始めた自分がいた。そんなこんなで迷っている自分が居るのはどこかの路地。夜って所為もあって、全く視界が利かないのが残念な結果をさらに呼び寄せている。
学校を飛び出してから約三十分経っていると思う。学校で確認した時刻が確か深夜二時位。学生としてはあまりよろしくない時刻に出歩いていることになる。いっそ補導されたなら良いのに、世の中はいつも上手くいかない。
そして、たった三十分で僕は嫌気がさし、探索するのをやめにすることにした。第一、こんな状態になる理由が解らないし、一体何がどうなっているのやら、さっぱり理解が追いついていなかった。
「朝になれば、誰かしらに会えるだろうし、多少の騒ぎにはなるだろうけれど、まぁそれ以外ないよな。―――それに、朝の方が周りも見やすいだろうし……」
あまり苦労しない疑問だった。自分を分析すると、結構突拍子もない感性の持ち主であり、多少の事ではどうじない、またはどうしられない性格の持ち主であるということだけ痛感した。
そして、結局その日は、学校に泊まることにしたのだ―――。
俺の記憶だ。
じっとしていたら、陽は傾きはじめ、僕はそれを眼で追いながらカウントをしていた。そして数え始めておよそ一万五千あたりを過ぎたころ、夜へと、闇を徐々に落としながらあたりは変貌していくのだった。―――不思議と、そこになんの感情も抱くことなく、僕の精神は安定していた。だからだろうか。今僕は、無感動だった。
―――夢と現実が入り乱れる、妙な錯覚に陥った。あたりの彩色は異様の一言に変わり、視野という視野に、気持ちの悪いものが見え始めた。―――それはまるで、情報のように僕の脳を刺激した。―――気持ち悪いものが、頭を支配する。白黒、反転する。それに担うように、夜は深みを増し、全体をブルーで染め上げる。地面から何かが浮き上がる。それは文字にも見えたし、あるいは根本的な何かの様な錯覚もする。その時唐突に理解した。これら全ては、方程式なのだと。
「人が―――いる」
俺の記憶だ。
―――体が徐々に覚醒へと近づく。それと共に脳が目覚める。否、それは完璧な目覚めだった。脳の容量の半分以下しか使っていないという人間の領分を遙かに超えている。それはほぼポテンシャルの全てを使っているという状態だ。それは快感だった。高速道路を三百キロくらいで走っている感じ。―――世界が情報に満たされてゆく。水のように途方もない情報の源を片っ端から脳みそは認識しようとする。―――コップから水が溢れるみたいで、なんだかそれは凄く勿体ない事をしているような……、ひどく、後悔した。
「目が覚めているのか……?」
唐突にそんな声が聞こえた。
「ああ、どうやらそうらしい」
口が勝手に走る。僕の意識レベルで出来る芸当じゃない。いや、僕じゃない。総合して僕と言う自我があるだけで、僕という部品は沢山ある。僕は、総合的な僕はそんな部品の代表者でしかない。つまり、今喋っているのは僕であり、僕にあらず。そこまで考えて、意識は吹き飛んだ。
「君は……真弥なのか?」
あの妖艶とした女が喋りかけてくる。口調がずいぶん違うが、恐らくはそれが本来の彼女なのだろう。
「どうかな……。君こそ何者だい? そう言えば名前すら知らない」
そう俺が尋ねると、彼女は一寸戸惑い、やがてそれを忘れるが如く、こう答えた。
「私の名前は進藤 司。魔術師だ」
それが出会い。俺と司の最初のコンタクト。
―――情報が世界を満たす。いつかの如く幻想は昇華する。―――気持ち悪いものが、頭を支配する。白黒、反転する。それに担うように、夜は深みを増し、全体をブルーで染め上げる。地面から何かが浮き上がる。それは文字にも見えたし、あるいは根本的な何かの様な錯覚もする。その時唐突に理解した。
これら全ては、方程式なのだと。
がしり、と蹴りを受け止めた。火事場の馬鹿力ってやつだ。それは脳をフルに活用することによってなせる現象。
「いい加減、痛いぜ……」
初めてのidea行使。今までも、その予兆はあったが、これが初めて。
「ああ」
徐々に露わになるその姿。……それはベンチの後からだった。それを確認したと同時に、俺は前を向きなおした。……単に首が疲れたからだ。
「こんな時間に出歩くのは感心出来ないな」
「……そのくらい許せ」
「まぁ、俺がいるうちは安心か…」
「へぇ。お前って頼れる人間なのか?」
「人並みにはな」
「残念だが……却下だ」
ぷつり、と何かが首筋に刺さった。反射的に動こうと思ったが、その反射運動が全く効かなかった。
「何を……?」
「神経が麻痺する毒だよ」
冷静な口調で物凄いことを言った。
「ど………く………?」
声まで出なくなってきた。それを確認すると、彼女はおそらく持っているであろう注射器を抜いた。どういうことなのか……さっぱり理解できない。
「良いことを教えてやろう。楠はな、管理者だ。管理者とは、国が魔術師を管理する際、宛がう役職の事だ」
そこまで聞いて、俺の意識は―――落ちた。
目が覚めたのは暗い牢獄のような場所で、ゲームとかにありがちなランプが俺の閉じ込められている一室に置いてあるだけだった。ランプの色はオレンジに近く、周りもオレンジを中心に照らされていた。俺はそんな部屋の中心でクッションの上に座っていた。……はっきりいって居心地の悪い空間だった。そんな空間でまず俺がしたことと言えば、完璧に幽閉されているかどうかの確認だった。
薬物のせいでピリピリとする体を動かして、一か所一か所出口がないかを確認する。……、結果はノー。全くと言っていいほど出口がない。入口すらない。嵌められた鉄格子に隙間はほとんどなく、向こうに人がいるのか認知するには多少不便だった。
「一体どうやって閉じ込めたんだ……」
そう思い、上を見ると、天井にとてつもなく大きな穴が広げられているのに気がついた。きっと上から放り込んで、クッションの上に落としたのだろう。……上ることは無理そうだった。
「あのがきが……」
「誰がガキだって?」
唐突に声。それは俺を幽閉した張本人、楠 楓の姿だった。
「早速だが、どうして俺を閉じ込める。俺は何かやったか?」
「お前は司という魔術師の弟子になってしまったようだね。その所為さ。司は不穏分子だ。その司が弟子をとるなどろくなことが起こらない。そんなこと楠では見逃せなかったのさ」
「お前、楠の家に随分順応してないか? 俺の知っている楓はそんなことはしない」
「それとこれとは別件だ。代々楠は魔術師の管理をしてきた。それに私は異論はない。……唯……、真弥が弟子になってしまったことがショックでたまらない。いや、知っていたんだ。最初から」
「つまり、最初の出会いは偶然じゃなかったということか。……三者面談とか、学校にいにくいとか、そういうことじゃなくて、ただ単に俺を見張ってただけだったのか!」
「……すべて嘘と言う訳ではないが、……ああ、そうだな。ずっと前から知っていた。君が記憶喪失になって彼女に拾われたあの夜から私はお前を見ていた」
「そりゃ随分前からだな」
「ああ、そうさ。会う度良心が傷ついたよ。君は、好きだった」
「―――司はどうしている」
「彼女は当面は放置だ。弟子を預かっているという手紙は出したが、同時に弟子に手を出すと国から狙われることになると脅しておいたからたぶんこないだろう。これで君は、私と一緒だ―――」
「なるほど。確かに司なら来そうにもないな。なら自力で脱出する」
概念上の右手を取り出そうとする。その直後、俺は落胆をした。
「……? 右手が……ない?」
「悪いが、その右手はこっちで中和させてもらったよ。君の右手は普通の魔術師がつけているものとは違って、刻印と言う名の寄生虫を宿らせることによって出来る疑似的な右手だったのさ。つまりは、偽物ってこと」
……なるほど。確かにあの儀式はあっさりしすぎていた。違和感があったのは、気が付いていたが。しかし、だ。
「都合が良くないか? ―――まるでこっちのことなぞ全てお見通しって感じじゃないか。それに、何故右手を中和出来た? それじゃ魔術師みたいじゃないか」
そういうと、彼女はくすりと笑った。
「勘違いしているな―――。 国が管理しているからって、管理者が魔術師でないとも限らないだろう? 確かに私達みたいのは少数派だがな」
合点がいった。
高確率で俺は逃げられない。
「こっちのことをお見通し? ああ、それは神様の皮肉ってやつだよ。言っただろ? 君は最初から監視下にあったと。その理由は単に司の弟子という理由ではない。君は、三木谷は楠の分家なのだよ」
……なんだって?楠の分家?
「君には魔術の素養があったのだよ。三木谷は優秀な魔術師の家系だったからな。だから記憶喪失の時には真っ先に楠に連絡があった」
魔術師の家系―――。それは驚きではあったが、自分にとって何故か当然の様な気がしていた。本能が、理解する。
「……理解した。だが司さんは家を訪問したらしい。その時になにもなかったとは思えないが」
「司は三木谷の名前を知っていた。何故なら魔術師とは少数派の人間で、少数派を覚えるのは簡単だったからだ。君を引き取ろうとした理由は解らないが、彼女が三木谷の家を訪ねたときなにもなかったとは思えないな。にも関わらず、三木谷はそれを許容した。解せないな」
俺にはそれが、すぐに検討がついた。
いつかの記憶を掘り起こす。
――――――ああ、そうだ。君の親御さんとも話はつけたよ。学校にも。この書類はそういったことに対する証明書のようなものだ
親は……居たのか?
あまりにまぬけな質問。でも、泣きそうになる。俺に親がいたと知ったと同時に、決別。……脳がついていかない。親との決別……、国が魔術師を許容していて、良いように扱っている。そして、僕が司さんの、弟子―――?
ああ、いた。ちなみに君は一人暮らしだったよ。色々ごたごたはあったが、そこは語りたくないね」――――――
――――――暗示とは、内側に秘めている優先順位というものを引き出す手段の一つだ。人間は願望に満ちている。たとえば、お金持ちになりたい、死にたい、等。後者は自殺願望と言うな。その一つにこの家に住みたい。働きたい。元の家から家出したい、等があるとしよう。暗示と言うのはそれらの願望をより強くしただけに過ぎないのだよ。君は例え暗示にかかっていたとしても、自分の意志でここに居るのに違いないのだよ。ちなみに、自分の意志を全く無視した選択をさせることを、洗脳と言う――――――
つまり司さんは、両親に洗脳を使ったと予測できる。ごたごたとはそのさいあった争いか何かのことだろう。―――全く乱暴な人だ。そう、俺は思った。
「三木谷は記憶に関して優れていた魔術師だった。君の記憶に障害が起こったのも魔術が関係してるおそれがある。ただまあ、こちらにむりやり引きずり込もうとしたのが悪かったのか、神宮を仕向けたのは色々な意味で失敗だった。―――それに彼が死ぬことになるとは、思わなかったし」
「情報が早いな」
「ここら一体を牛耳っているのが楠だ。皆それぞれ、街の住人は魔術師通しの争いを許容するという暗示にかかっている」
誇る訳ではないがな、と彼女は次いで言った。
そこで会話は途切れた。……聞くこともなくなったからだ。
「さて、俺は一体どうすればいいんだ?」
「……記憶を取り戻したいのならば、楠の力で取り戻させてあげる」
「へぇ……そんなことが出来るんだ」
「やってあげましょうか?」
「御免だね。俺は今を気に入っているんだ。いらない過去なんて邪魔になるだけじゃないか」
「もう、遅い」
そう彼女が呟くと同時に、頭痛に見舞われた。
「何をする……」
「あなたの最下層の記憶を取り戻させてあげる」
そう、何の感情もこもってない声で彼女はそう言った。―――全く、魔術師というやつは、そうじてこういう人間なんだから―――。
本日何度目かの気絶は―――、そのどれもより強烈な頭痛と共に陥った。
俺の記憶はここまでだった。そう、俺としての活動記録はここまでだ。後は全部真弥の記憶。―――何とも、おいしい所は持ってかれっぱなしだった。俺は痛い目を受けた時にばかり浮き上がる。だから頑張る。脳のリミッターを外してでも。それが体の負荷値を上回っていても、俺は生きるために、頑張る。
生きる―――?
「そうか……俺は生きたかったのか。俺は、唯存在しただけではなくて、―――俺として生きたかった」
ようやく気がついた、一つの真実。それは―――あまりに愚鈍で、どうしようもない奴の願いだけれど……。
「俺みたいな……存在価値がないやつが、願望だなんてな―――」
「それは違うぞ、三木谷 真弥(脳の真弥)。生まれてきたからには、それ相応の義務というのが世界によって定められる。―――まぁ確かにお前の場合は存在意義が曖昧だ。一個体に必要な人格は一つ。だからお前は希薄になりがちだが、決してその存在は真弥にとって無駄なものではない」
魔術師は捲くし立てるようにいう。それが……あまりに意外で、俺は、少しだけ泣いた。でもそれはおそらくばれていないだろう。きっと真弥が悲しみを少し受け持ってくれたから。
「は、魔術師風情がよくいったものだ」
「強がるなバカ者が。お前は馬鹿者ではなくバカ者だな。世界の真理を紐解くのも、魔術師の命題の一つだ。科学者と魔術師は似て非なるもの。生命の神秘で言い争うつもりはないが、こちらにもそういった説教紛いのことくらい言える知識はあるさ」
そういった彼女の瞳には、優しさが込められていた。―――全く、この人はいつもこういった場面でツボを押さえる仕草をする。
―――これから、俺がどういった立場で、どう振舞うのかは解らない。
真実
実態
真理
―――その全てが実態を明らかにしない中、俺だけは知っていた。俺だけが知っている世界。世界そのもの。―――それは俺を宿したことにより、真弥が避けた罪と罰の実態。
俺はこんな世界をこれからも生き抜くだろう。
限られた時間の中で。Notopicの中で―――。
でもそれは決して悪いものではないと、信じることが出来る。
自分がどんなにみじめな存在なのか、僕ははっきりと理解した。
世界がどんなにみじめな存在なのか、俺ははっきりと理解した。
それで御相子、それでチャラだ。
―――俺はこの先どうなるのか、そして過去になにがあったのか、何も知るすべがない。あるのは今だけ。でも、今という瞬間が楽しいから―――、もう少しだけ、彼女と一緒にいよう。
その際あった色々な事件は俺の中に焼き付いて離れないものがあるかもしれない。過去に関することも、あるかもしれない。唯―――それはまた別の話。
~Notopic~終わり




